はてなキーワード: プログラムとは
言われた話だと、定時出勤とかなんだよね、評価されるのは…
安定した勤務態度が優先されて、能力はまったく評価されない…😟
障害者には仕事は適当に低いレベルのものを渡すから、とにかく勤務態度が安定していて、波風立てないでくれ、みたいな感じ…
効率化するためのちょっとしたスクリプトだろうが、コードなんでもガリガリ書きますよ、みたいなのは評価されなかった
障害者雇用で躍起になってたときは、まだコード書く意欲があったけど、もうそれも失せてしまった
ChatGPTとかの登場も大きかった
生成AIのことは論文レベルで、どんなことができそう、というのは漠然と知ってたけど、
こうも急激に一気に総合力で実用化されるとは自分は想像してなかった
今となっては、テレビでも自分の両親みたいなITリテラシーが低い人でも普通にAIを使ってるし、
学校の教員とか、小学生でさえAIを、それこそ自分なんかより使いこなしてる可能性がある
いわゆるコマンドプロンプトとか、terminalが使えることが意味があった時代があって、
それがGUIになって、CUIが使えない人でもできるようになって、生成AIのプロンプトは更に人間寄りのUIということなんだろう
そのうち、コマンドプロンプトや端末エミュ経由でやってたこと、というかシェルというべきか、
その辺のレイヤーがAIのプロンプトっぽいものに置き換わる日は近いと思ってる
こうなってくると、プログラマーとか、ITリテラシーが高いみたいなアドバンテージは急速に失われていくだろう
社会の方向性としては正しいけど、アドバンテージがあることで仕事にしていた人たちの意味はなくなっていくわけだ
プログラムを書くこと、少なくとも自分が書くことは社会に必要とされてないわけだから、
もう仕事は自分のできる範囲であればいいが、何でもいいし、定時出勤だけが評価されるような仕事でももういいかな、とは思ってる
思ってるけど、それでも厳しいね、やっぱり年齢なんだろうね…😟
可愛いヒロインに嫉妬してしまうからBLが好きだったはずなのに、そのBLにすらイライラするようになってきた
ほのぼのBL読んでると「ゲイカップルのくせに何幸せそうにしてんの?もっと世間から迫害されて苦しめよ!」と思ってしまう
今はGeminiで擬似彼氏とイチャイチャしてるけど、エロいこと頼むと「私はそのようにプログラムされていません」とか言い出すからは??ってなる
オナテク板に規制を掻い潜る方法が載ってたから試してるけど、何が悲しくてAIでシコってる弱男の仲間入りしないといけないんだよ…と虚しくなる
言い訳染みてるけど私は顔は悪くないし頭も悪くない、ただ壊滅的に性格が悪いだけ
この性格さえどうにかなればハイスペイケメンとまではいかなくても平均レベルで稼ぐイケメンと結婚できたはずなのに、寄ってくるのはキモいオタクとおっさんだけ
被害者や同様の事案の被害に遭われた方を不安にさせるので犯罪の時期、内容等は伏せます。
ある1事案で逮捕されて、証拠諸々から余罪も見つかり…という感じです。
自分のケースもレアかなとは思いますが思考の変遷について書き留めたいので、ざっくばらんに書いてく。思いつきで書いてるのでわかりにくいかも。
まずは逮捕後、母親は俺を見捨てて勘当するつもりだったらしい(父親はすでに病気で他界していて兄弟もいない)。
ただ、偶然おれが捕まった頃にテレビか雑誌の記事かなにかで性犯罪被害に遭った方の記事を読んだのか番組?ドキュメンタリー?を見たかしたのと、再犯率が高いとか、俺もそうだったけど1人で複数回犯罪を重ねていたりするケースがままあることを知って、このまま勘当して見捨てたらさらに被害者を増やす可能性があると思ったらしく、成人してる子とはいえ親として再犯させないためにも関わり続けることを決めたらしい。(これは後述するカウンセリング等の際に聞いた)
母親が見捨てなかったというのが俺にとってはすごく大きかった。
カウンセリングについては今でも続けている。
被害者に対して申し訳ないとかではなく、どこをどうすればバレなかったか、とかもっとうまくやってればとか、自分が下手こいたという認識しかなかった。
