はてなキーワード: 担当者とは
学生時代から同人サークルで漫画同人誌(ニ次創作)を書いてコミケとかで出すのが趣味で、
副業に厳しい御社(禁止ではない)に就職してからはオンラインでの活動だけにして様子見してたんだけど、
去年退職した職場の先輩に会ったときに副業申請のあれこれについて意を決して聞いてみた。
年に1回やるかどうかくらいで、確定申告もいらないレベルの活動を想定。要は単純に趣味でやってるだけ。
正直副業と言える内容じゃないもの思っているが、後々問題になっても困るから申請して通れば安心。
結果、「バレないようにうまくやれ」だってさ。以下、先輩の個人的考え(まとめ)。
・弊社はグレー案件に対して寛容でない。周りで同人活動公言してるやついないだろ?
・すべての担当者は、OKとNGの線引きが難しいからグレー案件の対応は面倒
・テキトーにNGを判断して訴えられても困る。弊社は基本全部NGにするだろう
・社内規則で副業の定義をしろといっても、何が副業か、どこからNGかの明文化は困難
・仮に社内規則の明文化をしたとして、社会情勢が変わるたびに誰が規則変更をするんだ?
・副業と見なされうる趣味にもいろんな実態があり、一律に判断できないからあえて規定せず、グレーにしておくことがこの世にはたくさんある
・ただしグレーや副業申請全てを個別検討する余裕も気概も弊社にはない
・ほとんどの担当者は「聞かれたらNGって答えるしかないからバレないようにうまいことやってくれ」と思っている
・これは副業云々だけじゃなく全てのグレー事案に対してそう思っている
・ニュースで話題になる同人活動で懲戒くらう人は、圧倒的にアウトな活動内容か、勤務態度に問題があるとか別の問題があるんじゃないかと思う
・アウトな副業ならともかくグレーな同人活動ギリギリ副業判定して懲戒って難しいと思う、訴えられたら大変だから
・副業申請が藪ヘビな場合もある。真正面から正規の手続きしてNG判定くらったら同人活動できないぞ
・営利目的じゃない、趣味の範囲と思っていて、やましい事がないなら隠れてうまくやればいい
・正義感が強くちゃんとしてる人から公益通報を食らう場合はある
先輩が言うことはすごいよく分かって、個人の正直ベースで話してくれてるのはすごい分かる。
分かるんだけど、この「うまいことやれ」って凄い嫌いなんだよな昔から。
「バレない限りは見逃してもらえる」という意味ではこちらに恩恵があるようにも思うけど、なんだかなあ。
世の中のみんな、隠れて要領よくうまいことやってるのかな〜。
俺、サボるのも苦手なんだよな〜。
https://gazoo.com/column/daily/21/03/20/
「いすゞ「エルフ」をベースとした4トン車「オレンジドリーム号」(首都圏、大阪、福岡)を筆頭に、トヨタ「ダイナ」を使用した2トン車「オレンジドリーム号・Jr」(首都圏、栃木)、ダイハツ「ハイゼット」が変身した「オレンジドリーム号・軽」(首都圏、大阪)とさまざまな種類が存在。ちなみに首都圏を走る4トン車は「オレンジドリーム号・匠」と名前が付けられています」
https://www.itmedia.co.jp/business/spv/2407/30/news048.html
「吉野家の移動販売事業がじわじわと拡大している。2008年11月に牛丼弁当の移動販売を行う「オレンジドリーム号」の運行を開始。現在は「動く吉野家」として全国で15台が稼働しているという(関東10台、関西2台、九州2台、東北1台)。
オレンジドリーム号では、テークアウトの牛丼や一部サイドメニューなどを取り扱っている。販売エリアは都心のオフィス街や吉野家店舗のないエリア、離島などだ。九州にあるオレンジドリーム号は、屋久島にも出店しているという。
同社の広報担当者は移動販売事業をしている理由について「店舗が未出店のエリアでも、吉野家のうまさを広くお楽しみいただだけるようにするため」と説明する。調理、販売、クルマの運転は吉野家の社員やアルバイトが担っている。ちなみに、商品購入時に渡されるレシートには「オレンジドリーム店」と記載されている」
https://www.yoshinoya.com/baito/op71872/job85327805/
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街中で突然倒れた人を見かけたら、まず声をかけて反応を確認し、必要に応じて救急車を呼ぶ。そして意識がない、呼吸もないといった状況なら、AEDを使って心肺蘇生を試みる。――これは、学校での救命講習や各種啓発イベントなどで何度となく耳にしてきた基本中の基本だろう。わたしも何度か講習を受けた経験があるし、いざというときに手をこまねいてしまわないよう、頭ではしっかり理解していた。実際、その知識が役に立つと思った瞬間があった。まさか、その行為が原因で後に大きな問題に巻き込まれるとは想像していなかったのだが……。
あの日、わたしは会社帰りに駅前の広場を通り抜けていた。残業続きでクタクタだったとはいえ、そこまで遅い時間ではなかったし、人通りも多かった。目の前で、一人の女性がふらふらと歩いていて、そのままバタリと倒れ込んだのだ。最初は何が起きたのかわからず、周囲の人も「大丈夫ですか!?」と声をあげていた。わたしは少し離れた場所にいたが、一瞬で「AEDが必要かもしれない」と頭をよぎった。
近くに設置されているAEDの場所は、駅前の広場にある公衆トイレの壁に設置されたケースの中だったはずだ。わたしは意を決して走り出した。「AEDを持ってきます!」と周囲の人に声をかけると、誰かが「お願いします!」と呼応してくれた。すぐに赤いボックスを取り出し、倒れた女性のもとへ戻った。
女性は目を閉じ、完全に意識を失っているように見えた。周囲には数人が集まっていたが、どうやらCPR(心肺蘇生法)を施せる人はいないらしく、誰も直接触れることができずに戸惑っていた。わたしはできるだけ落ち着いて「誰か救急車を呼んでください!」と叫び、同時に脈や呼吸の確認を試みた。わたしが医療資格を持っているわけではないが、研修で学んだことを思い出しながら、AEDのパッドを貼る準備をした。
そのとき、女性の服装は薄手のブラウスとスカートだった。AEDを装着するには上半身を露出させなければならない。わたしはできるだけ周囲の視線を遮るように上着を掛けるなどの配慮をしたつもりだった。そしてパッドを貼り、「解析中です」という機械のアナウンスに従いながら、電気ショックが必要と判断されたタイミングでボタンを押した。まるでテキストで習った通りの手順だった。
しばらくすると、女性はうっすらと意識を取り戻し、救急隊員が到着。たしかに緊迫した状況ではあったけれど、結果的にはAEDが功を奏したのか、彼女は命を取り留めたようだった。救急隊員が女性を運び出すとき「応急処置ありがとうございました」と言ってくれたのを覚えている。わたしは内心、ほっと胸を撫でおろしたし、自分がやったことが正しいはずだと信じて疑わなかった。
ところが、それから数日後、衝撃的な出来事が起こった。わたしが会社で仕事をしていると、受付から内線が入り、「警察の方が訪ねて来られています」と呼び出しがあった。慌てて応対に出ると、どうやら先日のAEDの件について話を聞きたいという。救助活動に関して事情聴取をすることがあるのは知っていたから、そのときは「あの日の状況説明かな」と思い、素直に協力するつもりだった。
しかし、警察署で説明を受けて初めて知ったのは、「助けた女性がわたしを訴えようとしている」という事実だ。正直、意味がわからなかった。そのときわたしに与えられた情報では、彼女が主張しているのは「不必要に胸を触られた」「身体を晒されて恥ずかしい思いをした」というものらしかった。わたしはAEDを使用するためにやむを得ず、服をめくり、胸にパッドを貼っただけだ。わいせつな目的などあるはずもない。警察の担当者からは「いまはまだ疑いの段階で、詳しく事情を聞かせてください」と言われ、まるでショックで頭が真っ白になった。
訴えられると言っても、すぐに裁判になるわけではない。まずは警察が事実関係を捜査し、検察に送るかどうかの判断が下される。その流れ自体はニュースなどで聞いたことがあるが、まさか自分が当事者になるなんて思いもしなかった。警察の取り調べは冷静で丁寧だったが、いざ尋問されると「AEDが必要だったんです」と言いながらも、自分がきちんと説明できているのか不安でたまらなかった。どんな些細な言葉尻を捉えられて、好ましくない形で記録されるかわからないからだ。
わたしが行った行為は「緊急避難」「正当行為」という文脈で正当化されるはずだ――多くの人がそう言ってくれた。会社の同僚や友人も「むしろ表彰されるようなことだ」「訴えられるなんて信じられない」と口々に励ましてくれた。それに救急隊員も「早い段階でAEDを使ってもらったことが幸いだった」という言い方をしていた。だからこそ、訴えられること自体が理解しがたいし、憤りすら感じる。
当の女性は、倒れたときの記憶が曖昧なまま搬送され、その後で周囲の人から「胸をはだけられていた」「男性が服を脱がせていた」といった断片的な情報を聞いたのだろう。さらにその“目撃情報”の内容が正しく伝わっていない可能性もある。結果として、「あの人に性的な意図で身体を触られたのかもしれない」という不信感が芽生え、誰かの入れ知恵もあって警察に訴えるという流れになったのではないか……そんな推測をするしかない。本人から直接話を聞ければいいのだが、今は弁護士を通じた対応しかできないとのことだった。
その後、警察での事情聴取は何度か続いた。具体的な手順を改めて説明するたびに、「AEDのパッドを貼るために胸を露出させる必要がある」「女性の場合は下着を外す、またはずらしてパッドを貼ることもある」といった、あまりにデリケートな部分の話を繰り返さなければならなかった。担当の警察官は専門知識を持っていて理解を示してくれたものの、自分自身のことをどこか客観視してしまうというか、いつの間にか「本当にやましい気持ちはなかったのか」と自問してしまう始末だった。わかっているのに、言葉を尽くしても、どこか孤独な気分になる。こういうのが"疑われる側"の心理なのかもしれない。
