その先は、「それぞれで考えましょう」っていう
岡村:『心理』というアルバムを作るにあたって、ポップスとしてのカジュアリティと、なにかしらに対する自分の意思表明みたいなものをそこに与えるということを両立させるむずかしさは、実際に感じられましたか?
折坂:アルバムの曲の中に、なにか自分の意思表明、「こうあってください」というメッセージというものはそんなにないと思っています。
──それは、「“こうありたい”ということがない」という意思ではなくて?
折坂:ではなくて。「こうありたい」というのはあるんです。だけど、それは音楽家としてというよりは、舞台にいるときじゃないときの普段の自分のなかにあるものだと思っていて。“炎 feat. Sam Gendel”という曲があるんですけど、炎は人を生かすものでもあるし、危ないものだというイメージがあって。私がいま恐ろしいと思うのは、「見えないじゃん、そんなの」っていう人たちがいることなんです。「いや、炎があって自分たちはそのまわりにいて、それに生かされるかも燃やされるかもしれないけど、あるにはあるじゃん」っていうことをまずは言いたかったんだと思うんですよ。コロナ禍で明確になってきたそれぞれの生きづらさだったりをその人の問題として片づけるというっていう感じが、雰囲気的にあるなと思っていて。
──うん、そうですね。
折坂:それに対して、「これをこうしたらいいじゃん」ということはもちろんやっていくべきことなんですけど、私がポップスの枠でやることは、『心理』というアルバムに於いては、「これがあるじゃん」というところまでなのかなって。“トーチ”という曲もそうだし、それをポップスで表現するのは、私はすごく意味のあることだと思う。それができるのがポップスだとと思うので。「炎がここにあるんだよ」って言った後は、「どうしますか?」っていうだけなんです。その先は、「それぞれで考えましょう」っていう。
──「炎がここにあるよね」って伝えることまでを、『心理』というアルバムでは伝えていると。ということは、『心理』の先の作品なり活動においては、「それぞれで考えましょう」っていう、それぞれの部分まで踏み込んでいくのか?っていうところですよね。
折坂:昨日のツアーファイナルはbutajiさんが観に来てくれて、「“どこかみんな共通するものがあるよね”っていうのは、もう限界があるかもしれない。これからはそこから先の、“そんなことを言われても”っていうことを歌にしなくちゃいけないと思ってる」って、ちょうど言ってたんです(笑)。それを私は「ああ、なるほど」って、たしかにそれもあるなとは思っていて。『心理』のなかで、「みんな同じ共通するものがあるよね」っていうのは、むしろ逆のことを言ってると思っていて。簡単にわからないし例えられるものじゃないというか、それは1曲目の“爆発”でも言ってることなんですけど。私がどういう曲をこれから作るか全然わからないけど、共通項みたいなものを見出そうとするポップスに於いて、“炎”が私のなかでは限界なのかもしれないなと。もしくは“さびしさ”とか。それぐらいが限界で。その先はbutajiさんが言うように、「そんなこと言われてもわかんないよ」というようなことこそを歌にしなくちゃいけないのかなっていう部分もちょっと思ったりしましたね。