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2024-12-16

アラフォーだが大学時代起業サークルメンバーのその後について語る

2000年代前半にインカレ起業サークル所属していた。ビターバレーちょっと後、ライブドア事件の前ぐらいかな。iモード流行り始めて一攫千金できそうだけど、1990年代のようにホームページ作るだけで数千万円とかは無理な時代

 

あと無給~月額5万ぐらいでインターン生として数百時間働かせるブラックベンチャーや、そういった企業学生を紹介する人財(笑)ベンチャーNPOが跳梁跋扈してた時代

 

まぁそれはさておき、当時100人ぐらい居たほぼ同期生のうち、自分が思う成功例と失敗例についてなんとなく語る。一部フェイク含むし、上場企業社長特定できそうだから除く。

 

 

成功例①

新卒ITメガベンチャー就職し、パズドラブームちょっと前にゲーム制作会社向け人材派遣業・受託開発業を創業。あっという間に数百人規模の会社にして、最終的に30代半ばで50億程で会社売却。今はエンジェルっぽいことやってる。西麻布ホームのようだが、酒の飲み方が汚いとたまに話が回ってくる(嫉妬もあると思う)。

 

成功例②

就職せずに自分広告代理店起こすも、直後にリーマンショックが来て一回倒産自己破産。その後、オタク業界で再起。色々あって現在年商60億ぐらい。最初自己破産の時に迷惑をかけた人には、全額返済したみたい。

 

成功例③

教育ベンチャー就職し、30歳ぐらいに同業で独立最初学生を雇って個人指導塾を経営していたけど、法人教育通信教育ネット)に手を出してから一気に成長。年商100億ぐらい。

 

・失敗例①

新卒大企業新規事業開発部門入社するも激務で退職リーマンショック再就職うまくいかずその後連絡取れなくなる。30歳前後の頃、こいつに騙されたが連絡先を知らないか、という話がFacebookで回ってきた。しばらく忘れていたが、30代半ばにふと検索したら地方詐欺をして捕まっていた。有罪かは不明

 

・失敗例②

新卒不動産メガベンチャー就職し、その後、会社の同期同士で独立。しばらくは順調そうで、たまにメディアで顔を見ていた。なぜかその後、暴力事件を起こして逮捕現在不明

 

・(余談)自分

文系だが高校時代からコミュニティサイト運営していたこともあって、Linuxとかサーバー管理的なことを自己流でやっていた。起業にあこがれていたが、ちょうどリーマンショックタイミングで怖気づき、結局、日系中堅企業就職就職時にアピールしたためか、3年目ぐらいで新規事業に携わらせてもらい、PCネット知識はそこで重宝された。アラフォー現在までに2回転職し、現在年商100億規模のベンチャー管理職。小さいが事業部的な組織なんで、企画から実行まで全部自分裁量で回せるのが気持ちいい。副業可な会社でそこそこ資産もたまったけど、何やっていいのか分からず日々本業に追われている。

 

 

成功例」としては、色々な意見があると思うがとりあえず金銭的な成功基準としてみた。もちろん会社内部は大変かもしれないし、私生活は良くないのかもしれないが、億円単位で稼いでいたらまぁ成功と言えるだろう。また逆に借金ぐらいだったらいくらでも自己破産できるし、失敗とは言えないと思う。ただ逮捕されたらさすがに他人迷惑をかけたということだし、さすがにそれは「失敗例」と判断してみた(不起訴とかまでは知らん)。

 

当時のサークルの名簿があったからググってみたら、上場オーナー経営者が数人、上場企業役員が数人、その他、親の企業継いだ人、中小企業社長地方議員、医者弁護士社労士インフルエンサー情報商材販売数人…みんないろんな人生送ってるなぁ。でも名前でググって出るぐらいだから、それなりに活躍しているんだと思う。

 

