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はてなキーワード: 脚注とは

2024-09-14

歴史的事物には全て「諸説あります」と脚注を入れるべきだと思う

教科書でさえも。

例えば、鎌倉幕府年号が変わっただろう。

あいう扱いを、全ての歴史的事物で行うべきだと思う。

2024-08-14

anond:20240812143635

脚注付きのコメントを書く人がいたりするけどね。誰だったかな。

2024-07-23

anond:20240723170301

あっ、パイプ1の「1」は何かを特定しているわけではなくて脚注番号です

2024-06-05

状況認識:今後10年の展望 -- はじめに

X (twitter) で SITUATIONAL AWARENESS: The Decade Ahead https://situational-awareness.ai/ というのが回ってきて非常に示唆に富むものだったので、DeepL (無料API経由) で訳してみた。

レオポルド・アッシェンブレナ2024年6月

サンフランシスコに行けば、まず未来が見える。

この1年で、街の話題100億ドルコンピュート・クラスターから1000億ドルクラスター、そして1兆ドルクラスターへと移り変わってきた。半年ごとに、役員室の計画にまたゼロが追加される。その裏では、残りの10年間に利用可能なすべての電力契約と、調達可能なすべての電圧変圧器を確保しようとする熾烈な争いが繰り広げられている。アメリカ大企業は、アメリカ産業力を結集させるために、何兆ドルもの資金を注ぎ込む準備を整えている。ペンシルベニア州シェールフィールドからネバダ州太陽光発電所まで、何億ものGPUが稼働する。

AGI競争が始まったのだ。私たち思考し、推論できるマシンを作りつつある。2025年から26年にかけて、これらのマシンは多くの大学卒業生凌駕するだろう。10年後までには、これらのマシンは私やあなたよりも賢くなり、本当の意味での超知性を手に入れるだろう。その過程で、この半世紀には見られなかったような国家安全保障の力が解き放たれ、やがて「プロジェクト」が始動する。運が良ければ、中国共産党との全面的競争になり、運が悪ければ全面戦争になる。

今、誰もがAIについて話しているが、何が自分たちを襲おうとしているのか、かすかな光明を感じている人はほとんどいない。Nvidiaアナリストは、まだ2024年ピークに近いと考えている。主流派評論家たちは、「次の言葉予測するだけだ」という故意盲目に陥っている。彼らが見ているのは誇大広告といつも通りのビジネスだけで、せいぜいインターネット規模の新たな技術革新が起こるのを楽しむ程度なのだ

やがて世界は目を覚ますだろう。しかし、今現在、状況認識を持っているのはおそらく数百人で、そのほとんどはサンフランシスコAI研究所にいる。運命不思議な力によって、私はその中に身を置くことになった。数年前、このような人々はクレイジーだと揶揄されたが、彼らはトレンドラインを信頼し、過去数年間のAI進歩を正しく予測することができた。この人たちが今後数年についても正しいかどうかはまだわからない。しかし、彼らは非常に賢い人々であり、私がこれまでに会った中で最も賢い人々である。おそらく、彼らは歴史の中で奇妙な脚注となるか、あるいはシラードやオッペンハイマーテラーのように歴史に名を残すだろう。もし彼らが未来を正しく見ているとしたら、私たちはとんでもないことになる。

私たちが見ているものを教えよう。

目次

エッセイはそれぞれ独立したものですが、シリーズ全体として読むことを強くお勧めします。全エッセイPDF版はこちら。

はじめに 【このページ】

歴史サンフランシスコで生きている

I.GPT-4からAGIへOOM(Orders of Magnitude)を数える

2027年までにAGIが実現する可能性は極めて高い。GPT-2からGPT-4までの4年間で、私たちは~未就学児から~賢い高校生までの能力を手に入れた。計算能力(~0.5桁またはOOMs/年)、アルゴリズム効率(~0.5OOMs/年)、および「趣味のない」向上(チャットボットからエージェントへ)のトレンドライントレースすると、2027年までに再び未就学児から高校生サイズ質的ジャンプが起こると予想される。

II.AGIから超知能へ:知性の爆発

AI進歩人間レベルでは止まらない。何億ものAGIがAI研究自動化し、10年に及ぶアルゴリズム進歩(5以上のOOM)を1年以下に圧縮することができる。私たちは、人間レベルから超人的なAIシステムへと急速に進化することになる。超知能の威力危険性は劇的なものとなるだろう。

III.課題
IIIa.兆ドルクラスタへの競争

驚異的な技術資本の加速が始まっている。AI収益が急増するにつれ、10年末までに何兆ドルもの資金GPUデータセンター、電力の増強に投入されるだろう。米国の電力生産を数十%増加させるなど、産業界の動員は激しくなるだろう。

IIIb.研究所の封鎖AGIのセキュリティ

米国の主要なAI研究所は、セキュリティを後回しに扱っている。現在、彼らは基本的にAGIの重要な機密を銀の皿に載せて中国共産党に渡している。AGIの秘密とウェイトを国家機関の脅威から守るには膨大な努力必要であり、我々はその軌道に乗っていない。

IIIc.スーパーアライメント

我々よりもはるかに賢いAIシステムを確実に制御することは、未解決技術問題である解決可能問題ではあるが、急速な知能の爆発が起きれば、物事簡単にレールから外れてしまう。これを管理することは非常に緊張を強いられるだろう。

IIId.自由世界勝利しなければならない

スーパーインテリジェンスは、経済的にも軍事的にも決定的な優位性をもたらすだろう。中国はまだゲームから抜け出してはいない。AGIをめぐる競争では、自由世界の存亡がかかっている。我々は権威主義的な大国に対する優位性を維持できるのか?そして、その過程で自滅を避けることができるのだろうか?

IV.プロジェクト

AGIへの競争が激化するにつれ、国家安全保障が関与してくる。アメリカ政府は眠りから覚め、27~28年までに何らかの形で政府によるAGIプロジェクトが立ち上がるだろう。どんな新興企業も超知能を扱うことはできない。SCIFのどこかで、終盤戦が始まるだろう。

V.おわりに

もし我々が正しかったら?

――――――――

私はかつてOpenAIで働いていたが、これはすべて一般に公開されている情報私自身のアイデア一般的な現場知識、あるいはSFゴシップに基づいている。

Collin Burns、Avital Balwit、Carl Shulman、Jan Leike、Ilya Sutskever、Holden Karnofsky、Sholto Douglas、James Bradbury、Dwarkesh Patel、その他多くの方々の有益議論感謝する。初期の草稿にフィードバックをくれた多くの友人に感謝する。グラフィックを手伝ってくれたジョー・ローナン出版を手伝ってくれたニック・ウィテカーに感謝する。

イリヤスーツバーに捧ぐ。

続き I.GPT-4からAGIへ:OOMを数える(1) https://anond.hatelabo.jp/20240605203849

2024-04-09

常山勝弘

常山勝弘(つねやまかつひろ、Tsuneyama Katsuhiro、1989年8月7日まれ血液型A型。)とは、JR株主などを務める新潟県出身華族(從二位)の弟であり、チェス愛好家として、現在日本チェス連盟の会員である

関東軍の孫 …

徳川時代に、魚沼地方において大庄屋をやっていた士分の門家である両家(苗字帯刀することが許された格式がある両家。現在の姓は、常山家と南雲家。)の中に生まれ満州事変1931年-1934年)において、関東軍(第9師団騎兵9連隊)を務めていた常山新作の孫であり、常山氏(氏族)に属する。幼い頃は新潟県公立学校で育ち、東京私立高校通信制NHK学園高等学校)を中退した後、旧大検を取得し、2024年4月には、伊豆半島にJALcardで、旅行に行っている。本人は国鉄の娘である母親洋子の母南雲タキの家系から続くカトリック信仰であり、日本キリスト教会プロテスタント派の神学生を成人の頃に、少しだけ務めたことがあり、誕生日のお祝いに洗礼宣伝を作らせてもらったことがあると言う。

