はてなキーワード: 視野狭窄とは
「論破」という言葉に対する信仰を取り払うためには、論理は勝ち負けを決めるものではない という点を強調し、議論の本質的な目的が 相手との理解の深化 にあることを再認識させることが重要です。
実際に「論破」という言葉が一般的に使われる場合、よく見かけるのは、論理的な議論や建設的な対話とは全く異なる、ただの 感情的な勝ち負け にすぎない場面です。そのため、この誤解を解くためには、論破 を「ラップバトル」のような 自己表現 として理解し、理知的な議論 や 建設的なレビュー とは異なるものであるという点を強調することが必要です。
「論破」とは、多くの場合、 相手の意見を否定して自分の意見が勝ったという形を作ること を指します。これは、実際には 理論的な議論や論理の分析 とは無関係で、単に 言葉のやり取りで自分が優位に立つこと を目指す行為に過ぎません。
「車がうまく動かないからエンジンを壊そう」といった発言もその一例であり、論理的に正しいわけではありません。これはむしろ 視野狭窄 に陥り、 問題解決 ではなく 感情的な勝利 に走る例です。このような行為を論理的に正当化することはできませんし、実際には何の意味もありません。
論理的な議論、たとえば テクニカルレビュー や ロジカルレビュー は、問題の分析 と 解決策の提供 に焦点を当てています。ここで重要なのは、どちらの意見が優れているか ではなく、どの論理が適切であり、どの解決策がより効果的か ということです。
例えば、プログラムのコードのレビューにおいては、「あなたのコードは正しい」とか「あなたのコードは間違っている」といった単純な評価ではなく、なぜその実装が最適であるか、または改善が必要か を説明し、最適な方法 を見つけることが目的です。
インターネット上でよく見かける「論破」は、しばしば 感情的な勝ち負け を競うことが多いです。言葉巧みに相手を言い負かすことを重視し、論理的な思考や結論の正しさは二の次になります。その結果、論理的な分析 や 問題解決 ではなく、自己満足のための勝利 が目的化されてしまっています。
このような誤った「論破」への信仰が強いと、真の議論が成立しにくくなり、視野狭窄 や 感情的対立 が生まれやすくなります。大切なのは、議論や対話を通じて 理解を深めること であり、決して 相手を打ち負かすこと ではありません。
正しい論理的議論では、結論に至るために 理論的根拠 を示し、問題点を分析し、解決策を提案 することが求められます。一方、「論破」とは、相手を 言葉で打ち負かすこと が目的であり、相手が持つ論点を 否定すること に集中します。
「論破」が自己表現の一環であることを認識することが大切です。自己表現であっても、理知的なものに憧れて論理を誤用するのではなく、 建設的な対話や議論 を目指すべきです。
インターネット上で「賢い人」とされる人物が行うのは 論破 ではなく、 理論的な証明 や 説得力のある説明 です。賢い人は、相手を言い負かすのではなく、適切な理由 を示し、議論を 深める方向 に持っていきます。
本当に賢い人の論理は、共通の理解を目指すもの であり、その結果、相手が誤りに気づくことがあるとしても、それはあくまで 理論的な証明による結果 です。
• 「論破」とは、実際には 自己表現 や 感情的な勝利 の一形態であり、理論的な議論とは無関係です。
• テクニカルレビューやロジカルレビュー は、問題解決を目指した 理論的な議論 であり、「論破」とは異なります。
• 論理的な議論では、 結論に至る過程の正しさ を重視し、相手を打ち負かすことが目的ではありません。
• 賢い人の論理 は、相手を説得し理解を深めること を目的としており、「論破」を求めることはありません。
んーと「論破」っていうのは単純にそういう現象であって、本来は善とか悪とかではないと思うのね。
そんで「車がうまく動かないからエンジンを壊そう」っていうのは全然論破できてない。
