はてなキーワード: 金銭とは
やあ!
みなさんこんにちは。
何を隠そうこのワイ、母親の介護歴17年(糖尿→脳卒中→骨折→認知症で要介護4。この間祖母の介護も4年被ってる)、父親の介護歴11年(骨折→肺がん→認知症予備軍で要介護3)を自宅みている 大馬鹿者 大ベテランなんですね。もちろん独身KKOです。
と言うワケで、アドバイス欲を満たすための生贄を見つけたので、クソバイスするよ。
さあLet'sクソバイス
水分補給と同じで、ストレスがたまったら解消するのでは間に合わないことが多いので、ルーチンにれる。
例えば俺の場合、毎週木曜日が仕事完全休暇という仕事なのだが、この休みに合わせて、木曜日は両親ともにデイサービスに送り出している。
そして、木曜日はストレス解消の日、自分を甘やかす日と決めて、何もしなかったり、だらっとアニメを見たり、本を読んだりしてる。
また、3ヶ月に一度ぐらいショートステイに夫婦揃って出てもらったら、泊まりのエンタメにも行く事にしている。
自分の場合は、だいたいは夜行バスで大都市圏まで出て、大きなシネコンで一日映画三昧したりって感じですが、こう言う日を確実に大切にすること。
そしてこれは「開いたらやる」じゃなくて「何があってもやる」と決めてスケジュールに入れること。有給休暇と同じね。
そうじゃないと自分が持ちません。
なお、ショートステイは定期的に利用しておかないと、緊急時に対応してもらえないので、その訓練も兼ねています。
緊急時ってのは、俺に何かあった時が最大。そのほか、どうしても外せない義理のときとか、高校生の頃に心を救ってくれた声優さんがx年ぶりにコンサートするとか、そういうときね。
災害のときとか、色々なときに泊まりで預けられるようにしておかないと詰む。
それでも愚痴を言いたいときあるよね。そういうときは増田で愚痴りましょう。
増田なら💩💩🎠🦌とか書いても誰も何も言わないし、きゃっきゃしてりゃいいので。
そのための増田。まぁ、実践しているのだと思いってそこは安心しました。
まさにクソバイス
他人に興味を持つことが出来なければそもそもそのステージに立てていない、という意見もまったくその通りだと思う。
ただ、努力ないし訓練において著しく困難を感じる場所についての言語化を、他人への配慮なく行うと「興味が持てない」という悲鳴になる。
他人に興味がないのにじゃあなぜ他人といっしょにいようと思うのか、といえばそれは社会的要請であったり金銭的欲求であったりといった包み隠すべき何らかの存在があるだろうし、それ以外に単純なエンターテインメントコンテンツとして相手を見るのも手放しに良いという理由とも言い難い。
興味を持つ、好意を持つという事柄には得てして理由があるけれども、その理由に基づいた行動が、思考によって引き出されるという前提は覆せない。
著しい問題は、いつだってそれを『会話』という場所において行うことができるのかどうかだ。
様々な技術革新が古から今に至るまで数多積み重ねられてきた中で、唯一現代に残されていると言って良い、外部装置が(ほぼ)介入できない場としての『会話』だ。
その場において、メモリが足りないことによって『思考の補助線』が目に入らない。
普通の人は熟慮を重ねたりあるいは自らの身体の反応を抑え込んだりすることで、適切な相手の捉え方を反芻し、感情を乗りこなし、ないしは記憶に残る目的を元にして相手に対して適切なコミュニケーションを図ることができる。
それを、思考の補助線を脳内のメモリに残すことができる、と言い換えてみたい。コミュニケーションの『視界』において、思考の補助線に基づいて言葉を選び、相手の反応を読み取り、蓄え、そして出力すること。
その超複合的な行動が、俺にはどうしてもできなかった。メモリがあまりにも足りない。
もともと俺は、複数桁の算数や複数要素の入り込むボードゲームなどは脳内だけで思考するとすぐにフリーズして、脳内が本当に面白いくらい真っ白になる。いくらやってもそれだけは変わらず、ただただ伝言ゲームのように続けることの速度を重ね、または目の前の紙やパソコンに吐き出して、外部記憶媒体に頼って擬似的に『出来ている』風を振る舞うのが限界。にも関わらず日常の『会話』だけは、何にも頼れない。目の前でメモを取ることが許されるのはよくて仕事だけ。
相手の会話の内容の論理構造に気を取られる。相手の感情に引き摺られ防衛反応や焦燥が相手から得るべき情報を摘み取る。まさしく『幼稚』な高揚感に引き摺られ自らの口から吐き出す言葉がどこにぶつかるかを『視界』に捉えられない。終わった後には何が悪かったのかや、そもそも相手がどんな様子だったかなどの仔細は頭から吹き飛んでいる。
メモリだけが、どうにもならない。ワーキングメモリの鍛え方、みたいなものをいくら調べてもろくな学術成果はなかった。いくつかの効果があるとされたのは、単にそのトレーニングにおいてのみの向上を認めたというだけで、実際にトレーニングによってワーキングメモリが向上した訳ではなかったらしい。
『興味を持つ』という補助線を引くメモリの空き容量があれば、その思考順序から導き出せる質問や態度、そして引き出した解答を記憶してそれに基づいて相手の対応を検討し引き出すといった余地が産まれるのだと思う。勿論、徹底的にあらかじめ準備をして、相手の興味を事前調査し、その上で行動する営業や接待などの対応は多少はできるだろうが、それも短期記憶でギリギリで、長期的に様々な要素を頭に留めておき、足りないメモリで半分パニック状態で常に会話している俺のような存在にはほぼ不可能と言って良い。
『興味を持てない』というのは、単に相手に興味を持つといったマナーを果たせていない、というよりは、ただ目の前のボールを蹴ることだけで本当に必死になっていて、まさしくサッカー場に立てていないことについての悲鳴でしかない。
よく、女性に経済力があって一人で生きていけるから結婚しなくなったとか、離婚しやすくなったとか言われるけれど、
個人的には全くピンと来ない。
女性に経済力があっても結婚したければ結婚するし、離婚したくなければ離婚しないでしょ。
ていうか、少なくとも現代日本においては結婚って娯楽でしょ?好きな人ができて、恋愛して、その人と一緒にいたいと思うからするもの。娯楽だよ。そして娯楽には時間的金銭的余裕が必要。
だから女性に経済力が「ない」のは結婚できない理由になっているが、「ある」事は全然結婚しない理由になってなくない?と思う。
結婚をペットや推し活に言い換えてみたら、変だとは思わないだろうか?女性に経済力が「ある」からペットを買わない、経済力が「ある」から推し活をしない、……と言われたら違和感ないか?
