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はてなキーワード: 定言命法とは

2024-11-27

好き嫌い善悪や良い悪いは別物だと言う人がいるけれど、あんまりそうとも思えなくて色々考えてた。

後者構成する要素が様々にあるとしても、結局全て個人の快不快の集合に帰結しそう。

宗教・法・倫理等々の社会規範文化技術方法論、色々な要素を基準とした善悪や良し悪しがあるけれど、その基準のものがやっぱり根源を辿っていけば快不快をどれだけもたらすかを問題としてる。その形成過程政治的ものであるにせよ、何らかの共感ナラティブによるものにせよ。

(道具的ではない)理性なる概念も、いまいちしっかりと定義実証?)出来ない。定言的義務なんて言っても、それを揺るぎないものとする根拠に欠ける。あったらあったで結局それは仮言的ものしかないし、そんなメタ規範があるとしてもまた定言命法同様の矛盾を抱える。黄金律にはなり得ず、単なる主義主張しかまらない。それが普遍性を持ち効力を発するとしたら、政治的過程によってなんだろうな。自然法則価値判断を行わないし、神は言葉を聞かせてくれない。政治なんて快不快原理の擦り合わせそのものだし、であれば「理性」なるものの根源も快不快感情に基づいた欲求以外のものが見当たらない。

ただ還元主義では複雑系理解出来ないとも言うしな。

個人の快不快集団において相互作用する。衝突が発生したり、強固に結束する事もある。その中で、快楽を最大化する手段として新たな規範なんかが生じる。宗教的信念なり功利主義なりの主義であったり、あるいはもっと具体的個別的な法であったり、美意識であったり。

それらが蓄積・継承されたり、更にそれら同士が相互作用を生じることで、個人の快不快原理に対しても影響を与える可能性があるのも事実かもしれない。

ただやはり基盤にあるのは個人の快不快感情であって、それを超越するような要素が相互作用の中で発生するようには見えない。

まるっきり別物のように扱うほど異質なものでもないのではなかろうか、という結論に至った。

2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

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2024-07-29

根源を遡っていけば共同体の在り方への漠然とした信仰しか残らない点で人権思想宗教と変わりないし、どう考えてもイデオロギー以上のものではない。

それなのに人権絶対だという人間が少なから存在するのを割と不思議に思ってた。

別に倫理学なんか学ばなくとも単純に「なぜ?」を繰り返せばその結論に至ると思う。

学んだ所で、根っこの部分の正当化は割とお粗末な感じな気がした。おれはね。自然法とか定言命法とか直観とかさあ。

私たち道徳的直観が「それは差別である」と判断します、とかもう何でもありじゃん。

そういうのと道徳的直観ではない個々人の感覚とをどう区別すんの?それこそ「それってあなた感想ですよね」案件なっちゃうよね。

普遍性要求するのなら誰の目にも明らかな論理必要だけれど、それでは他の何らかの前提に寄りかかった仮言的な留まってしまう。

その前提となるような部分が倫理規範の根幹になる訳で、でもその前提自体には普遍性を見出だせない。

まあ当然と言えば当然で、論理目的や前提あってのものに過ぎないし、後者はいくらでも自由に設定出来てしまう。仮説と検証の繰り返しでなんとなくのルールが見えてくる所与の自然法則とは話が違って、どこまで行っても「こうあるべき」という規範形式を逸脱出来ない。