当時は渋谷道玄坂桜丘町六本木とかの安居酒屋やら安中料理屋やらでよく飲んでたなぁ。25ぐらいまでは付き合いあったけど、そのあたりから成功失敗が別れるようになり、結局離れ離れになってしまった。いまだに繋がっているのは、飲み友達になった数人ぐらいで、あとは年賀状Facebook誕生日メッセージで「今年こそ飲みましょう」というやり取りをしているのが数人ぐらい。アラフォー突入し、とりあえず生きてるだけで丸儲けだな、とは感じる。青春でした。

歯並びが悪い人間結婚式を挙げただけで他人からここまで言われなきゃならないの怖すぎるし、

そりゃ少子化も進むよね

マジで少子化を解消したいなら子育て支援とか全部撤廃していいかルッキズムを何とかすべきだろ

しかし本当に理解出来ないんだが、どうしてこの手の人達他人容姿の悪さを責めるんだろうか

みんな歯並びがよくなったら基準が上がって自分は損をするのでは?歯並びガタガタな人のおかげで自分相対的地位が上がるんだから感謝すればいいのに。

おばさん

@O1mLyULxi495717

·

12月14日

歯並びガッタガタで結婚式挙げる人、何がしたいんかわからん 結婚式挙げる程度の財力と自己顕示欲があって歯並びガタガタは放置できる感性、全く理解できない

https://x.com/O1mLyULxi495717/status/1867870932783763589/quotes

少子化正確に言うと婚姻数の減少に

https://note.com/jolly_holly425/n/n95c9dc77cb11

https://www.asahi.com/sdgs/article/15307988

簡単にいうと、女性好意が無いのがわかるのに無理やり条件をつけて時間を奪うなどの迷惑行為全般がその時点で性加害としてカウントされるようになったとの事。

(中略)

常識ある男性の面々は何も差し支えのある話ではないだろうが、何か覚えがあってハラハラする事があるような男性に関しては、「接近したい女性アプローチしても何かにつけて向こうの都合が合わない」という時点で退けと言っておきたい。

というのがあると思うんだけど、なぜ、どこの政治家もここら辺に踏み込もうとせず、セクハラ撲滅にかじを切って法律で締め上げようとするんだろうなあ…

この状況で女性アプローチをかけることができる男性なんて、そうそういないだろ

それに性犯罪加害者になるリスク女性だってあるぞ

例えば、多毛症やデブ、30代以降の貧乳女性、かわいくない女性はまじで男も避けて、昔はこれらの女性によるアプローチセクハラではなかった

だが、この人の言葉を借りれば、男性が望まない状況で女性アプローチするのはセクハラである

そして、セクハラは今や性犯罪として扱われている

から、これらの女性存在自体性犯罪者といっても過言ではない

女性セクハラ基準のもとでも永遠に被害者のままでいられると思ったら大間違いなんだよ

そして、これら女性は腐るほどいて、男性はこれらの女性を避ける

から結婚する人の数も増えないし、ほかの原因も相まって子供の数も増えない

まじ、法令セクハラをできなくする前にマジでよく考えるべきだった

子供の数が増えないといつまでたっても経済成長できないし、現役世代負担も軽くならないんだよ

anond:20241216114528

そりゃ立花あんだけ選挙で白確定だと喧伝して再選してるんだから

厳しい基準で見られるのは当然では

anond:20241216105815

現実的サンプルサイズで)1.0E-10~くらいになるともはや何の反論もないくらい相関がみられる

そうは言っても何の基準も無いとお気持ちしか言われないので便宜上数値的な設定をした

その程度の意味しかない

anond:20241215235822

相関係数の目安って、、、それを判定しているのが有意水準だろ。なんで有意水準での判定をした上で、さらに追加で目安なんて基準でもう一度判定する必要があるんだ。しか分布全然違う、サンプルサイズバラツキも違った別データでどれくらいかなんて何の基準にもならん。