さらに、女性の代理人からは「意識のない状態で胸を晒されたことに強い精神的苦痛を感じている。損害賠償を検討している」といった内容の通告もあったと聞いた。その文言はわたしの耳に「感謝ではなく金銭を要求する」というふうにしか響かなかったが、本人の主張としては、「意図的に身体を見られたかもしれない」「AEDを使わなくてもよかったのでは」とまで思い込んでいるようなのだ。AEDに関する知識が乏しいまま、自分が倒れていたあいだに行われたことを全て悪意として捉えてしまっている可能性が高い。たしかに医療現場の知識を全く持たない人からすれば、ショックも大きいのかもしれない。でも、それでも納得いかないのが正直なところだった。
わたしとしては誠実に説明し、「あなたが助かって本当に良かった」と伝えたい。しかし、直接連絡を取ることは叶わない。救急隊員や目撃者の証言が集められ、また街頭カメラの映像からも、わたしの行為に「過剰さや悪意はなかった」と証明されるはずだと弁護士には言われている。「AEDが必要のない状況だった」という可能性は極めて低いし、第一、現場の判断としては心停止かもしれない、という最悪の事態に備えるのが当然の行動だ。むしろ何もしなければ、そのまま命を落としていたかもしれない。
結論から言えば、結局は不起訴処分で終わった。それでも、女性の代理人が民事での損害賠償請求を取り下げるまでにはもう少し時間がかかった。最終的には裁判所で「わたしの行為は緊急対応として必要不可欠であったこと」「医学的にもAEDの使用は正当な手段であり、やましい意図がなかったこと」が認められ、相手側も引き下がる形で決着した。長い長い時間と精神的な疲労を強いられたが、無事にわたしの"無実"が確定した形だ。
もしかしたら、「AEDの使用で訴えられたらどうしよう」という話は都市伝説のように囁かれていたのを聞いた人もいるかもしれない。わたし自身、その噂程度には耳にしたことがあるが、実際にそこまで発展するのは極めて稀なケースだろう。しかし、可能性としてはゼロではなかったのだ。女性本人のショックや、その周囲の偏ったアドバイス、あるいは金銭的な思惑が絡むと、こんなにもおかしな方向へ転がってしまうのかと痛感した。AEDを使うことが推奨されているにもかかわらず、こうした事例が広がると、いざというときに誰も助けようとしなくなるかもしれない。それが一番怖い。
今回の経験を通じて、わたしはあらためて「いざというとき、人を救う行動をとるのは大事」だと思う反面、「誤解やトラブルのリスクもゼロではない」ことを強く意識するようになった。だからといって、それを理由に救命行為をためらうのは本末転倒だし、AEDの普及や救命講習の啓発に逆行する。実際、わたしももう一度同じ状況に遭遇したら、必ず行動に移すだろうと思う。命を守るために必要な行為が「訴えられるかもしれない」と萎縮されるような世の中になってほしくないし、そうならないように、どうにか制度や理解がもっと進むことを願うばかりだ。
いま振り返ると、一番辛かったのは「そういう意図はなかった」ということを何度も何度も説明し、あたかもこちらが加害者であるかのように扱われる時間だった。無罪を勝ち取るとか、問題なく終わるとか、そういう言い方では表せないくらい、人を救おうとした行為を否定される精神的ダメージは大きい。世の中にはやはりいろいろな考え方があるし、誰もが医学的知識を十分に持っているわけではない。だからこそ、「AEDを使うときの手順や必然性、プライバシーへの配慮」について、もっとしっかりと周知される必要があるのだと思う。
最終的に女性とは直接会話をすることはなかったが、代理人を通じて「結果的に命を救っていただいたことを感謝しています」という伝言だけが届いた。それが真に彼女の本心なのか、あるいは形だけの言葉なのか、わたしには判断できない。だけど少なくとも、彼女が健康を取り戻したという事実そのものは素直に喜びたい。誰かの命を救う可能性があるAEDの存在意義は、決して否定されるべきではないからだ。
この一連の出来事は、わたしにとって大きな教訓になった。AEDの使い方や救命措置の手順を頭に叩き込むのは大切だが、それだけでなく、助ける側も「法的トラブルのリスク」を認識し、適切な配慮をしたうえで行動する必要がある。現場ではなかなか難しい話とはいえ、できる限り第三者の協力や証人を確保する、周囲の目がある場所で行う、といった工夫も大事なのかもしれない。救助者の立場を守るための仕組みも、行政や社会全体で整備されてほしいと切に願う。
結局のところ、人を助ける行為は尊いが、そこに伴うリスクを完全に排除することは難しい。それでも、誰かが命の危険にさらされているなら、迷わず手を差し伸べる世界であってほしい。わたし自身も今回の苦い経験に折れることなく、次に同じ状況が起きたら、やはり躊躇なくAEDを使うだろう。命を救うために必要な行為を、社会として後押しできるような意識とルール作り――それが進んでいくことを強く願っている。
最近,私の勤務先では管理職になると給料がかえって下がるなんて都市伝説が囁かれていたこと,それで私自身も管理職昇格を本気で悩んだこと,などを思い出した.曰く,管理職になると仕事は爆発的に増えるが,残業手当がなくなって組合員より給料は下がる,とか.そして7年前に,何か年収に文句を言って退職した人の退職エントリーがちょっと流行ったよなぁ…と思い出してふと読み返したのがきっかけである.
いざ読み返してみると大元の記事は給料の話だったが,そこから派生した匿名ダイアリーには大企業特有の欠点が多数あげられていた.この派生の記事が,本社組織を目の仇にし喧嘩腰で会議をしている他部署の部長と重なったので,普段から思っていたやるせなさを文にして考えを整理してみることとした.結局のところ記事としてのまとまりは出せなかったが,頭の中は整理されたのでよしと思って無責任にも放流する.
ちなみに,その退職エントリーが流行った大企業で実際に管理職になってみれば,何のことはなかった.それまでの年収曲線とはだいたい連続的だったし,業務量は昇格に伴って所掌範囲が広がった分だけ増えるだけだった.おそらく,部下に奢りたくない管理職が,金のない言い訳にしてたんじゃないかと想像してしまう.(いくつかの退職エントリーにも記載があるように,弊社は穏やかで大人しい人間のできた方が多く,それが仇となって(?)結婚相手に尻に敷かれている場合も多いようなので,小遣い制で金がないのかも知れない)業務量については,確かに昇格当初は突然所掌範囲が広がって,パンクしたものだ.しかしながら,給与相当の能力を身につけてみれば,それはただの能力不足,あるいは求められる役割の変化にマインドセットやスキルセットが追い付いてないだけの話であった.いざチームを運営してみると担当者としての仕事に飽きがきたり,最先端の技術をいつまでも追い続けるのに疲れてしまったり,その代わりに管理職としてのスキルセットを身につけ始めたりした.
そうすると不思議なもので,これはそれで面白い.また,組織運営というのは意外と会社に依存しないスキルも多くあって,社内でしか通用しない市場価値の低いスキルという感じもなかった.
さて,大企業病についての話に入る.大企業には大企業なりの欠点がある.
私が考える大まかな大企業の欠点は次のようなものだ.これらが問題だという認識は私も同じだし,直せるものなら直した方が良いと思うものの,この問題点をそのまま取り去ってしまうと組織が瓦解してしまうのは明らかなので難しい.
こうした問題点に耐えられず,あるいは問題点に付き合わされるのは不合理だと考えて,転職されてしまう方々がそれなりにいる.またこうした方々は周りのゆっくりした歩調と合わないガツガツと成果を追求する現場能力の高い方々なので,有能な人から会社を辞めていく,なんて悲しい話になってしまう.
ただ彼らがベンチャーを起こして企業を経営できるかというとそんなことはなく,多くは同業他社(それも,そこそこの大企業)への転職となる.それって会社を変えて解決するのかな,と転職未経験の私なんかは疑問に感じてしまう.
大企業の組織間調整が比較的に得意な私から見れば,自分の立場でしか物事を考えられず新しい事業を始める負担を一方的に他部門に押し付けているだけだという自身の問題点を大企業の欠点に帰着させて嘆いているだけに見える.かくいう当人は,例えば新しい社内ルールを聞かされたら同じように不満を言って抜け穴探しをするだろうに.つまり新しい何かを他部門に振る時は,例えトータルでは会社にメリットがあったとしても振られた側からはあネガティブな反応があるのは当然なのだ.だからそれは相手を説得して味方にしなければならないし,説得の過程は相手の論理に則ってロジックを積み上げた方が円滑に進められる.
自部門のことしか理解してないと,これを越えるハードルは高い.しかしながら,どの会社にもある基幹業務やその組織の役割,そして利害関係を把握すれば,未然に防いだり効率的に説得したりすることができる.これは組織運営する上で必要な知識だし,社外でも通用するポータブルスキルの一つだと思う.
そのスキル習得を怠って,自社内に向けて噛み砕かれた独自論理を積み上げてしまったり,自社にしかない自部門の業務一点集中することは,社内スキルばかり磨くことになる.これは,同じ企業グループの他社に出向した時にも通用しなくて詰む.
また,自部門の論理を振りかざしても無駄である.それは当人が他部門の論理を理解しようとしないのと同様に,相手もこちらの部門の論理を理解しようとしないからだ.会話が噛み合わないまま時間だけが過ぎていく.
さて,上でも書いたように,大企業には大企業なりの欠点はあるのだけれど,自分の手間をかけたくないがために社内調整を疎かにしておきながら,他部門の協力が不十分なことを大企業病とか他部門批判に帰着させてしまうのは,解決策を見落してしまう.
本人に活力があって新しいことに挑戦しようとする人が,自分の業務範囲で頭が一杯になってしまい,相手側の利得を真剣に考えることができず,悪戦苦闘をした挙句に転職してしまうのは惜しいなと思いつつも,大きい企業であれば部門間の利害の不一致は必ずあるし,それが説き伏せられないのでは大きい事業は進められない…と思うんだよな.
