はてなキーワード: エリックとは
・おそらく世界で最も有名なロックバンドであり、最も多くのレコードを売り上げたロックバンドでもある。
・プロとしての活動期間は、1962〜1970年であるが、その間にオリジナルアルバムを13枚発表し、曲数としては200曲以上と極めて多作である。
・メンバーは、ジョンレノン(リズムギター)、ポールマッカートニー(ベースギター)、ジョージハリソン(リードギター)、リンゴスター(ドラムス)の4名であり、4名ともボーカルを取っている。
・1964年10月に録音、4枚目のオリジナルアルバム『Beatles for Sale』に収録されている。
・ポップソングとして初めてフェードイン(イントロで徐々にボリュームが大きくなる)が使用されている。
・1964年10月に録音、1964年11月にシングルとして発売されており、オリジナルアルバムには収録されていない。なおビートルズはシングルとして発表した曲をアルバムに収録しないというスタンスを持っていた。
・レコード史上初の意図的なフィードバック奏法が使用されている。
・1965年6月に録音、5枚目のオリジナルアルバム『Help!』に収録されている。
・言わずと知れたバンドの代表的なナンバーである。曲としてはポールマッカートニーのソロとなっている。
・ロックとクラシックを融合させたという点で画期的な曲である。
・この後も明らかに数曲ほどロックとクラシックの融合を意図した作品が見られる(Eleanor RigbyやShe's Leaving Home)
・1965年10月に録音、6枚目のオリジナルアルバム『Rubber Soul』に収録されている。
・ポピュラー音楽としては初めてインドの弦楽器であるシタールが使用されている。導入したのはジョージハリソンである。
・ジョージハリソンはシンセサイザーを導入したり、自分の曲のギターをエリッククラプトンに弾かせたりなど、バンドサウンドに新しい風を吹き込むことを度々行っている。
・1966年4月に録音、7枚目のオリジナルアルバム『Revolver』に収録されている。
・極めて実験的な曲であリ、テープの逆回転やサンプリングループが多用されている。テープの逆回転については『Rain』という曲が先に発表されているが、録音はこちらの方がわずかに早い。
・技術的には初めて「アーティフィシャル・ダブル・トラッキング(擬似ダブルトラッキング:ADT)」が用いられている。
・ADTとは言うなれば任意の部分のコピペであるが、ごくわずかにタイミングをずらして再生することで、独特の音が得られる点も発明である。
・ザ・ビートルズの技術的に重要な曲は、活動中期(1964〜1966年)に集中している。
・これは、当時のレコーディングの技術が日進月歩の進化中だったことと、バンドメンバーがレコーディングの主導権を握り始めた時期と大体一致する。
どこかで拾ってきたパリの写真などを上げてパリ在住のように意図的に演出していたが、同時に東京の写真も上げたりして設定ガバガバ。
語学力のあるものにとっては、当初から「こいつ言ってること怪しすぎるな?」と不審点だらけだったが、バカは気づかない。
知性も品性もないルンペン左翼のガス抜きでたっぷり稼ぐよ青バッジ。
高卒どころか中卒という噂もあるミリタリー雑誌ライター兼シミュレーションゲームデザイナー。
理系でも高校世界史をちゃんとやってたバランスの良い高学歴ならわかる。マジで言ってること歴史学的にはデタラメ。
最近はプロフを東大院に書き換えたらしい。社会人入学でもしたのか? 努力は認めるけど、「独裁者」とか「専制君主」とか重要な歴史用語の使い方がめちゃくちゃなのは学者と呼べるレベルではない。
本当は総会屋はてサの親分瀬川深(https://x.com/segawashin)とか入れたいけど、まあ身分詐称してないだけマシなので圏外に。
他に入れたいの、ある?