父親との関係

常山新作は、昭和天皇陛下の直属部隊に属しており、関東軍に務めていたので龍光大綬章を受賞しているが、これは桐花章と同位である

父親常山満は、神奈川近代文学館に自著の詩集を所蔵されている。

人物

幼少期から、かっちゃん(Kattyan)の名前で、親しまれている。

脚注

常山家(華族ASIN:B0CTJ3T26X

… 外部リンク

https://miitus.jp/t/JCF/login/box/?logout&p=b2tma0NyUStMVjJMTzlwS2crdXNFQk5PYThFcVhqeWNaUVlSZkRDd2xZTm9leEZMOUd6dWdlc0FPczduWFNxTWNOaFVRMzMvK1l3SjRRUFFzU3A0V2c9PQ==| MiiT+/日本チェス連盟

2024-04-06

anond:20240406095134

他人ブログコメント欄脚注付きの長文コメントを書くような人が言うと、なんとも言えない真実味がありますなあ

2024-03-17

ネトゲ戦記感想

3月15日第2刷だからできたてホヤホヤそばせ!東京名古屋大阪書店探し回ってたけど全然三つからなかったんだよね。

在庫自体ないんだからしょうがない。

高い本だからハードカバーだと思ったがそうでもない。でも1500円ならそんなもんか。



加筆ありと言ってたが、シーン追加じゃなくカット差し替えみたいな感じで少し残念。

読んでると結構書き換えてるな~と思っても、アーカイブ見直してたらただの記憶違いだったり。

(公開記事消すの、商売としては分かるけどちょっとセコいよ!)

幼少期編はほぼそのままっぽくてガッカリ


で、801ちゃんみたいな脚注ネトゲ用語についてついてるのは結構便利なんだけど

「※1 Raid GuildEQにおけるHNMLSのようなもの、多人数で1体の強敵と戦うことをRaidと呼び、FF11におけるHNM戦に近い」って注釈注釈注釈がいるし

褒めるとき骨太骨太うるさいか編集じゃなくて暇が作ったんだろうなって…

あと、ドラえもんニホンオオカミ注釈いる?(でもSF生活ギャグ漫画って注釈を鼻で笑ってたら、どうもそういうジャンルがあるらしくて恥かくとこだった)

裁判編はあんまり興味ないから読み流してるけど、資料文章中に挟み込むデザイン結構いいと思う。

文字列折り返しになるから一見読みづらそうだけど読んでみるとそんなに気にならない

挿絵代わりの風景写真デザインとしては悪くはないけど注釈小さすぎて分かりにくいし、会社近くのマクド写真とか見せられても…その風景思い入れあるの暇さんだけですよ?って

ガソリン撒くくらいに酷いとは言わんけどそんなに絶賛するほどでもないかなぁ

まぁネット無料公開してたコンテンツ書籍化って意味ではようやっとる

あとがきが暇空というか水原さんの正気垣間見れて一番良かった



ただ、裁判で6億勝った、ってのがウリなんだけど

今の暇さんは裁判負けまくってんだよなぁ

この時の弁護士弁護団関わってないっぽいし。

関わってたら裁判のためにSNS止めさせてたと思うが、それだと裁判に勝っても生活できなくなっちゃうもんなぁ

これから炎上芸人として生きていくんだろうか

それはそうと、堀口くん個人情報流出についてUberに問い合わせてみるつもり

Uber顧客個人情報流出させたか、暇が虚偽情報流してUber営業妨害してるかのどっちかだからやって見る価値ありまっせ!

2024-03-16

EVでの長距離は充電計画次第

冬のアリア旅、4泊5日、1200キロ走破で充電12回の内訳に対する所感(*1)

これの前の記事冬の電気自動車の遠出は本当に厳しい。航続距離も減るし、とにかく充電スピードが落ちます だったのでEVというのは主語がでかいし、ちょっとなということで書こうと思った。

表題どおりなんだけれど、どこで充電するかで快適さ含めて変わってくる。たしかに冬はEVにはちょっと厳しい季節なんだけどさ。

まず充電器に関する基礎知識として充電器は設置場所能力全然違う。

記事内にあるように「一番充電できたのは浜松SAにある大きな充電器で30分で33kWh、一番少なかったのは道の駅の古い充電器で30分で10kWhでした。」これが諸悪の根源

実は浜松SAの充電器は国内最大級でMAX150kwhの出力がでるものと、90kwhがでるものが設置してある(*2)

道の駅にある充電スタンドはMAX20kwh(*3)だったりがざらだったりする。

EVの充電についても触れておく

EVの充電は0%に近いほど高出力帯で充電ができて、満充電に近いほど出力を落とさなくてはいけない。水槽に水を入れるのに最初バケツでいけるけどそのうち、灯油ポンプゆっくりいれて最後はコップでいれるようなもの

アリアは最大130kW(*4)での充電に対応しているので、浜松で30分充電して20kwh程度ということはかなり余裕がある状態で充電をしていたのではないかと推測される。

ちなみに、勝間氏のアリアは満充電で500km走るとのことなので90kwhの電池容量を搭載しているモデルということになる。(*5)

計画大事

そこで「どこの充電スタンドはどれくらいの出力がでて、何口用意されている。

出発地点はどこだから、40%くらいになるのはこの辺、ということはどこそこのスタンドで充電しよう。」

といった計画必要になってくる。

これは正直かなりめんどくさい。かなりめんどくさいのだけれど、EV過渡期ということもある。

酸っぱいぶどうかも知れないけれど、気にしないといけないくらい長距離運転するなら計画立てて運転するくらい必要だと思うし、ちょうどいい休憩にもなるのであまり困ってない。

ちなみに、EVは長距離高速移動すると街乗りするよりも電費(≒燃費)が悪くなる。(*6)

Tesla model3 を例に

ということで、保有車は 2022年納車のTesla model3 LR (82kwhの電池積んでたはず)(*7)なのでその例をあげる。

なお、Teslaは最大で250kwhの出力がされるスーパーチャージャーという充電ネットワークを自社で敷設している。

それってどんくらい早いのというと、空に近いと15分間で250km分くらいは充電できるくらい。なので、日本政府ChademoをやめてNACS統一しましょう。(*8)

とある日の移動記録

例に出すのは、一昨年の年末(2022-2023)の移動記録(*9)

スーパーチャージャー(以下SC)の利用をメインで計画した時のもの

自身は主に関西から九州までの移動でこの時は路面凍結するくらい寒かったので今回の記事とまあ同条件かなと。

需要があれば、chademoメインで移動した記録も書く。

22/12/23

自宅から倉敷SCに移動 206km 53%消費 (3.8km/kwh)

22/12/24

倉敷SCで充電 1時間 35%→100% 外気温0.5℃

倉敷SCから広島SCに移動 157.8km 44%消費 (6.9km/kwh) 雪の関係下道いった記憶がある。

広島SCで充電 30分 56%→89% 外気温-2.4℃

広島SCから別府市まで移動 352.5km 84%消費 (4.2km/kwh)

別府市日産chademo充電 9分 5%→12% 外気温6.5℃

温泉宿に宿泊

22/12/25

宿を出てちょろちょろ移動

大分市で充電 30分 6%→34% 外気温10

別の場所に移動してお代わり充電30分 33%→61% 外気温10

大分市から熊本城前の商業施設へ移動 158.3km 39%消費 (4.0km/kwh)

往路:874.6km 充電5回 2時間39分

その後山鹿市の温泉を堪能して復路

2023/01/04

山鹿市からめかりPAに移動 170.5km 39%消費(4.3km/kwh)