数年前に退職エントリーが流行した,ある大きい企業グループで部長職をしている.
入社当初から態度の大きい新人として研究職の中でも腫れ者扱いをされつつ,偉大な諸先輩方のパワハご指導のお陰で,英才教育を受けられたような気がする.
事業部時代には「奇跡のバランス感覚(事業部の係長談)」とか「徹底した合理主義のロボット人間(事業部の部長談)」とか「びっくりする程ダメ人間(営業部の係長談)」といった矛盾する多面性を身につけられたと思う.
何故かは分からないが課長になった際に半年以上に渡って固定のグループで取り組む経営研修に放り込まれ,とても勉強になった.大企業は何かと批判を受けがちだが,その解決手段として小規模組織でしか上手く運用できないような,自律型組織だとか情報のオープン化なんて当時の流行りの手法と失敗事例を沢山見せてもらえた.結局手段は手段でしかなく,自社に持ち込んだら何が起こるかはよく考えたら明らかだったりする.
まぁそれはそれとして,技術者集団の研究部に対してクソ不自由な社内ネットワークシステムを導入してきた時は流石に転職も考えた.
マカラーニャの森からスピード早過ぎてあれよあれよと飛空挺に乗ってるんだが、なんか物語がもう終盤の雰囲気っぽくねえか? あと一捻りくらいあるもんかと思ってたんだが(それこそアルベド対グアド・エボンの攻防がもうちょいあると思ってたのに…)バトルもエンカウントエリアも空気が薄い感じでさっぱり食い足りないよ。このあたり最序盤と同じくらいムービー重視のつくりじゃん。物語が素晴らしいのはわかる。でもマジかよ〜改造もGF育成も雷平原くらいから始まったばっかで棚がケチくさいの我慢しながらも鉄巨人やキマイラを粉にしてサボテンダーを爆破して回る楽しみを味わってたのにマカラーニャ湖以降ずっとお預け喰らってる感じだ。キマリがようやくキースフィアを得て育成はこれからだって思ってたが折角のケアルガを使う暇もなく雪国も砂漠もパンクなエリアも通ってこれちまったじゃんよ。いつもの担当者ワンパンもユウナいないと楽しさ3割減だしアイテム拾いもモチベが上がらんし対グアドは状況がめんどくさすぎてむしろ手榴弾瞬殺連打って感じで…ドラクエ3の方がバトル自体はずっと楽しかった(使えない職業や性格の選別自体も楽しかった)から、なんか妙な気分だ。頼む〜ユウナ奪い返した後はちゃんとバトルは楽しくあってくれ〜物語が重いのは諦めたからそっちの方は頼む〜〜
少し前まで、日々の仕事にやりがいを感じながら、どちらかといえば「真面目に働くタイプの人間」だと思っていた。大学を出てから、ずっと同じ会社で働いてきたから、仕事の内容にも慣れていたし、同期や先輩との人間関係もそこそこ良好だった。「このまま長く勤めて、社内のいろいろな仕事を覚えていきたい」――そんなふうに思っていたのに、今はもう会社を辞めることにした。しかも自分の口からではなく、退職代行サービスを使って。理由ははっきりしている。上司からのパワハラが原因で、鬱状態になってしまったからだ。
ここまで精神的に追い詰められるなんて、少し前まで想像もしなかった。自分は割と打たれ強いと思い込んでいたし、辛いことがあっても耐えてこられるタイプだと思っていた。でも、あの上司の言動は想像以上だった。人格を否定するような暴言が積み重なっていくうちに、心が少しずつすり減っていき、「もうこれ以上は無理だ」と限界を感じるまでに、あっという間だった。
その上司がうちの部署に異動してきたのは、今から約1年前。前任の上司は女性で、とても柔らかい雰囲気を持っており、チーム全体のバランスをうまく取ってくれる人だった。困ったことがあれば真っ先に相談に乗ってくれ、仕事の調整もしやすいよう配慮してくれていたので、部署の雰囲気はかなり良かったと思う。ところが、新たに来た上司はまったく違った。40代後半くらいの男性で、外見こそ落ち着いた印象を与えるものの、その実、部下に対しては恐ろしく攻撃的な態度をとることが多かった。
とにかくミスに厳しいのは仕方ないとしても、怒るときの言葉遣いがあまりにも強烈で、度を越えている。たとえば、資料の誤字脱字が見つかっただけで、「こんな低レベルな間違いをするなんて信じられない」「お前に仕事を任せたのが間違いだ」と、社内のほかのメンバーがいる前で平気で怒鳴り散らす。しかも、そのあとすぐに「女はこういうとこでダメなんだ」「使えない」などの言葉を続ける。あまりに一方的で、意見を言おうものなら「言い訳すんな」と遮られるだけ。言葉の暴力が終わったころには、周りも気まずい空気に包まれ、誰も口を開かなくなるのが常だった。
最初のうちは「この人も、新しい部署で実績を出さなきゃならないから焦っているのかも」とか、「ちょっと厳しいタイプの上司なんだろう」と自分に言い聞かせて耐えていた。でも、その叱責は明らかに個人攻撃の域に達していた。周りの同僚たちも、その上司に呼び出されては怒鳴られ、どこかで誰かが泣いている……なんて光景もあった。部署内の雰囲気は日に日に悪くなり、みんな上司の機嫌をうかがいながら働くようになっていった。
やがて、私への攻撃がさらに厳しくなったのは、備品管理システムの更新作業のときだった。小さな入力ミスをしてしまい、社内の在庫数に多少のずれが生じた程度で、実害はほぼなかった。それでも上司は「チェック体制が甘い」「仕事をなめるな」と息つく暇もないほど叱責を続け、最後には「こんなやつはいらない」とまで言い切った。周囲の人がとりなしてくれようとしても、「口を挟むな」と追い返される。あのときの恐怖と屈辱は今でも鮮明に覚えている。「自分が悪いのかもしれない」と思い込もうとしたが、それにしても言い方が尋常ではなかった。
当然、私だけでなく他の部署メンバーも疲弊しきっていた。ミスをしないよう神経をすり減らし、確認作業ばかりに時間を取られる結果、ますます残業も増えていく。そのうえ「報告が遅い」「段取りが悪い」と叱られるのだから、どうしようもなかった。とりわけ私は、直接の部下としてもっとも近い距離で仕事をすることが多く、ターゲットにされやすかったのかもしれない。
気がつけば、朝起きるだけで胸が苦しくなり、通勤電車に乗ると息がうまくできないような気分になることが増えた。夜も、次の日に怒鳴られるかもしれないという不安で眠れなくなり、不安感で涙が止まらなくなることもあった。週末にゆっくり休んだはずなのに、仕事が始まる日曜の夕方から頭痛と動悸がする。完全にストレスで心身のバランスを崩していた。
そんな状態で限界が来て、とうとう心療内科に通うことにした。はじめは会社の近くの病院に行く勇気がなく、少し離れた駅のクリニックを選んだ。そこで「鬱状態ですね。しばらく休養が必要です」と診断を受け、会社宛てに診断書を書いてもらったが、それを提出するのも怖かった。部内の同僚や先輩たちは「よく頑張ったね」「しっかり休んで」と言ってくれたけれど、問題の上司は「精神面が弱い」「仕事への意識が足りない」と言い放ち、机に診断書を投げるように置いた。その瞬間、「ああ、この人の下ではもうやっていけない」と確信した。
診断書を理由に休職を取ることが許可され、しばらく自宅で過ごしたが、その間も「戻ったらまたあの上司と顔を合わせなければいけない」という恐怖が頭から離れなかった。「辞めたい」という考えが何度も浮かぶのに、一方で「こんなことで逃げたら負けなのでは」と自分を責める気持ちもあった。会社に長く勤めることを前提に頑張ってきたし、同期や先輩ともこれまで築いてきた関係がある。それを手放すのは怖かったし、何より「上司に怒鳴らされて鬱になりました」と言って辞めるのは、なんだか自分が弱い人間だと認めるようで嫌だった。
でも、休職が終わるころ、夜になるとまた眠れない日々が戻り、朝になると動悸がして足がすくむようになった。食欲も落ちていき、やっとの思いで職場に行っても、上司を見ただけで胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。試しに少しだけ仕事を再開してみたものの、以前のように頭が回らないし、資料を読んでも内容が頭に入ってこない。周囲のフォローがあったとしても、上司は「いちいち言われないとわからないのか」「ブランクを言い訳にするな」ときつい言葉を浴びせてきた。結果、結局また体調が悪化していくばかりだった。
そんなとき、友人から「退職代行という方法があるよ」と教えられた。それは文字通り、本人の代わりに会社へ退職の連絡をしてくれるサービスのことらしい。正直、「そんなことまでして辞めるなんて、社会人としてどうなの?」という偏見が、私の中にはあった。でも、今の精神状態ではとてもじゃないが直接上司と話し合うことなんてできない。一度「辞めます」と切り出そうと試みたが、怒鳴られる光景が頭に浮かぶだけで呼吸が苦しくなり、体が固まってしまいそうになる。「もう、このまま心が壊れるくらいなら、世間体なんて気にしないほうがいいのではないか」――そう考え始めたら、気持ちがいくぶん楽になった。
インターネットで「退職代行」と検索してみると、思った以上に多くの会社や事務所が存在しているのに驚いた。料金やサポート内容を比べ、24時間対応してくれそうなところに連絡してみた。電話をかけるのも勇気がいったが、担当のスタッフは穏やかな口調で話を聞いてくれ、「大丈夫ですよ。お任せください」と言ってくれた。今までずっと、上司から怒鳴られる恐怖で身を縮めてきたから、誰かが味方になってくれるというだけで涙が出るほど安心した。
