このコーナーは、『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』と題し、音楽やカルチャーに関わるもの達が、原発に対してどのような考えを持ち、どうやって復興を目指しているのかをインタビューで紹介する。
今回インタビューしたのは、デザイナー/イラストレーターの小田島等。3月19日に西に退避し、放射能を怖いと何度も言う。今までの『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』でインタビューした行動し続ける人たちとは、正反対である。それでも、彼の発言の一つ一つから勇気を感じるのは、人間は弱いものであることを認め、その上でこの時代を生き抜く決意を感じるから。非常に興味深いインタビューとなった。2012年の3月11日を迎える前に、是非読んでもらいたい記事である。
(インタビュー : 飯田仁一郎(Limited Express (has gone?) 文 : 水嶋美和)
第六回 : 小田島等(デザイナー/イラストレーター) インタビュー
――小田島さんは現在、東京と関西を行き来しながら活動されてますよね。3月11日以降、様々な生き方がある中で「こういう生き方もあるんだよ」ということが小田島さんとの話の中から見えればいいなと思い、今回声をかけさせてもらいました。震災後、東京を離れて西の方に移住した人もたくさんいましたが、そこではどういうことが行われているのか、果たして良かったのか悪かったのか、そういう声は東京の少なくとも僕の所までは届いてこないんですよね。
小田島等 : 飯田さんって、今いくつ?
――33歳です。
小田島等 : 僕は今度40歳。80年代にチェルノブイリ(原子力発電所事故)が起こって、RCサクセションで忌野清志郎が反原発を歌って東芝とモメて発売禁止になって、それが高校生だった。いとうせいこうさん、景山民夫さん、桑原茂一さんもテレビや「宝島」で原発について話していたし、広瀬隆さん(反原発活動家)の著書「危険な話 チェルノブイリと日本の運命」とかも読んでて、それがずっーと尾をひいてたの、もちろんね。それから、新藤兼人監督とお仕事させて頂いたことがあるので、名作のほまれ高い「原爆の子」「第五福竜丸」を何度も観た。で、そういう素地もあったからか実際に福島で原発事故が起こった時は、失神するかと思った。
――小田島さんは、今はちゃんと外に出て生活できていますか?
小田島等 : 今は外に出ていますよ。そう、3月に東京の線量が上がった時は直ぐに肉体に変化、影響がありました。首のリンパの腫れ、百日咳、ふくらはぎの筋肉のこむら返り、バファリン飲んでも効かない頭痛。下痢。風呂の排水口の抜け毛の量が増えた。ざっとこんなカンジ。因果関係はわからないけど、周りでも同症状の人が突然増えた。妙な、サイケな立眩みもあったな。あと、精神面から来る不眠。それから、鼻糞の質が変わったんですよ。圧倒的な取れ高、粘着の具合が変わってきて、鼻の穴の中全体が痛かった。わしの鼻の穴はガイガーカウンターかと(笑)。関東東北の若年層は鼻血が出たみたいですね。この辺の話を関西や九州地方の人に話すと「え? 嘘でしょう? 」ってみんな言います。僕は花粉とかアレルギー系何も無いんだけど、放射性物質には弱いみたい。
――今、関西ではピカチュウ(ムーン♀ママ/ex.あふりらんぽ)たちが原発に対する活動を始めているじゃないですか。小田島さんはどうですか? 何か動いていますか?
小田島等 : それがねえ、特にしてないかも。自分自身で何か動いたかってことでしょ?美術ライターの工藤キキさんが主催したチャリティー企画と、自分のパンダの絵を名古屋のしまうま書房で売って寄付した。それくらいですね。あと、署名、菅首相へメール。東電と東京都、京都、大阪府へ電話。家でできることをしたけど、「動いてる」って程の事はしてない。あとね、いわゆるガチの活動系の人に「なぜ活動しない? 」とやんわり圧をかけられた事があって、それは本末転倒だなと思った。気持ちはわかるけどそんなことで争ったら、二次災害になっちゃう。
――今から動こうと思っているとか。
小田島等 : 「動き」とは違うかもだけど、漫画を描こうと思ってるんです。どういう漫画がいいのかなって、考えています。やっぱり我々の仕事の一義にあるのは、みんなの頭をマッサージして柔らかくして、色んな物事を理解しやすくするのを手伝うことだと思うんですよ。それを、手を緩めないでやり続けるべきなんだなと。昨年活動休止したムーンライダーズなんてまさにそういうことをやり続けて来た人たちで、色んなことをアナライズして、感受性を鍛錬、情報精査のスパーリングをしてくれていたでしょう? フランク・ザッパなんかもそういう部分があって、僕、そういうアーティストが好きなんですよ。知れば知るほど、もの作りをしない人にも、作ったことがあるぐらいの感受性を与えてくれる。僕も、そうありたい。弱いんですけど、自分なりに何かしようと考えるとこれしかできない。
――Twitterでつぶやいたり?