めかりPAで充電 30分 20%→44% 外気温8.9℃ (めかりは40kw出る)

めかりPAから広島SCへ移動 192.4km 40%消費(4.8km/kwh)

広島SCで充電33分 4%→49%

広島SCから広島駅でお好み焼き食べに移動 9.3km

広島から倉敷SCへ移動 153.5km 34%消費(4.51km/kwh)

倉敷SCで充電47分 12%→92% 外気温6.5℃

倉敷SCから自宅近くのスーパーマーケットへ移動 210.2km 47%消費 (4.4km/kwh)

復路:735.9km 充電3回 1時間50分
まとめ

chademo充電器がピンキリなので充電に時間かかるのと、効率よく充電できてないのが勝間氏の不満につながっているのではなかろうかと思う。

まとめてて思ったのだけれど、アリアエネルギーマネジメントがいけてない説あるかもしれない。

ちなみに、上記のとおり長距離運転するばかげた計画を立てていますが、

「オートパイロット」という名前自動運転のふりをした”運転支援システム”は名前はともかく優秀に感じております

運転疲労度が全く違う。これに関しては、2021年時点で日産トヨタホンダと乗り比べて全然違ったのでテスラにしたくらいある。(*10)

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増田脚注使えないのか

(*1):ブログ管理してないので増田を利用

(*2):しか複数。8台は急速充電可能

(*3):20kwhでも急速充電と呼ばれていますおかしい。

(*4):とはいっても、この最大って数パーセントからある程度たまるだんだんおちていくので爆速充電できるわけでもない。

(*5):アリアは65kwhモデルと90kwhモデルの2種類の販売のようだ。

(*6):ガソリン車は長距離を走ると車重が減るので負荷が減る。また、高速移動すると空気抵抗の影響が大きくなる。ゆえにEVはとても流線形をしている。

(*7):Teslaは数車種しか売ってないように見えて買う時期でマイナーチェンジが入ってたりする。

(*8):chademoガラパゴス規格なんですよ。。。 北米版の日産車でもNACS充電できるようにしてたりするんでマジでお願いします。

(*9):Tesla車はテレメトリーデータサーバ送信している、そのデータを取得して保存できるサービスがある。ちなみに自身はTeslaMateを自鯖運用中。昨年11月から止まっててかなしみ。

(*10):長距離運転するので運転支援メインで考えてました。スバル燃費がいけてなかったのでアイサイト見送り。現時点レクサスに積んでる運転支援が良いらしいので試してみたい。テスラの車線認識白線消えてても認識してるのですごい。

2024-02-21

anond:20240221214159

内容自体魚拓残ってるし、脚注が多すぎて更に読みにくくなった以外は取り立てて代わり映えないし

ネトゲ戦記脚注おかし

web版の方がまだ読み進めやすレベル

SEGA」「ドラえもん」「ダガー」を一々解説する必要ある?

突然出てきた人名について脚注で「有名ゲーマー」とだけある

本文で「有名ゲーマーの何々さん」でよくない?

「有名ゲーマー」とだけあって具体的にどういう人だったのかと説明があるわけでもないし

web版は一部しか読んでないが書き直しはあまりないようだ

暇空がそれを許さず、苦肉の策でこの大量の脚注になったのか

編集部アンチがいて嫌がらせ脚注つけてるだろってレベル

2024-01-27

君、著しく読解力が足りてないんで、これ以上やり取りしてもこちらの徒労に終わりそうだけど。

例えば、後漢末の政治宦官外戚の専横ラリーで乱れに乱れたという状況で、腐敗を示す大小さまざま無数の出来事が起きたでしょ。そういう場合党錮の禁のようなインパクトのある事件は、歴史を伝える書物の中では大項目を立てて詳細に論じられる。その一方で、汚職がばれたけど大物はお咎めなし、小物はトカゲのしっぽ切りで投獄されましたみたいな事件は、そもそも書物記載されないか脚注にちょろっと乗る程度の扱いになるわけ。

で、ひるがえって今回の自民党裏金露呈の件は、ここ20年ほどの自民党の変質という大きな流れの中で起きた諸々の出来事の中で、どちらかと言えば些細な事の一つでしかないよねと、私は言ってんの。

なんかよくわからないけどキックバック記載ロッキード事件やらリクルート事件本来なら並び称されるべき事案だと言いたいんですかね

anond:20240127075532

①今回の件は未来歴史教科書に載るとしても脚注にちょろっとだろう。

②関心が薄いのは、同程度かそれ以上にインパクトのある不祥事(しかもたいてい予後が悪い)をもう何年にも渡って繰り返し見せられてきたから。国民感覚麻痺してきている。

まりどういうことです?

anond:20240127074502

anond:20240127071311

何かしらやらかすと、すぐに大臣総理も辞任していた20年前なら大騒ぎだったかもしれない。しかし、アベ以降の自民党があまりに腐っている惨状を、国民は繰り返し繰り返し見せられすぎた。多少なりと政治に関心のある国民なら、「ああハイハイ、大物はことごとく不起訴だし、解散とか言っても看板かけ替えるだけですよね、平常運行で腐ってますね。」と白けた面持ちで今回の件を眺めているに違いない。

キックバック裏金化は自民党政権が腐っていることを示す事象群の一つでしかない。半世紀後も日本が存続していて日本史が書かれるならば、アベ以降の自民党の顕著な変質が一つのトピックとなり、キックバック裏金化の露呈は、その変質の一例として脚注で取り上げられる細かな事実の一つ程度の扱いになるだろう。

追記:消し逃げで話が追えなくなってるので自分のをリンクしとく。

https://anond.hatelabo.jp/20240127081641

https://anond.hatelabo.jp/20240127075129

2024-01-26

anond:20240126183251

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法である。これは、山口和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊合憲化(57)、③日本経済的地位に見合った国際貢献必要性、④国連軍国連警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリスト武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から護憲立場から改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲である。同提言軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから北朝鮮中国軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラル過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである

 佐藤が語る、愛国心必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである佐藤饒舌から私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事平和維持活動において殉死殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊追悼施設必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツ独自イラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたかである。翻って日本場合多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国国際社会理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍軍事活動積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実国際政治の中で、山川ソ連侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。

10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮アルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略植民地支配反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的保障する国家先進国主導の戦争積極的に参加し、南北格差固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派大国路線に対抗して、日本経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪補償必要とした路線が、東アジア諸国民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合破綻といった状況に規定された、リベラル左派危機意識から生じている。九〇年代東アジア諸国民衆から謝罪補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本私たちが、進んで過ちを正しみずから正義回復する、即ち日本利益のために」(69)(傍点ママ歴史清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争植民地支配可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立リベラル左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル左派意図的計画したものと捉えているわけではない。むしろ無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力からあいもつあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治立場から期待されている人物統合象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴人物の未分性という日本政治特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディア追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリスト発言力を確保しようとする学者、無様な醜態晒す本質的には落ち目思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからあいもつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家同胞日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまたからには、自国国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤発言は、安倍晋三首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族配慮するという意図からだろうが、アメリカ一丸となって事件対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである国益からむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ総連弾圧をめぐる日本言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したこと物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本リベラル左派安倍政権ときに敗北したのである

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである侵略植民地支配過去清算在日朝鮮人人権擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア世界平和にとって大きな災厄である(73)。

改憲戦争国家体制拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア知識人等を徹底的に批判すべきである

(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者佐藤右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイトフジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37

