はてなキーワード: 類人猿とは
くだらねぇ推理ドラマの動機ってだいたい浮気とかだろ。気持ちを裏切ったの何だのどうしてそんなゼロイチで考えるんだ。0.1浮気(そもそも浮気は悪いことではない)を定義、許容浮気限度を伝えて結婚という契約の中に含めろよ。争いはすべて ディープステート≒純愛主義者 が作ってんだよいい加減気付けカラクリに。
また、有史以来何度も擦られた陳腐な話だが…ロケットの燃料が固体か液体かなんてどうでもよくて、ロケットは愛で飛んでいる。類人猿から人類になった奴が一代でロケットを飛ばせるなら別だけど、俺達はセックスで文化文明を繋いで西暦20世紀になってやっとロケットを飛ばしたんだぜ。地球自体がセックスしないと出れない部屋だった。だからセックスしないと出られない部屋は流行っているわけですね。
な、売れている同人誌ジャンル=真理だろ。人間の最も生存に無関係で最も力強い欲望たる性欲は真理への重力を持つ。DLsite殿堂入りなるNTRは、つまり真理。Hollywoodですら真理たる セックス≒愛≒寝取られ を高頻度で作品に取り入れる。これは最強の国家は セックス≒NTR という屋台骨によって成り立つ、大黒柱(強制輸入)そそり立つということ。ということですか?
1. セックス
2. セックス
3. セックス
やめよう一夫一妻制。それを打ち破るのがまず夫婦別姓(戸籍上バグる)。そんでもって最近のガバクラ周りだよね。戸籍を全国で統一的にシステマティックに管理することがタフタ祭制を推進するわけ。
## ブロック1
対決順に紹介した方がいいので
私は決して、痴漢セクハラ被害にあった方を非難したり、被害を過少にとらえることを推奨しているわけではない。
ただ、こういう女もいるのだということを、リベラルな人たちに知ってほしかっただけだ。
セクハラは、女性にとって本当に嫌なものだろうか?ということは疑問に思っている。
人間個体差があり、いやだと思う人もいればそうでないと思う人もいそうな気がする。
今の、「みんなが嫌だと思っているはずだ」という言説は信じがたい。
私は女性社会で長いこと生きていて、その中で女性がセクハラを道具に同じ女性にマウントするという場面をいくつも見てきている。
私自身セクハラ、痴漢を受けたこともあるが、受けた感想としては、「なんとも思わなかった」。
正直、触ったり性的なことを言ってくる相手のことが全く好きではない。
好きではない相手に何を言われようが、何とも思わないというのが事実だ。
接客業をしていたときには、年寄りの爺さんから手をもまれたりしたことがあるが、別に何とも思わなかった。
そのほかにもいくつかセクハラ、痴漢経験があるが、いずれも何とも思わなかった。
そんな私はフェミニストの人からすれば名誉男性で、女性のミソジニストなのかもしれない。
性というのは本来であれば「気持ちのいいこと」であるはずなので、そんなに嫌な気持ちはしないのが、生物本来なのではないかと思ったりもする。
もし、今の社会のように「性にまつわるもの」「好きな異性に好意を抱くこと」が非常に嫌悪されるのが人間本来の特性であったなら、こんなに人類は増えていないような気がする。
チンパンジーや人間とほとんど遺伝子が変わらない類人猿であるボノボはホカホカをして、相手との緊張を緩和し、メス同士で政治をする。
ポリネシアかどこか忘れたが、南の国の先住民は女児の性器を母親が吸って大きくし、大人になって性行為をした時の快感を増大させる手助けをするという。
ただ、今の、ナンパをしているのを見かけたら警察に通報したり、配達員や美容師が女性客に電話番号を書いた紙を渡したらSNSで晒して罵る社会はどこか間違っていると思う。
こんな衆人環視のチクリ社会を許容してしまったら、もし日本が「1984」のような完璧な社会主義になったときの地固めというか基盤を作ってしまうように思えて仕方がない。
考えすぎかもしれないが、たかがナンパで警察に通報する社会は、とても怖いと私は思う。
そんな相互監視社会で生きるのなら、セクハラが横行する社会のほうがマシだと思うのは、言い過ぎだろうか。
会社の研修でコンプライアンスについて学ばされるのも苦痛でしょうがない。
なぜなら私はセクハラがいいとも嫌だとも思っていないのにもかかわらず、無理やり「対セクハラ」陣営に巻き込まれて「戦おう」と言われ、強制される。
みんな、もう一度よく考えてみてほしい。
しかも、「嫌い」とか「ムカつく」とかいうのじゃなくて「気持ち悪い」「怖気がする」というタイプの嫌悪感
でかいムカデとか大量のウジ虫を不意に見てしまったときみたいな?