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 下」
「地球の歩き方 E03 イスタンブールとトルコの大地 2019-2020 【分冊】 1 イスタンブールとその近郊」
「A20 地球の歩き方 スペイン 2024~2025 (地球の歩き方A ヨーロッパ) 」
宮下遼『物語 イスタンブールの歴史-「世界帝都」の1600年』★★★
先月たくさん行ったしこれでOK。
満州国については通史でしか知らなかったので、こうして改めて本で読み返すと得るものが多い。
釘貫亨『日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅』
今井宏平「トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで」★★
維羽裕介、北國ばらっど、宮本深礼、吉上 亮「岸辺露伴は叫ばない」
Jam「続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。 孤独も悪くない編」
田澤 耕「物語 カタルーニャの歴史 増補版-知られざる地中海帝国の興亡」★
今井むつみ、秋田喜美「言語の本質: ことばはどう生まれ、進化したか」
安藤 寿康 『能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ』
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 下」
旅先の歴史についての本や、旅先でも読めるくらいの軽さの本を読んでいる。岸部露伴は地中海を飛び越える飛行機の中で楽しんだ。
言語学の本を少し含んでいる。
なお、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿には美術館が併設されており、そこにも行ったのだが流し見だった。今回の旅行のテーマは絵画ではなく建築だったからだし、軍事博物館のイェニチェリの演奏を聞きたかったからだ。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 10巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下」★★★
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S4話 露出狂時代」
飯村周平『HSPの心理学: 科学的根拠から理解する「繊細さ」と「生きづらさ」』
きい著、ゆうきゆう監修「しんどい心にさようなら 生きやすくなる55の考え方」。
堀晃 他「Genesis されど星は流れる 創元日本SFアンソロジー」
小川一水 他「Genesis 時間飼ってみた 創元日本SFアンソロジー」
「トルコ共和国建国100周年記念 山田寅次郎展 茶人、トルコと日本をつなぐ」
柞刈湯葉も柴田勝家も一度読んでから「しばらくは読まなくていいかな」と思ってしばらくしてから読みだした。柞刈湯葉は表題作が普段のクールというか知的なアイディアを軽やかに扱う感じではなく、意外な側面に驚かされた。柴田勝家はVtuber文化と死後のアーカイブを肯定的に表現していたのが大変面白い。
ブアレム・サンサルはもう何年も前にWIERD誌が紹介していたので読書メモに載せていたので読んだ。数歩遅れて読むことなどよくあることだ。僕は最先端を追うことにそこまで興味がない。
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ」
柴田勝家「ヒト夜の永い夢」
フランチェスコ・ヴァルソ (著), フランチェスカ・T・バルビニ (編集)「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」
高水裕一「時間は逆戻りするのか 宇宙から量子まで、可能性のすべて」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集2 すべての善きベムが」
トーマス・S・マラニー「チャイニーズ・タイプライター 漢字と技術の近代史」★★
SFが多くを占めた。面白いが徐々に飽きてくる。新人賞の作品は読んでいるそのときは面白いんだけど、新しい思考の枠組みや発想に触れて、それが後まで自分に影響を与え続ける作品ってのは少ないのかも。
逆に星新一の源流の一つ、フレドリック・ブラウンなんかは、古びたアイディアと今でも色褪せないアイディアの両方がある。
タイプライターの歴史も面白く感じられた。あとは、純文学が少し恋しい。