女性に経済力がある事は、結婚しないorしても離婚する理由にはなってない。結婚「しなくてもいい」事は、「しない」事を意味しない。
経済力があって、結婚しようと思えば出来るような女性が、にも関わらず結婚していないのは単に、魅力的な男性に出会えてないからでしょ。
で、実際には経済力のある女性ほど、魅力的な男性に出会える可能性も高い。その結果婚姻率も高くなる……と考えた方が自然だよ。
実際自分が見た限りでは大企業正社員や、大学教授や医者や弁護士といった専門職の女性は大抵結婚してるしなー。周りにまともな男性が多いからだと思う。
自分が50歳の時、自分の親は80歳になるわけだが、家族一壮健だった祖父でも80過ぎる頃には生活に人の手がいるようになってたのを考えると持病のある親はもっと早くに手助けがいるようになるかもしれない
田舎すぎて、医療や美容の資格職につくか、公務員か銀行員か郵便局か農協か…くらいしか正社員の職がない
歳をとってから親の介護に戻っても、よくてパートか、仕事にありつけない可能性も高い
早期リタイヤして悠々暮らせるほどの金銭的な余裕はないが、地元に親のことを頼める親族もいないし、頻繁に帰れる距離でもない
もうあと15年しか余裕がない
しかも親の面倒を見に全て捨てて戻っても、10年もしたら親も死ぬ訳で、自分も60過ぎて仕事も金もなく、本屋も映画館もない田舎で無為に生きるのかと思うとしんどすぎる
「ベニスでしょう」
これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とをながめていた。すると、
「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。
「兄さんとは……」
「この絵は兄さんのほうでしょう」
「だれの?」
「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」
三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色をかいたものが幾点となくかかっている。
「違うんですか」
「一人と思っていらしったの」
「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、
「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。
「里見さん」
だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。
美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向かって、
「妙な連と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬の肉が落ちている。
「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である。来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死の勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。迷惑だろうが大晦日でもかかしてくれ。
「その代りここん所へかけるつもりです」
原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。
「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。
「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。
「三井です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」
原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。
「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。
「まだ」
「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」
美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。
「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」
「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。
女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである。ここにもベニスが一枚ある。
「これもベニスですね」と女が寄って来た。
「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。
「さっき何を言ったんですか」
女は「さっき?」と聞き返した。
「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」
女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。
「用でなければ聞かなくってもいいです」
「用じゃないのよ」
三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。
「野々宮さん。ね、ね」
「野々宮さん……」
「わかったでしょう」
美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。
「野々宮さんを愚弄したのですか」
「なんで?」
女の語気はまったく無邪気である。三四郎は忽然として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。
「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。
「それでいいです」
「なぜ悪いの?」
「だからいいです」
女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。
「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。
「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足を受け取って、出ると戸外は雨だ。
「精養軒へ行きますか」
美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。
「あの木の陰へはいりましょう」
少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。
「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、
「だから、いいです」と答えた。
雨はだんだん濃くなった。雫の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、
「さっきのお金をお使いなさい」と言った。
「借りましょう。要るだけ」と答えた。
「みんな、お使いなさい」と言った。
このマシュマロを見た勝デの女たちへ
大変お手数なんですがこの内容を広く周知していただけると幸いです。成人指定作品を嗜むオタクが把握しておくべき内容かと思います。
r18絵・壁打ちがワンクッションなく溢れかえっている件で、よろしければ話を聞いてください…。
最近勝デクに沼った友達の従姉妹(未成年)が万フォロワ大手字書きさんの♡喘ぎr18壁打ちを読んでいたらしいんです。
この時点でだいぶ怖いんですが、そのことが発覚したのは従姉妹が友達に「これってどういうこと?」とr18の内容を質問したからでした…。
従姉妹は今まで二次創作に触れたことがありません。何も知識がないから初めて足を踏み入れた界隈の現状が普通だと思い込んでいて「自分から検索するまでもなくr18ネタは日常的に上がってくるもの」と解釈していたようです。
「絵なんて大谷◯平と同じくらいTwitterのおすすめに出てくるよ」と言われたら何も言い返せませんでした。
友達と話し合いましたがr18ネタを垂れ流す人達を説得しても一人二人じゃ済まないし、大半は耳を傾けてくれない…ということで断念しました。
こうなったら従姉妹をなんとかするしかない、という結論になり、最近は二次創作や成人向け作品の取り扱いについて説明したり、全年齢の素晴らしい作品をプレゼンしまくっています。
勝デク界隈には常識的な大手絵師さん・大手字書きさんもたくさんいらっしゃるのでプレゼンが捗ります。r18ネタを公の場に放出せず、承認欲求を満たすため界隈の勢いに便乗したりもせず、ご自分のペースでルールを守って活動されている方々の素晴らしさを痛感する毎日です。今回のことで地獄を見た私達にとってこの方々こそが神絵師・神字書きです。
