はてなキーワード: 隔離とは
感染源はおおよそ当たりがついている。確認する方法はないが。「正月ずっと寝込んでいた」と言いながらノーマスクで咳をするオヤジにエンカウントしてしまった。俺の油断があったといえばその通りだ。
問題は、そのせいで小学生の子供が学校の泊まり込みの課外活動?に参加できそうにないことだ。
子供は基本的に消極的で大概のイベントごとは避ける傾向にあるのだが、このイベントだけは以前から楽しみにしていた。
俺は自宅内で隔離されており、当日の朝時点で妻と子供の両方とも無事ならGoということにしたのだが、先程妻も発熱した。終わりだ。
世間では「時間停止もの」なんて言ったところで、どうせ大半は撮影テクニックや編集、もしくはカメラ外での演出トリックで作られた“疑似”現象にすぎないと思われているらしい。実際、ネットの掲示板や動画サイトのコメント欄を見ても、「いやいや、絶対こんなの嘘だろ」「カメラが止まってる間に位置調整してるだけじゃん」といった声が大半を占めているわけだ。俺だって、そういう意見や憶測が出ること自体は否定しない。映像制作の現場に少しでも触れたことがあるなら、どのように編集して“それらしく”見せるかは、割と想像がつくものだからだ。けれど、俺はそんな世の中の風潮にあえて逆行してでも言いたい。「時間停止ものの九割は偽物かもしれないが、俺が作るのはその残りの一割、本物なんだ」と。
そもそも、どうして俺が「本物」を撮ることができるのか。その理由は簡単に言えば「俺自身が時間を止める能力を持っているから」にほかならない。……といっても、いきなりそんなぶっ飛んだことを言われても誰も信じないだろうし、下手すれば「都市伝説的なジョークだろ」「SFかファンタジーの話?」と片付けられて終わりだ。だが、俺は高校生の頃にその力に目覚めて以来、その“特殊技能”を使ってさまざまな実験を重ねてきた。もちろん、当初は「まさか自分がそんな非科学的な力を持っているわけがない」と思っていたから、これは自分だけの妄想ではないのか、本当に世界が止まっているのかどうかを確かめるために、あらゆる手段を講じたものだ。
たとえば、最初は時計を手に持ち、周囲の秒針と自分が認識している時間感覚とのズレを確認してみた。時間を止めたつもりで周りに何らかの変化を与え、それが再び動き出した後にどういう結果として表出するのかを丹念に観察した。結果は自分が期待していた以上に「本物」だった。針は確かに停止していたし、俺が止まっている間に手を伸ばして動かしたものの位置は、そのままの状態で再開後の世界に引き継がれていた。さらには友人や家族といった“他人”の意識や行動が、一瞬の遅れや戸惑いすらなく自然に続行されているのを目の当たりにしたとき、「これは俺の気のせいでは済まされない」と思ったわけだ。
しかし、この力を本当に「作品」として世の中に発表しようと思ったのは、もっとずっと後になってからだ。最初のうちは「この能力を人に見せたらどうなるか」なんて、怖すぎて考えもしなかった。国に連れていかれて研究対象にされるのではないかとか、社会から隔離されてしまうのではないかとか、そういうSF映画さながらの展開を想像しては自分の力を隠して生きていた。だけど自分の中で色々あって、ようやく「もしかしたらこの力を面白い形で世に出せるかもしれない」という発想に至った。どうせバレたって信じる人間は少数派だろうし、大半の人は「撮影トリックです」と言われれば素直に納得する。ならば、“時間停止もの”というニッチなコンテンツを通じて、この能力を遠回しに表現できないか……と、思い立ったわけだ。