他に読みたいのは歴史の本かなあ。それか、第二次世界大戦を舞台とした小説か。「火垂るの墓」とか「野火」とかいい加減に読まないとと思っている。
池田利夫訳・注「堤中納言物語 (笠間文庫―原文&現代語訳シリーズ) 」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集3 最後の火星人」
成美堂出版編集部「いちばんわかりやすい 家事のきほん大事典」
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」★
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集4 最初のタイムマシン」
木村光彦「日本統治下の朝鮮 - 統計と実証研究は何を語るか」☆
エリック・H・クライン「B.C. 1177 古代グローバル文明の崩壊」☆
日本語の活字についてや、日本の植民地政策について読み始めたのは、先月の中国語タイプライターの本に、日本製の中国語タイプライターについての記述があったためだ。
楊海英「日本陸軍とモンゴル 興安軍官学校の知られざる戦い」☆
小倉孝保「中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事」★★
宗美玄(ソン・ミヒョン)「女医が教える 本当に気持ちのいいセックス」★★★
木村泰司「人騒がせな名画たち」
なし
読んだのは全体的に近現代史が多い。
第二次世界大戦についての本は通史を何度か読んだが、テーマごとに読むとまた面白い。歴史は技術史とか思想史とか文学史とかの別の軸で見直さないと立体的に見えてこない。とはいえ、少しは立体的に見えたとしても、知らないことが無数にあり、出来事すべてを頭の中に残しておくのは難しい。歴史は誰と誰が知り合いかとか、活躍した時代以降にどう生きたかがわかってくると更に面白くなるんだろうが、あいにくそこまで行っていない。
12月は当たりが多く、上位3冊を選ぶのに悩んだ。ほぼすべてがオススメ。
来年からは方針を変えて、すべての本を★1つから5つまでの段階で評価してもいいかもしれない。
一年を通してみると、「昆虫記」のウェイトが大きく、それから第二次世界大戦の本を多く読んでいる。それに並んで平安時代、江戸時代などを扱った新書が多い。外国の歴史の本は少ないが、旅先のイスタンブールとバルセロナの歴史を扱った本が印象深い。
SFの新人賞を数年分まとめて追いかけるのが習慣なのだが、もう少し純文学を読みたい。学生は岩波や新潮の古典ばかり読んでいたのにどうしてだろう。
人権関係で読みたい本が多数ある。とはいえ、悲しい気持ちになるので元気のある時にしか読めないし、いつ元気になるかは予測ができない。
ここ最近は美術展に行っていないなと思いきや、振り返るとほぼ毎週行っている月があったので、まとめてみるのは大事だ。秋以降は少なかったが、これは理由がわかっている。
以上。
いきなりだが私はビリヤニが大好きだ。パラパラの米に染み込んだスパイスの旨味、そして中から出てくるゴロゴロの肉、カレーとは一味違った食感。たまらない。大好き。ここまで書いただけでもうビリヤニが食べたくなってきた。ところが、世間におけるビリヤニの地位は未だ微妙な状態である。
という書き出しで『流行れ!ビリヤニ!』(https://anond.hatelabo.jp/20201113184445)を書いたのが約3年前。
あれから、ビリヤニはめちゃくちゃ流行った。それはもう自分でも想像していない程に流行った。まさかセブンイレブンでバスマティライスのビリヤニが発売されて、品切れで探し回る日が来るなんて夢にも思わなかった。
(第一弾の時点では日本米で心底がっかりしたけど、第二弾でバスマティライスになったのはとても嬉しかった。エリックサウスさんありがとう。もしも第三弾があるとしたら今度はぜひライタをつけて欲しい)
前の日記では「正直よほど好きじゃない限りは1200円出して食べるようなもんではない」みたいなこと書かれてちょっとムカついたりもしたけど、でも、流行ったぜ。ざまあみろ。
この3年で本格的なビリヤニが食べられる店も格段に増えて、ビリヤニ店巡りをするのがとても楽しかった。カーンさんのカレー、エリックサウス、アナスドーザビリヤニ、行徳ビリヤーニハウス、ビリヤニ大澤、サラムナマステ、マハラジャビリヤニ、スリヤローヤルガーデン、マサラダルバール(今までに行ったビリヤニが特においしい店を並べたもの。順不同)、その他ビリヤニを提供する全ての方々、そしてビリヤニを食べてくれた日本中の皆さん、本当にありがとうございました。なんかすごく上から目線みたいだけど、とにかく感謝の気持ちを表したかった。本当にありがとうございました。これからもビリヤニをよろしくお願いします。自分も一生ビリヤニを食べ続けます。