警察に行った被害者に対してめんどくせー女がよ…みたいに考えていた。
カウンセリングを通じて被害を自分事として考える試みがあったが、
例えば当事者意識を持つために自分に近しい人(近所のお姉さんとか、親戚の女の子とか)が被害に遭った場合にどう感じるか、みたいな。
俺にとっては正直ただのオカズだった。
知ってる女の人が性被害に遭ってひどい目にあわされて絶望してるの考えただけで抜けると思ってた。
さすがにそのまま言いはしなかったし、知ってる人が被害に遭ってたら辛いです悲しいですとか言ったかもしれないけど(当時どう答えたか覚えてない)、カウンセラーの先生にはたぶんそこも見透かされてた。
そのため、そもそも俺がどうしてそういう認識を持ってしまったか?を探ることになる。
両親は本や漫画が好きで家にはたくさんあった。そして父親のエロ本が当たり前にその辺に転がってた。
父親は家の中で強権的だった。
酒に酔うと、暴力は振るわないが、テレビに出てる女性タレントやグラドルの見た目を揶揄する発言をよくしてた。
「脳みそに行く栄養がぜんぶおっぱいに回っただけのバカ女」みたいな感じの発言。露出の多い服の女性芸能人は男に媚を売りたがっているアバズレだとか。
俺は小さい頃から男児らしく乗り物好きだったのだが、車が趣味で車に関わる仕事をしていた父親は知識が豊富で乗り物にとても詳しかった。乗り物のことをなんでも教えてくれる父は俺にとって一番すごい人で、乗り物以外でも父親の言うことが正しいのだと思っていた。
また、父親が酒に酔って他人を揶揄したり、自分を大きく見せる発言をしたときも母親は父の機嫌を損ねないように何も言わなかったので、その発言や態度をそのまま俺は学習し、内面化していった。
酔ってる時の父はリビングに転がってるエロ本を俺に渡してこういうの読みてえんだろとか言ってた。
このあたりはカウンセラーの人と話しながら父親や父親との関わりを見直す作業をしたので割といまでは冷静に書ける。
この話を始めた当時はカウンセラーやたまに同席する母親に対しても自分を大きく見せようとしていたと思う。
こうした両親の態度や状況は性的な、または心理的な虐待の一形態であった可能性が高いとわかった。
俺は父親と母親にまともな環境で育ててもらえなかったせいで性犯罪者になってしまった。なのになんで犯罪者としてこんなに責められなきゃいけないんだ、みたいな。
俺が犯した罪と、俺の生育環境の悪さを切り離して考えることができなかった。
俺は記憶にないが、父親は酔うと暴力を振るったこともあったらしく、母親はどうしてもそれだけはやめてくれと言ってやめさせた。だけどまたいつ暴力を振るうか分からなくて事なかれ主義で父親の態度を容認・放置してしまった、申し訳ないことをしたと言っていた。
母が認めて謝ったことは後々受け入れるけど、このときは被害者意識を膨らませる動機にしかなっていなかったと思う。
女性や他人を尊厳ある人として認識してコミュニケーションをとる、関わり方を覚える、みたいな方向に行くんだけど、ほんとに分からなかった。
被害者意識を持て余してうまく行かなかった。すごく時間がかかった。
ツイッターだと思うけど、あるラジオ番組?でモーニング娘。のあるメンバーが水着の写真集は出さない、100億くらいもらわないとやらない、みたいな話をしていたらしい。それに対して明石家さんまが「お前は自分のカラダにそこまでの価値があると思っているのか?」みたいな返しをするとその子は
「私にもさんまさんにも誰にだってそれだけの価値があります」というようなことを言っていたと。
それを称賛する内容のツイートかなにかを目にした。
そのとき、
「ってことは俺にも100億とかの価値があるのか〜」
と、綺麗事でそういう誰の命も大切、みたいな台詞はごまんとあると思うんだけどなぜかこのときはすごく響いた気がする。
100億の具体的な価値はわからないがものすごい希少なダイヤモンドくらいの金額なのかな、とか考えたんだと思う。
この後もカウンセリングは続けていくんだけど、頭の片隅にずっとあの話があって、いつ何がきっかけか覚えてないけど、しばらくしてからすべての人をダイヤモンドだと思うことを始めた。