小田島等 : ああ、うん(笑)。
――あれはあれで勇気のいることだと思いますよ。
小田島等 : 勇気はいりませんよ(笑)。つぶやくのはタダだし、仕事の合間にもできますし。
――小田島さんは地震が起こってからの3日間、どういう風に過ごしましたか?
小田島等 : 東京の家にいた。で、3月19日に西に退避したんですよ。仕事があったから外出はしましたからね。だから一週間くらい濃いのを(放射能を)吸っちゃってる。って言うと、東北の人にとても、悪いですね。
――でも、事実としてそうですよね。
小田島等 : 初めの3日は家から出なかった。家族は快活に出かけてたけどね。そう言えば震災から2、3日後ぐらいでしたか、枝野(幸男官房長官)さんが「日本の景気のために経済活動をしましょう」ってアナウンスしていましたね。ところで飯田さん、まずいかな? 今活動してないのって。
――でも小田島さんは『Play for Japan』(OTOTOYからリリースした東日本大地震チャリティ・コンピレーション・アルバム)に絵を提供してくれたり、表現はしていますよね。あと、この企画では強い人にばかりインタビューをしていたので、逆に今刺激的に感じています。こんな風に「怖いんだよ、危ないんだよ」とちゃんと言えることは、大事なことだし勇気のいることだとも思いますよ。
小田島等 : 勇気とかじゃないですよ。ただ怖い、病むのは嫌だ、それだけ。「東京はキエフと同じで安全圏ではない」という記事も見たし、事故の質はチェルノブイリとは違うしね。僕も、たぶん弱き者の一人だけど。というか、「弱き者」って誰がどう決めるんだって話になっちゃうけど。僕らはどうしたらいいのかって考えてしまう。その憤りが箭内(道彦)さんの顔かなあ。
――猪苗代湖ズで紅白歌合戦に出た時の?
小田島等 : うん。悔しそうだったもんね。僕らが知らない事も知ってるんだろうかな? って思って観てた。そうだな、あと東電に電話した時の向こうの反応が印象的だったな。
――どうでした?
小田島等 : クレーム担当の人が出て「私たちが現在第一に最善を尽くしているのは福島第一原発を修復することであり、貴方様の引越し資金は出せません」って。
――なるほど(笑)。
小田島等 : でもその人に言った。「もしかしたら、あなたも犠牲者の一人ですよ。だから、いつか白木屋行きましょう」って。心からそう思うもの。
――津波や原発事故の映像を見た時、小田島さんはどういう風に思われましたか?
小田島等 : いやあ… うん。デジタルチックだなと思った。
――デジタルチック?
小田島等 : 望遠で原発が映っていて、粒子が荒れていて、子供が見たらトラウマになっちゃうんだろうなって。僕が子供の時にニュースで見た浅間山荘事件みたいな感じで、数年後経ってから「あれは何だったのか? 」って思い返すんだろうな。気が付いたら周りに体調不調を訴える人々が増えて、未来の子供たちに「昔の大人たちはテキトーだったんだ」って思われちゃイヤね。その頃にはTwitter無くて、何も残ってなかったりしてね。とか、色んなことを考える。あと、亡くなった方が15848人、行方不明になった方が3305人(2012年2月10日現在発表)という被害が出てね、その、感覚的な喪失感が凄い。欠損を感じるというか。霊的な話ではないですよ。あくまでも感覚的に。
――そういった感覚は、今もひきずっていますか? それとも通常に戻りつつありますか?
小田島等 : 哀しいかな、通常に戻りつつあります。テレビのバラエティ・ショーにかき消されてしまったというか。良くないことですね。
――小田島さんは関西では不安なく暮らせていますか? それとも、日本ではどこに行っても不安ですか?
小田島等 : 全国で瓦礫を受け入れてるし。どこで地震が起こるかわからないし、こんなに日本中原発だらけなんだから不安なく暮らせる訳がないですよ。食品の産地偽装のニュースもあったし。今年の頭に東京の線量が3月と同じくらいまで上がったというのを聞いて、やっぱり怖かった。「脱」や「反」はあるけども、その前にただ怖い。
――震災以降、小田島さんは自分の作風が変わったと感じましたか? 僕は先日の個展で見た時に変化したなと思いました。
小田島等 : 絵描きの人って、妙な、天命とも言える必然的サイクルがあって。そういうことを信じて生きている生き物なんです。自分のサイクルと世間のサイクルが合致する瞬間があると言えばいいか。僕の場合、原発事故の一年前ぐらいから2人の若者の影響でまた無邪気に絵を描き始めるんです。1人は銀杏BOYZの『DOOR』のジャケットを描いた画家の箕浦建太郎くん。もう1人は漫画家の大橋裕之くん。彼らが、「オダジー、デザインばっかりやってないでもう一度無邪気に絵描きましょうよ」って言ってくれたんです。でも僕その時、解せなかったんですよ。今は時代がすごいスピードで回っていて、USTREAMとか色んな表現媒体が出てきてるのに、今更BACK TO BASICって計算上合うのかな? って。でも、不思議と描き出しちゃうんですよね。そしたら中学高校ぐらいに感覚ごと戻っちゃって。原点回帰したら僕死んじゃうんじゃないかって思ったほど。
――えっ、死ぬんですか?