現在従姉妹が完全にr18作品を遮断できているかはわかりかねます。従姉妹が言うようにTwitterを開くと普通に上がってくるのでそこはどうしようもなく…他にもそういう未成年オタクがいると思うとゾッとします。
本音を言うとr18作品をワンクッションなく投稿する行為をやめてほしい。でも今回のことで信頼できる人とそうじゃない人の区別がつくようになったから、そこは良かったかなと思います。
あずにさんの回答
このマシュマロを見た勝デの女たちへ
大変お手数なんですがこの内容を広く周知していただけると幸いです。成人指定作品を嗜むオタクが把握しておくべき内容かと思います。
前提として、未成年が成人指定作品を閲覧する事はいけない事です。マロ主さんのお知り合いが成人指定作品を見ていた事は褒められた行為ではありません。
ですが、気軽に誰でも閲覧出来る状況である現状の方が遥かに問題かと思います。未成年にルールを守れと叫ぶ前に、大人側がちゃんとしないといけません。
ワンクッションなしですけべを垂れ流すな。
このマシュマロを見た人は『接合部が見えてなければセッしててもOK謎理論でセンシティブなしですけべ絵を垂れ流すオタク』や『私はフォロワー適宜チェックしてるので問題ありません謎理論で♡乱舞すけべ壁打ち垂れ流すオタク』に、このマシュマロを送って貰って構いません。あまりにもこの手のマロが私に高頻度で届くので、もう限界です。御手数ですが患部に直接塗ってください。
念のためですが、このマロ主は別に全然悪くないし、どちらかと言えば被害者なので同情しかなくて心から寄り添ってあげたい気持ちが5億です。絶対にマロ主を責めないであげてください。本当に素敵で立派な大人だと思います。それはそれとして、私じゃなくてすけべを垂れ流している張本人に言わなきゃ意味が無いんですよね。ご主張通り1人や2人じゃないし言ったところで聞かないだろうも全くを以てその通りなんですが、誰にも指摘されないなら今後も改善しない事だけは確かです。だからといって私がそれっぽい人に順番に注意して回るのかといえば、良識のない大人にそこまでしてやる義理はないですし進んで恨みを買いたくはないしできるだけ無視して生きていきたかったんですが、さすがに目に余るのでこのマシュマロをフリー素材にします。RTするなりリンクを貼るなり各々好きにしてください。
どんなにフォロワーを日々チェックしてもRT先の未成年は見てるし拡散されたらおすすめに上がりやすくなるので"あなたのフォロワー"以外の目にめちゃくちゃ触れます。
事実として未成年が『大谷○平と同じくらい普通にすけべ流れてくるよ?』なんて感覚になってる現状に怯えてください。謎の界隈ルールなんてモノを作るつもりはありません。ただ未成年に成人指定作品を見せてはいけないという努めて一般的な話をしているだけです。お住まいの地域の条例に違反しているご自覚を持ってくださいってだけのお話です。今一度ご自身の行いを振り返ってください。お願いします。
このマシュマロの内容はすべて虚言かもしれません。真実である確証は当然ありません。ですが未成年が気軽にアクセスできる状況を作っているのは事実であり、このマシュマロのような事態が露見してないだけで起きている可能性は十二分にあります。すけべな内容をツイートしたい時は、リンク先で年齢確認を設けるなり、承認制の鍵垢のみにするなり、何かしらの対処をお考えください。
以上、私に出来るのはここまでです。目立たずひっそりこっそり生きていきたいオタクなので本当にこんな事はしたくなかったんですけど、ちょっと未成年被害報告が最近多すぎたのでこのマシュマロをフリー素材にします。でも悪用はしないでください。お願いします。正直もう消したい。こわい。
該当の作家たちまではきっと届かないだろうし、この話を聞いても気にもしない人が大半かとは思いますが、もし1人でも考え直してくれればいいなと願うばかりです。
成人指定作品は大人になってから見てください。そんなものを垂れ流している人を『この人は意地悪してこない優しい人!』と勘違いしないでください。その人は漫画やアニメを違法アップロードしている人と同じです。それで助かってる人がいるからOKが罷り通ったら世界は破綻します。正しくゾーニングできてる人こそを尊敬するようにしましょう。
未成年の飲酒喫煙が法律で禁止されているのと同じように、すけべなものに年齢制限が設けられているのには理由があります。もしも疑問があるのなら聞いてきなさい。私にわかることなら答えます。成人指定作品は大人になってから見ようね。おしまい。
こんばんは!あずにさんが未成年のマロ主に向けた「何故未成年は成人向けコンテンツに触れてはいけないのか」の回答を読ませていただきました。何故だめなのか、何故そのルールが存在するのか、それらを説明しないまま、強い言葉でルール違反を非難する人たちの多さを考えると、本当に素晴らしいと思いました。
さて、そんな素晴らしい文章を読んだ上で、「私の子どもではないし、そんなに成人向けコンテンツを見たいなら見れば? どうせ世の中に溢れてるんだし」と思っている倫理観のぶっ壊れた大人がここにいます。こんな人間が二次創作すべきでないと言われてしまうかもしれませんが、ごめんなさい、あずにさんなら、私のような者にも真摯に回答していただけるのではないかと期待して、これをしたためています…。
あずにさんの回答を読んでいて、私が唯一心から危機感を覚えたのが「未成年に成人向けコンテンツを見せたこと」で罪に問われる可能性です。正直、「未成年に見られたことが分かっただけで、作品を消さなきゃいけないの?! アカ消しの可能性まで? 大袈裟な! スマホやツイッターを与えた親の責任でしょ」と思ってしまいました……。
例えば東京都の条例では "有害図書などの販売" などが違反に当たるようですが、実際、ソーシャルメディア上などで金銭授受が発生していない場合も、アーティスト(もしくはフィクションライター)側が訴えられたり、罪に問われたりといった事例はあるのでしょうか? 調べても見つからず、安易に質問してしまい大変申し訳ないのですが…!
あずにさんの回答
『世の中に溢れてるんだから別にいいだろ』理論が罷り通るなら『カンニングなんて誰でもやってる』とか『漫○村を利用しないのは愚か』とか『捕まらないなら万引きは合法』とかになります。ダメです。
教育に携わる身の上なので『各ご家庭での教育』が大前提なのはそれはそうだと思います。同意します。それと成人が未成年に対して発禁物を見せない努力をするのは論点が異なります。
ド○キさんでもオタクショップでも、そういう物を陳列している場所は『この先子供NG!』とちゃんとエリアを分けています。これを人はゾーニングと呼びます。こそこそ入ってくる子供がいないとは言いません。でも『進入禁止』を子供が突破して来た場合は『ダメって書いてただろ!』ですが、エリア分けしないでフリーに置いてたものを子供が手に取って『こんな物見ちゃダメです!』は全然意味合いが違います。
既に工口広告が山ほどあるんだから二次創作やってるオタクだけが自重しても意味無い事は無いです。男性向けなんか無修正でバンバン上がってんだし女性向けだけガチガチに固める意味が無いなんて事もないです。基準を下に合わせるな。
過度な規制はそれはそれでどうかと思いますが、最低限具体的なすけべだけでもワンクッションする努力をした方がいいってお話です。ワンクッション如きなら突破してくるし無駄じゃね? も同様に、『だから伏せる必要が無い』にはなりません。伏せる努力をした上で、突破してくるバカは各ご家庭できちんと教育がなされるべきだって話です。ここまで来ると倫理とか性善説の話です。
二次創作するなとは言いませんし、すけべを書くなとも言いません。中学生でも気軽に見れるTwitterにセンシティブ設定もしてないすけべ絵やすけべな壁打ちを垂れ流すなって話です。パスワードを突破してくるバカは良識ある成人に叱られて大人になることを祈ってください。
また、未成年にすけべを見られたら作品やアカウントを消さなければいけないというルールはありません。どっかのローカルルールはあってもそれは知らん。お住まいの地域の条例によって禁止されている区分は異なると思うので一概にも言えませんが、少なくとも『まだ中学生だけどお前の本を買った!めっちゃすけべだった!』とか言われたらゾッとするし恐怖から垢消す人が多いのは想像に難くありません。嫌がらせで匿名ツールを使ってその手のメッセージを送ってくる輩がいるのもまた事実です。匿名ツールは感想とか応援を書き込むものだって言ってんだろぶっ飛ばすぞと常々思ってます。
論文を読み漁るのは趣味ですが、判例を読み漁る趣味は無いので実例についてはご興味があればご自身で深堀なさってください。
あずにさんの回答
そういうルールだからです。何故かは話すと長くなるので過去の類似の回答をぶら下げときます。 https://x.com/kanna_azu2/status/1826957453382357077?t=tP7pWmnGJQ_zsE4eS9uFuA&s=19
こんにちは!『接合部が見えてなければセッしててもOK謎理論』について、なぜ謎理論だと思うのかお伺いしたいです。一般誌でも、露骨に✖️✖️や接合部が見えていないものは、✖️✖️✖️を描いていてもR18指定されていないものをよく見かけますが……二次創作ではNGで、オリジナルでしたらOKという理屈でしょうか?