手続き自体は思っていたよりもシンプルだった。こちらの基本情報や状況を説明し、後日担当者が会社に連絡をして、私の退職の意志を伝えてくれる。「もう本人は出社せず、やり取りもこちらですべて代行します」という流れだと聞かされたとき、「こんなにスムーズに辞められるの?」と驚いたと同時に、ほっとした気持ちになった。もちろん、その後会社がどんな反応をするかは想像がつかなかったが、少なくとも私自身があの上司と直接対峙しなくて済むと思うと、体の力がスッと抜けていくのを感じた。
そして、退職代行会社から「正式に連絡しました。もう出社は必要ありません」と伝えられた日。ほっとしたような、罪悪感のような、言葉にしがたい感情が湧き上がった。実際に通用するのだろうか、後からまた連絡が来たりしないだろうかと不安になったが、その後しばらくして会社の総務担当から、残りの手続き(健康保険証や書類の返却など)について連絡があり、郵送でのやり取りができることになった。すべてが終わったとき、「本当にもう会社に行かなくていいんだ」という実感が湧いた。
退職代行を使ったと知ったら、上司は「逃げたな」と笑っているかもしれない。しかし、私はもうその笑い声を聞かなくていい。ミスを責められ、人格を否定される恐怖に晒されることは、少なくとも今の段階ではなくなった。会社を離れて数日経つと、今まで何があってもままならなかった睡眠が少しずつ落ち着き、朝起きたときの胸の重さも和らいできたのを感じる。こんなにも心が楽になるものなのか、と自分でも驚くほどだ。
もちろん「もっと別の方法がなかったのか」とか、「最後くらいきちんと上司に辞意を伝えるべきだったのでは」と考えることもある。でも、あの状況では冷静に話し合うなんて無理だったと思う。パワハラや言葉の暴力は、人の思考力や判断力を奪うほどに強い影響を与える。あのまま耐え続けていたら、きっともっと取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
会社を辞めた今、まずは心身を回復させることに専念しようと思っている。体力が戻ってきたら、また新しい仕事を探すなり、勉強を始めるなり、別の生き方を模索するつもりだ。昔からずっと会社に勤め続けるのが当たり前だと思っていたが、必ずしも一つの組織にしがみつく必要はないのだと痛感した。世の中にはいろいろな仕事や働き方があるし、自分が生きる場所はきっと他にもあるはずだ。
あの上司の下で続けるという選択肢が消えた今、逆に視野が広がったようにも思える。少なくとも、また毎朝動悸に悩まされながら通勤することはなくなった。体調に余裕が出てきたら、久々に本を読んだり、散歩をしたり、友人とゆっくりお茶をしたりして、少しずつ自分を取り戻していきたい。
もし同じように、パワハラに悩んで鬱状態になっている人がいたら、「退職代行」を使うことも一つの手段として考えてほしい。たとえ「逃げるように見える」としても、限界まで頑張って心や体を壊すよりはずっとマシだ。職を失うことはたしかに不安もあるけれど、無理をして最悪の結果を招くよりは遥かにいい。退職代行のようなサービスがあるのは、「会社を辞めたいけれど上司に言えない」「顔を合わせるのが怖い」という人がたくさんいる証拠なのだと思う。
自分の気力や体力が限界を超えると、人は思考がままならなくなる。そんな状態で「社会人としての責任」だの「根性が足りない」だのと言われても、その言葉が追い打ちとなって心を壊してしまうことだってある。どんな人も、自分が危険だと感じる環境からは逃げる権利がある。ましてや命を削ってまで働く必要はないのだと、今回の経験を通じて実感した。
退職代行という選択は、まだ世間的には議論の余地があるのかもしれない。でも、あのときの私には、それが唯一の「安全な出口」だった。その出口をくぐって初めて、これからの人生を見つめ直すことができるようになった気がする。あの上司には、もう二度と会いたくはないけれど、あの体験を通して「自分を守る決断の大切さ」を学んだと考えれば、無駄な時間ではなかったとも言えるかもしれない。
いま、退職してから少しずつ日常を取り戻しつつある。朝日を見て「今日も一日頑張ろう」という前向きな気持ちになれる日はまだ多くはないが、以前のように「また怒鳴られるかもしれない」「どうせ自分なんかダメだ」と怯える時間は確実に減っている。これだけでも大きな進歩だ。今後どうするかはゆっくり考えればいい。焦らず、無理せず、自分らしく生きる道を見つけたい。
最後に、もし同じような境遇で苦しんでいる人がいれば、「辞めるのは負けじゃない」と伝えたい。パワハラ上司に立ち向かう以外にも、逃げるという選択肢がある。何を言われても構わない、自分の命と心を守ることが最優先だ。退職代行の利用を迷っているのなら、一度情報を調べてみるだけでもいい。「こんな方法があるんだ」と思うだけで、少しは気が楽になるかもしれない。そして、ほんの少しでも希望を見いだせたなら、自分の一歩を踏み出してほしい。会社はほかにもある。働き方もいろいろある。自分の人生は自分のもの。だからこそ、どんな形であれ、生き延びてほしい。その先でまた、新しい道が必ず見えてくるのだから。
実家を出たときのことを、今でもはっきりと思い出す。僕は兄で、妹とは四つ違い。いつも穏やかで優しい妹が、自分の親に対して泣き叫ぶ姿を見るなんて、想像もしなかった。だけど、あのとき妹は限界だったんだと思う。むしろ、僕も同じように限界だったのだ。子どもの頃から「毒親」と呼ばれる環境の中で育った僕たちは、お互いが互いを気遣い合いながら、なんとか生きてきた。
僕たちの両親は世間体を気にしすぎるタイプだった。外から見れば、「教育熱心で厳格な家」という印象だったかもしれない。でも、その内側は違った。どんな小さなミスでも、親にとって“都合の悪いこと”になれば、怒鳴られたり、無視されたり、ひどいときには暴力まがいのこともあった。宿題をやっていないときは「怠け者」、テストで思うような点が取れないときは「努力が足りない」。どれだけ勉強しても「もっと上を目指せ」と追い詰められる。休みの日に友達と遊びに行けば「そんな暇があるなら勉強しろ」と怒鳴られる。僕も妹も、いつしか心の底から親の顔色を伺うようになった。
中でもつらかったのは、「進路」をめぐってだった。僕が高校に進学するとき、両親は有名進学校に合格するよう強く迫ってきた。そのプレッシャーに耐えられず、実は僕は一度だけ家出をしようとしたことがある。しかし、妹を置いていくわけにはいかないと思い直し、結局断念した。でも、そのとき妹はまだ中学生で、家に残るしかなかった。そんな妹が「お兄ちゃんと一緒にいたい」と僕に打ち明けたとき、何もしてやれない自分が情けなくて仕方がなかった。
その後、僕はなんとか高校を卒業し、アルバイトや派遣の仕事を掛け持ちして過ごすようになった。大学に行く気力はなかったというのが正直なところだ。親は「大学に行けないのなら家を出ろ」と言い放ったが、いざ出て行こうとすると「親不孝者が」と怒鳴る。言うこととやることが矛盾している。だけど、その矛盾に気づいたところで僕にはどうすることもできなかった。やがて妹も高校へ進学。成績は良く、周りからは「優等生」と見られていたが、その裏で妹は必死に呼吸をするように親の目を気にしていた。
妹が高校二年になった頃、ある深夜のことだった。バイトから帰ってきた僕は、リビングで一人泣き崩れている妹を見つけた。理由を聞くと、学校で一度だけテストの点が下がったことをきっかけに、親からひどく責め立てられたらしい。妹は「こんな家、もう嫌だ。お兄ちゃん、一緒に出て行こう」と震える声で言った。その言葉を聞いたとき、僕はある意味“覚悟”ができた。「もう逃げよう。二人でここを出よう」と。夜明けが来る前に、僕と妹は荷物をまとめはじめた。最低限の服や通帳、学校の教科書などをリュックに詰め込んで、親に見つかる前に家を出た。
両親には当然「勝手なことをするな」と言われると思ったが、そのときはもう恐れよりも先に「自由になりたい」という気持ちが勝っていた。妹が通う高校に相談してみると、事情をある程度汲み取ってくれて、転校という形で新しい学校を紹介してくれることになった。あまり詳しい事情は言えなかったものの、「家の事情で逃げたい」という妹の言葉が切実に聞こえたようで、比較的スムーズに話が進んだ。僕も収入が不安定だったが、とにかく二人で暮らすために、急いで安いアパートを探し始めた。物件情報を見て回り、実際に不動産屋をいくつもまわる。田舎の方へ移っても良かったが、妹が通う高校への距離を考え、都心からは少し離れた町のアパートを選んだ。
そうして、妹と二人暮らしを始めることになった。間取りは1DK。狭いけれど、二人で暮らすにはどうにかなる広さ。壁は少し薄く、隣の部屋のテレビの音が聞こえてくることもあったが、実家にいた頃の息が詰まるような苦しさに比べれば、天国のように感じた。お互いに遠慮はいらないはずなのに、最初はそれでも気を使い合った。お風呂の順番、寝る場所、部屋の整理整頓。兄妹とはいえ、二人暮らしのルールを決めるのは思った以上に大変だった。だけど、自由な空気がそこにあるだけで、胸の中にぽっかりと温かい火が灯ったように感じられた。