それはトンデモ理論っていうか…まあそういうのが論破だってインターネットで認識されてるのが問題なんだと思うけど。
その例えで言うなら、正しい論破ならば「車がうまく動かない」っていう問題があったとして、実は車なんか使わないほうがうまくいくような状況だったときに「そもそもそこで車を使う必要なくね?」とか言って、車を動かすことに執着して視野狭窄に陥っていた人たちの足場が根本から崩れるような正論をぶちかまして、その議論をやってた人たちが全部アホに見えるっていうやつで、まあ見てるほうもスカッとしたりするんだけど。
あとは車の知識がない人たちがあーだこーだ言ってるところで、あとから来た車のエンジニアが(エンジニアじゃなくてもいいけど)「ガソリン入ってないですよねこれ…」ってなるとか。そういうやつ。
インターネットで見るような不快になる「ハイ論破」とは違って、言われたほうもびっくりしすぎて笑っちゃったりするので、場がそこまで険悪にならないこともあるかも。
まあでもそこまで気持ちよくクリーンヒットするような論破ってそうそうない。
それなりにみんないろんなことを散々考えてそこにいたりするから。
インターネットではそういうの真似しようとして失敗する人のほうが圧倒的に多いから、論破はアホがするやつってことになっちゃってる。
でもインターネットには本当に賢い人があんまり存在しないので、正しい論破もあんまり存在しない。
インターネットで見かける「ハイ論破」は十中八九まったく論破できてないんだけど、もうそれ以上はなに言っても無駄だから、「もうこの話はしたくありませんほっといてください」っていう意味だと思えば間違いないと思う。
あとそのAIちゃんのお仕事、増田はそれで満足してる…?なんかちょっと変な気がするけど。
あと論理的じゃない議論は容易に論破できちゃうので、議論は論破すべきものではないとかタカを括るよりは、議論も論破される可能性があることは念頭において慎重に論理的にやったらいいと思う。
でないと問題提起の内容は正しかったのに、そのための議論が論理的に進められなかったが故に散々水をさされて、その問題自体が有耶無耶になってしまったっていうような最悪な事態になりかねないから。
まあ確かに水を差すほうも悪いんだけどさ。
「生成AI」「AIイラスト」「反AI」「法的に」「ラッダイト」「お気持ち」
この辺のワードを使って「AIは法的にも許されているのだから使用者を批判するのはお門違いでは?」的な内容のことをツイートしてみてほしい
どんなにフォロワー数が少なくても絶対に反AIカルトに見つかり、何かしら攻撃的なリプや引用をもらえるはずだ
名前を挙げることはしないが、反AIにはかなりのフォロワー数を誇るカルトの上位層みたいな人が数人〜数十人程度いる
彼らは上記のワードで検索しては片端から引リツで噛みつきまくり、信者はこれに同意する形で誹謗中傷に加担する
いま反AIカルトは煮凝りみたいに濃縮されて他人に喧嘩を売りたがる狂信者しかいない状況になってしまった
反AI自身はそのことに気づいていないのだが、割とXの中でも隔離されているというか「貴方達は貴方達で楽しくやってくださいね〜……」みたいな感じで絡まれないようにそっと距離を置かれ始めている状態
一般層のみならず絵師や漫画家など思想的に親和性がありそうな人からさえも目を逸らされ始めている
ちょうど暇空茜界隈とか弱者男性界隈とかフェミニスト界隈とか自然派界隈とか政治垢界隈とかああいうのと同列だ
とにかく思想が先鋭化しており人の話を聞かないうえやたら攻撃的なので、たとえ共感できる部分があったとしてもマイナスイメージがそれを上回って悪印象になってしまう
そして大多数の人間からは「絡まれたくないし絡みたくない集団」だと認識されていく
反AIは元々一部の絵師やその信者に共通していた幼稚な部分、すなわち簡単に人を崇拝するし感情的な共感の部分でしかコミュニケーションできず、教養もなければ読解力もない幼児性の塊のような部分が悪さしたように思う
本人たちは気づいていないが、少なくともネット上ではもうAI規制論のイメージの回復は困難なレベルになってしまった