2023-12-28

最近Google検索を全く使わなくなった件

Bing Copilotが便利すぎてGoogle検索全く使わなくなった。

Google検索だと検索結果のwebサイトを一つずつ読むのが面倒くさすぎる。

Bing Copilotは検索結果のサイトから回答を作成してくれてそれを読むだけというのが本当に楽で良い。

参考にしたサイト脚注になってるので怪しい回答が出てきたらサイトを直接見れるのもGood。

そしてWindows 11タスクバーからCopilotボタンで直接呼び出せるのも地味に便利。

ソフト使いながらCopilotボタン開いて質問して、回答生成の待ち時間はそのまま他ソフト使うというのが便利でいい。

あと検索チャットシームレスに切り替えられるので検索エンジンもGoogleからBingに変えた。

そしてBingにして良かった点がもう一つあって検索するだけでポイントが貯まること。

1回の検索で0.35円分くらいのポイントもらえて、一定金額貯めるとアマギフに変えられるので3か月くらいするとちょっとしたお小遣いになる。

2023-12-15

シロクマ先生、もう少しASDへの配慮をしてほしかった

ASD当事者です。「ヒト、または日本人ASD進化しないと思う」を読みました。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20231214/1702535078

先生意見事実

事実としては、おおむねシロクマ先生の言う通りだと思います。(※文末脚注の注1を除く。)引用しつつ述べると

という現実があります

ASD当事者としてのお気持ち表明

肌の色やジェンダー国籍と違って、ASD相手には慎重さや配慮不要なの?

例えば以下のような事実は、仮に存在したとしても非常に慎重に言及されていませんか。

統計的にそうした事実があったとしても、ステレオタイプ助長しないように配慮した表現言及されたり、不幸な現状を変えるための提言とセットで述べられていませんか。とりわけ専門家であるシロクマ先生には、そうした配慮が求められるのではないですか。

ASD相手には反語や極論をぶつけても別にいいの?

文字太字の反語や、全面核戦争から封建制のような極論はユーモアなのでしょうか。可能性は非常に低いという意見を言うために、核戦争封建制を持ち出す必要はなかったと思います当事者としては、苦境にあるうえに、その苦境を揶揄ユーモア対象にされたようで非常に悲しくなりました。

結論

文末脚注: ASDにはフィジカル仕事はむしろ不適な傾向

(※注1)「人間フィジカルな条件こそが最適な仕事労働作業重要社会文化がこれからできあがった場合には、ぐるりと回ってASD的な特性が再び脚光を浴びるかもしれない。」という記述があります

しかASDにはしばしば感覚過敏があります感覚過敏はDSM-4(のASD相当の各疾患)から変更されDSM-5のASD診断基準の1つとして追加されました。

感覚過敏がある場合環境調整が容易な内勤よりも外勤が多く環境調整が困難なフィジカル仕事はむしろ不適である傾向にあると思います。もちろん当事者特性仕事の内容によって、フィジカル仕事のほうが成功やすい事例も一定存在するでしょう。しかし傾向としては適さないのが一般的だと思います

2023-11-19

池田大作が授与された国連平和賞特に実態のない賞だった

長すぎたし読みづらかったので結論だけ先に書く。

追記)それでも読みづらかったので改行を入れまくった。

結論

それを満たせるだけの大物という意味では、やはり池田大作はひとかどの人物であったのだろうとは思う。

しかしそれだけで内閣総理大臣名で追悼文を出すレベル文化人だったと言えるだろうか。多分言えないんじゃないかな。

結論終わり。

この結論になった経緯を以下にだらだらと書いているので、暇な人は読んでみてほしい。

---------------

国連平和賞は本当にあるのか

岸田首相内閣総理大臣名で池田大作への追悼文を出し、賛否両論を浴びている。特にX上でこれを擁護するポストには大まかな類似性があり、興味深い。

彼らの言い分はこうだ。

池田大作世界中の著名な大学からおびただしい数の名誉博士号を、そして国連から国連平和賞を授与された世界的な文化人であるからして、総理大臣が追悼文を出すのは妥当である

このうち名誉博士号についてはしばしば「金で買った」という噂が飛び交っている。ディプロマミルと呼ばれる詐欺的な学位授与団体現実存在することを踏まえての推測だろうが、真偽は判然としない。

そもそも池田大作創価大学創立者ということになっているのだから提携している大学要請すれば名誉学位程度は手軽に得られるのではないか正規手段とまでは言わないが、少なくとも大手を振って見せびらかすことができるルートで手に入れた学位なのではないかと思われる。

とはいえいくら数百もの名誉博士号を持っていても、それだけで現役の総理大臣が追悼文を出すのは尋常なことではない。

とするとやはり、国連平和賞が効いているのだろうか。

そのシンプル文字列から権威性がほとばしってやまない。誰がどう見たって「国連平和活動関係者に対して贈る賞なのか」とひと目で分かる。

X上では「国連平和賞だけはガチの実績がないと取れない」「国連平和賞が金で買えると思ってんの?w」等のポスト散見される。

ただ引っかかるのは、私が「国連平和賞」なる言葉を知ったのは今回が初めてだということである

いや国連平和賞って何だよ。

俺が知らなかったのにネット逆張りイキりしてる有象無象が知ってたわけねえだろ。

絶対胡散臭いだってこんなの。

そう思ったので少し調べてみた。

調査

皆も検索してみてほしいが、まず国連平和賞Google検索すると以下のような検索結果に大別される。

実質的wikipediaくらいしかまともな情報源がないので眺めてみる。

概要についてはこうあった。

国連平和賞(こくれんへいわしょう、英語表記United Nations Peace Medal)とは、国際連合が発行するメダル顕彰ひとつ国連ピースメダルとも日本語表記される[1]。受賞者には、ミュージシャン文化活動家、政治家宗教家映画監督などがいる

国際連合が発行するメダル顕彰ひとつ」とはっきり書かれている。これは驚いた。本当に国連が授与している賞らしい。実はまともな賞なのか?

沿革について。

> 第3代国際連合事務総長ウ・タントによって創設された[2]。各国代表が習慣的に贈答品の交換を行っているうちに贈呈されるようになった[2]。また、国際連合総会総長として尽くしたものにも授与される[2]。

ごめんやっぱりまともじゃないかも。

贈答品の交換を行っているうちに贈呈されるようになったって......もしかしなくてもコネってこと?

まあコネは金で買える場合とそうでない場合があるので「金で買えない」のは部分的に正しいのかもしれない。

日本人受賞者を眺めてみると、政治家岸信介福田赳夫笹川良一など錚々たる顔ぶれ。宗教関係者では池田大作立正佼成会青年部......どっからどう見ても国際勝共連合草生える。これにはマザームーンもニッコリ。てかマザームーンいないの?逆に。

まあ共産主義と戦うことは、広義の平和活動なのかもしれない。国連立場的にそれでええんか?

冗談はさておき芸術家系の受賞者はあまりそういった政治色はなさそうなので、そういった政治性のある賞ではないようにも見えた。

海外の受賞者にもそういった激烈な党派性は見当たらないので、やはり仲良しグループコネコネしたという方がしっくり来る。

英語検索

日本語ではこれ以上まともな情報が出てこなかったので英語検索することにした。

幸いなことに日本語wikipediaには "United Nations Peace Medal" という英語表記が載せられている。これで検索すれば国連公式の受賞者リストや受賞基準などが出てくるかもしれない。

そうして一番上に出てきた検索結果は、メルカリだった。

United Nations Peace Medalが大量に出品されている (https://jp.mercari.com/search?keyword=united%20nations%20peace%20medal)。

いやそうはならんやろ。何で急にそうなるんだよ。

もしかして界隈では昔から有名な案件だったりするのか?わけがわからん。急に胡乱な話になってきたな。

商品紹介ページを見ていると「国連本部のビルで売ってた」とか「昔は国連寄付すると記念品としてもらえた」という話が出てきた。なるほどね。なるほどね?