僕は早朝からコンビニでバイトし、昼間は派遣の倉庫作業に行くことが多かった。妹は平日は学校、土日は単発のバイトを探して働くことを始めた。毒親の元では許されなかった「アルバイト」だったが、今は誰からも怒られない。いつか二人で、もう少し広い部屋に引っ越したいと夢見ながら、僕たちは少しずつ貯金を始めた。最初は本当にギリギリの生活だったけれど、安心して眠れる空間、自由に会話ができる空間が何よりも大切だと感じた。
そんなある日のこと。妹が学校から帰る途中、カフェでアルバイト募集の張り紙を見つけてきた。時給はそこまで高くないが、交通費支給やシフトの融通など条件は悪くなさそうだ。「お兄ちゃん、私、ここで働いてみたい」と目を輝かせる妹を見ていると、僕も自然と笑みがこぼれた。毒親のもとにいたら許されなかったことを、いま妹は自分の意思で選び、そして始めようとしている。その一歩が、僕にはとても大きく見えた。
実際に妹がカフェの面接を受けに行くことになり、僕は帰りが夜遅くなるかもしれない妹のことが気がかりで、一緒に最寄り駅まで迎えに行くことにした。面接は上々だったらしく、店長もとても優しそうな人だったようだ。「採用されたら頑張るね!」と妹は嬉しそうに言う。その笑顔を見て、僕も心から「よかったな」と思った。
駅からアパートへ向かう夜道は、人通りが少ない。僕は自然と妹の少し前を歩き、周囲を気にしながら帰宅する。すると、近所の商店街にある個人経営らしい居酒屋の前で、通りすがりの中年男性に声をかけられた。「こんな夜遅くに、仲いいなあ、新婚さん?」と言うのだ。妹と顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。「いえ、兄妹なんです」と答えると、「そうなの? いや、雰囲気がいいからてっきり夫婦かと思ったよ」と笑われた。妹は「全然違うのにね」と顔を赤らめていたが、その後「でも、夫婦みたいだなんて、ちょっと面白いよね」とクスクス笑っていた。
実は、こうやって夫婦やカップルと間違えられることは、これが初めてではない。引っ越しのときにも、不動産屋の担当者に「同棲ですか?」と何度か確認されたり、スーパーで買い物をしているときに「ご夫婦ですか? 新婚さん向けフェアの案内ですが……」と声をかけられたりした。僕としては妹を守る立場でもあるし、多少の誤解は軽く受け流しているつもりだけれど、妹のほうは毎回、「兄妹なんですけど……」ときちんと訂正してしまう。それでも、今となってはこの勘違いもほほえましく感じられるようになった。実家にいるときには考えられなかった、なんでもない日常の一コマ。僕たちには、そういう穏やかな時間がなかったのだと思う。
それから少し経って、妹はカフェでのバイトが正式に決まり、僕たちの生活はさらに忙しくなった。ただ、不思議と疲れよりも充実感のほうが大きい。帰ってきてからリビングに二人で座り、一日の出来事をおしゃべりする。妹はカフェでの接客で経験したちょっとしたトラブルや、お客さんとの面白いやり取りを楽しそうに話してくれる。「昔はこんなふうに話をしても、どうせ親に全部ダメ出しされるんだろうなって思ってたけど、今は好きなだけ話せるから、すっごく楽しい」と笑う妹。その様子を見ていると、あのとき家を出た選択は間違いじゃなかったと心から思える。
もちろん、二人暮らしを始めてからも問題はたくさんある。親からの連絡は「許さない」という罵倒や、一方的な怒りのメッセージばかりで、話し合いができる状況ではない。時折、僕たちの住まいを突き止めようとしたのか、知人から連絡が入ることもある。「両親が連絡先を知りたがっている」とか「お前たちがわがままを言っているんじゃないのか」とか。だけど、僕はもう振り回されるのはやめようと決めた。妹も「返事しなくていいよ」と、毅然とした態度をとってくれている。親と離れても、今は生きているだけでありがたいと心から思えるのだから。
そんな僕たちだけれど、将来のことを考えないわけにはいかない。妹はあと一年ちょっとで高校を卒業する。大学に行きたいと言う気持ちもあるらしいが、学費をどうするか、奨学金は借りられるのか、僕の収入だけで妹を支えられるのか……問題はいくらでも出てくる。でも、妹が「やりたいことがあるなら挑戦したい」と言うなら、僕は全力で応援しようと思う。自分の大学進学の夢を諦めたのは僕自身の判断だった。あの頃はそれしかできなかったのかもしれないけれど、妹には後悔してほしくない。正直、不安は尽きない。それでも、毒親の支配から離れた今、僕たちにはお互いを思い合う時間と心の余裕がある。まずは二人でしっかり話し合い、可能性を探っていこうと思っている。
夜遅く、妹がアルバイトから帰ってくると、決まってキッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。僕が先に帰っている日は、ごく簡単な料理だけど、妹の分の夕飯を用意するようにしているのだ。チャーハンとか、野菜炒め程度だけど、「ただいま」と玄関を開ける妹の「いい匂い……」という一言を聞くと、やってよかったと思う。妹も翌日が休みのときなどは、代わりに僕のためにパスタを作ってくれたりもする。兄妹が同じ食卓で笑いながらご飯を食べる姿は、誰がどう見ても“家族”のはずなのに、不思議と「本当の家族」という実感が生まれてくるのは、ここ最近のことだ。
妹の存在は、僕にとって唯一無二の支えになっている。たとえ夫婦や恋人と勘違いされたっていい。僕にとって妹は妹であり、しかし同時にかけがえのない同居人でもある。実家にいた頃は、僕たちの間にいつも両親という“大きな壁”があった。それが今はなくなり、ようやく素直に向き合えるようになった気がする。僕たちはお互い助け合い、励まし合いながら生きていく。親の呪縛にとらわれることなく、自分たちの人生を、自分たちなりに歩んでいこうと思っている。
時には外食をして、隣りの席のカップルと間違えられることもあるだろう。時には夜道で「まさか兄妹じゃないよね?」なんて声をかけられるかもしれない。だけど、もうそれは構わない。二人暮らしを始めてから知ったのだけれど、人は他人の生活を結構なペースで勘違いしてくるものらしい。誤解されても、二人でいれば楽しいし、互いに隣にいられる安心感がある。それが分かるだけで、昔のように人の目を気にして呼吸を浅くすることはなくなった。
この先、僕たちが歩む道に何が待っているのかは分からない。経済的にもまだまだ不安定だし、妹がこれからやりたいことを見つけたとしても、すぐに実現できるかどうかは定かではない。それでも、「あの家に帰るよりずっとマシだ」という気持ちは揺るがない。毒親との関係を絶ったことで、ようやく手に入れた自由と、そして兄妹だけの小さな生活を、僕は何より大切にしていきたいと思っている。
考えてみれば、僕と妹がこうして一緒に暮らすということ自体、実家では到底許されなかったはずだ。親にとっては「恥」だったのかもしれない。長男が家を出るなんて、妹まで連れ出すなんて、とんでもないと。だけど、そんな言葉にはもう縛られない。妹と二人で暮らすことは、僕たちにとって自由と希望を取り戻す第一歩だったのだ。
ときどき思い出す。リビングの机にしがみつきながら、両親に泣き叫んでいた妹の姿を。あの光景は僕のなかで、いつまで経っても消えないかもしれない。でも、あの瞬間こそが僕たちに“逃げ出す勇気”をくれたのだ。だから今は、その記憶を大切に噛みしめている。もし同じように苦しんでいる人がいたら、声を大にして伝えたい。「逃げてもいい」と。誰だって、自分の人生を自分のために生きる権利があるのだと。
帰宅した妹の「ただいま」の声。台所から漂う料理の匂い。二人でテーブルを囲むときの、なんでもない会話と、小さな笑い声。そんな当たり前の生活の一つひとつが、僕たちにとっては宝物みたいに尊い。これから先もきっと悩むこと、苦しむことはたくさんあるだろう。だけど、どんなに傷つくことがあっても、もうあの家には戻らない。僕たち兄妹は、お互いを支え合いながら、一歩ずつ前に進んでいく。その道の途中で、夫婦や恋人と勘違いされることがあったって、それは微笑ましいエピソードとして受け止めていくつもりだ。
「毒親から逃げ出すために妹と二人暮らしを始めた」というこの事実は、僕たちが生きていくうえでの大きな分岐点だった。親の期待や束縛、暴言に押しつぶされそうになっていた僕たちが、やっと呼吸できるようになった場所。それが今のこの狭い1DKのアパートだ。床は古くて所々ミシミシと音がするし、壁は薄いし、エアコンの調子もいまいちなことがあるけれど、それでもここは僕と妹の大切な居場所だ。誰にも邪魔されない、僕たちだけの“小さな世界”。そして、この世界で、僕はずっと妹と一緒に笑っていたいと思う。あの家ではできなかったことを、少しずつ取り戻すように、毎日を噛みしめながら過ごしていこう。
「もうすぐご飯できるよ!」とキッチンから妹が声をかけてくる。僕はテーブルに箸とお皿を並べながら、その声に返事をする。この空間が、僕たちにとっての本当の“家”だ。例えどんなに些細なことでも、ここでの出来事はきっと僕たちの思い出になる。毒親から逃げ出すために始めた二人暮らしは、逃避行なんかじゃない。僕たち兄妹が「生きる」ということを取り戻すための、そして笑顔で日々を送るための、新しいスタートラインなのだ。