はいっても共感だとか、実定法としての合意だとか、そういう点で普遍性とまでは言わなくとも正当性なり妥当性を見出だせなくもない気はする。

これも多数決なり功利主義なりを前提として要求する気がするけど。

合意っつったって、いつそんな合意を取ったんだよ?って感じはする。生まれた時に契約書の一筆でもしたためたか?これはあらゆる法規範に言えてしまうけど。

まあ生まれた時点で強制加入で、人を殺すなり何なりの行動を意思表示として破棄できる合意とでも言えなくもない気もする。

理屈はさておいてまあなんとなく共感は出来るし、そっちの方が良い気もする。じゃあそれをルールしましょう、っていう。そういう正当性の確保。

でもそれってもう政治領域の話じゃないですか。

宗教のそれに対する世俗規範の優位性があるのだとしたら、それはひとえに政治的に確保されたものに過ぎなくて、普遍性問題ではない。

という所を踏まえると、「人権絶対だ」と言うのも実は政治をやってるんじゃないかって気がした。うっすら思ってはいたけど、ちょっと確度が上がった。

何らかの信仰に基づいて人権という概念を本気でこの世の黄金律だと思っているんなら、まあ素直にそう言うんだと思う。

そうではなく、絶対原理でもなければ自明に「ある」ものではないと自覚していたとしたら、わざわざそんな事言って相対化したりその価値を揺らがせるような真似はしないのかもしれない。そんな余計な真似をして、わざわざ一度作り上げたものを解剖してみせるメリットがあまりにも少ない。

絶対ではないながらも守るべきものだと思っていればこそ、絶対存在であるかのように振る舞う。そしてその振る舞いが共同幻想をより強固にしていく。

これも不断努力というやつなのかな。なんか猿の惑星で全ての真実を知りながら、人間と同じ轍は踏むまいと宗教コミュニティをまとめてた奴を思い出した。

2024-06-03

カント定言命法ってなんかそれっぽい用語を使ってるから何らかの原理みたいに思えるけど、要するに仮言命法とは違って論理性という錦の御旗のないただの主義・主張でしかないんじゃないか?って思った。

他人に最低限の敬意を持ちましょう。って言われてまあそうかもねっていう素朴な共感はあるけど、それは感覚問題であってそこに論理はない。もっと言えばその感覚すらも社会的形成されたもの、というかキリスト教倫理規範のものなんじゃないか?って思う。

じゃあカントによる道徳の再定義正当化も、論理性・合理性という現代(?)風な科学ツールで飾り立てつつ、結局は聖書価値規範リブートしただけなんじゃないか?って思った。

もっと遡れば、じゃあその他敬を良しとする社会はどう構築されたののか?無から湧いてきたのか?って問題が出てきそうだけど。

神様がそうしたからです、という答えなら簡単に済む。人にそういう機能プリインストールされてるからです、だとそれも道徳正当化に使えそうだけど、事実規範すり替えないといけない。

道徳根拠として定言命法を持ち出すのは、少なくとも論理で語れる面については色々と新しい発見をしているすごいカント先生の言う事だから説得力があろうっていう権威主義的な要素もあるんだろうか。

実際に人間尊厳という概念社会に影響を与えているというのは事実にしても、それは別に論理必然性との関係はないよね?って思う。

そんなに徹底して厳格に理詰めで考えてたら、そもそも規範なんてありませんというニヒリズムに辿り着かざるを得ない。

じゃあある程度は感覚的なもの依拠する規範公理として置いて、そこから道徳の話を始めようって事なのかもしれない。それがキリスト教人権思想かは知らんけど。

そういう話ならまあ分からんでもないけど、それだとかなり重大な前提条件あっての議論な訳だし、それをさも論理的に話をしてるんですけど?みたいなスタンスで行くのは欺瞞じゃねえか?