そして、今こそ叫びたい。
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源 私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
神田のどっかの予約必要な店。2回ほど行ったことあるし拘りと味は良いけど高い。香辛料やマトン等にも拘ってるんだろうけど高い。場所代やブランディングだとしても高い。ラーメンハゲのミシュラン星貰った店主みたいだからラーメンハゲと一緒に滅んで欲しい。
祖師ヶ谷大蔵のお店も美味しいし店主の理想も分かるけど香辛料の味わいより現地の人が普段食べているジャンクな感じが好きなので自分はリピートは無い。コストも自分には見合わなかった。本場の古来の味を楽しみたい人にはおススメ
日本のビリヤニの先頭を走ってる風のエリックサウスもコンビニや冷凍にも手を出して頑張ってるが、コラボ出るたびにSNSで褒めたたえる信者がキモいし信者が言うほどコラボ商品美味しくないのであの人たちは店舗で何を食べているのか疑問だ
テイクアウトは別にして日本で店で食べるビリヤニはサラダとライタついて大体1000円前後、マトンだと200円くらい高くなるのがメジャーか。物価や燃料費やビリヤニ鍋での調理の手間を考えればこの価格は妥当だ。動画等で見る現地の芋煮会みたいな巨釜ならもう少し安く出来そうだが日本でみんながビリヤニ食べるわけも無いのでそれは難しい。ただ自分にとってのビリヤニは今の価格が上限でこれ以上は正直出せない。それくらい大量生産出来ないのがビリヤニだ。テイクアウトの店ですぐ出てくる奴は炊飯器で保温した奴なのでどうしても出来立てとは違うしあれが許されるのは1000円切っているからであり、あれで1000円超えたらケバブだけ売ってろと言いたくなる。
なのでビリヤニ食べてると最後は家で作るようになる。パッキだのカッチだの拘り始めたら店で食べた方がマシになるけど、ハラルショップで売ってるミックスでちゃっちゃと作るだけなら気持ちよく70点のビリヤニが大量に食べられる。いくつか出ているレシピ本なら85点まで出来る。この先は店でないと食べられないがビリヤニジャンキーにはこれで充分だ。
定期的にビリヤニが盛り上がるけど結局ラーメンハゲが言うように情報を食べている人が多くて残念。ビリヤニなんて山盛りをライタと混ぜてぐっちゃぐちゃにして最後まで食べて帰り道に胃の中で膨らんだバスマティで苦しむくらいで良いんだよ。
・ピアノ
一人で完結できる。とは言えジャンルによって合う合わないがもある。一人で弾いてダサくならないのはクラシックかジャズくらいだし、全くの万能という訳ではない。ボーカル曲をピアノでカバーすると同じ音を叩き続けるのがマヌケ。まあその辺は好み。本当に色々やりたかったらエレクトーンだと思う。
電子ピアノならまあ2,3万もあれば。どうせ違いは分からない。ただケチって鍵盤少ないのとか打鍵がスカスカのやつにすると後になって物足りなくなる。
ヘッドホン挿せばいつでも弾き放題、と思いきや振動が直で床に行くのでその辺は意外と気を遣う。
アップライトなら多分それなり。数十万くらい?グランドピアノはスペース的にも金額的にも富豪しか買えない。あれ引っ越す時どうすんだろ。
当然単音しか出ないので、一人でやってるとたまに虚しい。ほとんど合奏前提だと思う。ジャンルは管楽器の中でトップクラスに多い。オケ、室内楽、ジャズアンサンブル、ビッグバンド、吹奏楽、ブラスバンド。居場所はどこにでもある。
ビッグバンドやブラスバンドなら華があるけど、1st取れないとちょっと退屈かもしれない。でもビッグバンドって2ndがソロやるんだっけ。
吹奏楽でも目立つけど、そもそも他ジャンルの編曲ばっかりでおれはダサいと思ってる。
オケとかは意外と地味。というか暇そう。
肺活量はあんま関係ない気がする。そもそも管楽器で肺活量要るのって息ダダ漏れのフルートくらいだと思う。腹式呼吸がどうのとかよく言われるけど、おれは未だに理解してない。横隔膜がどこにあるのかも分かってない。
生で吹ける場所はないけど、電子ミュート着けられるからそこは便利。
ヤマハの一番安いので確か8万くらいだっけ。中古なら5万くらい?今はもうちょっと値上げしてるかもしれない。トランペット界の高級メーカーのハイエンドモデルでも100万そこらだったと思う。値段のレンジは割と狭い気がする。
Amazonとかのクソ安いやつは音の出る模型とか言われてる。言い過ぎな気もするし、強ち間違ってもいない気がする。
楽器としての最低限の要求をギリギリ満たしてるか満たしてないか微妙な所で、でもトランペットを握りしめて音を出す喜びを一刻も早く味わいたい別に買えばいいと思う。