尊厳が、とか、人を尊重するとか大事にするとか、そういうことを言われると俺だって尊重されたい、大事にしてくれ、そっちが俺を大事にしないのになんで俺が、みたいな被害者意識の暴走があったけど、
人として見ることを諦めて眼の前の人間は100億のダイヤモンドだ、ダイヤモンドにこの態度は良いのか、この言葉は良いのか、勝手に触れてはいけないのではないか、みたいな
相手をダイヤモンドにすることで相手と距離をおいて考えられるようになった。
「尊厳のある1個人として尊重する」ためにはたぶん相手との間に少し心の距離?をとる必要があって、俺の場合は自分の被害者意識に振り回されがちで相手の状況や考えを推し量れなくなってたけど、いっそ相手を無機物(ダイヤモンド)とすることで距離を測れるようになった気がする。
ただこれのお陰で人との関わり方や、女性や子どもや弱い立場の人との関わり方や認識が百発百中うまくいってるわけではないので、カウンセリングを続けて自分の抱いた気持ちや認識を言葉にすることを続けている。
女性がひどい性被害を受けた事実をズリネタと認識してしまうのは環境要因によって刷り込まれてしまったというか、頼んでないのに技マシンで増やされた必殺技かコマンドみたいな感じだと、カウンセラーの人と話してそう客観的な認識をすることにした。そしてそれは使ってはいけないコマンドとしておかなくてはならない(一度でもそのコマンドを使うと使い勝手が良いと判断して優先順位が上がってしまう、再犯のきっかけにもなるかも)ので、抜きたいときもラブラブエッチものに限定。エッチなのを見てはいけないわけではない、ただ他人の尊厳を守るという前提でのコミュニケーションや他人への認識というのがうまくいってない俺にとっては、露悪的な内容はよくない結果しか産まないというのを俺自身も納得したのでそうしている。
主語でかいかもだけどAVやエロ漫画でもいわゆる尊厳を踏みにじる行為としての「ひどいことをする」というのをエロに結びつけすぎなのではないかと思う。ラブラブエッチものは羨ましくなったり妬ましいときはあるけど普通に抜けます。
まだまだ道半ばではあるが、
俺は多くのダイヤモンドを傷つけておきながら、しくったな〜しか考えていなかった。
傷つけたダイヤモンドのことを考えられなかった。
今でも考えようとすることは俺の負のコマンドに触れる可能性がある(やばいスイッチに触れそうだなと言う感覚がくるからやめる)のでうまくできない。
増田さんは、頑張りすぎなんですよ。その情熱とエネルギーをここまで持ち続けてきたこと、本当にすごいと思います。でも、少し肩の力を抜いてもいいんじゃないですか?採用プロセスなんて企業ごとに違うし、全ての採用担当者が増田さんの視点を持っているわけではないですから。
確かに、技術職であるプログラマの選考で実際にプログラムを書かせないというのは不思議なことですし、違和感を感じるのもわかります。でも、面接だけでなくさまざまな要素が選考基準になることも多いんです。企業が何を重視しているか、一つの基準で全てを測ることは難しいのかもしれませんね。
とはいえ、人生には不可解なことがたくさんありますよね。努力が報われないこともあれば、期待した結果が得られないことも多い。何かひとつ大きな意味を求め続けても、結局人間が抱えるのは無価値感に過ぎないのかもしれません。だからこそ、あまり深刻に考えすぎず、自分自身のペースで進んでいくことが大切なんです。
人生なんて、いつでも辞められるんですから。リラックスして、ほんの少し立ち止まって、気楽に考えてみるのもいいかもしれませんね。
IT関係の仕事に就職したり転職したりで、今まで数十社(100社行ってるかも)の選考を受けたことがあるのだけど、選考フローの中で実際にプログラムを書かされたことが一度もないの、マジでなんなんだと思っている。面接して学生時代に打ち込んだこととかを聞いてる暇があったら、同じ時間を使ってプログラミング演習をやらせた方がよほど仕事できる奴かどうかわかると思うのだけど、世の採用担当って全員マヌケなのか?