あずにさんの回答
年齢制限の必要性と修正の必要性は話が異なります。そのイラストを含む本を頒布する際に全年齢本として配布できるものかどうかでご判断いただくのが1番かと思います。
また、一般誌といっても少年誌か青年誌かによって基準は大幅に変わります。青年誌であれば女性の上裸は平気で描かれますし、修正が不要な角度であればセッそのものを描いていていても購入の際に年齢確認は不要です。
同様に、商業BL漫画の大半は未成年でも購入出来るのに露骨な描写を多分に含んでいる問題があります。こちらに関してはライトセーバー修正なのに年齢確認がありません。大問題だと思う。
これらを『一般誌でOKだから同人でも当然OK』とするかでご一考ください。少なくとも私は、友人が描いた絵が修正が必要な角度でなければ真っ最中でも気にせず全年齢本として出していいと思うよ!とは言えないです。
例えばがっつりギャグならいいと思いますよ。かなり下品な下ネタであっても、胸張って全年齢本として出せる内容ならいいと思います。私はそう思います。
あずにさんの回答
かいこちゃんのケツって✖️✖️✖️だよね。モザイクかけた方がいいかもしれん。
冗談はさておき、具体的に何の絵を見てそう思ったのかは知りませんが、お水の絵は2000枚近くあるので中には際どいものも含まれているかもしれません。良いか悪いかでいえばよくないよ当たり前だろ。
先に言っときますが私はお水のファンなので、お水ですら忘れてる絵も全部暗記してます。
前提として、赤ブーちゃんの成人指定表記の取り扱いについてを全文読んでから続きを見てください。
https://www.akaboo.jp/guide/item/p0005.html
第1に、欠損絵の話をしているのなら悪いけどヒロアカにおいての欠損は公式なんで『そんな事言われても』となります。苦手な人のためにワンクッション必要だろに関しては未成年に成人指定作品を見せてはいけないの話ではなく性癖の話です。論点が違うので議論の外とします。注意書きはあくまで書き手側の配慮であって閲覧側が強要するものではありません。グチャグチャでグロテスクな断面まで詳細に描いてるならG判定問題もありますが、原作描写の範囲内を逸脱しない程度のものしかお水は描いてないはずです。骨まで見えるエグい物は鍵垢にしかあげていません。
第2に、人外絵で裸体だったりする事を指しているのならこれもお門違いです。獣は服を着ません。バキバキのブツでも露骨に描いてれば問題ですが、お水はスリットを描いただけの絵でも承認制の鍵垢にしかあげません。伏せもせずにあげてたのは子犬の※くらいです。
第3に、性的な要素のない裸体絵を指しているのなら過剰反応です。真夏に水着の絵見て毎回顔真っ赤にしてるんでしょうか。接合部を描いてないだけで顔面ドロドロであられもない声を上げてる絵はどうかと思いますが、ただ服を着ていないだけの絵は、未成年に見せてはいけない要ゾーニング絵ではありません。真っピンクでビンビンに立ち上がってる胸の突起とかは良くないと思いますよ。商業誌でお豆腐が貼られるような物は垂れ流しちゃいけないと思います。
第4に、センシティブ設定をしている絵は議論の外とします。Twitterではセンシティブ設定をした絵は登録年齢が成人している人にしか閲覧できない仕様だからです。
第5に、触手とかツタとか黒鞭が絡み付いている絵の話をしているなら、お水は出久の表情が蕩けているだけで布1枚脱いでなくても鍵垢かprivatter行きの女です。ただ縄上の物が絡みついているだけなら過剰規制に値します。例えば女体化で胸部を強調するように締め付けていたり、舌を突き出して甘い声でもあげているなら問題かとは思います。
以上を踏まえ、マロ主がどの絵の話をしてるのかの候補は三件あります。一つはよくもまあそんな昔の絵の話を引っ張ってきたなというモノです。お水はまだ若いので、その辺の感覚が緩かった時期もあります。残り二つは赤ブーちゃんの成人指定表記の取り扱い読んでください。そのレベルのことに目くじらを立てる必要は無いと思っています。
確かにお水は接合部は見えてないけど明らかに入ってる絵を垂れ流した事はあります。ですが投稿後5秒以内に『センシティブ設定してないぞ!』と私がリプを送って『うそうそそんなわけほんまやん!?』と慌てて投稿を取り消して再投稿しました。人間誰しもヒューマンエラーはあります。褒められたことではありませんが、きちんと改められるならそれでいいと思います。
さて、私はここまで丁寧に返信を書きましたが貴方のことはブロックさせていただきます。今後は何を送られても私には届きませんのでご留意ください。
マシュマロは「世界はもっとマシュマロを投げ合うような安全さで満たされるべき」という思想で作られています。ですが、このマシュマロには悪意しかありませんでした。マシュマロちゃんの崇高な理念を穢す輩が私は大嫌いです。どうしても意見を述べたいならせめて記名で来なさい。
私とお水は誰よりお互いに厳しく律し合って創作しています。よくもまあ『そのレベルの絵ですら鍵垢行きなん!?そんな気にする!?』の代表格みたいなお水を捕まえてこんなマロを送ってきたものです。私の事が気に入らないのは分かりますが、せめてもっときちんと理論武装してから来てください。
俺には幸い借金はないが、それはある程度太い実家があり、かつ女とは縁が無かったからだと思う。どちらかが欠けていれば、増田みたいになっていたかもしれない
決して贅沢をしているわけではないのに、定職について真面目に働いてるのに、収入が極端に少ないわけではないのに、何故か借金が増えていく下りはリアルな怖さがあった
自分の愚かさを認めるのは、決して難しいことではない。毎月1万円ずつ返済していた時ですら自分は愚かだと自覚はしていた。
難しいのは、その愚かさを改めることだ。
借金を借金と思わずに、限度額いっぱいまで余裕があると感じてしまっていた愚かさ、自分は普通の収入を得ているし闇金にも手を出していない、それゆえ金銭的苦悩とは縁がないという短絡さ、支出を抑えてもどこかで気を緩めて使ってしまう消費依存傾向、こうしたアホ思考とマネーリテラシーの低さ、それを改めようとしないバカさ。
それらの問題を根本的に見つめ、改めることが早い段階で必要だったはずだ。
自分はアホでどうしようもない、という自己憐憫だけにとどまらず、何がなんでも事態を改善する行動、改める意思。それが何より困難なことだった。
ここはマジで心に留めておこうと思う。
高収入の女性は、大学に通わせてくれたり、習い事させてくれたり、学生時代友人と遊ぶお金を出してくれた両親、両親の老後も金銭的な援助をしないで済む環境に感謝しており
女がイージーだと言われてるのは男が金銭援助をするからっていうのもあるし
可愛い子を見たら守ってあげたいと自然に思うからこそ逆視点からするとイージーだろうなという想像が働く