人間も群れを作る類人猿だという前提で語るなら、本来はより喧嘩の強いオスがメスと番うことで群れに強い個体が増え、周囲の群れとの抗争に勝ちやすくなり生存率が上がる
はぐれ者の「ぶりっ子オス」は群れから外れたところでメスに気に入られて種付けをするので、この秩序を乱すことになるわけだから秩序を守っているホモソオスたちからは嫌われても当然
ホモソに馴染めない弱いオスたちも、ぶりっ子オスは自分たちの得られないメスをズルして獲得しているわけなのではやり許せない存在なのだろう
また長いので要約すると
—————————
前記事でコロンブス問題について取り上げた際、現地の当事者目線を強調し、説得力のある解釈に直面した。Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題や感謝祭に関する記事では、先住民視点の重要性を感じさせられたが、ファクトチェックが難しく、一部は陰謀論のように感じられる部分もあった。特に感謝祭の起源に関する記述には疑念が残る。感謝祭はアメリカの文化・経済に深く根付いており、その負の歴史を直視することは容易でない。感謝祭をやめることは難しいが、少なくとも先住民の立場を認識する必要がある。フランスの植民地主義も同様に、進歩的な価値観と結びついており、正義の名のもとに歴史を再評価する動きに対する警戒が求められる。正しさのもつ危険性を認識し、多様な視点を大切にするべきだと感じた。
—————————
慎重な立場で検証すべきという姿勢には同意するけど、結局「現地民を類人猿として描いている」ように見える時点でアウトに違いないので、それ以降はキャンセル側も批判側も重箱の隅をつついているだけなのではないのかね。
「知性的な判断とは、できるだけ詳細な知識による理解に基づくべきだ」「そのための学習と、当人による体験を重視すべきだ」という点は見習うべきだと思った。
前記事で、コロンブス問題、サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後に野沢直子の回答で締めくくっていたら、
まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。
先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母
ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。
ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。
それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。
特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民の視点。
【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母
これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。
ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクトを確認できない感じではあった。
(例えば、1637年のピクォート族虐殺=John Winthropマサチューセッツ湾植民地知事による征服祝いが感謝祭の起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディアを検索しても「このピクォート族の虐殺と土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初の感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっとも保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)
というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要な感謝祭が、実はアメリカ先住民の視点からみると、自分たちが虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民の立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史を直視するよう求める主張も行われている、という。
これは、ポッと出てきたアニメやMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。
感謝祭はそれほどまでにアメリカの文化・経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味、合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかにキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺の歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。
だから、アメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。
問題は、自分たちのアイデンティティ形成に欠かせないものをキャンセルできるのかというテーマだ。
そもそも、植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちのアイデンティティに組み込まれているからだというのは、例えばフランスの植民地主義を振り返るとわかる。
例のコロンブスMVでは、類人猿に音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカンの歴史が最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会を文明化する、というテーマはむしろ、フランスの植民地政策がどんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。
ひとつ前の記事で永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。
人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的なものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統や文化と結びついた自分たちの偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。
つまり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化や価値観で自己実現をしたいひとだっているってことだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、
学生運動のシュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。
エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義の元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレにビビったというのがそもそもの出発点なのだ。
*教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バークの見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。
もうひとつ興味深いのは、フランスの人権の歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。
フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的な価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特に、フランス語の普及は博愛の精神の名のもとに、当時フランスが支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶があいまいだが、当時の知識人ヴィクトル・ユゴーは奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。
こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神の普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国の保守知識人からはフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権を普遍的なもの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。
人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛を友愛とポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。
これはある意味で、感謝祭が国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題は共通する。
昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権の普遍化のプロセス(進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。
自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。
そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民の立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様、アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味、表現の自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。大東亜共栄圏の思想は、欧米の帝国主義がアジア諸国の文化や経済を搾取し、独立を妨げているという考えから出発している。何が正しいかについて翌々考えず、適当にポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。
コロンブスのMVの件や原作者死んじゃったドラマの件見てると思う。
インターネットミームで「顧客の要望、プロジェクトリーダーの理解、実際の成果物」みたいなのあるけど、まさにあれでしょ。
多くの人間が1つのクリエイティブに関わると、色んなしがらみやスキルに成果物が左右される。
Mr.大森がインタビューで語った「楽しいホームパーティー(要約)」は、起案時点ではおそらく真実だったのだろう。
それを具現化すべくコンテを書いた人は全くの無頓着か悪意の塊かのどっちかで、
その結果ステレオタイプをデティールバッチリで描き切ったAAAクラスの呪物が出来上がった。
(制作会社/所属事務所/音楽レーベル/スポンサーのいずれかが疑義を詰めるべきだった)
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり)
読んだんだが
何よりもまずこれが先に来ないといけない
リンク先の文中にもあるが、曲単体で見るとイミフとも言える歌詞も
「発見」 「知りたい」 「探検」などの単語が散りばめられてる
これにコロンブスと付くと、日本人ならイメージが大航海に結び付けられるだろう
だから、MVが目指したのもそっちって事になってる
次のリンク先で「知って」やったとしか思えないと言及されてるが
ぉぃぉぃぉぃって感じだよ
歌詞に示された500万年前の人類誕生時には、すでに高度な文明があったのだぁ
ΩΩΩ<な、なんだってー!!
とかの解釈、ないわ
この温度差が分かるだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20240613203515
読んだ
アホかと思った