最初に手がけた映像作品は、いわゆる自主制作の短編映像だった。役者は大学時代の演劇サークル仲間に頼んで、「ちょっと協力してもらえない?」と半ば強引にお願いした。もちろん彼らにも「時間を止める」なんて話はしていない。役者たちは俺が示す演出プランを、単に「このシーンでは合図をしたら全員ピタッと止まってね。息とか目線もできるだけブレずに」という程度の指示だと思っていた。俺はスイッチを入れて、本当に時間を止める。すると、役者たちは「命じられた通りにそのポーズを保っている」ように見えるけれど、実際には全世界が静止している。ただし、俺の目から見れば「止まる瞬間」を観察することはできるが、その後は俺が自由に動けるわけだ。その間にカメラの位置を変更したり、人物の配置をちょっと変えてみたり、まるで“セット”を自由に組み替えるような作業を行って再び時間を動かす。そして役者たちは元に戻った世界で何の違和感もなく演技を続行する……という算段だった。
撮影を続けるうちに分かったのは、俺が止めた時間の中でどれだけ動いても、その“しわ寄せ”は自分の身体にだけきっちり返ってくるということだ。要は、自分が動いている間の疲労や消耗はそのまま残る。一方で、周囲にいる人々は一瞬のうちに次の瞬間へ飛んだ感覚になるから、俺がやっていることには全く気づかない。結果、撮影が終わるころには役者たちは「いやー、一発撮りだから緊張したよ」なんて笑う一方で、俺は何度も繰り返し止めたり動かしたりをしているからぐったりと疲れ果てているわけだ。それでも撮影映像を見ると「これは明らかに“ただの演技”や“編集”じゃ再現できないだろうな」というほど、微妙な物体の配置や空気感が変わっていて、そのギャップが俺としては最高に面白かった。
作品を完成させたあと、俺は“ある種の実験”として、それをネット上で発表してみることにした。当然ながらコメント欄には「意外に完成度高い」「こんな自然に止まるのはすごい編集技術だな」といった評価もあれば、「いや絶対CGとか加工だろ」と冷静なツッコミもつく。でも、そのどちらも俺にとっては「しめしめ、狙い通り」と思える反応だった。最初から“本物”としては受け入れられないだろうという予想はあったし、むしろ「すごい特殊効果」として話題になれば十分な手応えがある。なによりコメントを読みながら、「自分が本当に時間を止めてるなんて想像もしてないんだろうなぁ」と密かにほくそ笑んでいた。
そこから次第に俺は“時間停止もの”を撮り続けるようになっていった。制作資金を捻出するために、撮影手法を“商業用”にアレンジして提案したりもする。具体的には「編集で繋いだようにしか見えないが、実は役者はリアルに止まっていたんですよ」と、企画書やプレゼン時に“冗談交じり”でほのめかすのだ。まあもちろん、誰も真に受けやしないけど、「この監督は演出のこだわりが強い」という評価になり、それが逆に営業トークとしては効果的に働いているらしい。実際にクライアントから「なんかすごい集中力で一発撮りをさせているらしい」「カットを割ってないのにアングルが妙に変化してるがどうやってるんだろう」といった不思議な噂が広がり、俺の下には「ちょっと不思議な映像を撮ってほしい」という依頼が舞い込むようになった。
もちろん、その全てを受けられるわけではない。実際問題、時間停止の能力を使うには俺の集中力と体力が相当必要だし、一度の撮影にどれほど長時間も止められるわけではない。あまり力を乱用すれば、どういう副作用が起きるか分からない危うさも感じている。それでも、普通に撮ったらちょっとしたVFX(視覚効果)やポストプロダクションが必要なカットも、俺が時間を止めれば“生撮り”でいけるというメリットはでかい。しかも役者たちには「本当に止まってる」とは言えないから、「カメラ外でしっかり指示を出して完璧な静止をしてもらいました」なんて体裁を装っている。現場では「監督、どうしてもピタッと止まるのって難しいですね」「いえいえ大丈夫、大変そうなところはうまく編集しますから」なんてやり取りが行われているが、実際には俺が時間を止めた世界の中でちょこちょこ微調整しているのだから、演者は“少し止まったつもり”なだけでOKなのだ。