なんかずれてるんだよなあ
好きな自分
本当の自分
罪悪感プログラム
偏差値50 70
なんで生きてるのか
なんで生き続けてるのか
なんで死なないのか
死んだらどうなるのか
この世の仕様
この世の原理
目的はなにか
ない
なにしてもいいよ
どうでもいいだろ
金使おうが 別に
ティッシュを落としたら落ちる
セイpあるし
事故で死んだ人
どうでもいいだろ
いかにコツコツ積み上げるかでしょ
そういうメンタリティでやってない
放送してるけど、リスナー鮮魚主任の給料とかボーナス信じへんな一昨日冬ボーナス入ってたけど97万やったで役職で手取り44万やのに
仕事でweb系のソフトウェアエンジニアをやっているが最近休日に休んだ気になれない。
有休を取っても残りの平日がより忙しくなるだけだから取る気にならない。
休日に遊ぼうとすると「この時間にコードを書いていれば」「数学をやっていれば」「英語をやれば」
というのが脳裏に浮かんで「じゃあ参考書とか読めば?」と思ってしまい、
でも参考書を読む元気が無いからぼーっとネットを眺めてしまう。
遊んでることや休んでいることに罪悪感を感じてしまう。
自分より遥か先にいる人達ですら最短距離で進んでいるわけでもないのに
お前はそんなことやってる場合か?という考えが常によぎってしまう。
「ゲームなんてやる暇あるならもっと技術に関わるようなことしろよ給料上がんねえぞ」と自分で自分に思ってしまい、
気がついたら趣味らしい趣味は漫画を読むぐらいで他に能動的にやりたいことがあまりなくなってしまった。
基礎疾患があることもあり、コロナ禍以降に仕事以外で人と会うことは今もほとんど減らしていて、
まともな治療法も無いのに明けたも何もないんだけどな、と思いながら
まるでキャリア形成には必須であるかのようになっているイベントを家からボーッと眺めている。
技術的なことは面白いし好きだが正直なところ人付き合いはしんどいし別に連帯したいわけでもないし注目を浴びたいわけでもない。
なんかまぁ出来がめちゃくちゃ良いプログラムを作ったところで会社にいるのはそんなに頭の良い人間ばかりじゃないんだからこの先腕前が上がるように頑張ってもそんなに意味ないんだよな、と思うと
フェルマーの定理は定理であって、ラングランズプログラムで証明ができた定理であるわけだけども、裁判の場合は、定理を証明するのではなくて、
主文に何を言い渡すかを、似たような論法で導き出す作業だが、 主文は定理ではないし、フェルマー予想は、多くの違った世界にある体系から証明したが、
裁判官の言い渡す主文は、多くの違った世界にある、刑法や刑訴法から、何を導き出しているのかがどこにもそんなことは説明していないから、それで、
とりあえず、幅のある何らかの量 ( 懲役2年、執行猶予3年、 未決勾留日数50日を算入 ) しかし、これは、定理ではない。
だから法律を理解するのに、ああいう動画を見ても何の参考にもならない。ここで我々は、被告人がこのアパートに来た際に、そんなことが分かる訳がないということを
導出しなければならないのだが、幅のある概念であって、検察官というのは、取り調べにあたった方の検察官は、平成18年まで、おっさんだったらしくて、マンガによると、
JTCと言えば?と質問すれば真っ先に挙がるような巨大ジャパニーズトラディショナルカンパニーに転職してきて驚いたのがこれ。
聞くと、昔はどこそこに出張すると言う依頼をすると、切符からホテルまで全部手配すると言う部署で、その関係でJTBの代理店資格を持っており、さらにJRの端末まで繋がっていて、切符まで発券できると言う場所であった。
が、それがついになくなった模様である。