女は好きな男を見て守ってあげたいなんて感情は湧かないだろうけど
俺は車には全く興味なし。妻は、俺よりは多少興味がありそうな感じ。夫婦ともペーパードライバーで、たまに旅行先でヒーヒー言いながらレンタカーを運転する程度。
これまで車無しで生活してきたけど、妻的にはあったほうが良いかな?という感じらしいので、買ってあげたいなと思った。
しかしながら夫婦揃って無知故に、あれこれ調べてみてもそもそも書いてあることがさっぱり分からない。
4WDとか、ワゴンとかミニバンとか、そういう言葉の意味を調べることから始まったレベルだ。
それで、一生懸命に調べた結果、ジープってところのゴツい車か、ラパンなどのかわいい軽か、というところまで絞った。我ながら大変に極端な選択肢だと感じている。
①妻の趣味(超かっこいい!とのこと)
③煽られなさそう
ここまで極端だとさくっと選べるわけもなく、2人でウーンと悩んでいる。もっとたくさん調べるべきだろうなとも思うが、正直上述の通り調べてもさっぱり分からんので調べれば調べるほどストレスを感じてしまい諦めて映画とか観てしまう。
車屋に相談しようにもどこに行けばいいかも分からない。夫婦揃ってめちゃくちゃ押しに弱いので、ちょっと話を聞きに行ったつもりですぐに契約させられそうで怖い。
これまでの人生、どっちか迷ったらどっちも選ぶ生き方をしてきたけど、今回ばかりは駐車スペースが1台分しかないのでねぇ……。
どこかに「あなたにおすすめの車種はずばりこちら!」とハッキリ教えてくれる人がいればいいのになあと考える。探せばいるんだろうけど、探し方も分からんよ。
こんなにたくさんの意見をもらえると思っていなかったので驚いている。
たくさんおすすめしてもらえたので、週末に妻とゆっくり見てみようと思う。個人的にはクロスビーってやつが良さげだなと思ったけど、妻次第なので相談してみる。
一番は、休日の買い物やお出かけに使うかなと思っている。もしかしたら妻の通勤にも使うかもしれない。
妻のための車だが、俺も使うことはあると思う。ちゃんと練習もしたい。
今はいないが、妊活中。いつか出産するとなった時に車で病院まで送迎したいなとか、妻が妊娠する前に買って一緒に運転の練習をしたほうがいいなとかいう思いもあって、車のことを検討し始めた。
スライドドアの方がいいのかな?とも思っていたが、妻的には ドアが4つ>見た目>スライドドア の優先度らしい。条件には含まないもののスライドドアであれば尚良しって感じ。
都内の23区外。駐車スペースはかろうじて2台分あるが、自転車等も置いているので車は1台しか停められないと思う。
今のところは電車と徒歩と自転車で日常生活を送っているが、今の生活はやや不便だなと感じることもある。
近所の人はだいたい車を持っているぽい。
それに車好きでもないペーパー夫婦が初めて買う車じゃない気はしている。
大きい車にぶつけられたらぺしゃんこになりそうだけど、それはトラック相手ならどの車もそうなるだろうし考えても仕方ないことなのかな。
まあどうせ買うなら好きだと思える見た目や性能のものを選びたい、という気持ちを尊重したいよね。
車選びって、難しい……。
借金玉先生、キャラ変えして最期にありがとうございますマンになっていたのに元のキャラみたいなビキビキヤクザマンに戻っちまっただ…
ついでに会ってお話しましょと一昔前の胡散臭い人間仕草もしちまって巻き戻すダイヤルをひねりすぎている…
先生の提案も素人の傍目で読んでも「そりゃ曖昧すぎでしょ…」と蹴られるだろうなという内容だった。返答は+彼らしい内容でしたけど
いまはことさら自分以外の様々な大きなものを背負っている・慮っているという面をアピールしているけど(前からしてたけど)ずっと借金玉先生個人へ焦点を当てることを自他共に避けさせているように見えて、先生の思惑通り直視に耐えられない
出版社や世の中の障害者や内縁の妻だとかもいいけれど、行動を転嫁しすぎて自分の意思で動きたくない、動いたことにしたくないのかな、と考えてしまう
しかしまあ一部金銭的勝利もしましたし、ここまで先生に利がありそうな騒動でこうなったのかには興味があるのでぜひ筆は折らずに頑張って欲しいとおもいます
なんとなく昔のことを思い出して、もしかしたら同じような思い出を持っている人がいるんじゃないかなと思ったので、ここに書いてみることにした。
中学生だったある日、担任の教諭からクラスに「今日からだるまさんカードというものを始める」と言い渡され、ハサミで画用紙を切り抜いたようなカードを10枚ずつ配布された。それらは呼び名にふさわしくだるまさんの形で、それぞれ、手書きでユーモラスな表情のだるまさんが描かれていた。
このカードは、校則に違反している生徒を発見したときに、その違反行為を指摘した上で、1件につき1枚、発見者が違反者から取り立てることができる、そういうルールだという。たとえば、廊下を走っているのを発見したら1枚、校内でジャンプしているのを見かけたら1枚、大声を出したら1枚、といった風に。ゲームのような感覚で楽しんでいるうちに、校則を守ることができるようになる、という効果を期待してのことなのだという。
カードをすべて失ったときはどうするのか、という質問には、あまりハッキリした回答がもらえなかったと記憶している。カードを失ったとしたら、それは校則をたくさん破った印なのであるから、担任のもとに行き、大いに反省の意を示し、懇願したうえで、やっと再発行を受けられる「かもしれない」くらいの言い方だったはずだ。簡単に再発行されてしまうようでは、本気で校則を守ろうとしなくなるから、カードを簡単に失うわけにはいかないぞ、という意識を持たせたかったのだろう。生徒たちは、なるほど、という顔で、神妙にそのカードを筆箱にしまいこんだ。
こうして「だるまさんカード」の制度が学年中に(全学年ではなかったと思う)敷かれたわけだが、その日から、ちょっとした地獄としかいいようのない風景が展開しはじめた。
気の強い生徒は、すこしでも大声だと思った、廊下を小走りにしていた、といった生徒に、片っ端から「カードをよこせ」と請求した。それほど強気でもない生徒は、はじめは、他人をとがめて罰を与えるような行為をしたくないと感じていたようだが、自分の手持ちが少なくなって不安になりはじめると、おそるおそる、他人の「校則違反」と思われる行動を指摘し、カードを請求した。気の弱い生徒は、ひたすら周りの指摘を恐れながら、身を潜めて学校生活を送った。全体として、じつに簡単に、小さな相互監視社会のようなものができあがってしまった。