って倫理学の講義聞きながら思った。

2022-01-04

anond:20220103171529

車許容する社会指摘増田(以下、車増田)氏の言いたいことは

人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という話かと思います

もう少しこの表現抽象化させると

大多数の利便性を優先して、人命軽視を許容しているのではないか、という話になると思います

一旦この解釈が正しいとすると

ブコメに多くあったメリットデメリットの話は若干回答がずれている、というかあまり良い回答ではないでしょう。

実はこの話、科学技術を世に出す際に倫理的に何が求められるのか、という話でもあり、

大学科学技術倫理(技術倫理)という教養として習う範囲でもあります

と言うわけで、ここでは科学技術倫理観点からなぜ許容されるのか話をしていこうと思います

メリットデメリット論のまずさ

と、本題に入るまえにブコメで多くされていた

メリットが大きいかリスクが許容される、つまり最大多数の最大幸福であるという話について触れて起きます

この様な功利主義思想局所適用にはあいますが、社会システム適用されると非常に危険です。

言い換えてしまうと多くの人が益を受けるから少数者は被害を受けても構わない、という全体主義システムになりかねないからです。

銅山から流れる鉱毒のせいでそこらへんに住む人は甚大な被害を受けるけど、

国家全体から見れば利益が多大なので仕方ない、みたいな話に繋がってしまますよね。

なのでデメリットに対してメリットが大きいから、だけだと間違いを産む可能性がありあまりよくないということになります

では次に本題の、人を死なせることはこの社会において許可されていないのになぜ人を死なせる可能性のある車が許されるのかの話をします。

シンプルに言ってしまうと人を死なせることと人を死なせる可能性がある、というのは大きく違うから、という話なんですが

増田氏としてはそれに対し可能性があることを認識してるのであれば未必の故意いえるのではないかと考えているんじゃないかなと思います

これに関してはマックスウィーバーが著書「職業としての政治」で述べた心情倫理責任倫理という考えが役に立つと思います

心情倫理責任倫理

心情倫理とは結果がどうあれ正しいと思うことを行動することで

ドイツ観念論カントの「定言命法」に近く、物事がうまくいったとしても動機が不純なものであれば善としない考えです。

一方、責任倫理とは動機がどうあれその行為が不幸の結果を及ぼすことを予見できるのであればそれを避けるための最善の努力をし、

その結果を負わなければいけないという考えです。

ウィーバーはこの2つの倫理を兼ね備えることが政治家としての不可欠な資質しましたが、技術倫理としてもこの思想適用できます

技術者として製品を世に出す際、その製品世間をよりよくするものを目指すべきでありかつ

その製品の持つ機能が直接的に危害を及ぼすことがない様に想定できうる限りの防止策を講じるべきである、という考えです。

多分ですが、日本の車メーカーに車を作る理由を問い合わせた際に「弊社の利益さえ上がればいいと思っています」なんていうところは

基本的にないと思うんですよ。

内心はどうであれ、車の製造利用者利便性/快適性をあげるという公益性目的にしているということを言うのではないかと想定してます

そして実際、機能研究開発の期間もさることながらテスト期間も相当長く、真冬北海道に持っていって

寒冷地テストしたり、砂地や泥を用意してそこに突っ込んでスリップテストしたりと

事故を起こさない、人命を守るためのテストをすごいしているんですよね。なので大体開発に5年程度かかります

そしてメーカーだけでなく行政運転免許という適正審査安全講習、

小学生児童に対しても交通安全講習会も行い、技術社会規則の両輪から事故を未然に防ぐ努力をしているわけですね。

まり、車の利用に関しての「直接的な結果」として人命への被害を避けるための「最善の努力」をしている、とも言えるのです。

そして皆が交通安全規則を守り安全運転をすれば突発的な災害等が起きない限り人命を損なう様な事故は起きないだろうというところまで

テストした上で製品を出しているわけですよね。

この「最善の努力」を「完全に避けなければいけない」としてしまったり「間接的な結果」も責任としてしまうと

技術・道具自体の開発ができなくなります

言い換えると企業リコール訴訟を受けた際、事故と直接的な因果関係がないことはもちろんのこと

「最善の努力」をしていたということとが必要になると言うことでもあります

(アメリカプリウス訴訟になった際、そこら辺が焦点になったと聞いています)

まりメーカー及び行政がさまざまな手段事故を防ぐための策を講じてる事実があるので

当初の

人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という意見に対する回答としては

人命に対するリスク対策社会コストとして払っており、そもそも人が死ぬことを許容はしていない、ということになります

まとめ

というわけでまとめます

1. 危険性を伴う製品に関し、メリットデメリット観点だけだと公害を許容しかねないのでよろしくない

2. 建前とは言えメーカー行政の両輪で理論事故が起きない様にする施策を打っており人命軽視しているという認識は間違い

ということになります

念のため付け加えますが、努力しているか問題を起こしていい、責任がない言うわけではなく、

その開発当時にしりえる知識技術を元に最大限の努力をしたかが問われるため「最善」と表現されます

言い換えれば公知の知識対応を怠った場合などは懈怠責任をとわれます

まり今後、科学技術の発展に伴い、危険運転でもリカバーする技術発明されたらそれも実装必須になっていくと思います(昔はエアバックとかなかった)

どうでしょう?車増田氏のどこで線引きをしているのか、という問いに対して回答になりえたでしょうか?