大手サークル同人誌10セールとかやめて

シコる回数って限界決まってんじゃん

そりゃドバドバだすひともいるだろうけど、だいたいの紳士は日々のたしなみで終わらせるわけで

そこで大手ガバっとシコネタを10円やら90%OFFで売り出してたら

俺みたいな弱小どうしもようもないじゃん。

AIなんて別にそこまで売れてないんだからどうでもいい。

こっちのほうが脅威だわ。

せめてFANZAセール制限もうけてくれ。

どこもかしこも90%off基準になってんじゃん。

2024-12-15

少子化の原因は価値観多様化じゃなくて画一化

よく少子化の原因として価値観多様化たからとか、個人人権尊重されるようになったからとか言われるけれど

私はそれって完全に逆だと思うんだよね

どちらかというとその逆、価値観の画一化こそが少子化の主な原因だと思っている。

だって昔は蓼食う虫も好き好きと言われていて、女の「異性に好まれ容姿」にはある程度幅があり、例えば面長大人顔も美人タイプとして認められていた。だから昔は色んなタイプの女が男に選ばれ、結婚できていた。

それが今では異常なまでの童顔小顔至上主義になってしまい、全ての男が女に求める容姿基準が「可愛い」の一種類だけになった。

容姿だけでなく中身に関してもそう。昔は女にとってドジでおっちょこちょいというのも一つのチャームポイントだったけれど、今だと即座に発達障害認定排除すべき欠点として切り捨てられる。

価値観多様化していない。全くその逆で画一化している。

また、昔は女性そもそも結婚しない人生子供を産まない人生も、一定程度認められていた。

フローレンス・ナイチンゲールヘレン・ケラーのように結婚せず、子供もいない女性偉人として讃えられ

日本においても古くは卑弥呼のように子供を産まない女性がその生き方尊いものとして尊重されてきた。

から子供を産む女性の方も安心して子供が産めたんだよ。たとえ娘が産まれてその娘が生涯独身であったとしても惨めになる事はないから、安心して産めた。

それが21世紀に入ってしばらくしてからというものの、女の生き方は完全に一つだけが「正解」として定められた。子供を産んで保育園に預けて働くという生き方。唯一それだけが推奨される。

こんな世の中じゃ到底怖くて産めないでしょ。娘に良い遺伝子を遺してやれて、男に選ばれ結婚して子供が産めるという自信がない限り、子供を産む気になれない。

そしてその基準はどんどん厳しく、画一化されてきている。「発達障害」の認定然り、平行二重小顔童顔ブルベ色白華奢しか認めないルッキズム然り。

個人尊重とは真逆だよ。

トンデモ理論バトラーをやっつけろ

https://newrepublic.com/article/150687/professor-parody

この記事は、アメリカ学術フェミニズムの変遷を批判的に分析しています特にジュディス・バトラーの影響下でフェミニズム理論実践的な社会変革から遠ざかり、クィア理論トランスジェンダリズムといった非現実的抽象的な議論に偏っていると指摘しています

初期のフェミニズムの特徴

実践的な社会変革:キャサリン・マッキノンアンドレア・ドウォーキンなどの理論家は、レイプ法の改革女性経済的機会の拡大など、具体的な問題解決に取り組んでいました。

現実との結びつき:彼らは女性の実際の状況や苦境に焦点を当て、法律制度を通じて不公正を是正しようとしました。

バトラーの影響と象徴フェミニズム

言語象徴への偏重バトラーは、ジェンダー社会的に構築されたものであり、そのパフォーマンスを通じて再現抵抗できると主張しました。

批判点:

難解な言語彼女文章専門用語や複雑な理論で満ちており、一般の読者には理解しにくい。

実践の欠如:具体的な社会問題や法的改革への言及が少なく、抽象的な議論に終始している。

規範的基盤の欠如:不公正に対する明確な基準や、何を目指すべきかの指針が示されていない。

社会変革への影響

実践アプローチの減少:バトラーの影響で、フェミニズム象徴的な抵抗パフォーマンスに重きを置き、具体的な社会改革から距離を置いている。

批判視点:この記事の著者は、この傾向が現実の不公正に対する対処を遅らせ、結果的現状維持や静観につながると懸念しています

結論

行動の重要性:フェミニズム象徴的な抵抗だけでなく、具体的な社会変革を目指すべきである

バトラーへの評価彼女理論学術的には影響力があるものの、現実女性生活改善には直結していないと批判しています

この記事は、フェミニズム理論が再び実践的な社会改革に焦点を当てる必要性を訴えていますジュディス・バトラー象徴的なアプローチは、具体的な不公正の是正には不十分であり、女性の権利向上のためには行動と制度的変革が不可欠であると強調しています

クレカ決済禁止ニュース確認すべき点は2つだけ

未成年もの禁止対象未成年には高校生も含まれ

犯罪系、暴力系は禁止対象

この2つに該当する作品を扱っているかどうかだ。

扱っているなら今までと同じニュースしかない。

騒ぐならこの2つとも扱っていないのに禁止された場合だけでいい。

今回は婚活サイトなのでさらに混乱してしまっているが

サイト内で作品名前を扱っているサイトである

https://aellune.com/secures/rankings

仮に、児ポ作品名前が頻出するようであれば停止になってもおかしくはない。

といってもオタク被害妄想がすごいか理解できるよう別の例えもかくと

市が婚活事業助成金を出す時があったとする。その場合助成金が降りるかは婚活企画内容によるってことぐらいは理解できるよな。

そこで児ポ扱う婚活助成金出すと思うか?って話よ。


外野から見てると常に

「(1)年齢に関するルールが順守されていること(児童ポルノではないこと)、(2)合意のもとで提供されるものであること、という万国共通基準を定め、それに基づく判断を行っている」でしかないんだけどね。

オタクくんはあさっての方向に結論づけちゃう

あーあと大事なこと。「◯◯は禁止されてないじゃないか」って100%言い出すと思うけどまだ見つかってないだけだろう。終わり

DL.Getchuさんからの作品販売停止メール、Fantiaの伏せ字の件など (´;ω;`) - Silveredsteel/らいどないん - Ci-en(シエン)

クレジットカード会社の禁止表現とmasher-reのタイトルについて(´▽`; - Silveredsteel/らいどないん - Ci-en(シエン)

anond:20241211080128

万国共通基準とやらにはイスラエル批判は反ユダヤとかもあるだろうかそもそもその正しさを疑うべき

anond:20241211080128

万国共通基準とやらにはイスラエル批判は反ユダヤとかもあるだろうかそもそもその正しさが怪しい

anond:20241215121725

マジレスすると、そういう質問他人にすること自体が間違っている。

お前は今までそういうのが賢いと思ってるのかもしれないけどもう一度基準説明をよく見てみろ。

お前はステージ1だ。

道徳レベルサルなみってこと。

自分の中にまともな判断基準がないからな。

これがわからないとお前は一生ネットの「空気」を読みながら

それでも自分に自信が持てないか

増田ウキウキ騒ぐだけの人間以下の存在で終わる。

せっかく人として生まれたのに悲しくならないのか?

この話出るたびに「道徳性発達段階でググれ」って言ってる

https://anond.hatelabo.jp/20241214233826

人間道徳基準は以下の3水準からなる。んで、はてなブックマーク民って最も水準が低いステージ1の「罰と服従志向」なの。

要するによくわかってない、解像度が低いから「叩いて良い」ってなるくらいわかりやすときしか発言ができない。ゼロかイチでしか思考できない。

自分判断する能力が極端に低い幼児と、知的水準が低い老人なんかがこの行動をするけどもちろんはてぶ民は後者

その証拠に、自分が詳しい分野になると同じ人物が急にステージ4みたいなことを言い出す。

私はステージ1のレベル発言してるなと思ってるやつは全員非表示にしてる。

①前慣習的水準

②慣習的水準

③後慣習的水準

①前慣習的水準:

慣習的水準以前は,子ども道徳性の判断基準がない。

「良い」「悪い」とったラベル意味を,行為の結果やラベル付けした人の身体的な力によって解釈される。

ステージ

⑴罰と服従志向・・・

他人から罰せられるかどうか」が基準となる。

ex)親や先生から褒められるとその行動を繰り返し,怒られると控えようとする

道徳主義相対主義・・・

自分利益を守ることができるかどうか」が基準となる。

ex自分のしたいことができるなら,たとえ他人の指示が悪いことであっても,自分利益を守るために従おうとする

②慣習的水準:

外的環境に合わせて内部に判断基準が作られていく段階。

家庭や所属する集団の期待が価値あるものとして認識し,それによってどのような結果が生じたとしても,期待に沿った行動をとろうとする。

また,その行動を支持して正当化し,所属する集団内の他人自分を同一視する。

ステージ

⑶対人的同調(よいこ志向

他人から好かれるかどうか」が基準となる。

周囲の大人から「良い子」だと思われるように,人助けや喜ばれる行動をとろうとする。人間関係の維持。

一方で,見知らぬ人に対しては勝手気ままに振舞おうとする傾向がある。

⑷法と秩序の維持

「外部から与えられたルール合致しているかどうか」が基準となる。

所属する集団におけるルールや秩序を維持することが正しいことだと考え,頑なに守ろうとする。

実情に合わなくなったルールでも偏重してしまう傾向がある。

③後慣習的水準

個人の内部に判断基準が作られる段階。

所属するまたは支持する集団他人判断基準とは独立した,道徳価値道徳原理定義しようとする。

ステージ

社会契約的遵法

合理的に決められたルールかどうか」が判断基準となる。

自分利益だけでなく他人集団利益のことも考えて自分の行動を判断する。

普遍的倫理的基準

普遍的良心に基づいているか」が基準となる。

現状にとらわれることなく,人や物事のあるべき姿やルールの変更まで考えた上で行動を判断する。

今後大河ドラマで取り上げられそうな人物は?

今後大河ドラマで取り上げられそうな人物について考えると、いくつかの候補が挙げられます

 

戦国時代:

立花宗茂最上義光三好長慶長宗我部元親今川義元北条氏康藤堂高虎島津義弘などの戦国武将が注目される可能性があります。これらの人物戦国時代重要出来事や戦いに深く関わっており、ドラマ化の素材として魅力的です。

 

幕末:

小栗上野介河井継之助木戸孝允高杉晋作小松帯刀伊藤博文といった幕末の志士や政治家候補としてあげられます。彼らは日本近代化維新の変革期を象徴する人物であり、ドラマとして描かれる価値があります

 

その他の時代人物:

板垣退助一休宗純世阿弥浅井三姉妹葛飾北斎坂本乙女といった多様な時代人物も取り上げられる可能性があります特に最近大河ドラマは、単に戦士政治家だけでなく、文化人女性視点から歴史を描くケースが増えてきています

また、刀伊の入寇の際に活躍した平為賢(ためかた)や、小田原北条五代に影響を与えた北条幻庵のような、特定歴史出来事に深く関わった人物ドラマ化の候補として考えられます

 

現代視点から見た歴史:

山本五十六井上成美米内光政のような第二次世界大戦前後海軍政治の中心人物を描くことで、戦争悲劇や個々の人間ドラマを描くことも考えられます

 