こうして撮りためた“時間停止もの”の作品群を時々まとめて観返してみると、まるで俺自身が異能の魔術師になったみたいな気分になる。世の中の大半の人は「時間停止なんてSF。現実にはありえない」と考えている。だから、たとえそれが本当に時間を止めて撮影された映像であったとしても、皆、「よくできた演技」か「巧妙な編集」で片付ける。俺はそれで構わない。むしろ「そういうものだ」と思われたほうが、余計な疑いをかけられずに済むし、俺自身も面倒なことには巻き込まれない。しかし一方で、いつかは「いや、これは何かがおかしい。絶対にリアルだ」と確信してしまう人間が現れるのではないかという予感も、どこかにあるのだ。
その予感を後押しするかのように、最近、俺の作品を見た人の中に「これは本物に見える」と断言する人物が出始めている。ネット上では「これって実は違法薬物とか使って被写体を眠らせてるんじゃ?」「催眠術の一種だろう」といった妙な憶測も飛び交うが、それらを超えるレベルで「このカットの影の位置、物理的におかしくないか?」とか「人の髪の毛が微妙に揺れている瞬間が、どう考えても止めただけじゃ再現できない動き方をしてる」といったマニアックな指摘をする人が出てきた。映像に関する知識が豊富な人ほど、逆に“不可解”な点に気づいてしまうらしい。これをどう受け止めるかは難しいところで、俺の立場からすると「まあそこまでマニアックに観察されても困るな」と思う一方で、「もしかしたら俺の本当の力に気づいてしまったのか?」と少しドキリともする。
ただ、だからといって「作品を公開するのをやめる」なんて考えは今のところない。むしろ「この力を最大限に活かす」方向で、作品のコンセプトをさらに突き詰めていきたいという気持ちが強い。なにせ俺だけに与えられた唯一無二の能力だ。使わない手はない。それに、俺は単に“時間を止められる”って能力が面白いから映像にしているだけではなく、この不思議な現象を通じて「世界の見え方」を問い直したいとも思っているのだ。人間の認識や常識をちょっと覆すような体験を、たとえ疑似的なものだと思われてもいいから作品として提示してみたい。その過程で「実は本当に止めているんじゃないか」なんて思う人がいたら、それはもう観客の自由な解釈だし、それで世界が少しでも豊かに感じられるなら嬉しいじゃないか。
もっと言えば、この“時間停止もの”というジャンル自体、実は昔から根強い人気があるように思う。マンガやアニメ、ドラマ、映画……どのメディアを探しても「時間が止まる」設定は数多く散見されるし、人はそれを観るたびに「もし本当に時間を止められたら何をするだろう」と想像する。だからこそ、多くの人が「本当に時間を止められるわけがない」と一方では知りつつも、“その可能性”にちょっとだけ夢を見てしまうのかもしれない。で、現実に「時間停止もの」は大半が小細工や演出だとわかっていながらも、いざ映像としての完成度が高いと「本当に止まっているようにしか見えない!」と感嘆し、同時に「いや、やっぱりウソだよな」と理性を働かせる。その矛盾をはらんだ感情こそが、このジャンルの魅力かもしれない。
そういう意味で言えば、俺が提供しているのは「本当に時間を止める」映像作品であると同時に、「どうせトリックだろう」という疑いも楽しんでもらうためのエンターテインメントでもある。事実、観客からは「どうやって撮影してるんですか?」と質問されるし、「このシーンは編集で切り張りしたんですよね?」と探りを入れられることもある。そのたびに俺はニヤッと笑って、「企業秘密です」と答える。まさか相手も「実は僕、時間を止められるんですよ」なんてセリフが返ってくるとは思っていないだろう。だからこそ、その“すれ違い”がまた面白いのだ。