あと、死刑の話を絡めて聞いていますが、その話は犯罪者の更生の話や社会から外れてしまった人格をどう扱うかという話なのに対し

車社会の話は公益性を持つが危険性を伴う科学技術とどう付き合って行くかと言う話で根本が違うため

その話を混ぜると複雑になりますし長くなるので省きました。

2021-04-23

スナッフフィルムについて書く

 「スナッフフィルムって知ってますか?」


 そう呟いたのは多分六年前だか五年前だったかと思う。その時俺達は喫茶店で、世の中の悪が何かについて話していた。

 その場には男の先輩が一人と女の子の後輩が二人いて、先輩は「知ってる」とぽつり。女の子二人は「しらなーい」とぽつり。

 勿論、俺と先輩はその話を掘り下げたりせずに、穏当に元の話題路線へと戻り、「やっぱ世の中気を付けて生きなきゃだめよ」みたいなことを言っていた。女の子二人はケラケラと笑っていた。


 ◇


 何で今更になってこんなことを思い出したかというと、当時テーブルを囲んでいた後輩の女の子が先輩と付き合って、破綻して、今朝がたtwitterで僕を含めた当時の関係者に対しての呪詛を書き連ねていたかである


(後輩のプライバシー配慮して中略)


 多分こういうのは、よくある話なのだろう。勿論僕はその後輩に横恋慕していて、そして二人の関係とか、あるいは時折後輩の見せる刺すような発言と態度に傷を負ったりしながら生きてきたのだけれど、そんなことは些事である。一々考えるようなことじゃない。

 ともかく、今僕がこの文章を書いているのは、後輩の女の子が僕と先輩を含む当時の関係者SNS呪詛を連ねているところを見たかである

 その呪詛がどんなものだったかというと、彼女曰く、「悪を糾弾できない存在も悪だ」、とのことであった。

 全くもって僕は彼女同意する。

 そう、悪を糾弾できない存在は悪だ、と。

 つまり彼女はこう言っているわけである。当時、破壊性向を持っていた先輩のことを僕を含む関係者は止めることができなかったし、そして、物事が落ち着くべき位置に落ち着いてなお、僕を含めた関係者は先輩のことを表立って糾弾したりするでもなく、あるいは罰したりするでもなく、淡々と日々を送っているのだと。つまり、先輩が悪であると同時に、先輩を裁くことなく静観していた、僕を含めた関係者もまた悪なのだと。

 全く以てその通りだと思う。僕は悪の片棒を担いでいるのだ。物事を正しく裁こうとなど決してしなかったのである


 一応、僕は見知っている後輩らが先輩に対して好奇心なり何なりを持っているのを見咎めると、「先輩は悪人から近付かない方がいいよ」と度々言及していた。(「悪」の具体的な内容についてはここでは伏せるが)

 とは言え、一見インテリジェントで気が利いて、かつある分野において顕著な業績を収めた人物である先輩に対して、後輩たちは僕の忠告をあまり深刻には受け止めなかった。あまり僕の忠告は功を奏さなかった。後輩たちの中には、今でも先輩に連絡を取り続けている子もいるようである。まあ、それはそれで良いのだと思う。僕は別に彼女たちを悪し様に思っていないどころか、先輩にだって悪感情を持っていない。彼女たちはそれなりに幸せそうであるし、今でさえ僕は先輩と時々食事をしたり、ボードゲームに現を抜かしたりしている。


 ◇


 さて、今からするのは「悪」の話である

 そしてスナッフフィルムの話である

 スナッフフィルムについてご存知だろうか?

 それは、快楽目的とした殺人行為撮影した映像作品のことを指している。特に商業意図を以て撮影されたものを指す。スナッフという言葉は、「ロウソクを吹き消す」という意味を持つ動詞であり、同時に「殺人」のスラングでもある。

 勿論僕も現物を見たことはない。そもそも、「スナッフフィルムは単なる都市伝説で、実在しない」という論も根強い。

 ただ僕は、二十年近く前にアングラサイトで「衝撃! 少女公園殺害される映像! 購入は以下のアドレスで!」的な宣伝がされていたのを見たことはある。そのサイトによれば、外国人少女公園で刺殺され内臓を引きずり出された後に、ガソリンによって燃やされるとのことであった。そういう宣伝を実際に目撃した人間からすると、スナッフフィルム実在するという立場から主張するほかない。

