はてなキーワード: 反証可能性とは
「科学もまた信仰である」という言説は、「科学的な知識も絶対的な真理を保証するものではなく、一定の信念や仮定に基づくものだ」とする批判的視点から生まれたものです。しかし、科学的手法と信仰には重要な違いがあり、「科学=信仰」と見なすのは適切ではありません。以下に、科学と信仰の違いを説明します。
1. 方法論の違い
• 科学的手法は観察、仮説の構築、実験、検証を通じて知識を構築するプロセスです。この方法により、科学は経験に基づく「反証可能性」や「再現可能性」を強調します。カール・ポパーの「反証主義」によれば、科学理論は反証される可能性があるため、常に修正や更新が可能です 。
• 信仰や宗教的手法は、しばしば絶対的・普遍的な真理を前提とし、その真理が神聖であり不変であると見なすことが多いです。宗教は超自然的な存在や教義に対する信念を中心とし、その信念の正当性は経験や反証可能性に依存しません 。
• 科学のもう一つの特徴は再現性であり、どこで誰が行っても同じ条件下で同様の結果が得られることを重視します。また、結果が反証されることを受け入れ、実証が積み重なることでその知識の信頼性が高まります。
• 宗教的信仰は、個人の内面的な体験や霊的な啓示を重視し、再現性は必須ではありません。むしろ、絶対的な教義や超越的な存在に対する信頼が重要視され、反証されることを前提にしません 。
• 科学は自己修正的であり、新しい発見や技術の進歩に応じて絶えず知識を更新します。例えば、ニュートンの古典力学はアインシュタインの相対性理論によって一部修正されましたが、それにより科学が進化しました。
• 宗教における信仰や教義は、一般に歴史的に固定され、変化しないことがその信仰の価値とされます。特定の教えが絶対であるとされるため、科学のように容易に進化することはありません。
4. 結論
「科学もまた信仰である」という見解は、科学の限界や仮定を指摘し、人間の知識が絶対ではないことを強調しています。しかし、科学は常に新しいデータや反証に基づいて進化し続けるという点で、宗教や信仰とは本質的に異なります。信仰が個人の確信や不変の教義に基づくものであるのに対し、科学は実証と論理を重視する柔軟なプロセスです。そのため、科学を信仰と同じ枠組みで論じることには、誤解を生むリスクがあります。
: Popper, K. “The Logic of Scientific Discovery.”
: Eliade, M. “The Sacred and the Profane.”
: Kuhn, T. “The Structure of Scientific Revolutions.”
月がデケえな
例のあのネタ、ガセってのもガセかもしれないらしいな
反証可能性ってやつかな
嘘だとしても綺麗な言葉だとか言う人いたけど、あんまり表現として上手いとも思わないよ
同じ嘘ならナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)の方が好きかな
月が綺麗といえばヨツバ編の記憶を失った月って綺麗だったよね
頭の中で壁打ちばっかりしてると時々寂しい。意外性を取り入れるためにSNSの検索ボックスに未整理な言葉の欠片を入れて、他人が組み合げた言葉を眺めたりもするけど。なんかこれやってると頭の何らかの機能が著しく低下していくような感じがする。
ツッコミとかいらない。互いのズレをわざわざ確かめ合う漫才みたいな会話とかいらない。
フツーじゃない部分にいちいち足を止める時間が鬱陶しい。
でも互いがただ相槌を打てばいいって訳じゃない。
キャバクラは人間過ぎるし、Vtuberはタイマンになれねえけど。そもそも金を払うにしろ払わないにしろ、サービスとしてそれをやった所でやっぱり本物には遠く及ばない。
強いて言えばダウナー系お姉さんに毎日カスの嘘を流し込まれる話が最も近いかもしれない。
やっぱそういう相手はライトノベルの中にしかいねえかな。ラノベの萌え女が現実に現れるのとおれがラノベの世界に転生するの、どっちが確率高いんだろうな。どっちにしたって、実在しても交流を持てるかどうかまでは分からないし。
陰謀論が広まる背景には、情報の誤解やバイアス、感情的な反応が関わっていることが多いです。そのため、陰謀論を特定し、理論的に検証するためのチェックリストを作成しました。このチェックリストは、個人がある情報が陰謀論であるかどうかを判断するのに役立ちます。
• 提示された証拠が、信頼できる学術的なデータや確立された研究に基づいていないか?
• 情報源が匿名であるか、もしくは特定の意図や利害関係を持つ団体から発信されているか?
2. 反証可能性の欠如
• この理論が誤っていることを証明するための明確な基準が存在しないか?
• 反証が行われても、それを「さらなる証拠」として組み込み、理論を変えずに強化してしまう傾向があるか?
• 「彼ら」や「エリート」といった敵対者の存在を強調し、意図的に何かを隠していると主張しているか?
• 特定の個人やグループを悪意ある陰謀の主犯と決めつけ、その意図を過度に強調しているか?
• 複雑な社会問題や出来事を、極端にシンプルな原因や特定のグループのせいにしていないか?
• 「全てはこうすれば説明できる」といった形で、他の可能性を排除しているか?
• 「真実を知っている」特別なグループに属することで、他者よりも優れていると感じさせる要素があるか?
• 信頼できる専門家の意見を無視し、「専門家は信用できない」「真実は隠されている」と主張しているか?
• 事実を確立した科学的なコンセンサスに対する不信感をあおっていないか?
• 単なる偶然の一致を、何か意図的な行動の証拠として捉えていないか?
• 他の主張と矛盾する事実や情報が出てきた場合、それを無視するか、または歪曲しているか?
• 主張が「大きな秘密」や「隠された真実」に依存しているか?
• 「普通の人はこの情報を知らない」という形で排他的な姿勢をとっているか?