さて、「時間停止ものの九割は偽物って言うけど俺はその残りの一割を作ってる」というのが、今の俺の胸を張った主張である。もちろんこれはやや誇張を含んでいる表現だ。実際には“時間停止もの”が100あったとして、そのうちの何本が“本物”であるかなんて誰にも分からないし、他にも俺と同じような能力を秘めている人間がいるかもしれない。でも、現状では俺は「自分だけが本物を作っている」と思い込むことで、この面白い世界を存分に遊んでやろうと決めている。大袈裟に言えば、それが俺の生きる意義のひとつになっているのだ。
いつの日か、もしかするとこの秘密が公になる時が来るかもしれない。誰かに能力を見破られたり、あるいは俺の側が意図的にバラすことだってあるかもしれない。だけどそのときは、そのときだ。今はただ「本物の時間停止もの」を撮り続けることに喜びを感じ、そしてその映像を観た誰かが「おいおい、また嘘くさいけど面白いぞ」と言ってくれることが、俺の創作意欲を支えている。例え“嘘くさい”と思われたとしても、真偽の境界線が揺らぐ瞬間を作り出せるのなら、それはまさに映像表現の醍醐味だろう。
そういうわけで、俺はこれからも「時間停止ものの九割は偽物って言うけど、俺はその残りの一割を作ってる」と胸を張って言い続けるつもりだ。世間がどう思おうと、ネットがどう騒ごうと、俺自身が“本物”であると信じている。それは単に俺に特異な能力が備わっているからというだけではない。俺自身がこの“時間停止”という概念に誰よりも魅了され、“嘘か本当か”を超えたところで映像を創り出すことに情熱を注いでいるからだ。疑う人は疑えばいい。信じる人は信じればいい。このグレーゾーンのどこかで、俺の映像がほんの少しでも視聴者の心をくすぐり、世界の見え方を変えてくれるなら、それで十分。そう思いながら、今日もまた俺はカメラを抱えて撮影現場に向かうのである。誰にも気づかれないように、ほんの数秒だけ世界を止めながら。
40代くらいまでの人はだいたい煙の中で育ってる。
今となっては信じられないが、子供の頃は飛行機もレストランも職場も職員室もどこに行ってもタバコの煙が充満してた。ホテルもタクシーもタバコを吸うのが普通だった。タバコの灰皿がない場所なんてなかった。ここは喫煙などと言うと非常識扱いされて、無視して吸う人が大多数だった。マッチもどこにでもあった。家の壁はみんな茶色かった。うちの実家も白い壁紙の貼られた壁の上の方60cmくらいだけ茶色になってる。壁に飾ってる額を外すとその裏だけ白い。
それでもまあみんな元気に育ってるわけよね。この辺の疫学的な研究ってなされてるのかな。
別に大袈裟と言いたいわけではないし、喫煙者と隔離した方がいいに決まってるんだけど、ここまで価値観が変わったのすごいなと心底思う。変わったのは1990年代頃か。工場や車の排気ガス規制がようやく効いてきて、空気が本来透明であることにみんな気づき始めたのだろう。それまで外に出ても工場や車の排気ガスや野焼きの煙により汚れた空気が普通だったのでタバコの煙くらいだれも気に留めなかったのが、きれいな空気の中でタバコの煙が目立つようになったのだと思う。
少し歳の離れた兄がいる。
ずっと兄は快活で優秀だった。
当時まだブラック企業という名がない頃、
彼は使い潰され壊され、結果、酒に逃げた。
浴びるように飲む毎日。荒れに荒れ家庭はめちゃくちゃになった。
飲酒時の家庭内暴力と彼の心身の健康不良にほとほと困り果て母はアラノン等自助グループの助けを借り、彼を説得し依存症回復支援施設入れた。アルコールを抜く段階での離脱症状、せん妄などに対する隔離や投薬による苦痛を彼は母がここへ入れたからだと転嫁することで逃れようとした。