そしてやはり、国連公式説明文書が引っかからない。United Nations Medalについてはヒットするものの、これは国連平和維持活動に参加した軍人警察官に贈られるもの記述があるため、明らかに宗教関係者が授与されるようなものではなさそうだ。

実際日本語版のwikipediaにも「国際連合PKO要員へ授与するUnited Nations Medal(国連メダル)とは別物である。」とある

仕方がないので英語版のwikipediaを読んでみた。

The United Nations Peace Medal is a commemorative medal produced by the United Nations to promote peace. First made by Franklin Mint in 1971,[1] a new design is produced annually, with limited editions offered for sale in gold, silver, and bronze.[2] Gold medals may be formally presented by UN officials as a diplomatic gift to heads of state, former UN Secretaries-General, and dignitaries visiting the UN Headquarters.[3][4]


国連平和メダルは、平和を推進するために国際連合制作した記念メダルです。(中略)。毎年、新しいデザイン制作され、金、銀、銅の限定版が販売されています金メダルは、国連の高官によって国家元首、元国連事務総長国連本部を訪れる要人に対する外交的な贈り物として公式に授与されることがあります

なるほどね。完全に理解した

私は国連平和賞胡散臭い賞ではないかと推測したが、それは誤りだった。そもそもこれは「賞」ではない。何というかその......メダルだ。

この訳は流石にミスリードを狙っているとしか思えない。訳した奴は一生反省し続けてほしい。

国連平和賞(こくれんへいわしょう、英語表記United Nations Peace Medal)とは、国際連合が発行するメダル顕彰ひとつ

この日本語wikipedia記述があまりにも味わい深い。

なるほど、嘘は書いていなかったのだと深く理解できるし、叙述トリックを受けていたかのような感動がある。wikipedia叙述トリックをするなナメてんのか?

流石に爆笑しかけたが、英語版のwikipediaの内容が捏造されている可能性も当然ある。

そもそもこれを外交的な贈り物としていたのなら、国連公式ソースがあってしかるべきだ。しかしそれが見当たらないのはどういうことか。

wikipedia脚注を見ると、公式文書があるようだがリンク切れしている。

幸いなことに国連デジタルライブラリー (https://digitallibrary.un.org/) にあったので見てみると、なるほど確かに一般人にも売っていたらしい (https://digitallibrary.un.org/record/98028?ln=en)。

メダル図柄記載されているほか「国連職員20%割引があるよ!」とか書いていて少し笑える。どうも注文書らしいフォーマットだ。

また公式ではないが1981/10/18に書かれたNew York Times記事 (https://www.nytimes.com/1981/10/18/arts/numismatics-the-value-of-smart-long-term-investments.html) にもメダルについての記載がある。

この記事は「堅実な投資先としてコインって案外良いんじゃね?」という少し頭の悪そうな内容の記事だが、そこでUnited Nations Peace Medalについての記載があった。

1981年国連平和メダルフランクリン造幣局によって製造されている。(中略)。この作品は、クルト・ヴァルトハイム国連事務総長が各国首脳やその他の訪問高官に公式に贈るために鋳造されているほか、コレクター向けに限定販売されている」

ゴールドシルバーバージョンはどちらも直径39ミリで、価格はそれぞれ1200ドルと55ドルである

どうやらそういうことらしい。

また、Encyclopedia of Violence, Peace, and Conflict という書籍のp.799でもその旨の記述がある。

URL: https://books.google.co.jp/books?id=TG2kN033mDkC&lpg=PP1&ots=6bsz6qC8-W&dq=Encyclopedia%20of%20Violence%2C%20Peace%20and%20Conflict%2CAcademic%20Press%2C&lr=lang_ja%7Clang_en&hl=ja&pg=PA799#v=onepage&q&f=false

It is presented to heads of state in the course customary exchanges of gifts, and to those who have served as president of UN General Assembly

「恒例の贈り物交換の際に各国首脳や国連総会議長を務めた人物に贈られる」とある

高官たちの贈答品交換の際に、国連側の贈答品のオプションとしてあるのだろう。つまり寄付の代価ということにもなりうるのか?

しかしそうなると芸術家に対して贈られているのはよく分からない。というのも、このメダルは元々パブロ・カザルスという著名な音楽家に対して贈られたものらしい。

もしかして平和活動を行う芸術家に対しては真面目に選考して授与しており、政治家たちには贈答品として授与しているということだろうか。

ともあれ特段表に出ている授与基準はなく、もっぱら国連事務総長をはじめとする高官がわりとノリで渡せる程度のものであるらしいことは分かった。そもそも同じ物を1200ドルで売っていたのだから......。

池田大作国連平和賞って何だよ

岸田首相内閣総理大臣名で池田大作への追悼文を出し、賛否両論を浴びている。特にX上でこれを擁護するポストには大まかな類似性があり、興味深い。

彼らの言い分はこうだ。

池田大作世界中の著名な大学からおびただしい数の名誉博士号を、そして国連から国連平和賞を授与された世界的な文化人であるからして、総理大臣が追悼文を出すのは妥当である

このうち名誉博士号についてはしばしば「金で買った」という噂が飛び交っている。ディプロマミルと呼ばれる詐欺的な学位授与団体現実存在することを踏まえての推測だろうが、真偽は判然としない。

そもそも池田大作創価大学創立者ということになっているのだから提携している大学要請すれば名誉学位程度は手軽に得られるのではないか正規手段とまでは言わないが、少なくとも大手を振って見せびらかすことができるルートで手に入れた学位なのではないかと思われる。

とはいえいくら数百もの名誉博士号を持っていても、それだけで現役の総理大臣が追悼文を出すのは尋常なことではない。

とするとやはり、国連平和賞が効いているのだろうか。

そのシンプル文字列から権威性がほとばしってやまない。誰がどう見たって「国連平和活動関係者に対して贈る賞なのか」とひと目で分かる。

X上では「国連平和賞だけはガチの実績がないと取れない」「国連平和賞が金で買えると思ってんの?w」等のポスト散見される。

ただ引っかかるのは、私が「国連平和賞」なる言葉を知ったのは今回が初めてだということである

いや国連平和賞って何だよ。俺が知らなかったのにネット逆張りイキりしてる有象無象が知ってたわけねえだろ。絶対胡散臭いだってこんなの。

そう思ったので少し調べてみた。

読者の皆さんも検索してみてほしいが、まず国連平和賞Google検索すると以下のような検索結果に大別される。

実質的wikipediaくらいしかまともな情報源がないので眺めてみる。

概要についてはこうあった。

国連平和賞(こくれんへいわしょう、英語表記United Nations Peace Medal)とは、国際連合が発行するメダル顕彰ひとつ国連ピースメダルとも日本語表記される[1]。受賞者には、ミュージシャン文化活動家、政治家宗教家映画監督などがいる

国際連合が発行するメダル顕彰ひとつ」とはっきり書かれている。これは驚いた。本当に国連が授与している賞らしい。実はまともな賞なのか?

沿革について。

> 第3代国際連合事務総長ウ・タントによって創設された[2]。各国代表が習慣的に贈答品の交換を行っているうちに贈呈されるようになった[2]。また、国際連合総会総長として尽くしたものにも授与される[2]。

ごめんやっぱりまともじゃないかも。

贈答品の交換を行っているうちに贈呈されるようになったって......もしかしなくてもコネってこと?