今日は約束していたとおり、C国とその手先になった氷河期世代によって変えられた日本について語ろう。
氷河期世代は、自分たちの青春時代の象徴として、過去に廃止された女子学生の体操服であるブルマを復活させた。
この政策は「伝統の復活」という名目で進められたが、実際には氷河期世代のノスタルジーと復讐心が絡んだものだった。
当然ながら、当事者である学生やその親たちからの反発は激しかった。
だが、氷河期世代の政策担当者たちはそれを一蹴し、強硬策を取った。
その中の一人、氷河期世代の女性官僚は、批判に対し冷たくこう言い放った。
「私たちが普通にしていた恰好だよ。あんたはそれが恥ずかしいっていうのかい?」
この言葉により、議論は事実上封じ込められ、女子学生たちは全員がブルマを履くことを強制されることとなった。
学校現場では、学生たちが羞恥心と怒りを抱えながらも従わざるを得ない状況が広がった。
さらに、この政策に逆らおうとした教育関係者や保護者には、社会的排除が待っていた。
教育現場で反対意見を表明した教師たちは左遷され、保護者たちはメディアによって「時代錯誤」とレッテルを貼られた。
そもそも、結婚を望まない人に、行政が何をどうすれば価値観を押し付けられるのでしょうか。あくまで、結婚を願っているけど出会いがなかったり、結婚までたどりつけなかったりした人のお手伝いをしましょう、という事業に過ぎず、それを「押し付け」と評価するのは違うと思います。
もっともだ。
行政が「押し付け」で結婚させられるくらいなら、そもそも少子化が問題視されてないだろうに。
かつてはその市町村の青年団で夏祭りなどさまざまなイベントを開催して、若い男女の出会いの機会を作っていました。行政が若い男女の出会いや婚活を支援し、地域活性化につなげようという取り組みはとっくにやっていたことで、潜在的なニーズが昔からあったのだと思います。時代に合わせて、その形が変わっただけだと考えています。
たとえば過疎地で、地域に若い異性が圧倒的に少ない、非正規雇用をのぞんでいるわけではないが、そもそもの仕事が少なく正社員へのチャンスがない。そのような環境に置かれている若い人たちも数多くいます。チャンスが少ない環境にいる若い人たちに、一方的に「自己責任論」を押し付けるのは、あまりに残酷ではないでしょうか。
官製婚活反対派はその多くがリベラルで、普段は自己責任論を批判しているんだが、恋愛や結婚の話題になると急に剥き出しの自己責任論者になる不思議。
ホビット陰キャという不利な条件にも関わらず、おっさんになってから婚活した挙げ句現実を知ってネットで女叩きするおっさんが絶えないのは、ネットに溢れる「婚活市場は女余りで選び放題」を鵜呑みにするからだけど
実際は結婚相談所を利用して結婚するのは1%という超マイノリティ
この1年で結婚した人の4人に1人は、マッチングアプリが出会いのきっかけ―。明治安田生命保険がインターネット上で実施した調査で、こんな結果が明らかになった。アプリが首位だったのは2022年に続き2回目で、今回は職場と同率だった。
同社の担当者は「新型コロナウイルス禍で対面での出会いが減る中で、手軽に好みの相手を探すことのできるアプリがさらに定着したのではないか」と分析している。
調査は昨年10月に実施。結婚から1年以内の約100人は「マッチングアプリ」と「職場の同僚・先輩・後輩」が25.0%でトップだった。
「友人・知人の紹介」の13.5%、「学校の同級生・先輩・後輩」の9.4%、「婚活パーティー・婚活イベント」の7.3%が続いた。一方、「合コン」は4.2%「お見合い」は1.0%にとどまった。
結婚から1〜2年の人と比較すると「職場」での出会いが11.7ポイント多く、この1年で急増。コロナ禍が落ち着き、出勤や飲み会が増えたことにより「『定番の出会い』として復活した」(同社)とみられる。
私がその「多頭崩壊」に関わるきっかけとなったのは、ある動物保護団体のSNSで見かけた一枚の写真でした。そこには、暗い部屋の中で多数の猫たちが身を寄せ合いながら、不安げにこちらを見つめている姿が写っていました。一言に「多頭崩壊」といっても、当事者の事情はさまざまです。飼い主自身も苦しみながら、増えすぎてしまった猫の世話を継続できず、助けを求める余裕すらないケースもあれば、元は保護のつもりが徐々に増えてしまい、最終的に身動きが取れなくなったパターンなど、理由は人それぞれです。けれども共通するのは、生活環境が極端に悪化し、猫たちも健康を損ないやすい状況に追い込まれてしまうということ。どうしても胸が痛んでしまい、当初は「何か手伝えればいいな」という軽い気持ちでその投稿を読み進めました。
ところが、具体的な保護の様子や猫たちの状態に関する記述を読むうちに、私は居ても立ってもいられなくなりました。そこには、劣悪な環境で感染症に苦しむ猫たちの存在が綴られていたのです。何匹もの猫がいる狭い部屋には空気の流れも悪く、清掃が追いついておらず、糞尿の臭いが充満しているとのことでした。猫たちの中には極端にやせ細っている子もいれば、ストレスからか脱毛している子、目やにで両目がふさがってしまっている子もいる。そんな中で、ボランティアスタッフは根気強くケアを続けているが、引き取り先が決まらないと満足な治療ができないケースも多い。とにかく人手と物資、それから新しい受け入れ先が必要だ――こうした言葉を目にした瞬間、私の胸中では「何かしなくちゃ」という思いが大きく膨らんでいきました。
私はすぐに保護団体に連絡を取り、状況を尋ねました。すると、現場には数十匹単位の猫がひしめいているらしく、飼い主である高齢の女性が限界を迎えているとのことでした。近隣からの苦情も多く、行政の介入も検討されているが、猫たちを全て一気に保護するのは物理的にも資金的にも厳しい状況。しかし一方で、いち早くケアしないと命にかかわる病気を患っている猫も少なくないという話でした。私はまだ猫を飼った経験は浅かったのですが、どうにか力になれないかと思い、「私にも里親としてできることはありますか」と尋ねました。保護団体の担当者は少し驚いたようでしたが、心強く思ってくださったようで、「健康状態に不安のある猫も多いですが、可能な範囲で預かっていただけるなら本当に助かります」とおっしゃいました。
こうして私は、最終的に三匹の猫を預かることになりました。いずれも生後1~2年ほどと見られる若い猫たちで、内訳は白黒のブチ猫、三毛猫、そして茶トラ猫。それぞれオスかメスかまだはっきりわからない状態でしたが、病院に連れて行って健康状態をチェックし、去勢・避妊がまだであれば実施する必要があるとのことでした。保護団体のスタッフからは、「栄養失調や目の感染症、皮膚病の疑いがあります。特にブチ猫は呼吸器系が弱そうなので、なるべく早く病院に行ってあげてください」とアドバイスをもらいました。預かるにあたっての注意事項や飼育方法をたくさん聞き、不安がないといえば嘘になりますが、それ以上に命を繋いであげたいという気持ちが勝っていました。
実際に三匹を迎えに行った日、私はその現場の一部始終を目にすることとなりました。かつては猫たちが自由に走り回っていたであろう部屋は、すでに掃除も追いつかず、床にはいくつものトイレ砂やゴミが散らばり、アンモニア臭が立ちこめています。窓は締め切られ、空気は淀んでいました。保護団体のスタッフが部屋に入ると、驚いた猫たちがさっと散り散りに逃げていき、段ボールの陰や押入れの奥に身を隠します。あるスタッフが、「今度里親さんが決まった子たちはいる?」と声をかけると、「こっちにいます」とほかのスタッフが三匹をキャリーに移して連れてきました。その子たちは恐る恐るケージから顔を出し、心なしかホッとしたようにも見えましたが、環境の激変に戸惑っているのか震えていました。
私が引き取る三匹は、一見すると命に直結する深刻な症状はなさそうですが、やせ細っていることが見て取れました。最初のブチ猫は痩せこけて体力が落ちており、くしゃみを繰り返していて呼吸も苦しそうです。続いて受け取った三毛猫は、被毛がパサパサしていて腰のあたりに脱毛箇所があります。皮膚病の疑いがあるので、早めに獣医師の診察を受ける必要がありました。そして最後にやってきた茶トラ猫は、目ヤニで片目がほとんど開かない状態でした。恐怖心からなのか、キャリーに入るときも必死に抵抗していて、スタッフの腕に爪を立てていました。そんな様子を見ていると、「連れて帰ってちゃんとお世話してあげなきゃ」という気持ちがさらに強くなりました。
初めて我が家に三匹を連れて帰った夜は、私にとっても、そしてきっと猫たちにとっても長い夜でした。三匹は緊張で固まっており、最初はキャリーから出てこようとしません。せめて安心して過ごせるよう、私は静かな一部屋を丸ごと「猫部屋」に整えておき、必要最低限の家具を配置していました。そこにキャリーを置き、ふかふかのタオルや、先住猫が使っていたクッションなどを用意しました。先住猫の匂いが混ざっていると不安が和らぐこともあると聞いていたからです。部屋の隅に食事と水、それから猫砂のトイレを置き、なるべく落ち着いた環境を整えたものの、彼らはそろって隅のほうでじっと様子をうかがっていました。私は部屋の中にしばらく座り込んで「大丈夫だよ」「怖くないよ」と声をかけましたが、三匹が自ら近寄ってくることはありませんでした。