• この情報がソーシャルメディアや陰謀論者のコミュニティを通じて広まっているか?
• 大手の報道機関や信頼性のある情報源ではほとんど取り上げられていないか?
• 批判的思考を養う: 情報を鵜呑みにせず、事実確認を行うための批判的思考を持つことが重要です。異なる視点や反証の探求に努めましょう。
• 信頼できる情報源の活用: 学術論文や信頼できる報道機関の情報を確認し、複数の信頼できる情報源から情報を収集することを習慣化します。
• 対話の促進: 陰謀論に傾倒する人と対話を試みる際には、感情的にならず、相手の考え方を理解しつつ冷静に事実を示すことが効果的です。
• デジタルリテラシーの教育: 誤情報や陰謀論を見分けるためのデジタルリテラシー教育を推進し、より多くの人々が正確な情報にアクセスできるように支援します。
全知全能の神様がいきなり空を裂いて現れて、全ての自然法則を書き換えて去っていくという事態をあり得ないとは言い切れない。
ただ経験則として到底あり得るとは考えられない。
なので可能性よりも蓋然性を考えていきましょうというのが科学らしいけど、じゃあ可能性ってほぼ意味のない概念にならないか?って思った。
現時点のこの世の法則が突然変わらないとは言い切れないのだから全ての可能性はあるともないとも言える訳で、じゃあ全ての物事についてハナから蓋然性を考えるのが道理じゃないか?
反証可能性の認められる状態では可能性も考えよう、とかそういう事なんだろうか。
反証可能性にしたって全知全能の神様に事態を変化させられる事がないとも言い切れない訳だし、あまりにも荒唐無稽(と経験則上思われるよう)な事態は予め想定から排除した上で、みたいに程度問題で運用されてるんだろうか。
MMT間違ってるって言いたいなら、MMTの主張内容の何が事実やデータと相違してるのか書いてくれない?
この記事もルール違反してるから無視されるんだ、とか書いてるがMMTの内容自体の反証は一切してないし、そのルールが実在するのかもよく分からんしルール内容も反証可能性があること、ぐらいのことは書かれてるが内容が曖昧であるし、ツイッタとかで主張を広めようとするやつがダメなら増税・緊縮をマスコミ使って広めてる財務省とその御用学者はどうなんだ?って話だし、ツイッタやって自説を広めてる経済学者は派閥によらず多数いるし、ルール違反してるから相手にする必要はない、ってそれこそ反証可能性のない論法じゃないのか?
もし「誰か」の理論が主流派から無視されているとしたら、それは「攻撃しやすい形式で発表する」という、最低限のルールを守っていないからだ
なんどもいうが、ネットで科学や学問について語る必要性などない。
はっきりいえば、お前の言っていることのおかしな点を見つけて暇つぶしをしているだけだ。
全く関係のない話を比喩で説明した気になって楽しいか?これについては「お前の中ではそうなんだろう」としか言えないな。それこそ反証不可能だろ。
君が万に一つ億に一つアインシュタインのような常人を越える天才で、心理が見えていても、それを普遍的な言葉にできないのなら取り扱いようもない。
俺が知ってる「普遍性」ってのは、物理法則とか数理構造とか、そういう言葉を操るだけでは変えられない客観的存在のことだ。
その意味で、心理学者でさえ心理の普遍性など説明できないだろう。なぜなら物理法則ほどの普遍性が心理にあるかは不明だからだ。
しかし心理学者は、それを取り扱う方法を模索しているし、例えば表情から感情を読み取ったり、発言から性格を予測する程度なら、普遍的ではないにしろ、可能だろう。
そのちょっと前に書いてあるように、「反証可能性がないものに反論はできない」と言っている。
そして「反論もできないものは、仮に正しくても万人に共有できる科学的知見にならない」というのも単に合理的な学問のあり方。
「寄付をすることが正しくても、金がないのではできない」というレベルの話。
君が万に一つ億に一つアインシュタインのような常人を越える天才で、ただひとり宇宙の真理が見えていても、それを普遍的な言葉にできないのなら取り扱いようもない。
それを向けてる投稿が、明らかにタイミングが違うって話だろう。
「反証可能性の重要性を語ってない」投稿に「お前にも反証可能性がない」と返してどうするんだって言ってんのw
ほんと、すげえのがいるなあ。
「反証可能性を俺に重要だと言うの「であれば」お前自身も実践できていなければおかしいだろう」
この「であれば」にあたる「だったら」を使っていたことを、健常者であれば一瞬で理解可能だが、お前はアスペなので困難なんだろう。
まあ、俺も反証可能性のないことを言ってることは多々あるだろうが、「だったら」がまた繋がってないのがなあ。
あれだな、多分君、「だったら」とか「ほら」とか、単にかけ声かなんかだと思ってないか。
「そういえば」を「ところで」の意味に使う人は多いけど、流石にそこら辺はもうちょっと気をつけて使って欲しいぞ。
そういうところなんだよなあ。
お前の主張の間違っている部分を指摘しても、お前はコロコロと解釈とか主張を変えるから間違っていると示せないわけだよ
いや、合ってないよ。
「実践してるかどうかが問題になる」ということと「実践すべき」には天と地ほどの開きがある。
「知ってる」だけで何の反論になるんだという話をしてるんであって、「普遍的だから実践する価値がある」なんて論理はそこには書いてない。
君は多分「普遍性」に「価値がある」という主張を勝手に読み取ってるんだろう。
そういう倫理観のような話はここではしていない。
ちょっと難しくなるが、俺は「反証可能性がないものには反論のしようもない」という主張はしている。これは単なる合理的な判断の話であって、倫理観の話ではない。
「普遍性」は「知ってるだけで実践しないのでは意味がない」という性質を説明する言葉で、これは別の話だ。
まあ、難しすぎるかな。