まあコネは金で買える場合とそうでない場合があるので「金で買えない」のは部分的に正しいのかもしれない。

日本人受賞者を眺めてみると、政治家岸信介福田赳夫笹川良一など錚々たる顔ぶれ。宗教関係者では池田大作立正佼成会青年部......いやあのこれどっからどう見ても国際勝共連g(ry)。これにはマザームーンもニッコリ。てかマザームーンいないの?逆に。

共産主義と戦うことは、広義の平和活動なのかもしれない。実際一理あるかもしれない。国連立場的にそれでええんか?というツッコミは置いておこう。

冗談はさておき芸術家系の受賞者はあまりそういった政治色はなさそうなので、そういった政治性のある賞ではないのだろう。

海外の受賞者にもそういった激烈な党派性は見当たらないので、やはり仲良しグループコネコネしたという方がしっくり来る。

日本語ではこれ以上まともな情報が出てこなかったので英語検索することにした。

幸いなことに日本語wikipediaには "United Nations Peace Medal" という英語表記が載せられている。これで検索すれば国連公式の受賞者リストや受賞基準などが出てくるかもしれない。

そうして一番上に出てきた検索結果は、メルカリだった。

United Nations Peace Medalが大量に出品されている (https://jp.mercari.com/search?keyword=united%20nations%20peace%20medal)。

いやそうはならんやろ。何で急にそうなるんだよ。

もしかして界隈では昔から有名な案件だったりするのか?わけがわからん。急に胡乱な話になってきたな。

商品紹介ページを見ていると「国連本部のビルで売ってた」とか「昔は国連寄付すると記念品としてもらえた」という話が出てきた。なるほどね。なるほどね?

そしてやはり、国連公式説明文書が引っかからない。United Nations Medalについてはヒットするものの、これは国連平和維持活動に参加した軍人警察官に贈られるもの記述があるため、明らかに宗教関係者が授与されるようなものではなさそうだ。

実際日本語版のwikipediaにも「国際連合PKO要員へ授与するUnited Nations Medal(国連メダル)とは別物である。」とある

仕方がないので英語版のwikipediaを読んでみた。

The United Nations Peace Medal is a commemorative medal produced by the United Nations to promote peace. First made by Franklin Mint in 1971,[1] a new design is produced annually, with limited editions offered for sale in gold, silver, and bronze.[2] Gold medals may be formally presented by UN officials as a diplomatic gift to heads of state, former UN Secretaries-General, and dignitaries visiting the UN Headquarters.[3][4]

国連平和メダルは、平和を推進するために国際連合制作した記念メダルです。(中略)。毎年、新しいデザイン制作され、金、銀、銅の限定版が販売されています金メダルは、国連の高官によって国家元首、元国連事務総長国連本部を訪れる要人に対する外交的な贈り物として公式に授与されることがあります

なるほどね。完全に理解した

私は国連平和賞胡散臭い賞ではないかと推測したが、それは誤りだった。そもそもこれは「賞」ではない。何というかその......メダルだ。

この訳は流石にミスリードを狙っているとしか思えない。訳した奴は一生反省し続けてほしい。

国連平和賞(こくれんへいわしょう、英語表記United Nations Peace Medal)とは、国際連合が発行するメダル顕彰ひとつ

この日本語wikipedia記述があまりにも味わい深い。

なるほど、嘘は書いていなかったのだと深く理解できるし、叙述トリックを受けていたかのような感動がある。wikipedia叙述トリックをするなナメてんのか?

流石に爆笑しかけたが、英語版のwikipediaの内容が捏造されている可能性も当然ある。

そもそもこれを外交的な贈り物としていたのなら、国連公式ソースがあってしかるべきだ。しかしそれが見当たらないのはどういうことか。

wikipedia脚注を見ると、公式文書があるようだがリンク切れしている。

幸いなことに国連デジタルライブラリー (https://digitallibrary.un.org/) にあったので見てみると、なるほど確かに一般人にも売っていたらしい (https://digitallibrary.un.org/record/98028?ln=en)。

メダル図柄記載されているほか「国連職員20%割引があるよ!」とか書いていて少し笑える。どうも注文書らしいフォーマットだ。

また公式ではないが1981/10/18に書かれたNew York Times記事 (https://www.nytimes.com/1981/10/18/arts/numismatics-the-value-of-smart-long-term-investments.html) にもメダルについての記載がある。

この記事は「堅実な投資先としてコインって案外良いんじゃね?」という少し頭の悪そうな内容の記事だが、そこでUnited Nations Peace Medalについての記載があった。

1981年国連平和メダルフランクリン造幣局によって製造されている。(中略)。この作品は、クルト・ヴァルトハイム国連事務総長が各国首脳やその他の訪問高官に公式に贈るために鋳造されているほか、コレクター向けに限定販売されている」

ゴールドシルバーバージョンはどちらも直径39ミリで、価格はそれぞれ1200ドルと55ドルである

どうやらそういうことらしい。

また、Encyclopedia of Violence, Peace, and Conflict という書籍のp.799でもその旨の記述がある。

URL: https://books.google.co.jp/books?id=TG2kN033mDkC&lpg=PP1&ots=6bsz6qC8-W&dq=Encyclopedia%20of%20Violence%2C%20Peace%20and%20Conflict%2CAcademic%20Press%2C&lr=lang_ja%7Clang_en&hl=ja&pg=PA799#v=onepage&q&f=false

It is presented to heads of state in the course customary exchanges of gifts, and to those who have served as president of UN General Assembly

「恒例の贈り物交換の際に各国首脳や国連総会議長を務めた人物に贈られる」とある

高官たちの贈答品交換の際に、国連側の贈答品のオプションとしてあるのだろう。つまり寄付の代価ということにもなりうるのか?

しかしそうなると芸術家に対して贈られているのはよく分からない。というのも、このメダルは元々パブロ・カザルスという著名な音楽家に対して贈られたものらしい。

もしかして平和活動を行う芸術家に対しては真面目に選考して授与しており、政治家たちには贈答品として授与しているということだろうか。

ともあれ特段表に出ている授与基準はなく、もっぱら国連事務総長をはじめとする高官がわりとノリで渡せる程度のものであるらしいことは分かった。そもそも同じ物を1200ドルで売っていたのだから......。

結論:

国連平和賞」は賞ではない。普通に買えるし、コネがあると貰える。

国連平和賞マジで実績が必要」は完全な間違いであることが分かった。何故ならそのような賞がないので。

国連平和賞が金で買えると思ってんの?」はジョークとして奇跡的な完成を見せている。United Nations Peace Medalはまさしく金で買えるものだった。インターン生も含めた国連職員にはディスカウントもあるよ!

池田大作国連平和賞をもらえるほどの文化人だった」という主張には一考の余地がある。というのも、United Nations Peace Medalを「もらう」ことは一般人にとって極めて難しい。それを可能にする人脈と知名度、そして最低限与えても問題ないだけの外面が要求されるだろう(A級戦犯被疑者岸信介笹川良一がもらえるんだから大抵の瑕疵は何とかなるのだろうが)。それを満たせるだけの大物という意味では、やはり池田大作はひとかどの人物であったのだろうとは思う。

しかしそれだけで内閣総理大臣名で追悼文を出すレベル文化人だったと言えるだろうか。多分言えないんじゃないかな。

2023-11-14

ボーカロイド音楽論」(ぱてゼミ)は何故あまり批判されないのか

追記そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。

【背景】

 東京大学東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義Twitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判ツイートはヒットしない(Twitter検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評Amazonレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。

 本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。

【本論】

まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。

1. 媒体:現地で行う音声形式講義では記録に基づく批判が困難であるという点。

2. 受け手資質講義対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しか批判に割くだけのリソースを持っていないという点。

3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。

4. コミュニティ:この講義ボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティ形成する役割を同時に担っており、コミュニティ批判との相性が悪いという点。

以下、これらの点を順に見ていく。

1. 媒体

 書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったかである

2. 受け手資質

 この講義は主として東京大学教養学部学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点から検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義のもの大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである

3. 内容

 ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。

 まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである

「テマティスムは、作家メッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ作家作品の細部から作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマ抽出し、作品価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)

さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師提唱している。以下に書籍抜粋を示す。

「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)

「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)

 つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。

 もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、

①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること

個別楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること

③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること

であるしか書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚思考俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能からである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。

4. コミュニティ

現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバム作成ちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティ積極的提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体マイノリティたる若者鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかコミュニティ形成するとはそういうことなである

最後に】

 「ボーカロイド音楽論」の講義書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしま未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。

追記:何故もっと批判されるべきなのか】

 強い言葉で言えば、

「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」

である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配杞憂であってほしいが)。

 筆者がこの講義書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。

1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。

2. 「思考俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考必要なぱて講師感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。

3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的しか思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。

注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンス書籍利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体利他行動も、種や遺伝子主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身生存繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないかである。(遺伝子自然選択対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択対象として観察可能ものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。

2023-09-26

万物黎明』は人類歴史を誤解している・続きの続きの続きの続き

国家に反対すること

フラナリーやマーカス、スコットらに倣えば、最近まですべての階級社会における中心的な政治闘争は、誰が土地を耕し、誰が食料を手に入れるかをめぐるものだった。グレーバーとウェングローの見方は異なる。彼らにとって中心的な問題権力であり、中心的な敵は国家である。そのため、彼らはいくつかの点で階級無視している。これは彼らがアナーキストからではない。ほとんどのアナーキストは、常に階級権力を同時に重視することができる。

しかし、『万物黎明』における省略は重要である。グレーバーとウェングローは、合意的で参加型の集会を支持する議論推し進めようと躍起になっているように見えるが、そのために私たちに一連の謎を残している。4つの簡単な例を挙げれば、その問題がよくわかるだろう。

著者たちは、都市における国家に先行することが多い、村落における階級格差の拡大には関心がなく、その文献を否定している。また、小王国領主爵位にも興味がない。中央集権的な大国家が存在しなければそれでいいのだ。私たちは、複雑な採集民に関する彼らの説明の中に、このような紆余曲折をいくつか見てきた。このようなことは、他の多くの例にも現れている。

インダス

インダス川沿いの古代都市モヘンジョ=ダロでは、約4万人が階級的不平等国家もなく暮らしていた。

そして彼らは、ヒンドゥトヴァ派の歴史家たちと同様に、モヘンジョ=ダロは実際に南アジアカーストに沿って組織されていたと示唆する。しかし、グレーバーとウェングローは、これは平等主義的なカーストであったと言う。最初は驚かされるが、彼らが言いたいのは、王のいないカーストの不平等容認できるということである[11]。

ナチェス

彼らは一貫して伝統的な王権の力を最小限に抑えている。ミシシッピ川流域のナチェズ王国がその好例である。グレーバーとウェングローは、太陽王権力凶悪な残虐性は彼の村の外には及ばなかったと言う。しかし実際には、ナチェズは白人プランター奉仕する奴隷貿易における主要な地域勢力であった[12]。

人間犠牲

グレーバーとウェングローは、残酷人身御供祭り世界中の初期の州で見られるという重要事実を正しく強調している。数十人から数百人が生け贄にされ、その多くは戦争捕虜若い女性、貧しい人々であった。

彼らは当然憤慨している。しかし、これらの生け贄の目的は、敵である他国の人々を恐怖に陥れることであったとも感じている。それとは対照的に、私たちは、流血の主な目的は、流血の実際の聴衆である残酷地方国家臣民を恐怖に陥れることだったと考えている。

実際、このような残酷さが、それぞれの国家の初期の歴史に特徴的なのはそのためだろう。国家正当性がまだ弱く、恐怖が最も必要とされていた時代である国家権力が強化されるにつれて、戦乱や敵対は続くものの、壮大な犠牲が消えていくのもそのためだろう。

集会

集会のもの重要最後の例である。グレーバーとウェングローは、古代メソポタミア王国国家における都市集会の力を極めて正しく指摘している。彼らは、これは王がすべての権力を持っていたわけではないという証拠だと言う。これは正しい。これらの王国階級闘争が止まっていたと考えるのは、よほどナイーブでなければならないだろう。

しかし、グレイバーとウェングローは飛躍する。彼らは、これらの都市議会は、参加型民主主義を掲げる「占拠せよ!」やその他の社会正義運動集会に似ていると指摘する。

古代メソポタミアでは、参加型民主主義いかなる形態についても、これといった証拠はない。しかし、他の階級社会における都市全体や全国的議会については、膨大な証拠がある。そのどれもが、富裕層や有力な一族によって支配されていた。古代スパルタでは地主支配していた。ローマ元老院も同様だった。ジョン王や男爵家もそうだった。そしてごく最近まで、ヨーロッパのすべての議会有権者富裕層に限られていた。

この近視眼は重要である。他の多くの人々と同様、私たち王国国家を、不平等社会における支配階級ルールを強化し、強制するために集まる方法として理解している。『万物黎明』では、そのプロセスは目に見えない。

* *

グレーバーとウェングローは怒っている。この怒りには、私たちのようにグローバルな不平等絶望し、グローバル・エリート政治を憎み、気候の混乱を恐れる読者を喜ばせるエネルギーがある。

多くの点で、彼らの本は新鮮な風を吹き込んでくれる。そして私たちは、既存のすべての国家に対する敵意を共有している。しかし、今後、気候変動を食い止めるためには、階級環境の中心的重要性を含む人間の条件に関する理解必要である

脚注

[1] Fredrich Engels, 1884, The Origin of the Family, Private Property and the State. The book was revived as a key text by socialist and Marxist feminists in debates about women’s liberation. Pace the 19th century social Darwinism which clearly took a lead from the Old Testament, it is now quite clear that both pastoralism and slash and burn agriculture appeared after, and not before, the advent of settled agriculture.

[2] Franz Boas, The Mind of Primitive Man, 1911; Claudia Ruth Pierpoint, ‘The Measure of America’, 2004; Ned Blackhawk and Isaiah Lorado Wilner, Indigenous Visions: Rediscovering the World of Franz Boas, 2018; Rosemary Lévy, Franz Boas: The Emergence of the Anthropologist, 2019.

[3] Very good examples of this work include Sara Hdry, Mothers and Others: The Evolutionary Origins of Mutual Understanding, 2005; Elizabeth Marshall Thomas, The Old Way, 2001; two articles by Steven Kuhn and Mary Stiner: ‘What’s a Mother To Do’, 2006 and ‘How Hearth and Home Made us Human’, 2019; Loretta Cormier and Sharon Jones, The Domesticated Penis: How Womanhood has Shaped Manhood, 2015; a key paper by Joanna Overing, ‘Men Control Women? The “Catch-22” in the Analysis of Gender’, 1987; two books by Christopher Boehm: Hierarchy in the Forest and the Evolution of Egalitarian Behavior, 1999, and Moral Origins, 2012; every book by the primatologist Frans de Waal; the two chapters by Brian Ferguson in Douglas Fry, ed., War, Peace and Human Nature, 2013; Richard Wrangham, Catching Fire: How Cooking Made Us Human, 2010; and two books by the trans biologist Joan Roughgarden: Evolution’s Rainbow: Diversity, Gender and Sexuality in Nature and People, 2004, and The Genial Gene: Deconstructing Darwinian Selfishness, 2009.