翌日、まずは一番症状が重そうだったブチ猫を動物病院へ連れて行きました。診断の結果は、呼吸器の感染症の疑いが強く、体力が落ちているため免疫力が低下しているらしいとのことでした。抗生剤と免疫力を高めるサプリメントを処方してもらい、しばらくは安静に、十分な栄養補給をするようにと指示を受けました。病院から帰ってきてキャリーを開けると、ブチ猫は疲れたような表情を見せつつも、どこかほっとした様子。やはり医療の力は大きく、診察台で獣医師に静かに撫でられたのが安心できたのでしょうか。その日はゆっくり休ませ、私もできる範囲で声をかけ、必要なら毛布を替えてあげるなど細かい世話をしていました。
三毛猫と茶トラ猫についても、翌日以降に順番に診察を受けさせました。三毛猫の脱毛はやはり皮膚病の一種で、ストレスや栄養不足も原因になっているそうです。抗真菌薬の塗り薬や、被毛を補修するフードなどを獣医師から勧められました。茶トラ猫は結膜炎が進んでおり、片目が塞がりかけていたのは膿が溜まっていたからだとわかりました。洗浄と点眼薬の使用で回復の見込みがあるとのことで、そこまで深刻ではないようでしたが、嫌がる茶トラ猫に目薬を差す作業はなかなか大変です。毎回「シャーッ」と威嚇されながらも、根気強くケアを続けるしかありません。「お世話するのは大変だけれど、ここで諦めたらこの子は一生目が開かないかもしれない」と思うと、不思議な責任感が湧いてきました。
それから数週間、私は三匹を中心とした生活を送りました。正直、先住猫も含めて家の中は猫でいっぱいなので、お互いの存在に慣れるまで気を使う場面も多かったです。先住猫は多少ストレスを感じたのか、最初は「フーッ」と威嚇していましたが、時間をかけて一緒に遊べるようになると、少しずつ打ち解けてきました。新入りの三匹は最初は警戒心が強かったものの、栄養状態が改善し、薬の効果で調子が上向くにつれ、目に見えて表情が変わっていったのです。最初はご飯を出しても目が合うと固まっていたのに、徐々に「ご飯はまだかな」と言わんばかりに足元にすり寄ってくるようになりました。被毛も少しずつツヤを取り戻し、ブチ猫のくしゃみも一日に何度か程度になり、茶トラ猫の目ヤニもだいぶ落ち着いてきました。
医療的なケアが一段落すると、次は社会性の回復が課題になりました。多頭崩壊の現場で暮らしていた猫たちは、人との関わり方を知らずに成長する場合が多いので、社会化が十分にできていないことがあります。特に三匹とも体調不良で怯えていた期間が長かったため、人を怖がりやすい面が見られました。そこで私は、一緒に遊ぶ時間を積極的に作るようにしました。いきなり手を伸ばすと驚かせてしまうので、最初はじゃらしやトンネル型のおもちゃなどを使い、猫たちが楽しめる距離感を保ちつつ触れ合いを試みるのです。最初は逃げ腰だった三毛猫が、じゃらしの先につられて少しずつ近づいてきたときの喜びはひとしおでした。近づいてきた瞬間を見逃さずに、「えらいね」「かわいいね」と優しく声をかけると、その声に安心してくれたのか、遊び終わった後も少しだけ私の側にいてくれるようになったのです。
そして保護からおよそ二か月が経った頃、三匹はすっかり我が家に慣れ、ずいぶんリラックスして過ごせるようになりました。ブチ猫はもう呼吸が苦しそうな様子はなく、今ではおもちゃのネズミを追いかけて部屋の中を走り回っています。三毛猫の脱毛部分は完全に毛が生え揃い、ときどき自分のしっぽを追いかけてはくるくる回って遊んでいます。茶トラ猫は最初のうちは人をひっかくこともありましたが、目の治療で痛みがなくなったのか、今では私が部屋に入ると先に鳴いて寄ってきてくれるようになりました。自分から頭をすり寄せてくれるときなど、あの警戒心の塊だった頃を思い出し、ついじんわりと胸が温かくなります。
今振り返ってみると、三匹を引き取ることに決めた当初は、それこそ手さぐり状態でした。医療費も含めて負担は決して小さくなく、何度も「これでよかったのだろうか」と悩む夜もありました。しかし、彼らが見せてくれる少しずつの変化や成長は私にとってかけがえのない喜びをもたらしてくれました。そして何より、一度は過酷な環境の中で押しつぶされそうになった命が、こうして元気に暮らしている。その事実を見守れる幸せは、言葉で言い尽くせないほど大きいと感じています。多頭崩壊の問題は決して他人事ではなく、動物を飼うということは終生責任を伴うのだと、改めて強く考えさせられました。
もちろん、三匹を迎えたからといって多頭崩壊の問題が根本的に解決するわけではありません。一匹でも多くの猫が適正な環境で生活できるようにするには、飼い主の意識改革や行政の支援、地域での協力体制など、取り組むべき課題は山積みです。それでも、私にできる範囲で猫たちを救うことはできました。今は三匹との日々に癒やされながらも、あの現場にはまだ引き取り先を待っている猫たちがいるのだという事実を時々思い出し、「もう少し何かできないだろうか」と考えています。動物保護団体への寄付やボランティアなど、私一人の力は小さいかもしれませんが、一歩ずつ行動を積み重ねていけば、いつか大きな力になれるかもしれない。そんな希望を抱きながら、今日も三匹に声をかけるのです。「おはよう、今日も元気そうだね」――私に向かって返してくれるか細い声が、いつも以上に愛おしく響きます。
年の瀬の駆け込み需要でクッソ忙しい時期に、新人の女がまたポカしやがった
事前確認・先方への連絡を忘れ、相手からの確認の電話を握り潰した上スルー、
再度催促の連絡には逆ギれした上、「◯日の◯◯時にそちらに伺いますんでよろしく!」
といった感じで勝手に日時を指定(先方の都合は聞かず一方的に)
その日時指定すら守らず、当日はドタキャンというかブッチした上、翌日の別件で訪問した「ついでに」担当者と面談して、謝罪なしに言い訳ばっかしまくったという
「そちらの◯◯さん(新人女)、大丈夫?」という、先方から新人上司に直接連絡がいったことで発覚
客先はそこそこ長い付き合い且つそれなりに大きい取引先なので、上司が凄い勢いで謝罪に飛んでいった
やらかした本人を連れて行こうとしたが「時間外労働ですよね?拒否します!」(相手の都合で18時にお客様先、となった)といった感じでピシャリ
翌日、上司がガチ切れして指導してるのに。ヘラヘラしてて何で指導されてるか分かりませんといった感じで対応してて、更に意味不明
「午前に別な案件入っちゃったんだから仕方ないじゃないですかー、まだかまだかってしつこいから急いで行ったのに逆ギレしてクレームとかふざけてますよね?」
とか言いやがるから、発達とかそういうので無ければ、マジで宇宙人か何かとしか思えなくなった
報告連絡相談ちゃんとしてれば、初回の連絡忘れの時点で何とかなってたわアホ
それを指摘したら「だって言ったら怒られちゃうじゃないですか…臨機応変に対応しないと思ってー」とかまた言い訳
内心はともかく、連絡忘れぐらいじゃ初回から怒らないよ…でもこの新人、別件でもヤバいミスやらかして(外注の人に報酬支払い忘れ、その後外注の人が催促してもシカト、こちらも新人飛び越えて上の方にクレームいった事で発覚、報酬は書面上支払った事にして勝手にプールしてた事も判明)
コンプラ違反とかで指導されれた時も「◯◯(上司)にパワハラされた!私が女だからって舐められてる!酷い!」とか逆ギレしてたしなぁ…
多分、自分のやる事に少しでも反論する→コイツは敵!みたいな発想なのだろう。マジ宇宙人では?
先方の担当者がたまたま温厚な人だったから、クレームと担当者替えで許されたけど、本来クレームで済むようなもんじゃないよね
取引打ち切りも普通に考えられるし、されてもおかしくないレベルのやらかしなのに、その事を説明されても1ミリも理解してくれないのは何故?
ちなみに本人の自己認識では「私は真面目過ぎるぐらい真面目なタイプだって言われてて、背負い込んで頑張りすぎちゃうとこあるみたいなんです」らしい
口には出さないけどさっさと辞めて欲しい
新人女の後始末で他のメンバーが少なからず疲弊しているのが分かる(もちろん自分も)
指導係を任されている若手の女性社員は、見るからに疲弊してて彼女の方が先に辞めそう
でもその指導係の前々任者社員(男性)は、車の免許は持ってるがペーパーで運転出来ないからとアッシーさせられた上、ロクにお礼も言わないので
さすがに苦言を呈したら「セクハラされた!」って騒がれて、大事になり異動させられてしまったので、彼女ぐらいしかもう指導係を任せられるのがいない
前任者の指導係(女性)は、ブチ切れて「コイツ(新人女)をクビにするか指導係を外さないと私が辞めます!」って言って、指導係を外させたという
まあ気持ちは分かる
「この仕事(A)をやってね」
と任せたら、一日かけてBとかCの仕事(関係無いし出来も悪い)をして、Aは放置とか2回に1回はある
どうでも良い事の連絡は必要以上にする癖に、必要な連絡はスルーしたりもする
かと言って逐一仕事内容をチェックすると「私の事が信用出来ないんですかー?」とか言って逆ギレ
信用出来ないから言っているんだろうに
宇宙人じゃなきゃ何なの?