 (また、中東ロシアでの拷問処刑映像も広義のスナッフフィルムとみなすことができると思う)


 スナッフフィルムにおいて撮影されるのは、主に少年少女である

 主なスナッフフィルムの内容は、少年少女麻薬を与え、性的に高揚させた後で凌辱し、その後に殺害する、といったものであるそうだ。僕もよく知らない。正直この知識既存創作物から得たものなので、信憑性においては幾分問題があるかもしれない。

 いずれにせよ、仮にスナッフフィルムが伝聞の通りに存在するのであれば、それはこの世の悪を煮詰めた存在であると思う。

 何故そんなもの存在するのだろう?

 それは、恐らくそれを求める人間存在し、また、それを供給し得る人間存在しているからだと思う。仮に、ある人物が何かを要求し、その対価としての金銭を十分に示せるとして、何者かがその要求された何かを提供できるとすれば、多くの場合そこには商業取引が実現してしまう。可能物事が、不可能であり続けることは難しいのであるマーフィーの法則を引くまでもない。

 つまり、そのような商業的なやり取りは、人の意志を超えてしまうのだ。それが可能である限りで実現してしま事柄に、人の意志関係ない。そこにはある種のシステムが構築されてしまうのである

 そのようなシステムに根差しているのは、明らかに人間欲望暴力である人間にとってのある種の欲望暴力可能である時、そこにはシステムが出来上がる。システムは、金銭欲望達成を媒介に、暴力的に成立する。そして、人の意志とは関係くそシステム自己増殖し、その体系をより確固たる存在へと変えていく。

 「人々が欲望し、かつ金銭的対価を支払える事柄は、それが不可能でない限り実現する」これが、欲望暴力システムにおける定言命法である。そこでは人の意志に関わらず淡々物事が実現する。一度実現したシステムは、当事者意志で止めることはできない。金銭媒介に、システム機能し続ける。

 というわけで、世の中にはいわゆる悪が蔓延ることになるわけである。勿論、繰り返すようにスナッフフィルム存在都市伝説に過ぎない。「スナッフ」と銘打たれて販売された商品の多くが、作り物であるとも言われる。しかし、僕は「スナッフフィルム都市伝説に過ぎない」という発言に対して、どうしても疑義を覚えてしまうのである。そう、人の意志とは関係なく機能するシステムが世の中には既に構築されており、そのシステムの内部においては、可能である事柄はすなわち実現するのである。そういった原則を振り返った時に、快楽としての殺人不可能であると断じることが僕にはできなくなってしまうのだ。

 まあいい。とにかく、世界においては、可能である限りで、そしてそこに人の欲望存在し、金銭的な対価を示せる限りで、ある種の悪や暴力必然的に実現してしまうという、悍ましいシステムができている。我々は、そのようなシステムに向き合わなければならない。そのようなシステム糾弾し、ハックしなければならない。その在り方を上手く変更せねばならない、はずだ。

 とは言えそのような決意が実現されることは稀である。何故だろう? 我々は多くの場合悪を放置し、看過するしかないのである。それが不可能であるからだろうか? 我々に内在する欲望媒介機能するシステムを、我々自身が変更し、打破しようとする行為は、そもそも自己矛盾的だからだろうか? よく分からない。

 いずれにせよ、自身欲望に根差しシステムに変更を加える行為は、決して簡単ではない。我々は、そのような欲望暴力システムをどうしても看過せざるを得ない。


 それは、スナッフフィルムに限った話ではない。ある種の極度に暴力的なコンテンツに限った話ではない。我々の身近には、その手のシステムが息づいている。我々は、日常的に、そのようなシステムに触れることになる。我々は暴力欲望に根差しシステムに、普段から関与し、触れることになる。

 例えば、不均衡なコミュニケーションもそれだ。一方の話者の力関係が他方の話者優越しすぎたコミュニケーションは、暴力的な影絵を描く。そこには権力の不均衡が生じ、そして暴力欲望充足を生じさせることになる。そのようなシステムが我々の日常では機能しているし、何なら我々はそのようなシステムに組み込まれている。

 例えばそれは企業個人の力関係においてそうであるし、あるいはある種の閉じたコミュニティにおいてもそうである。そのような力関係において、いわゆる弱者欲望充足の手段とされることは珍しくない。我々の身近に、そのようなシステムは往々にして存在している。

 我々はそれを看過しながらに生きている。あるいは、そのシステム自身の一部として受け入れながらに生きている。

 何故なのだろう?