軽率に校則違反を繰り返した生徒は当然カードを失っていったが、カードを失ったのは必ずしも明確な違反行為をした生徒だけではない。そもそも「大声」とはどの程度のものか、「走る」とはどの程度のものか、という基準は決められていないし、指摘するのは個人の主観次第である。証人も不要だ。気の弱い生徒は、抗議もせずにカードを失いがちだったし、そうでない者は、今のは違反ではない、と言い返し、ときには言い争いになった。筆者は、あるとき、友人と雑談をしていて、歌舞伎役者はこのようなポーズをするときがあるね、と言いながら、手のひらを前に差し出して、チョンチョン、と跳ねた。すると前方にいた無関係の生徒が「今、ジャンプした」と死んだような目で筆者に指摘した。怒りに腹が煮えるような気持ちで、だまってカードを渡したという記憶がある。
手持ちのカードが0枚になると何が起こるのかわからない、どういう不利益をこうむるのかわからない、という不安があった。再発行のルールが明示されていないのだ。おそるおそる職員室を訪ね、カードをすべて失いました、私は悪い生徒です、どうぞお許しください、とでも言わなくてはならないのだろうか。普段から怒られ慣れている生徒はともかく、他の生徒は、絶対にそんな目にあいたくないと感じていた。実際に再発行を受けた生徒は、そのときのことをあまり語ってくれなかった。
教諭が言い争いを仲裁するときもあったが、学校のすべてにはとても目が届かないから、違反した、しない、という言い争いは尽きることがなかったし、公平な裁定を受けるチャンスなどは当然なかった。皆が疑心暗鬼に陥り、互いを嫌いになっていった。
クラスがあまりに殺伐とした雰囲気になったことに教諭たちが気付いたのか、この制度はひと月くらい(だったかな?)で中止になった。それにしても、地獄はそんなに長い間続いたのだ。このゲームで、少なからず心に傷を負った生徒がいたと思う。もっと長い間続けていたら、いじめによってカードを取り上げられる例や、金銭でカードをやりとりするような例も出てきたかもしれない。それとも、筆者がたまたまそれを知らないだけだろうか。
カードは、手書きでつくった台紙から画用紙にコピーして切り抜いたのだろう。その分、だるまさんには10数種類の微妙な表情の差があった。舌を出してみたり、悲しい顔をしてみたり、といった、ちょっとした遊び心がほどこしてあった。今でも、筆箱のなかでヨレヨレになったそのカードのことを思いだすたびに、実に嫌な気分を思い出すことができる。
誰がこんなことを考え出したのだろう、と思うに、きっと「クラス運営のヒント集」みたいな感じの冊子かつて存在していて、こういうルールのゲームをやらせると効果があるよ、という紹介がされていたのではないだろうか。今の話を読んで、そういえばウチも似たようなことをやっていたぞ、という声がたくさん挙がってきたら、その可能性が高い。どうでしょう。
総額数百万の借金をようやく完済した。
社会人になりたての時期からアラフォーに至る今まで、約20年にわたる返済人生を歩んで、ようやくここまで来た。
これまでに借りた総額で言えば数百万円ではきかないと思う。借りては返し、返しては借り、を繰り返していた長い時期を考えると、これまでの所得の10%を借りていたとしても、総額1,000万円近い金額だったのかもしれない。恐ろしいことだ。
借金問題に詳しい増田の読み手ならお察しだろうが、多額の借金を返済できたのは任意整理を行なったからである。数年前に思い立って法律事務所へ赴き、相談を経たのちに任意整理に至った。借入先には忍びないが背に腹はかえられぬ。実行可能な返済計画に従って、利子を除いて淡々と返済を続けた結果、ある程度前倒しで完済することができた。
任意整理によって信用情報に傷がつくのを躊躇していた私に司法書士が放った「客観的に見てあなたの家計は終わっています。任意整理すべきです」という言葉が強く印象に残っている。
ではなぜそのような借金をするに至ったのか。借金問題に詳しい増田の読み手ならばお分かりだろう。
そうです。ただの浪費です。
私はギャンブルもせず、酒も人並み、衣食住も身の丈にあった暮らしをしていると自認している。少しずつではあるが人並みに地位を築き、所得を絶やさず増やしてきた。にも関わらず振り向けば常にそこに借金があった。
新卒入社した会社の手取りは約18万円。当時にしても決して低くない金額だった。将来に投資しようとかなり安いアパートにひとり暮らしをして、家賃を除いた生活費が毎月13万円程度あったはずである。携帯代1万円、ネットと電話代1万円、奨学金返済が1万5千円、光熱費8千円。残りは少なく見積もっても毎月7万円程度は生活費・食費として残るはずだった。今振り返ってみても、余裕のある生活が送れる所得、なんなら貯金をしっかりすべき所得に思える。
所得だけを見て「自分は人並み程度にはお金の心配がない生活が送れるはず」「支出傾向から考えても普通の生活が送れないわけがない」という思い込みがあったことが、借金生活をスタートする土台であったと確信できる。要するに、自分は借金とは無縁の生活が送れる、借金などとは無縁の人並みの暮らしができないはずがない、という甘えた考えがあったのだ。
当時の暮らし。毎朝起きてすぐタバコを吸って、朝食は会社のデスクで菓子パンと缶コーヒー、昼食は数百円の弁当、夜もラーメンやら外食やら。一杯ひっかけて帰ることもしばしば。たまに自炊。休日は映画館やらDVDレンタル、欲しい本や漫画があれば躊躇せず買い、ブックオフで古本を買いあさり、季節が変われば新しい服やスニーカーを新調。出かけたらタバコが吸えるコーヒーショップで一服。誘われれば飲み会にも行くし、彼女には奢るし、休日はどこかで外食をする。
気がつくと、手元にお金は残らなかった。残るわけがなかった。 自分の欲望はささやかなもので、日々の労働の対価として当然に享受してもよい消費だと思っていた。 これくらいの消費行動・金銭感覚は周りを見渡しても当たり前で、パチンコで数万円負けた、なんて笑う同僚よりも自分はまともなんだと思っていた。 だが当然に現金はすぐになくなり、給料日を心待ちにする日々が続いた。
ある時、ATMにキャッシングという項目を見つけ、クレジットカードを入れて1万円を引き出してみた。すると現金が現れた。
返済方法にリボ払いという選択肢がある。押すと返済額が毎月定額になった。
当時よく上司や友人がクレジットカードのことを「魔法のカード」などと笑っていたが、買い物だけではなく、まさか現金までも引き出せるとは。
給料日までの現金に飢えた自分にとって、まさに魔法であった。
ここから先の展開は予想に難くないだろう。足りない現金を埋めるためにキャッシング。預金がなくとも借入金の上限はまだまだある。毎月遅れることなく返し続けていれば問題ないのではないか。だが一向に元本が減らない。まあそんなもんか……。今月も借りては返し、返しては借り……。
若い時の苦労は買ってでもしろ、などと見栄を張って、自分は劣っていないと思い込むために金を使うことは未来への投資。
そんな欺瞞で自分を正当化する。