これらの候補は、歴史的な重要性やドラマ性、視聴者の関心を考慮して選ばれている可能性が高いです。ただし、NHKの選定基準制作側の意向次第で、予想外の人物が選ばれることもあります

anond:20241215074343

1. 統計を参照できない状況での意思決定

人間意思決定は、必ずしも統計データや確率を正確に把握して行われるわけではありません。現実の場面では、統計が手元にない、または瞬時に利用できない状況が多く、その場合に最悪や最善を基準にして行動することは、リスクを最小化しようとする合理的戦略と考えられます。これを「限定合理性(bounded rationality)」として行動経済学説明できます

 

2. 損失回避バイアス普遍性

人間統計合理性に反して、感情直感に基づく損失回避を優先する傾向がありますタトゥーをした人に危害を受ける可能性が低い(統計的にリスクが小さい)としても、損失の影響が極端に大きい(例えば身体危害場合、それを避ける行動を取ることは人間心理的傾向として説明がつきます

 

3. リスク過大評価するメカニズム

最悪の結果に過度に注目するのは「利用可能性ヒューリスティック」によるものです。これは、印象的な出来事(例えば、タトゥーをした人が犯罪を犯すケース)が記憶に残りやすいため、実際の確率よりも高く見積もるバイアスです。このような行動は非合理的に見えるものの、進化論的には生存を優先する戦略と考えられます

 

4. 統計合理性が常に最適とは限らない

統計的な評価を完全に無視することが非合理的だとしても、それを考慮する時間リソースがない状況では、直感的な判断が迅速かつ現実的な意思決定方法になる場合があります。たとえば「危険そうな状況を回避する」という反応は、長期的な生存確率を高める可能性があるため、一定合理性があるといえます

 

まとめ

 

統計無視して最悪や最善を基準評価することが、統計合理性に基づく判断と異なる点は確かです。しかし、現実世界では統計データを即座に利用できない場合や、リスク回避を優先する必要性が高い場合が多々あります。そうした状況下で、人間が最悪の結果を過大視して行動することは、損失回避バイアスヒューリスティックに基づく自然な反応であり、必ずしも不合理とは言い切れません。むしろ時間情報が限られる中での意思決定としては、一定合理性を持つ判断プロセスといえます

2024-12-14

同性婚について考えると自分差別意識と向き合うことになる

先日このようなことを書きました

同性婚を認める議論を始めるなら、兄弟姉妹婚、親子婚、小児婚、一夫多妻一妻多夫、その他諸々もOKの方向で検討しないといけないけど準備できてるんかなあ?落とし所は法定婚の制度廃止しかないと思ってる

すると以下のようなエアリプがありました

同性婚を認めるならナントカ婚も認めろ~な人が湧いてるけど、現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利を主張されてもな。本気でそう思ってるなら同性婚の当てこすりじゃなくて普段から真面目に活動なさいよ

現代まともな先進国でおよそ認められてない権利を主張されてもな」というコメントですが、これを通して、現在の法定婚として認められない婚姻の形について考えられるという点でとても良いコメントだと思ったので紹介させてください。


日本以外で認められている婚姻の形

まず、「現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利」とありますが、私があげた婚姻の形のうち、幾つかはある程度の規模の国において実際に法定婚として認められています

例えば


「まともな先進国でおよそ認められていない」という言説

昨今幾つかの国で認められつつある同性婚もかつては「現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利」だったことも重要です。その状況から同性カップルも異性カップル平等に扱われるべき、という社会正義としての平等を主張し、現在までに世界各地で「活動」を行ってきた結果、同性カップルの法定婚が認められつつあるという現状があります

では、この「平等」が兄弟姉妹婚、親子婚、小児婚、一夫多妻一妻多夫にも与えられないのは何故でしょうか。

親子婚、小児婚については本人の同意などの点から問題がありそうなのはなんとなくわかります。(子供自己決定権人権観点からやや危うい話ではありますが)

しか宗教的文化的な背景があって日本以外の国では法制度化されている国もある兄弟姉妹婚、一夫多妻一妻多夫についてはどうでしょうか?公平の観点から同性婚と同じく法定婚として認めるべきではないでしょうか?