もともと依存症に懐疑的であった父を抱き込みあらゆる手段を駆使して強引に退院、母の元へ戻り前にも増して暴れるようになった。繰り返される暴言暴力にPTSD症状を発した母親が離れた。
1人では何もできない彼のそばにいなければと父だけが彼と共に生活の面倒を見ていた。
そして年末父が倒れた。
父が入院後何日かして私のところに情けを乞うような電話やメールが山のように送られてきたが基本無視した。
死にそうになったら救急車を呼べば良い、隣のひとでいいから他人に助けを求めたらとだけ伝えたら音信不通になった。
今日で1週間。私のところにも父のところにも連絡はなくLINEも既読がつかない。
県を跨いで様子を見に行くべきだろうか。
くそつまらないのでさすがに逮捕勾留後の生活の全てがAIで生成されてるわけではないが、拘禁生活は社会生活から隔離された世界が広がっているので
逮捕から3日の間に何らかの生成をつけないと話にならないので、最初の3日は苦痛であり、その後も釈放に至るまで、特殊な制限生活が展開されており、
極めて例外的な措置となる釈放決定以降は、普通に生活に戻される。この趣旨は、平成の天皇が極めてつまらない人間であり、それくらいの狡猾なことしか
考案できなかったことによる。また、狡猾なだけなので、銭湯のように、滅びずにいつまでも残っているところが多く、民間の考案による、レンタルルームのように、
令和3年までになくなったところに比べると、平成の國の場合、いつまでも残っているところくらいしか、特徴がない。(最高裁平成4年決定)
基本百合厨って狭い世界で女2人イチャコラさせてれば褒められる界隈でしか生きられなくて自カプを叩かれることに慣れてないのに無駄に攻撃的だからきららアニメに隔離しとくのが正解だよ
昔なら俺もはりきっていろいろ意見してたけど昨今は(ましてド直球の法律の話だからな)何か言ったらすぐスラッペ訴訟される風潮だから何も言わない。
実際あれを批判してる人の側にも裁判官への誹謗中傷でしかない言葉を平気で投げる(しかも他人へのリプライの形で)のが大勢いて、大スラッビョ訴訟時代に突入してるのいまだに気づいてないのはヤバすぎるだろ。
それでもやはり居丈高に「日本は法治国家なんでちゅよ~」とか煽り散らすヤツらにムカついてたまらない。
さらに普段はリベラル( )だったりフェミ( )だったりするインテリ系インフルエンサー達が「どんな人にも人権ガー」のリベサヨ理論で抗議者の口を塞ごうとし、普段はそのフェミやリベサヨを攻撃してる男尊ネトウヨが呉越同舟の大同団結して国民全員で女叩き。
もうやだこんなの。
「法律を勉強してから言え」とか「三権分立ガー」とか言うけどさ、法学部卒を除く圧倒的多数の法律知らん系の一般国民のあれやこれやを世話するのが法律関係者の仕事なんだからさ
一部の法律界隈の常識と圧倒的多数の一般国民の常識が著しく解離してたんじゃダメだとわからないのかな?
つまり、一般庶民の当たり前の日々の営みから生まれるいろんな出来事を積み重ねていって「これはこうしたほうがいいんじゃないかな」という話し合いを社会全体で何世代にも渡って議論してきた結果で法律というルールが出来るのではなく、一般社会から隔離されたエリートだけの身内の論理で勝手に作った非現実的な法律を愚かなシモジモの庶民どもに上から目線で押し付けてやるって形だからこうなるんだよ。
「無罪とは一般的に「潔白」という意味ではなく」ってそれは一部の法律界隈の中だけでの「一般的」であり、本当の「一般的」な大衆は「無罪」といったらそのまんま「罪が無い」という意味にしか受け取らないよ。
法律用語はこれだけじゃなく一事が万事の勢いで悉く一般的な意味とは違う使い方するからキモいんだよ。
「有罪かもしれないが有罪と確定するほどの証拠が無い」というのは逆に言えば無罪と断定する証拠も無いんだから「無罪」じゃなく「非有罪」ぐらいにしとけよ。