[4] Our favourites among the ethnographies of our near contemporary hunter-gatherers are Marjorie Shostack, Nisa: The Life and Words of a !Kung Woman, 1981; Jean Briggs, Inuit Morality Play: The Emotional Education of a Three-Year-Old, 1998; Phyllis Kaberry, Aboriginal Women: Sacred and Profane, 1938, Karen Endicott and Kirk Endicott: The Headman was a Woman: The Gender Egalitarian Batek of Malaysia, 2008; Richard Lee, The !Kung San: Men, Women and Work in a Foraging Society, 1978; and Colin Turnbull, Wayward Servants: The Two Worlds of the African Pygmies, 1978.

[5] Kent Flannery and Joyce Marcus, The Creation of Inequality: How Our Prehistorical Ancestors Set the Stage for Monarchy, Slavery and Empire, 2012; and James C. Scott, The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland South-East Asia, 2009; Scott, Against the Grain: A Deep History of the Earliest States, 2017. Martin Jones, Feast: Why Humans Share Food, 2007, is also very useful.

[6] Edmund Leach had made a similar argument in 1954 in Political Systems of Highland Burma, and radically changed anthropology. For a brilliant ethnography of one group of anti-class hill rebels at the end of the twentieth century, see Shanshan Du, Chopsticks Only Work in Pairs: Gender Unity and Gender Equality Among the Lahu of Southeastern China, 2003. For Scott’s recent extension of his argument to ancient Mesopotamia, see Against the Grain.

[7] This is all succinctly described in Brian Hayden, ‘Transegalitarian Societies on the American Northwest Plateau: Social Dynamics and Cultural/Technological Changes,’ in Orlando Cerasuolo, ed., The Archaeology of Inequality, 2021.

[8] Start with Philip Drucker and Robert Heizer, 1967, To Make My Name Good: A Reexamination of the Southern Kwakiutl Potlatch; and Eric Wolf, Envisioning Power: Ideologies of Dominance and Crisis, 1999, 69-132.

[9] Jeanne Arnold, ‘Credit where Credit is Due: The History of the Chumash Oceangoing Plank Canoe’, 2007; and Lynn Gamble, The Chumash World at European Contact: Power, Trade and Fighting among Complex Hunter-Gatherers, 2011.

[10] On the Calusa, see The Dawn, 150-2; Fernando Santos-Cranero, 2010, Vital Enemies: Slavery, Predation and the Amerindian Political Economy of Life, 2010; and John Hann, Missions to the Calusa, 1991.

[11] Rita Wright, The Ancient Indus: Urbanism, Economy and Society, 2010; and Andrew Robinson, The Indus: Lost Civilizations, 2015.

[12] Robbie Ethridge and Sheri M. Shuck-Hall, Mapping the Mississippian Shatter Zone, 2009; and George Edward Milne, Natchez Country: Indians, Colonists and the Landscape of Race in French Louisiana, 2015.

2023-08-30

実は、はてなダイアリーからはてなブログ強制統合された際に、完全な日記内容の移行がうまくいっていない

 

私は はてなダイアリー時代に、

 *t*“[https://example.com:title=ページタイトルかつ日記見出しタイトル]”

または

 *t*“[https://example.com:title]”

このような日記見出しを付けてる事が多かったが、はてなブログ強制移行された記事を見てみると、







“ページタイトルかつ日記見出しタイトル”   〔※当時指定したリンクが欠落している〕

または

“”








「  OH!  」

スカポンタン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

2019年はてなダイアリー終了し はてなブログ強制全移行統合されてから、ある程度に時間が経ってから 自分強制移行された当時の記事を見たが、その見出し(はてなブログでいうと記事タイトル)が欠損している事に その時に気付いた。

 

 

一応自分は、はてなダイアリーを閉鎖前にエクスポートしてバックアップ(下書き記事も)取っているので、ちょっと他人事で、「まあ、誰かそれに気付いて指摘しているだろう」と思っていたが、今でも杞憂か後悔か「自分が当時はてなにその不具合を言ってた方が良かったんじゃないか?」と時たま思い出すので、

(現在までの間に、はてダ時代の移行記事はてなブログで数年に数回程度見返したが、その部分が直ってないし。「まさか?誰もその不具合に気付いていない?」または「誰かそれに気付いていても誰もはてなに報告してない?」と。)

はてな公式から はてなダイアリーの終了発表宣告されてから約5年が経ち今更ながら、増田に書いておく。(本当は、もうちょっと後に(節目な11月07日とか 2024年頃)、この記事投稿した方がよかったんじゃないか?と思ったが…。)

 

 

これがきっかけで、全部 直ってるといいな。(泣)

 

 

実は現在まで自分の、はてなダイアリーバックアップ内容や状態など未確認なんだけども、まさかそっちも記事タイトルとか欠落してないよね…。

余談: 正直に言うと、はてなダイアリーの方が軽くて 貧弱なガラケー程度のブラウザで見れて書けて好きだったんだ。はてなブログMarkdownモードで書けて意欲的に見えてて嫌いじゃないんたけども…。

 

 

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2023-08-31 08:21 一部加筆修正

2023-08-31 08:52 追記として、はてブコメへ返信

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はてブコメへ返信

リンク先がなくなっていても、もしURLさえがあればインターネットアーカイブなどでリンク先のページを辿れる可能性がありますし、当時の記事自分が何のサイトや何に対してを言及してたか不明になってしまうので。

2023-05-20

LaTeXで、縦書き人文書のように全角括弧()級数下げをするマクロ

LaTeXで、縦書き人文書のように全角括弧()級数下げをするマクロを書いた。

テスト環境は、LuaLaTeX+jlreq

・「(」が来ると級数下げる

・「)」が来ると級数上る

・「()」のなかに入れ子の「()」が来た場合は、変更しない(本づくりのお作法

脚注内では「()」内も級数下げしない(本づくりのお作法

※ 「(」と「)」が対応してないと級数下げたまま、になってしま可能性があるので、ちゃんと合わせておくこと

\usepackage{relsize}\usepackage{newunicodechar}\newif\iffoot\footfalse\newcounter{parnest}\setcounter{parnest}{0}%()内の級数下げマクロ変数の準備(級数下げしたくない箇所は、()前後を\foottrue~\footfalseで括ること)

\let\origfootnotetext\footnotetext\renewcommand{\footnotetext}[2][]{\ifx\relax#1\relax \origfootnotetext{\foottrue #2 \footfalse}\else\origfootnotetext[#1]{\foottrue #2 \footfalse}\fi}\let\origfootnote\footnote\renewcommand{\footnote}[1]{\ifnum\ltjgetparameter{direction}=3\origfootnote{\foottrue #1 \footfalse}\else\origfootnote{\foottrue #1 \footfalse}\fi}%脚注コマンドを変更

\let\origendnotetext\endnotetext\renewcommand{\endnotetext}[2][]{\ifx\relax#1\relax \origendnotetext{\foottrue #2 \footfalse}\else\origendnotetext[#1]{\foottrue #2 \footfalse}\fi}\let\origendnote\endnote\renewcommand{\endnote}[1]{\ifnum\ltjgetparameter{direction}=3\origendnote{\foottrue #1 \footfalse}\else\origendnote{\foottrue #1 \footfalse}\fi}%文末脚注コマンドを変更

\makeatletter\chardef\my@J@kakkostart="FF08\newunicodechar{(}{\iffoot\my@J@kakkostart\else\addtocounter{parnest}{1}\ifnum\value{parnest}=1 \relsize{-0.5}\my@J@kakkostart\else\my@J@kakkostart\fi\fi}\makeatother%開くカッコは脚注外では級数下げ

\makeatletter\chardef\my@J@kakkoend="FF09\newunicodechar{)}{\iffoot\my@J@kakkoend\else\addtocounter{parnest}{-1}\ifnum\value{parnest}=0 \my@J@kakkoend\relsize{0.5}\else\my@J@kakkoend\fi\fi}\makeatother%閉じるカッコは脚注外では級数上げ(元に戻す)

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