認めるべきではないならその理由はなんでしょうか?同性婚とはどこが違って認められないのでしょうか。

しっかり考えてみると意外と難しい問題であることがわかるかと思います。また考える過程で「現代のまともな先進国」のような自分の中に気づかずにある差別意識にも向き合うことができるかと思います


自分の中にある差別感情に向き合う

ここで言いたいのはお前は差別者だ!と指摘したいわけではなく、自分の中の歪みに気づいた上で話してほしい、ということです。

私も個人的感情としては一夫多妻などは認めなくないという思いがあり、自分実践するとは到底思えません。ただ、ムスリム家族の方の権利という観点で考えると異性間での法定婚制度があるのであれば、一夫多妻夫婦公平性観点から法定婚として認めるべきだろうとは思っています

法定婚の未来や公平なあり方について考えると、自分の中の常識、ここでいう「まともな」という基準の外にある文化の人々の婚姻文化をどう尊重していくべきか、という話になります。その中でどうしても認め難い婚姻の形についても考えないといけないこともあるでしょう。

その時に嫌だと思ったことことに対して正当化するような理路を作るのではなく、自分の中にある差別的な考えとして認識してほしいと思っています



(「本気で〜」以降は私の書いた内容に対する直接的な意見ではないし、荒唐無稽な主張であるのは一読でお分かりいただけると思うので本項では言及しません。)

光る君へも終わるし、道長に転生して世直しでもするか

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背景設定:**

時は11世紀初頭。平安中期、摂関政治絶頂期を迎えようとしている頃、現代法律学と立憲的思想近代的な統治理論を身に着けた人物が、突如として藤原道長966-1027)の意識を獲得する。外祖父関係を巧みに利用し天皇後ろ盾に絶大な権勢を誇る道長。だが、中身は現代法学者であり、彼は当時の秩序と衝突しつつも、新たな政治手法を打ち出そうとする。

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政治理念の変容:**

現代法学者としての道長は、専横的な外戚支配構造活用しながらも、より「持続的な統治基盤」を確立したいと考える。単なる外戚支配縁故人事ではなく、ある種の「法による秩序」や「規範の再整理」を志す。もっとも、当時は成文法典(律令)はあれど実効性が弱まりつつあり、慣習法が強く、荘園が乱立している。現代道長は、この状況に対して次のような施策を構想する。

1. **荘園整理と土地所有の安定化**:

従来、道長をはじめとする藤原摂関家は多くの荘園私有し、それらを権勢の基盤にしてきた。しかし、現代の法的知見を持つ道長は、「法的安定性」が経済発展をもたらすことを理解している。彼は、荘園境界画定や、重層的な領主権の整理を試みる。

- 公領国衙領)の管理を強化し、名実ともに朝廷支配下に収めるための行政改革に着手。

- 荘園認定基準を明文化し、恣意的な安堵や寄進による権力争いを減らす試みを行う。

- 貴族や有力寺社に対しては、既得権益を即時奪うことは難しいが、中長期的な土地台帳(「古代不動産登記」)を整え、その正当性公的に認める代わり、租税労役義務明確化し、流通性ある土地制度志向

2. **立法執行体系の再構築**:

律令法が名ばかりの存在となり、令外官や慣習的措置が横行する世界で、道長現代的な法整備思想を導入する。

- 首都(京)における治安維持機関である検非違使権限組織を再編し、盗賊取締、秩序維持のための明確な司法手続を設ける。

- 公家社会内部で行われていた人事や地位継承に関して、記録主義(ある種の「公文書主義」)を徹底。昇任や叙位叙爵の基準をある程度定めることで、人事が完全な縁故に流れないよう微調整を図る。

3. **天皇家と摂関家の新たな関係性構築**:

道長外戚としての地位を最大限活用しつつ、天皇権威安定的な「象徴」に引き上げることを考える。天皇形式的な最高権威を担わせ、実務は「関白」の地位活用して円滑に処理するが、現代道長は「院政」的な発想を先取りするかもしれない。