AI生成の規制というのは、それこそやり方によっては一般層にも理解を得られるような有意義なトピックであったはずなのに、Xの反AIカルトの活動のせいでもうだめになってしまった
「AIの乱用に反対です」と名乗ることと「反AIカルトの一味です」と名乗ることは本来別のはずだ
しかし世間的にはこれらは同一のものであると見なされるから、もうまともなAI規制派はほとんどが口をつぐんでしまっている
今じゃAIに反対しただけで「法的な知識のない視野狭窄の攻撃的で幼稚で不勉強で感情的な人間」というレッテルを貼られる始末である
かく言う俺もそのひとりだ
文化庁のAIに関するパブリックコメントの募集時、俺はパブコメのフォーマットやら書き方やら仕組みやらをきちんと調べてその通りに意見を送信した
逆に男性側が子供を殺めてしまった母親に対して、必要以上に痛烈な批判をするのが理解できない。常に子供目線だよね。母親の目線になって批判してるの見たことない。
夫も行政も助けてくれなくて、なんとかしようにも十分なお金がなくて、動かなきゃいけないのに行動の全てを阻害する子供達に囲まれてるとか、地獄じゃん。
自分の行動を邪魔される、思ったように動けないって相当なストレスよ。
母親が生きていないと子供がどう社会に悪用されるか分からない環境にいたら、もう幸せなんてないんじゃないかって追い詰められて精神状態が普通じゃなくなると思うよ。本当ならここで適切な処方があれば戻れるのだろうけど。それで行動に至るんだと思うよ。
あと全員手にかける、っていうのは生き残ったら殺人犯の子、被害者の兄弟として一生暮らす事になるしやはり普通の人生を歩めない(そんな訳ないんだけど、精神が逼迫してる人って視野狭窄おこしてそれしか見えないから)からやってるんだと思うよ。
これを解決するにはまず心身の健康を取り戻せるために子供と距離が空けられる環境を作ったり、金銭で解決できないことなら行政がで補助したり、父親側の資産が当てられるように社会福祉関連の人が動いたり、適切な医療ケアを受けられるようにすることだよ。
増田で母親憎悪を深めて一方的な視野で批判してぶっ叩いてもなんも解決にならないよ。まあこのポストも役に立たんけど。
せめてもと思って毎年児童施設に寄付してるよ。ふるさと納税よりもこっちの方が多いよ。
母親子供だけじゃなくて、ちょっと追い詰められてる人と話せばこういうのは理解できると思うんだけど、まずはそういう人に何ができるかを考えてみたら?それが社会福祉よ?
私は普段反出生主義と安楽死合法化を推進するゴリゴリの過激思想をやっているのだが、それを見た人からしばしば「厨二病じゃん、思春期のうちに卒業しておきなよ」と言われる。
残念ながら、私が患っているのは厨二病ではなく自閉症と二次障害(双極性障害だったり統合失調症だったり診断名は何転かしている)というマジの精神疾患だ。
自閉症の特性ゆえの視野狭窄で小学生の頃から思想は尖り続ける一方だった。多感な思春期に二次障害を併発してからは、主に躁状態のときに思い浮かんだ攻撃的な思想が寛解期や抑うつ期にも正しく思えるようになり、いっそう反社会性の増す思想になってきた。
自分の中でもこんなヤバい主張は精神疾患から来るものだという客観性はまだあるものの、一方で先天性の発達障害を自分の人格と切り離して考えることも難しい。
「この思想は反社会的で悪であり、それを考えさせたのは脳の異常だが、異常者にも思想の自由はあり、これは私という人間が人権を行使して主張したい思想だ」という面倒なロジックで自我を保っている。
私のような過激な精神異常者が「厨二病」というマイルドな言葉でいなされるのは大いに平和的だが、完治のない精神疾患に気軽に「卒業」を要求されても困る。健常者は思春期以後丸くなっていく人も多いだろうが、私のように障害が原因で就職で詰むなどして孤立や貧困に向き合うと、加齢と共により過激な思想に傾倒せざるをえないのだ。
こんな異常者を人として生かし続けるというのなら、病人の戯言と受け流さずに私という個人の思想も聞くのが政治と福祉ではないのか。