一人で吹いてる時の虚しさがトランペットより強い気がする。
ジャンルはトランペットに比べるとやや限定的。木管の中では割と広い方かもしれない。
吹奏楽で弦の代わりをやらされてる印象が強い。エリックドルフィーのバスクラリネットはかっこいい。そもそもバスクラリネットが形からしてかっこいい。
金管は音を鳴らすのが、木管は指使いが難しい。みたいな印象があるかもしれないけど、言うほど運指は難解でもない気がする。木管だって音出すだけなら強めに咥えればいいけど、良い音を出すのは難しいし。
音は金管に比べれば控え目だけど、ミュートを使えなち分むしろこっちの方が厄介な気がする。車で吹くかカラオケ行くかになると思う。
リードは中高生には高すぎるけど、大人ならまあ別に……って感じ。プラのリードとかあるし。
これもトランペットと似たような価格帯だと思う。10〜20万を軸に割と狭く固まってる印象。グラナディラかプラかの違いは音聴いても大抵の人が分からないと思う。分かったとして、こだわりたいほどの差かどうかも分からんし。まあ気分の問題だと思う。
これもAmazonで1万ちょいのが売ってて、トランペットとほぼ同じことを思う。ただクラリネットの方が気持ちオモチャ度は高い気がする。
・ギター
一人でやっててもそれなりに楽しい。友達がいないのでバンドをやる楽しさは知らない。きっと楽しいに違いない。
一人でやる分にはYoutubeで好きな曲のタブ譜調べて弾いたり、Uフレットでコード見てヘタクソな歌声で弾き語りしてると楽しい。大体そういう楽しみ方になるのではないか。少し知識をつけて手癖で適当にジャカジャカ鳴らしても気持ち良い。
まあやった事ないから何とも言えんけど、やはりバンドで弾いてナンボではないか。ジャズギターなんかもある。
ガットギターならメロディから伴奏まで一人で完結出来るらしい。でもジャキジャキのロックをやるにはエレキしかない。
そうなるとバッキングとメロディラインを同時にはやれない。ルーパー繋いで自分とセッションすればそれなりに楽しめるけど。ぼっちざろっくだ。
メロディは基本単音弾きで、一人でやってると少し寂しい。一応オクターブ奏法とかもあるけど。
管楽器なら上手かろうが下手だろうが単音しか出せない。出来栄えは違っても上手い人とやってる事は同じだ。対してギターだと、上手い人は一人でなんだか重厚な音を出している。出来栄えを差し置いて真似しようにも、真似すら覚束ない。譜面通りにフレットを抑えられなかったりどう足掻いてもミュートが上手く出来なかったりする。そのフラストレーションはデカい。
かえるのうたを単音で弾いても全く楽しくない。それでも地道に練習して、スタジオでも行ってフルテンでかき鳴らせばヘタクソでも気持ち良い。あの快感は何物にも代え難い。
音作りもエレキギターの醍醐味だ。練習もしない機材厨になる恐怖を抱えつつマルチを買って、色々試してる時はギター始めてから随一の楽しさだった。
ヘッドホン繋げば家でも弾けるし、生音も電子ピアノの振動よりはマシなのではなかろうか。
3万も出せばヤマハのエントリークラスが買える。5万からだ、いや10万だという人もいるけど、どうせ違いなんて分かりゃしないと思う。
1万とかの安物も、管楽器よりオモチャ度合いは低い気がする。他の楽器より手頃な部類だと思う。弦もせいぜい数千円だし、しょっちゅう張り替える訳でもない。まあ周りの機材含めてこだわり始めたら底なしだし、ビンテージ的なのとかはまた話が違うけど。
私は千葉県酒々井町で生まれ育ち、千葉県立佐倉高等学校を卒業し代ゼミから一橋大学商学部に入るまでは安穏と過ごしていた。在学中ストックホルム商科大学に留学し、ローベン島の離宮で行われたパーティーで知り合った貴族達と関わるうちに彼らの有色人種虐殺計画を知った。一橋大学商学部卒業後に神戸大学医学部医学科と医学研究科にてストックホルム貴族達の陰謀を暴くため研究に打ち込むも怯えた教授達から医局と学会を追放。サナトリウムにて亥鼻の工作員たちから拘束される屈辱を受けた。
現在、ストックホルム貴族達との決戦を決意しリクスダーゲンに向け、私をベルナドッテ王朝に代わるスウェーデン国王に推戴するよう働きかけている。
数日前に諸事情があり東京へ赴いた。ストックホルム貴族達による有色人種虐殺計画に対し、国王陛下の行政府がどのように対応しようとしているのか、或いはしていないのかを確認するためであったが、結果的にペールエリック・ヘーグベリ大使閣下にお会いすることは叶わなかった。急に伺ったこちらにも非礼はあるが非常に残念である。
せっかく東京まで来たのにこのまま帰るのはあまりにもつまらない。六本木の蔦屋にて東京医学社と慶應義塾出版会の雑誌や書籍を数冊買い込むと、そのままタクシーに乗ってしばらく東京を流し、面影橋のあたりで降りた。