- 天皇に幼少期は摂政、成年後は関白が補佐する原則を維持しつつも、天皇周辺に専門官僚を育成。

- 従来の「外戚依存から、より制度化された「最高法規」の存在感を醸成。例えば、改定版『令』をまとめ、これを朝廷全体の根拠規範として位置づけることで、朝廷藤原家を法的な結びつきで強固にする。

4. **社会制度の改良と学問振興**:

道長宮廷文化を愛し『紫式部』や『清少納言』ら文人たちとの交流を深める一方、現代的な行政手法を取り込むためにも知識人層の拡充を図る。

- 国司受領階層に対し、任地における法令遵守文書管理税制の透明化などを要求。できる限り審査厳格化し、違反者には適正な制裁を行う。

- 大学寮学問所に法制研究史料編纂部門を新設し、古代律令判例に相当する事案記録を蓄積。徐々に「法文化」を育む。

- 漢籍研究とともに、自身が知る社会契約合意原則に近い概念をそれとなく導入し、為政者と被統治者の関係を「力による支配から正当性による支配」へと移行させる試み。

5. **外交軍事制度化**:

北方蝦夷や、唐・宋との交流さらには大陸周辺国との海上貿易を法的に整理する。「道長改正律令」には、交易ルールの明記や関税的な仕組みを生み出し、国家財政を強化するとともに、軍事力を令外官頼みから一定法規範に沿った動員・統制へ転換。

- 軍事貴族地方武士層との契約関係を整え、「官」と「私」の軍事力を峻別した初期的な国軍組織化を図る(もちろん当時としては極めて斬新)。

- 貿易港での入港手続や国際通行ルールを整備し、財政基盤強化を狙う。

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結末イメージ:**

もちろん、このような施策は周囲にとって奇異であり、保守的貴族からは激しい反発も受ける。しかし「藤原道長」という既に頂点に君臨する権力者の威光、そして自らが有する実務的手腕と知識によって、徐々に新しい秩序を「慣習法から合意された法」へと移し変えようとする。結果として、荘園の雑多な管理が少しずつ明確になり、暴力的権益争いは減少、都はある程度の治安維持機構で安定する。

やがて、次世代には「記録とルール」に基づく人事・土地管理が浸透し、法制を軸にした政治文化が醸成され、藤原家の権威は「道長改革」として後世に語り継がれることになるかもしれない。

私、この人に限らず、自分他人評価する時の基準ではやたら厳しいことや綺麗事を言うくせに、自分事になった瞬間甘々になる人はあんまりきじゃないんですよね。

いや、人間なんだから自分に甘いのは当然で、それは全く問題ないんですよ。他人を嫌うのも自由。でも、それなら他人に対して厳しいことを言ったり綺麗事を言うのやめろやと。自分がだらしないと思っていて、それをさらけ出して許してほしいなら、他人のだらしなさについて文句を言わなきゃいいじゃん。なんで言うの。このバランスが悪い人は見ていてとても気持ち悪い。

おねえさんにいいところ見せたいのか格好つけたいのかなんかしらんけど、自分が甘やかされたいなら他人に厳しくするべきではない。 

SNSなんだから」とか「自分つぶやきなんか誰も見てないから」とか「ただの引用RTから」とかいいたいならそれは好きにしてもいいけど、そういうことに節操がない人を私がブロックしても文句は言わないでほしい。

anond:20241214035145

よくわからないですが、おそらくは欠陥が多分にあったとしても「12345」などというパスワードを使う人たちにとってはセキュリティ強度が格段に上がるという意味有益なのだと思います

そして、世の中には「12345」な人たちがものすごくたくさんいる。

という意味でも有益なのだと思います

「12345」を基準にして考えるとその有効性は絶大だと言えます

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

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