当時、増田界隈では鬼滅の刃がヒットした理由を考察する日記が流行ってました。
遅ればせながら便乗しようと思った次第です。
その有名作がなぜヒットしたのか? ですが、一般的な答えがあります。一つ目は、作品自体の面白さです。
日記中の引用にあるように、「読み手の感情をどれだけ動かせたか?」「生き物同士の心の交流、繋がり、触れあいをどれだけ描けているか?」がポイントになります。
残り一つは外部環境です。鬼滅の刃だと、ちょうどコロナ禍の頃に映画が完成したうえで、ほかに競合相手がいなかったことです。世間の人気を掻っ攫うことができました。
参考までに、『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』という書籍にあるのですが、ヒット作品というのは、一定以上のクオリティがあるうえで、後は純粋に運であることがわかっています。
私も実は、若い頃に「小説家になろう」に投稿していました。柔道をメインに扱った教師ものでした。
特定ジャンルではランキング上位に入れたのですが、異世界転生や俺TUEEEE!!ジャンルの足元にしか及びませんでした。
今では、どうしてウケなかったのかを理解できます。当時は自分の描きたいものを描くので精一杯でした。
例えば、作中において人間同士の愛情の繋がりの描写が薄かったのは間違いありません。なろうで流行っているジャンルではなかった、というのが一番大きいですが。
この場を借りてプチ自慢ですが、私の小説の設定が『もういっぽん!』という柔道漫画で使われていました。作者のオリジナルとして昇華されたうえで。
私が作った教師キャラと同じ名前、同じ設定の人物が2023年放送の同アニメで名前を呼ばれた時、びっくりした思い出があります。
この当時、ニコニコ動画やYouTubeにおいて、ネズミなど哺乳類が惨たらしく殺される動画や、
昆虫や魚介類を捕獲して面白半分に実験したり、トドメを刺した後に調理するタイプの動画が流行っていました。
ニコ動の例だと、農場犬が畑内のモグラを食い散らかす動画や、ピラニアの水槽にラットを落として食べさせる動画などです。
YouTubeだと、ヘビフロッグさんやホモサピさんやおーちゃんねるがやりたい放題やってました。
私個人としては、生き物の命をいたずらに奪う動画が好きではありません。はっきりいって嫌いです。
ちょうどこの日も、ヘビフロッグさんの動画を拝見して、おそらく嫌な気持ちになっていました。その時の憤慨を日記にしました。
やはり、その、害獣だろうと昆虫だろうとSAKANAだろうと、命はたいせつなものだと思うのです。
株式投資のエントリを一度書いてみたいと思いました。それがこの日記です。
投資をやってみたいけど、最初は何をすればいいのか、そもそも投資をすべきなのかわからない――そんな人に向けて書きました。
株式に限らず、投資というのは長い経験が必要です。その中で、自分にあったジャンルや手法を身に付けていきます。人の数だけ正解があります。
いま初心者の方に言わせていただくとしたら、①まずは有名本を2~3冊読んだうえで、②つみたてNISAやiDeCoから始めて、③次は自分が好きな商品を作っている会社の株を買い、④さらに興味が出たら仮想通貨まで含めた専門銘柄に挑んでみるのがいいと思います。
なお、信用取引やFXに代表されるレバレッジ取引は、ここでは投資に含めません。
あれは投機です。続けていれば、長期的には必ず一文無しになるゲームです。
30才前後の頃はまだ、先に述べたように京都市内で地方公務員をしていました。
理想と現実の間には耐えられましたが、自分はこのままでいいのか、30代半ばになったらもう転職はできない、今決めるしかないのでは? といった焦燥と戦っていました。
結局、転職活動をすることにした私は、転職エージェントに登録しました。新卒で入った会社がリクルート(求人情報誌の営業)だったので、リク系以外がいいと思ってワークポートに登録しました。
選択できる道筋は、思ったより多くありました。数は相当少なかったです。苦戦しました。
その中でも、半年ほど粘り強く私に付き合ってくれたエージェントの方に今でも感謝しています。
最後は、公務員生活で身に付けたスキルを活かせる会社に送っていただきました。
公務員が民間に転職するコツですが、最初は行政折衝や申請事務など、行政経験を活かせる仕事がいいと思います。いったん民間で経験を積んだ後であれば、それ以外の民間企業に進む道が開けます。
国家公務員や現場で働く専門職であれば、地方自治体の事務系に比べても転職しやすいと思われます。
なお、作中に出てくる転職成功者ですが、そういった方々の中で、私が特に知っている人を選びました。
公務員→民間というルートを歩まれた方を少なくとも四人以上知っています。
この頃は、ニコニコ動画の楽しみ方がわからなくなっていました。
ニコ動が迷走期に入って相応の年月が経っており、変わり映えのしない動画サービスにうんざりしていたこともあります。
もっと早く、ドワンゴがランサムウェアに感染していたら、ニコ動もユーザー離れを防ぐことができたのではないでしょうか。ハッカーに感謝を、と言いたいわけではありません。あくまでタイミングです。
何人かの利用者から、よさそうな意見をいただくことができました。
コメントをいただいた方、本当にありがとうございました。
私の実妹が主役です。
私の妹というのは、今にして思えば発達障害というやつだと思います。
ASDとかADHDとか、私に診断する資格はありませんが、そういう傾向があったのは間違いありません。
空気の読めないところや、運動が苦手なところ、集中が続く分野が限られるといった特徴がありました。
ただ、彼女は私などに比べると相当マジメで、頑張り屋さんでした。勉強は一生懸命やってましたし、学校の成績も学年で一番でした。
しかし……生来のドンくさいところ、要領の悪さが災いして、第一志望の大学に不合格でした。合格圏内にはあったようなのですが。
私と同じ大学に行くのが、心の底では嫌だったのかもしれません。第二志望以下の大学に行くことになりました。
そんな妹が苦しんでいたのは知っています。私も妹も、大学には実家から通っていましたので。
私は途中から下宿になりましたが、彼女の頑張りは知っています。苦しい中でも努力を重ねていました。
社会人として経験を積んだ彼女は、仕事ができる風のオーラを身に付けました。凛々しい雰囲気だったのを覚えています。よりによって、私の新卒時と同じ会社に入社しました。なんでやねん😭😭😭
部落解放運動が盛んな地域であり、大人になって知りましたが、ぶっちゃけ被差別部落でした。
集落の中央には、それなりの河川が流れていて、鬱蒼とした竹林が茂っていました。住宅改良や道路・河川工事の痕跡が露わです。
全国部落地名総鑑なる書籍にも、私の生まれ故郷の大字がバッチリ書いてあります。
その頃、いわゆる隣保館において、解放同盟が主催する学習事業がありました。
その時に聞いた解放同盟の設立の話や、子どもながらに地域単位でそういった政治活動(役場の前でメーデーやデモをする)に参加したことがあります。
あの頃、私たちのことを主導していた解放同盟の人や、旧社会党のメンバーの方々がどんなことを話していたのか、自宅にはどういうタイトルの書籍等があったかなど、じわじわと思い出しながら当日記を執筆しました。
みんなからアイデアを募るタイプの投稿、大喜利系のものを読む機会がありました。三大○○など。
私もやってみたいと思い、増田やブクマカの皆さまから意見を募りました。
今生きている日本語という観点から、本歌取りの意味ではなく、元ネタになったコンテンツという意味で「底本」を使っています。
同じ公務職場の、大人数の飲み会でした。広い居酒屋を貸し切っての若手主体の飲み会があったのです。
その会に参加中、座敷でチビチビとチューハイを飲んでいたのですが、真後ろから壁越しに公務員女子がガールズトークをしてました。
その時に聞こえた話です。とある女子職員がいて、意中の男性がいたのですが、気持ちに気付いてくれなくて、アタックすらされなくて「悔しい~( ;∀;)」というのが要約です。私がよく知ってる女子職員でした。
その子のことを、ほかの公務員女子がヨチヨチする恰好で慰めていました。あれこそが真のケアーなのではないかと感じました。
当時は、まだギリギリ二十代でした。女性にとっての恋愛の重みがわかっておらず、「へえ、そういうものなんですね~('ω')」と聞き流していました。
ただ、時間が経つごとにそういう恋愛事が気になっていき……この体験は、男女にとっての恋愛観の違いを考えるいいキッカケになりました。
こちらも公務員時代の話です。当時はふるさと納税の黎明期でしたが、一部の市町村や政令市、県庁クラスはすでに参加を決めていました。
私が勤めていた役場にも、地域を盛り上げるような名称の部署があって、とある女性職員が配属されました。日記の主人公の子です。
この子は、正直仕事ができる子でした。高校を出て数年しか経ってないのに、地域おこし事業の事務事業の担当者になりました。
女の子が事務だけやっているとかではなく、上司の方からキッチリ権限をもらっていました。
その道のコンサルタントであるとか、営業会社であるとか、京都を盛り上げるための○△協議会の役員級の人とか、いろんな人がその部署の窓口に行くのですが……彼女がサシで来庁者を相手にしてました。
※日記中の「ふるさと納税」はフェイクです。地域おこし・地域づくりというジャンルは同じです
そんな彼女ですが、事務事業の関係でシステム周りの契約をしていた会社の元請けコンサルに引き抜かれる格好で、転職することになりました。
引き抜きというのは、あくまで弊庁の中での言い方です。断じて不審な転職ではありませんでした。同期であるこの子の影響を受けて、私は転職を考えることになりました。
彼女の上長の人ですが、相当憤慨していました。「あの会社は指名停止。総務部に言うとく。ほかの自治体にも、一応国にも情報共有した方がええわ。やっとくから」と発言しています。
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増田は1ページにつき25件表示です。
私のホームでは17ページ分あって、短文や返信コメントを除くと12ページ程度。
12*25≒300本が投稿数です。実際、この中で二千字以上でフィルタすると、約150本が残ります。
残り150本は? と聞かれると、自分でもよくわかりません。発言小町やYahoo!知恵袋や、Quoraなど、
私が投稿している他サイトの流用物とか、大喜利ネタとか、皆さまへの短文質問とか、そういうものと存じます。
ブックマーク数は……? と気になったのですが、当方エンジニアではないため正確なカウントができません。
ところで、「本当にあなたが書いたの?」という疑問はあると思いますが、「いや、これは私が書いた」という人が出てこないことを証明材料としてください。いざとなったら、日記本文を編集することで証明します。
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そういうことをせっせと書いてる暇空アンチは
なんか「天皇は人間じゃないか!」って言ってるGHQみたいに見えるんだよね
ごめんすげー不敬なたとえしちゃった
暇空が人格者だとか正しいとか思って支持してる奴なんて
居ないとは言わないけど本当に一部の、れいわとか支持してそうな低知能だけなんだよね
(斉藤知事は最近自分の支持者に圧倒されて若干引いてるように見えるのは気のせいか?)
暇空が無軌道だとか不道徳だとか言われてもさあ、だから何?って話なの
暇空支持の人の多くってネットフェミニズムとか表現規制リベラルとかに攻撃された人たちなんだよ
あの勢力の攻撃って本当に卑劣で卑怯で無責任で、理屈が成り立たないでしょ
・ヤドカリのようにどんどん論拠を変える(つまり表向きの名分は基本ウソ)
・だんまりで逃走
・歴史修正して自分達の攻撃をなかったことにしたり人に擦り付けたりする
全部この感じで一切責任を持たなかった
作り話じゃないよ
はてなの人ならある程度そういうの見て知ってるよね
最近も「人工知能学会の表紙は自分でやめたんだ」とか歴史修正図ってるカスがいたし
(これもあの陣営の特徴で、現場や担当者に圧力掛けて追い込んで訂正や譲歩を引き出したら
「自分で変えた」 「我々は何もしてない」 「変えなければよかっただろ」 ってマジで言う。)
延々とああいう振る舞いを見せられてきた結果
「あ、こんなに汚くて無責任ならこちらもあいつらに対しては何してもいいんだ」って気分が醸成されたわけ
それなら暇空を支持することにだって躊躇は要らないでしょ
暇空の言ってることにいくつ間違いがあったっていいんだよ
世間のそういうものへの注目度や攻撃性が高まるなら(もう戻らないよ)それでいい
暇空が無茶苦茶だとかおかしいだろとか狂ってるだろって言われるとどう思うかって
スカッとするわけよ。
それはいじめっ子たちに圧力掛けられて2階から飛び降りた時の怪我なんだってさ
それでやった奴等は「あいつが自分で飛び降りた」と言い訳したらしい
そういう人として本当に卑劣なことを平然とず―――っとやってきた結果