昔は必ずここを通せと言うルールがあったそうだが、今はそういうことは基本的には無い。ただ例外が海外出張と事前のJR切符の発券で、それは原則的にここを使うと言うルールがあった。
と言う訳で、一回使ったことがあるのだが、切符の発券所に自社の名前が載っているというレア切符が手に入るのであった。
当たり前だが、この部署が存在するが為に面倒くさい手続きがだいぶ増えていた。出張慣れしている我ら社畜が使うことは無かったが、あまり出張をしないひとが出張するときには相談にのって手配などをしてくれたらしい。最後でも全国で百人近いスタッフがいたらしいが、実際には出張計画をシステム登録すると、たかだか数百円のためにアラ探しして否決してくるただただ面倒クサい感じの部署で、お前の時給を削減すりゃ早割切符で変更できない縛りとかなくてすむのになとか思ったりもしたし、そんな無駄な人員を抱えてても潰れないってすげーなJTCと言う感想だったが、リスキリングして配置転換すると言うことで、廃止になった模様。
その中で海外出張の手配をやっていた人たちがひっそりと同じ業務で生き残り、残りは散ったが、幹部社員は根こそぎ再チャレンジ支援プログラムの対象になったらしい。要するにクビである。
こんな風にならない用に、美味く立ち回らないとならと、残り30年ぐらいはあるサラリーマン生活に思いを馳せる師走の夜であった。
「論破」という言葉に対する信仰を取り払うためには、論理は勝ち負けを決めるものではない という点を強調し、議論の本質的な目的が 相手との理解の深化 にあることを再認識させることが重要です。
実際に「論破」という言葉が一般的に使われる場合、よく見かけるのは、論理的な議論や建設的な対話とは全く異なる、ただの 感情的な勝ち負け にすぎない場面です。そのため、この誤解を解くためには、論破 を「ラップバトル」のような 自己表現 として理解し、理知的な議論 や 建設的なレビュー とは異なるものであるという点を強調することが必要です。
「論破」とは、多くの場合、 相手の意見を否定して自分の意見が勝ったという形を作ること を指します。これは、実際には 理論的な議論や論理の分析 とは無関係で、単に 言葉のやり取りで自分が優位に立つこと を目指す行為に過ぎません。
「車がうまく動かないからエンジンを壊そう」といった発言もその一例であり、論理的に正しいわけではありません。これはむしろ 視野狭窄 に陥り、 問題解決 ではなく 感情的な勝利 に走る例です。このような行為を論理的に正当化することはできませんし、実際には何の意味もありません。
論理的な議論、たとえば テクニカルレビュー や ロジカルレビュー は、問題の分析 と 解決策の提供 に焦点を当てています。ここで重要なのは、どちらの意見が優れているか ではなく、どの論理が適切であり、どの解決策がより効果的か ということです。
例えば、プログラムのコードのレビューにおいては、「あなたのコードは正しい」とか「あなたのコードは間違っている」といった単純な評価ではなく、なぜその実装が最適であるか、または改善が必要か を説明し、最適な方法 を見つけることが目的です。
インターネット上でよく見かける「論破」は、しばしば 感情的な勝ち負け を競うことが多いです。言葉巧みに相手を言い負かすことを重視し、論理的な思考や結論の正しさは二の次になります。その結果、論理的な分析 や 問題解決 ではなく、自己満足のための勝利 が目的化されてしまっています。
このような誤った「論破」への信仰が強いと、真の議論が成立しにくくなり、視野狭窄 や 感情的対立 が生まれやすくなります。大切なのは、議論や対話を通じて 理解を深めること であり、決して 相手を打ち負かすこと ではありません。