結局、そんな生活を15年以上送ってきた。
そんな私でも結婚をした。結婚式なんてできず、子どもを作る余裕なんてなかったが幸せだった。この人を幸せにしたいと心から思っていた。
短い結婚生活だが幸せだった。借金はあったけど幸せだった。正しく言うならば、幸せだったけど借金はあった。
借金とは別の問題で離婚をしたが、借金は遠因のひとつであった。自分本位の生活を送ってきた仇だ。
夫婦間のストレスを言い訳に風俗に通いを覚えて浪費する額が一気に増えた。離婚のストレスを言い訳に女性と遊んだ。遊ぶ金はもちろん自転車操業だ。住宅ローンなんて組めやしない。
自分はこれでも極度の貧困よりはマシなほうで、借家もあるし仕事も収入もある。地位も得てきたし、借入先も銀行系で闇金ではない。だから自分は普通の暮らしをしてしかるべき、という勘違いをこの期に及んで続けてきた結果、皮肉にも、自分は明らかに普通ではない生活をしていたのだった。
自分の愚かさを認めるのは、決して難しいことではない。毎月1万円ずつ返済していた時ですら自分は愚かだと自覚はしていた。
難しいのは、その愚かさを改めることだ。
借金を借金と思わずに、限度額いっぱいまで余裕があると感じてしまっていた愚かさ、自分は普通の収入を得ているし闇金にも手を出していない、それゆえ金銭的苦悩とは縁がないという短絡さ、支出を抑えてもどこかで気を緩めて使ってしまう消費依存傾向、こうしたアホ思考とマネーリテラシーの低さ、それを改めようとしないバカさ。
それらの問題を根本的に見つめ、改めることが早い段階で必要だったはずだ。
自分はアホでどうしようもない、という自己憐憫だけにとどまらず、何がなんでも事態を改善する行動、改める意思。それが何より困難なことだった。
もちろん固定費を削ったり、家計簿をつけたり、支出を管理したり、食費・交際費を節約したりもした。だがそうした行為も破綻してからでは遅かった。アンコントロールな状態に陥った借金と利息はもはや手がつけられない。燃え広がった火災にコップで水をかけるようなものなのである。
世の中は様々な借金に満ちている。闇金や消費者金融、キャッシングにリボ払い、住宅ローンに割賦サービス、おまとめローン、奨学金。
これを読んでいる増田の読み手におかれては、借り入れなどとは無縁で、支出と収入のバランスを保ち、資産形成にも励んでいることだろう。
だが、もしそうでない方がいるのであれば、どうか借金とはうまく付き合っていってほしいと心から願う。
返すために借りるとか、複数社の借入であるとか、イリーガルな借金に手を出すなど、引き返せない状況に差し掛かるまえに、信頼できる人、あるいは窓口へ相談してみて欲しい。そして、どうか思いとどまって欲しい。どんなに苦しくても引き返す手段はちゃんとある。私だって完済できたのだ、まずはあきらめないことだ。
借金は、欲望をブーストさせ、思った以上に人生をスポイルし、自らの可能性を削っていく。
もしこの世に「人生に利する賢い借金」というものがあるのならば、あなたは自分が思うよりずっと賢くなければならない。
少なくとも私はそう思う。
今日、最後の返済をした。これで完済となります、と電話口でオペレーターが言うのを聞いて、電話を切った。
空に向かって「……やっと終わった」と言った。やっと終わった。何回か口に出した。身体が軽くなった気がして、めまいがした。
人生の半分をともに過ごしてきた借金、負債。文字通り負ってきたものをようやく手放すことができたのだ。
ずっと我慢していた本を買おうかな、ぱりっとしたシャツを仕立てようかな、スマホを新しくしようかな。
もう給料日に10万円を借入先へ振り込む必要はないんだ。これからはストレスのない、幸せな生活が待っている。
別れた妻が笑う顔が好きだった。
なのに泣かせてしまった。
将来は人並みに結婚式をして子どもを育てるものだと思っていた。
ずっとなりたかった職業があった。せまくても自分の家が欲しかった。心からの友達が欲しかった。親孝行をしたかった。
今はただ後悔しかない。
借金なんてしなければ良かった。
これからいくら幸せになれたとしても、得られず失ってしまったものばかりが目にうつる。
長かった夏が終わり、秋が始まろうとしている。
もう二度と帰ってくるなよ。
元々自分は子どもは強く望んでいなかったんだけど、周りの子なし女性と子あり女性を見ていて、どうも子なし女性には憧れる要素が少ないなと思って作った。
40近くになってもまだ美容やら推し活やらに熱中している人を見ると正直イタイなと思ってしまう。
年齢相応に太ってたるんだ顔や体をしていながら、話すことといったらやれ新作のコスメが、推しのコンサートが、と女子中学生と変わらないものばかりで不気味でアンバランスに見えた。
そういうおばさんになるよりは、子どもと旦那がいて所帯じみたおばさんの方が自分にとってはバランスの取れた歳の取り方だと思った。
幸い、旦那も子どもを望んでいたしかなり乗り気ですぐに自然妊娠した。
もう旅行も、おいしいご飯も、美容もファッションも全部楽しみきった。温泉なんて何度行っても一緒だと思う。
旦那とは仲もいいし仕事も順調だけど、残る人生で新鮮な気持ちや新しい発見なんてそうそうないから子どもが出来てよかった。
現代の子もち女性の肩身の狭さも、金銭面も、この先どうなるかわからない不安もめちゃくちゃあるけど、やっちまえと思って作った。
まだ旦那と遊び足りないな、ゆっくりし足りないな、あと5年くらいは二人きりでもよかったかもなとか思うけどもたもたしてられない年齢だし。
今は少し落ち着いたけど、つわりで信じられないくらい吐いた。元々痩せ型なのに8kg痩せた。
ネットで噂のマックのポテトなんか全然食べられないし、水を飲むだけでその水より多い量のなにかを吐いた。
吐いた時勢いが良すぎて便器の中の水が顔に跳ね返った時はなんか笑った。こんなの聞いてないんですけど。
シャレなしで一日8回吐いてた。それが2ヶ月と2週間あった。毎日あった。
この時は本当に妊娠を後悔した。エコーで見る子どもは生き物には見えないし、愛着なんか持てる見た目をしてない。
ただ胎児が体の中にいると起こるつわりで、これほどダメージを受けると、自分は人間じゃなくてエイリアンでも妊娠したんじゃないかと思うくらいだった。
それまでは面倒見のいい妻と、それに甘える夫という関係性で、夫のダメなところもかわいいものだと思っていた。
しかし自分が2ヶ月と2週間毎日8回嘔吐して、動悸息切れ、脱水症状、頭痛、微熱というコンディションだと精神的に参ってしまった。肉体的にも参っていたのだが。
夫の飯も作ってやれない、飯を作る夫の香ばしい匂いで吐くから怒りが湧いてくる(理不尽)、一生懸命外で働いてくれた夫の匂いで吐くため近づいてほしくない。
自分がつわりで瀕死になっている時でも、元気いっぱいな夫が元気に話しかけてくるとなんか不平等な目にあっている気持ちになってイラついてしまう(理不尽)。