かつて日本女子大学の女性と交際していた学生時代、雑司ヶ谷、早稲田、高田のあたりをよく散策したものである。
しばらく神田川沿い、目白通りをふらついてからリーガロイヤルホテル東京に向かいガーデンラウンジで買い込んだ雑誌を読むことに。
先日、Halle主演のリトルマーメイドを観ました。キャスティング発表時からすごく楽しみにしてて、本国で公開されてからもめちゃくちゃ評価が良かったので期待値爆上げの状態で行きました。鑑賞後も感動の渦にのまれて言葉が出ないくらいすごい映画でした。
はてな匿名ダイアリー書くの初めてだけど、この感動をもっといろんなところにシェアしたくて書こうと思います。
Halleの見た目がアリエルじゃないとか、演技力がどうのと、一部のアニメーションアリエルファンの人たちは批判してたけれど、私にとってHalleは本物のアリエルでした。
綺麗な歌声で、人間界について憧れてて、すごく自由奔放!表情も顔だけでなくて、歌声にものせることができていて、歌手のHalleはぴったりばっちりの配役だったと思います。
海の中でセイレーンのようにミステリアスで魅力的な歌声が流れるところ、あの声なら人魚神話が生まれても仕方ないと思ってしまいます。エリックが初っ端から人魚神話を否定してたのもすごく良かったです。
声がないのに表現力豊かに自分の気持ち、好奇心を伝えて、エリックからたくさんの話を引き出すところ、すごく可愛らしいシーンで今でも思い出してニヤニヤしちゃう。
馬車で馬の手綱をアリエルが持って大爆走したところなんか、ローマの休日のアーニャでしたね。すごく可愛らしい2人!やっぱり、エリックとアリエルのカップルは愛しい…
綺麗な声で上手すぎる歌を歌い上げるHalle、そりゃあアースラもあの声奪ってやりたくなりますね。
アースラと言えば!Poor unfortunate souls が本当に本当にかっこよくて、楽しかったです。あれくらい強くかっこよく歌える人じゃないとHalleに張り合いがつかないのかな?とも考えました。
アランメンケンとリンマニュエルミランダ、2人の作る楽曲を完璧に歌えるキャスティングになっていて、ディズニー映画で久しぶりにサウンドトラックからほとんどの音楽をダウンロードしました。
あと、日本人として嬉しかったのはアリエルのお姉ちゃんたちの1人に東アジア系の俳優さんが起用されてたことです。嬉しい。人魚姫に憧れた幼少期を過ごしてきたので、インナーチャイルドが喜んでました。
たくさんバックラッシュのコメント(主に日本語で)(英語圏は私が目にする限り少ない)をいろんなSNSで見かけるけど、黒人のHalleがアリエル役をするから嫌!という理由で、リトルマーメイド2023を観に行かないのは正直もったいない気がします。どんなもんか観に行こうくらいの気持ちで行って、ぜひ感動して映画館から出てきてほしい。
アリエルに興味ない人も見てほしい。本当に音楽が壮大で、水の中も、街並み(マーケット?)のセットも全部綺麗なので見てほしい。
みんなリトルマーメイド2023に圧倒されに行ってください。
どんどん映画界やアニメーション界でリプリゼンテーションが進んで、世界中のいろんな子たちがプリンセスになれる世界が早く来たらいいなと思います。私もアリエルになりたい!
乱文失礼しました。
𝗗𝗔𝗜@
@3559dai
劇場にリトルマーメイドを観に行く理由が動くヴァネッサを観たいでもいいですし、ハリエルの歌声を聴きたいでもいいと思います😊
https://twitter.com/neko_gravity/status/1666528978839146496?s=20
いやこんな明るくないっしょ。
https://twitter.com/cwgl418/status/1666158230224130048?s=20
これも表情が見えない
𝗗𝗔𝗜@
@3559dai
エリック役のジョナ「今作は自分と違う人たちを恐れるのではなく、その違いを祝福してお互いに手を取り合うことの素晴らしさがテーマになっています。」
こう言うのが素晴らしいとかアホやろ。
@voguejp
アリエルは黒人ではなく白人が演じるべきだという世論があったことについて語ったこと。「スクリーン上で、自分と似た外見を持つプリンスや・プリンセスを観ることが少ない子どもたちにとって、ハリーのキャスティングはどれほど重要で価値のあることか」 #リトルマーメイド
そもそもみずの中で泳げるか?
日本は008っているんだぞ。
𝗗𝗔𝗜@
@3559dai
ハリーベイリーの歌声に感動する子供が可愛いし見てる方も泣けてくる🥲
https://instagram.com/kimberlygelinn?igshid=MzRlODBiNWFlZA==
ヤラセくさい。