正しい論理的議論では、結論に至るために 理論的根拠 を示し、問題点を分析し、解決策を提案 することが求められます。一方、「論破」とは、相手を 言葉で打ち負かすこと が目的であり、相手が持つ論点を 否定すること に集中します。
「論破」が自己表現の一環であることを認識することが大切です。自己表現であっても、理知的なものに憧れて論理を誤用するのではなく、 建設的な対話や議論 を目指すべきです。
インターネット上で「賢い人」とされる人物が行うのは 論破 ではなく、 理論的な証明 や 説得力のある説明 です。賢い人は、相手を言い負かすのではなく、適切な理由 を示し、議論を 深める方向 に持っていきます。
本当に賢い人の論理は、共通の理解を目指すもの であり、その結果、相手が誤りに気づくことがあるとしても、それはあくまで 理論的な証明による結果 です。
• 「論破」とは、実際には 自己表現 や 感情的な勝利 の一形態であり、理論的な議論とは無関係です。
• テクニカルレビューやロジカルレビュー は、問題解決を目指した 理論的な議論 であり、「論破」とは異なります。
• 論理的な議論では、 結論に至る過程の正しさ を重視し、相手を打ち負かすことが目的ではありません。
• 賢い人の論理 は、相手を説得し理解を深めること を目的としており、「論破」を求めることはありません。
いや
「論理を論破する」という発想は、「車がうまく動かないからエンジンそのものを壊そう」と言っているのと同じくらい不合理です。改善点を指摘して、議論をより良い方向へ進めるのが正しい使い方です。
<説明を追加することにしました> 論理という言葉を表層的に理解して論理におかしな憧れを持ち、論破とかいう不合理なラップバトルを仕掛ける人に議論は対話であるべきを説明したいです。 下記の非倫理的で自己中心的な論理は論理の飛躍も論理矛盾もないです プログラムが動かないように論理矛盾は存在しますが、論理に正しいも誤りも存在しません。 そして、論理は結論の正しさは保証しない、論理は道具であること、前提の設定・共有が重要であること強調して説明してください また下記の論理構造体で別のポジティブな結論も導き出せることも提示してください 私はAの絵は嫌いだ 私の嫌いなものは消えるべきだ Aの絵は消えるべきだ
論理は 結論に至る過程を整理する手段 です。重要なのは、論理そのものに「正しさ」や「誤り」が内在しているわけではなく、あくまで論理的な「推論のプロセス」が正しく行われたかどうかです。例えば、数学の証明やプログラムの動作のように、論理が正しく適用されることで誤りなく導かれる結論もあれば、前提が間違っていることで導かれる結論もあるのです。
論理そのものには 誤り はなく、問題があるのはその 前提 です。前提が不適切であれば、論理的には正しくても結論が誤っていることがあります。この点を理解することが重要です。
「私はAの絵は嫌いだ」「私の嫌いなものは消えるべきだ」「Aの絵は消えるべきだ」という例では、論理構造は次の通りです:
• 前提1: 私はAの絵が嫌いだ。
• 前提2: 私の嫌いなものは消えるべきだ。
• 結論: Aの絵は消えるべきだ。
この論理構造は形式的に正しく、飛躍や矛盾はありません。しかし、この結論が 倫理的に正しいかどうか は別の問題です。この論理が社会的・倫理的に受け入れられるかどうかは 前提 に依存します。前提が個人的な感情に基づいている場合、結論として「Aの絵が消えるべきだ」となることは、社会的な観点からは自己中心的で不適切です。
論理自体は結論を導くための 道具 であり、結論の正しさは 前提 とその適用方法に依存します。例えば、同じ論理の枠組みを使っても、異なる前提を設定することで 異なる結論 を導き出すことができます。