2017-08-17

https://anond.hatelabo.jp/20170812153928

この問題カントの言う定言命法と、ベンサムが言う功利主義の違いに帰結するのだろうか

まり、罪とは何か、道徳とは何かという問題

元増田が言うように内心、つまり行為意図動機判断材料とするのか、行為の結果を判断材料とするのかの違いなのだろう

ひいては、リバタリアニズムリベラリズムの違いなのかもしれない

自身は良く分からないが

行為に関して、愚行権が認められるか否かの問題なのか?

いや、それ以前に

親であろうが他人であろうが、子供写真勝手に撮ってアップロードするという行為自体問題はないのだろうか

子供保護監督する責任権利はあるだろうが、写真アップロード保護監督範囲なのか?

子供は十分な判断能力がないので、保護監督する必要がある」という発言は、

そのまま「十分な判断能力がないことを良いことに、子供という他者権利蹂躙している」と捉えられないのだろうか


結論:僕はvipで良く話題に上がっていた「おむつかぶれ」が検索除外されたことに複雑な思いを抱いている

2017-02-08

大人になったら自動的理性的人格的にすぐれた人間になれると思ってた

大人っていうのは具体的には25歳とか30歳とか。でも夏目漱石の「こゝろ」の先生も言ってたじゃん、本来はどの人間も善人だが、誰もがふとしたきっかけで悪人になりうる。利他的な心を持った優しい人間も土壇場で利己心をむき出しにすることがあるみたいな…… そんな具合で人間追い詰められたら簡単に弱くなるし、カントみたいに定言命法(~~するべき、という形で内心にもつ倫理規範)に従って完全に正しく生きることなんて何歳になってもいか人間的に成長しても無理だったんだ! 少し前まで弱い人間の話読むと「いい大人のくせして」って嫌だったけど、そういう不完全で無力な人間が理性によって己に打ち克とうと一生もがいてもがいて死んでいくさまもそれはそれで健気で可愛いなって最近思いはじめた

2015-09-27

ブコメレス

wiz7 これを書いた本人は、持たざる者擁護したいのかな?自分がそうだからかな

いや、擁護する気はさらさら無いです。

ベンチャー役員三界に家なし」のユウタロスさんが、通りすがりの64歳無職に1歳の子供を殴られる被害に遭いましたが、

持たざる者擁護」って、ここで通りすがり無職擁護するようなものだと思うので。

ユウタロスさんの家族と、1歳児を殴るメンタリティの64歳無職だったら、後者の方が断然「持たざる者」じゃないですか。

まれないから暴力を振るってもいい、孤独で傷ついているか他人搾取してもいい、

この手の「被害者面で自己正当化している加害者からは、とにかく距離を置きたいと思っているし、支援する気は無いです。

健康保険料と厚生年金は納めてるから勘弁してって感じです。

毎月結構な金額だけど「金ならどうぞどうぞ時間はやらないけど」という感じです。

 

haruharu1 『奪う者は弱者』『弱者犠牲になって磨耗する必要はない』説っぽい。でも奪う者が弱いのではない。奪うことでしか得られない弱者存在と、単純に奪う者の存在とを混在していると思う。悪はそんなに弱くはないぞ

「奪う者」になるのはヘドロがどんどん湧いてくる思考のクセを持っているからで、

そういう思考から抜けだせないのは頭が悪いからから弱者だよねと思っています

で、赤ちゃんは「奪う者」だし、子供も「奪う者」です。

内面はというと、親にしてもらうのが当然で、親が自分に割いてるリソースを軽んじるし、親への不満ばっかりです。

子供は弱い。経済的にも精神的にも自立出来ないし、親次第のところが大きいです。だから「奪う者」になる。

低所得孤独な人々の行動の特徴として、大人になっても中学生相当の考え方・もの見方からアップデートしてないというのがあります

私はそれを怠惰とか悪とかじゃなく、そういう脳のスペック、と思っています。器質的な話です。

大学生になっても64歳になっても「奪う者」から成長できないと、当然のように周りの人間を使います

「奪う者」って、悪に目覚めて成るものじゃなくて、対等な大人同士で与え合う立場に一生成れない不具者ってことだと思います

 

gazi4 程度問題かな。どんなに優れた人間であろうと、個々人のリソースは乏しい。分け合うことは必要だし、増田の言う頭のいい人は、与えたことも経験にできる。

与え合う関係と、与えるばっかりの関係がありませんか?