だからといってヒステリックにキレるわけでもないのだが、(そんな体力もない)LINEで換気扇をつけ忘れてごま油で餃子を焼かないで欲しいというメッセージを送ったりする。
何か食べられるものはないかと毎日おつかいに行ってくれる夫の優しさに、風呂に入らないならベットに来ないで欲しいというモラハラ行為をしょんぼりと受け入れる夫の心の広さに、私は甘えきっている。本当に申し訳ない。
たまに夫の排泄痕が残った便器に顔を近づけて吐いていると、おいおい勘弁してくれと思う。
でもつわりは産んだらなくなるのだ。産む前にもきっと軽くなるのだ。こんな思いも長くてあと数ヶ月。
夫には大変申し訳ないと思っているし伝えている。まさかこんなに体調をやられるとは思わなかった。完全にナメてた。
こんなモラハラ?妊娠による特別期間限定のモラハラに耐えて、それでも大好き、かわいいと言ってくれることを忘れない。
ヒゲも剃ってない、腹毛も波打つくらいに濃くなり、毎日ノーブラパンイチ、風呂は週に2回、肌荒れも酷い、ただ横になってたまに家事をしてベッドでパソコンを打って仕事してるきったないおばさんの私を大切にしてくれて本当に感謝している。
赤ちゃん含めて絶対に幸せにする。だからすまない、次は多分陣痛の時に信じられない罵倒とかしちゃうと思うけどもう少しだけ一緒に頑張って欲しい。
いつか、子どもも巣立っていった時にまたふたりで旅行にも行きたい。
思う存分酒も飲んで、食って、寝て、もうおじいさんとおばあさんに近い年齢だろうけどキスもしたい。ぎゅっと抱きしめて寝たい。
色々あったけど乗り越えたね〜って、今からじゃ想像もつかない色んな壁を水に流して、まあ楽しかったねって言って達成感を得たい。
そうしているうちに寿命が来て欲しい。私はこの人と家族を作って生きて死んだな、よかったって思いながらいつのまにか死にたい。
現代社会において、成功や幸福の定義は往々にして狭義で画一的なものとされがちだ。高収入、高学歴、安定した精神状態、豊富な恋愛経験—これらが「幸せな人生」の指標として掲げられることが多い。しかし、私の存在はそうした既存の価値観に異議を唱えている。
年収200万円、統合失調症、高卒、そして性的経験のない私は、一般的な成功の基準からは大きく外れているかもしれない。だが、それにもかかわらず—いや、むしろそれゆえに—私は人生の真の豊かさと喜びを見出している。この逆説的な現実は、幸福とは何か、人生の価値とは何かという根源的な問いを私たちに投げかける。
年収200万円という経済的制約は、多くの人にとっては苦難の源泉かもしれない。確かに、物質的な豊かさや贅沢な体験には限界がある。しかし、この制約こそが私の創造性と工夫を刺激する源となっている。
限られた予算の中で最大限の満足を得るために、私は日々新たな方法を模索し、発見している。例えば、高価なレストランでの食事の代わりに、地元の食材を使った自炊に挑戦する。その過程で料理の楽しさを知り、食材の持つ本来の味わいを深く理解するようになった。
また、高額な旅行の代わりに、地元の公園や近隣の自然を丹念に探索する。そこで見つける小さな美しさや季節の移ろいは、どんな豪華な観光地にも劣らない感動を私にもたらす。
このように、経済的制約は私に「有を生み出す」創造性を育んでくれた。それは金では買えない価値ある能力だと、私は誇りに思っている。
統合失調症という診断は、多くの人にとって恐れや不安の対象かもしれない。確かに、この病と共に生きることには困難が伴う。しかし、私はこの経験を通じて、現実の多層性や知覚の不思議さを深く理解するようになった。
幻覚や妄想の体験は、確かに苦しいものだった。だが、それらを乗り越える過程で、私は自己の内面と向き合い、精神の強靭さを培った。また、「正常」と「異常」の境界線が実は曖昧であることに気づき、人間の認識の多様性に対する理解を深めた。
さらに、この経験は私に独特の創造性をもたらした。私の見る世界は時に奇異で幻想的だが、それは同時に芸術的なインスピレーションの源となっている。私のアートは、他の人には真似できない独自の世界観を持っており、それが私の人生に特別な彩りを添えている。
高卒という学歴は、現代社会では往々にしてハンディキャップとみなされる。しかし、私にとってそれは逆に自由の源泉となった。
学歴社会の呪縛から解放されたことで、私は「学ぶこと」の本質的な喜びを再発見した。大学や大学院で得られる体系的な知識ではなく、自分の興味と好奇心に導かれるままに学習を進めていく。それは時に脈絡のない、場当たり的なものかもしれない。しかし、その過程で思いもよらない知識の繋がりを発見し、独自の世界観を構築していく喜びは何物にも代えがたい。
図書館は私にとってたくさんの可能性を秘めた宝庫だ。専門書から小説、歴史書から科学雑誌まで、興味の赴くままに読み漁る。そこで得た知識は、体系的ではないかもしれないが、私の中で独自の方法で統合され、ユニークな発想や視点を生み出す源となっている。
童貞であることは、多くの人にとって恥ずべきことや、克服すべき課題と捉えられがちだ。しかし、私はこの状態を肯定的に受け止め、そこから得られる独自の視点や感性を大切にしている。
性的経験の不在は、ある意味で私に「純粋さ」を保たせてくれている。恋愛や性に関する幻想や理想を、現実の経験によって損なわれることなく持ち続けられる。それは時に子供っぽいと揶揄されるかもしれないが、私はその「純粋さ」こそが、人間関係や愛情に対する深い洞察をもたらすと信じている。
また、性的欲求に囚われないことで、他者との関係性を純粋に友情や精神的な繋がりという観点から築くことができる。それは時に、性的な要素が介在する関係よりも深く、永続的な絆をもたらすこともある。
私の人生は、社会の一般的な成功の基準からは大きく外れている。しかし、それゆえに私は「幸福とは何か」「人生の価値とは何か」を深く考え、自分なりの答えを見出すことができた。
経済的制約は創造性を、精神的な課題は独自の世界観を、学歴の制限は自由な学びを、そして性的経験の不在は人間関係の純粋さをもたらした。これらは全て、金銭や社会的地位では得難い、かけがえのない財産だ。
私が人生を楽しんでいるのは、こうした独自の価値観と経験を通じて、日々新たな発見と成長を続けているからだ。社会の既存の価値観に縛られず、自分の内なる声に耳を傾け、そこから湧き上がる喜びや充実感を大切にする—それこそが、真の幸福への道筋なのではないだろうか。
私の存在は、現代社会に蔓延する画一的な成功観や幸福観に対する、静かなる反逆であり、同時に新たな可能性の提示でもある。全ての人が自分なりの幸福の形を見出し、それを誇りを持って生きていける社会。そんな未来への希望を、私は自らの生き方を通じて示していきたいと思う。