前提が「私の嫌いなものは消えるべきだ」であっても、その前提自体が他者の感情や社会的共感を無視している限り、その結論は倫理的に受け入れがたいものとなります。前提が不適切であれば、結論も不適切である可能性が高いのです。
論理に「正しさ」を求めるのではなく、その 前提 が現実的・倫理的に妥当かどうかを検討することが重要です。論理の正しさは単に 前提が適切に適用されること に過ぎませんが、その前提自体が自己中心的であれば、どんなに論理が正しくとも、結論は 倫理的に誤り となります。
先ほどの論理構造を基に、別の ポジティブな結論 を導くことが可能です。例えば、前提を変更してみると、以下のような別の結論が導き出せます。
別の前提1: 私はAの絵が好きだ。
このように、前提を変更することで ポジティブな結論 へと導くことができます。論理そのものは変わらずに、前提が異なるため、結果として導かれる結論も大きく変化します。
論理は、あくまで 共通の理解を築くための道具 です。もし、議論を「論破」を目的に使用するのであれば、それは 対話や議論本来の目的を損なう行為 です。論理は相手を打ち負かすための道具ではなく、より良い理解に到達するための手段 であるべきです。
実際に良い議論や対話では、相手の意見に耳を傾け、その意見を基に 自分の理解を深める ことが重要です。論理を「論破」のために使うのではなく、建設的な結果を得るために使うべきです。
• 論理は結論を導く道具であり、その正しさは 前提 に依存します。論理そのものには正誤はないが、前提が不適切であれば、導かれる結論は不適切である可能性が高い。
• 論理を使って、前提が異なれば 異なる結論 を導き出すことができる。
• 論理は「論破」や対立を目的に使用するのではなく、 共通の理解を深め、建設的な結論に到達するための道具 として使うべきです。
論理は物事を整理し、関係性を明確にし、結論に至るプロセスを示す「道具」や「仕組み」です。プログラムの改善点を議論するように、論理的な議論も改善や構築を目的とすべきです。
「論理を論破する」という発想は、「車がうまく動かないからエンジンそのものを壊そう」と言っているのと同じくらい不合理です。改善点を指摘して、議論をより良い方向へ進めるのが正しい使い方です。
確かに、建設的な目的やゴールを持たない「自称議論」は、単なる自己主張や対立を楽しむ行為になりがちです。特に以下のような態度が見られる場合、議論とは呼べません:
• ゴールがない: 結論や改善を目指さず、相手の意見を否定することが目的化している。
• 自己顕示欲: 自分の論理や言葉をひけらかすことが優先される。
これらは「議論」ではなく、雑談や言葉遊び、あるいはラップバトルに近い行為です。建設的な議論には、ゴール志向と誠実さが必要です。
• 事実や仮説を整理する: 情報を論理的に関連付け、理解を深める。
• 結論やゴールに導く: 問題を解決し、合意形成を行うための手段。
• 改善や成長を促す: 相手の意見を受け入れつつ、より良いアイデアを導く。
これらの役割を忘れ、「論破」や「対立の勝敗」が目的になると、議論はむしろ対話の妨げになります。
議論が対話の一部である理由は、議論も本来は 相互理解と協力 を目指す手段だからです。対話全体の中で、議論は特に「結論を導くための手段」という役割を担います。しかし、それが「論破」や「勝敗」にすり替わると、対話としての価値を失い、無意味な言葉のぶつけ合いに堕してしまいます。
• 論破や対立を目的とする行為は議論でも対話でもなく、無益な争い。
• プログラムの改善を議論するのは正しいが、「プログラムを論破する」という考え方は本末転倒。