与えるばっかりだと頭が良くても潰れますよ。頭は、自分が潰れない環境作りに使ったほうが良い。

エントリ性犯罪者は、屋上娘にしてもらったことの価値を軽んじるじゃないですか。

屋上娘が子供の頃に大人の役割を期待されて、仕方ないと諦めさせられて、ケア役割押し付けられて身につけた能力でも、

屋上娘にとっては簡単なことだったのだろう。それが僕の救いになった!」みたいに軽んじちゃうじゃないですか。

いや、お前ソレ、「簡単だったらいいな」と「簡単に違いない」の区別がついてない案件だろ、と思いましたね。

プロイラストレーターが「タダで絵描いてください」と乞食みたいなリプ受けて傷つくのも、

自分が身につけた能力価値を軽んじられた気がするからじゃないですかね。

でも乞食ってそういう感じなので。リソース無為無限に毟り取られるばっかで、何の経験にもなりません。

 

Amarron 時代文化人間価値が変わる所や、能力環境幸福に繋がりそれは功績ではなく運である所が少し理不尽だと思う事も共感できる。Pepperの話がテロスと定言命法を思い出す。哲学的な印象。

哲学は全く知りませんが、「功績ではなく運である所が少し理不尽」という部分を読んで、「分かっていただけた」と思いました。

リソースに恵まれた人は、功績だと「思いたい」んですよね。

結果を決めるのは運と努力、両方の要素が関わりますが、結果を出した人ほど努力が9割だと思いたがる。

私は運が9割だと思います

運がいい人への攻撃気持ちは無く、むしろ私は運がいい人が好きです。

運が悪かっただけの人を差別している!となじられようが、「そうで~す」という感じ。

ヒトラーのように障害者死ねみたいには思わないので、社会保障費は喜んで支払います

それは自分事故病気障害者になる可能性があるとか、自分能力が下がった訳ではなくても社会の変革によって

からも認められなくなり実質障害者状態になる可能性があるからです。不当な支払いとは全然思いません。

 

yamorca 世間が無神経に置き去りにしている処をしっかり見る人の声。増田は姥捨て容認派みたいだけど、同じ視点を持って公共の福祉の最大効力を求めてる人も居る。情けは人の為ならず

江戸時代は、姥捨て"容認"も何も、姥捨てするしか成り立たなかったですよね。社会が。

公共の福祉レベルが上がった要因は、国の技術レベルが上がって豊かになったからですよね。

物質的に豊かになった結果、江戸時代と比べて餓死は減りましたが、

コミュニケーション乞食として、屋上娘さんやはせさんのような人に縋り付く人間は減らせて居ません。

SiriPepperが広がれば減らせるかなと思います

公共の福祉の最大効力を求めてる人」って何をやってるんでしょうか?

健康人間に、福祉必要とする人間奉仕する義務を与える活動でしょうか?それ暴力じゃないですか?

生きた人間弱者奴隷にするな。

 

それと、持つ者側、奪われることに怯える側でしか物事を考えない人に言いたいのは、

自分事故病気や加齢によって、奪う側に転落する可能性がゼロではないということです。

奪う赤ちゃんとして生まれ、与える大人になり、奪う老人になって死んでいくのが人間だと思います

私は老人になっても出来るだけ、生きた人間自分が生きるための奴隷にしたくないですね。

道具なら構いません。だから心についての言説より、技術についての言説の方が、愛に溢れているとすら感じます

 

https://anond.hatelabo.jp/20150927002331

2014-09-22

ペイトン定言命法翻訳、一万で売ってたけど、迷ってるうちに売り切れか。

 
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