小田島等 : 不思議なもんでアンディ・ウォーホルって最晩年に初期のモチーフを振り返るんですよ。死ぬってわかってないのにね。死ぬの嫌だなーって思いながら、半信半疑で無邪気に絵を描き始めて、すると原発事故が起こった。「あ、これのことだったのか」って思った。思いがけないオチが付いたような。1点しか作れないもの、PC作業のようにやり直しがきかない、という「絵」に再び向き合ってる自分に必然性を感じましたね。この間の個展「Nido-Ne + バッド・インスタレーション」も原発事故と退避をテーマにしました。僕なりに、どんな状況でも絵は描けるし、いかようにも受け身はとれるんだよっていうのを示したつもり。
――先日の個展に行って、すごいエネルギーを感じたんです。チープな言い方になってしまうけど、生きるエネルギーをすごく感じました。
小田島等 : 目的をもって、ホワイトキューブにあらゆる仕掛けをしていく。それに意味づけをして、宣伝もして、智恵を使って、人が何か行為をしてうごいめいている。そしてその行為は、誰もが知っている大事故にまつわるものだった。そういうことを、まんべんなく、ちゃんとやりたかったんです。
――小田島さんは絵を描く時に、見る人のことを考えますか?
小田島等 : いや、そこは考えない。素ですね。
――あれが小田島さんの素ってことですね。
小田島等 : 頭の中にアイディアが浮かんだ時、理由を付けてしまいそうになるんです。でも、やめます。やめてとりあえず描いてみる。今回描いた絵の中には河童とかの水辺を連想させるモチーフが多かったんですけど、水との共存が危ぶまれている中でああいったモチーフが浮かんで来たのも、あとあと考えると納得なんです。直感と分析って二足歩行ですから。
――なるほど。『Play for Japan』のジャケットの男の子と女の子の絵は、どういう状況で描かれたものだったのでしょうか?
小田島等 : 「がんばろう」とか「ひとつになろう」とか、どうかな? と思ったんですよね。「君のこと好きだよ」ぐらいしか言えないんですよ。「愛してる」だとこの場合重い。僕もいつか被災してどこかの体育館で避難所生活をすることが、もしかしたらあるかもしれない。そうしたら、他の家庭の人達と共存しなくちゃならない。その中で、心の中で「好きですよ」「我慢できる関係ですよ」と言う。そこが大事なのかなと思ったんですよね。そういう微笑の絵ですよね。しかしね、あの絵の依頼が来た時は嬉しかった。原子力発電所が爆発しても、絵の依頼が来ると嬉しいものでね。同時に、悲しくもなりました。業が深いなと。嬉しいと感じて、そう思った。
――あの絵を描かれた時は、まだ関西には拠点を置いていなかった?
小田島等 : うん。考えたら『Play for Japan』は行動が速かったですね。音楽ってどこにでも侵入できるじゃないですか。そこが素晴らしい利点。絵の人ももっと何かできたらな。
――今年も『Play for Japan 2012』というタイトルで、音楽だけではなく、絵も、写真も、全てを『Play for Japan』としてやろうと思っています。また改めてオファーさせてください。
(2012年1月16日取材)
小田島等 PROFILE
1972年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。デザイナー/イラストレーター。1990年に「ザ・チョイス」入選。95年よりフリーになり、CD、書籍等のアート・ディレクションを多数手がける。同時に漫画やイラストレーションも描く。著作に漫画『無 FOR SALE』(晶文社)、古屋蔵人、黒川知希との共著『2027』(ブルース・インターアクションズ)、監修本に『1980年代のポップ・イラストレーション』(アスペクト)。タナカカツキ『オッス! トン子ちゃん3』にトリビュート・コミックで参加(ポプラ社)。BEST MUSICとしてCDアルバム『MUSIC FOR SUPERMARKET』(Sweet Dreams)をリリース。2010年6月には初の作品集『ANONYMOUS POP』(ブルース・インターアクションズ)を上梓。同年には大橋裕之、箕浦建太郎と全日本ポスト・サブカルチャー連合を結成。
連続記事「REVIVE JAPAN WITH MUSIC」
- 第一回 : 大友良英インタビュー
- 第二回 : 中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)インタビュー
- 第三回 : 山口隆(サンボマスター)インタビュー
- 第四回 : Alec Empire(ATARI TEENAGE RIOT) インタビュー
- 第五回 : 平山“two”勉(Nomadic Records) インタビュー
OTOTOY東日本大震災救済支援コンピレーション・アルバム
『Play for Japan Vol.1-Vol.6』
『Play for Japan Vol.7-Vol.10』
>>>『Play for Japan』参加アーティスト・コメント一覧はこちらから
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