はてなキーワード: 神父とは
まずは完結おつかれさまでした。
今回はロールが広く、指導者が本当のリーダーシップを発揮しないといけない構造なのが面白さでもあり難しさでもありました。
偽王rnojajaには3人のブレインがついていたため、本人のカリスマがあったため良かったのですが、
真の王Limeは初動落ちでスタートダッシュに失敗した不運を含めて、周囲の協力が得られずに決戦の場で動員に失敗したのが厳しかったように見えました。
反逆の王ウマヅラハギに関しては、過去にDr.ヴェノムが「ウマは頭が悪い」と言っていた悪い部分が存分に出てしまったのかなという感じでした。
リーダーシップ、主体性、物事の進行と何もかもうまく進められて無いようで、何より陣営としての取れ高がほとんど取れていないようでした。
蛮族の王GOD_koutanは途中迷走もしましたが、太陽教から王冠を授けられたシーンは極めて良かったです。
太陽教はなっしー神父が教会を中心に活躍して良かったと思います。
冒険者はゲーム目的を達成して上手い立ち回りを見せていました。
遊牧民は残念ながら導入から結末まで物語に上手く絡めず、見せ場もなかったのが残念です。
個人的名場面は乞食の親友dendenが偽王の盗聴に成功し「えらいこっちゃ」と叫んでいたシーンでした。編集も上手かった。
参加勢同士で尊重されない人(ウマヅラ、Lime、かっちゃん)が重要な役職に配置されたとき、50人クラフトは上手く機能しなさそうな気配があるからです。
そこら辺の加減ができないと、また焼き直しになりそうな気がしました。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
名古屋のライブ会場の少なさや、愛知県と名古屋市の関係性がイベントに与える影響が話題に。
京都や岐阜羽島を通過する様子、ライブでのペンライトの楽しさやファン交流について語られた。
名古屋の「ちゃん系」ラーメンや海鮮丼についての話が続き、美味しい食事の体験が共有された。
港町の寒さや防寒具の準備、高齢者の入浴時のヒートショックの危険性が議論に。
ルーブル美術館やヴェルサイユ宮殿の訪問計画についても意見が交わされた。
東京での物価上昇や食料品の高騰について議論。特にトマトの価格に言及。
韓国の戒厳令や大統領の話題、米軍基地問題、技能実習生制度の課題についての議論が活発。
賃貸物件の内見や新居の引っ越し費用、収納やリフォームのアイデアが話題に。
プラスチックストローやレジ袋の有料化と環境問題への対策が議論された。
米津玄師の主題歌や教会の讃美歌、神父の話に関する文化的な感想が交わされた。
全体として、参加者は食べ物、旅行、ライブ、政治、日常生活、健康、投資など多岐にわたるテーマについて活発に意見交換を行いました。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
間違った読み方であろうことは認める。
でもさあ
自分はさあ
頑張った順に報われるのが見たいわけ。ある程度は。フィクションの中では。
似たような手段の篭絡にしたって色欲の魔王の方がよっぽどわが身を掛けて飛び込んで勝負したじゃん。
(まあ魔王達も完全にやられても地獄に戻って再生するだけのクソなんだけどさ)
ろくな積極性もなく、恐怖に耐えて勝負したこともなく、何かを賭けて打って出たこともなく、
肝心な場面でも”待ち”を選んだ結果ポッと出の色欲の魔王に出し抜かれたイムリが
なにこの漁夫の利?
完全に選択を間違えて消極策を選んだことにすらなんのペナルティも無くて
色欲がズタボロになりながら作った成果を自分は無傷でもらっちゃってるわけ。
唐突にチート能力に目覚めて魔王と対等以上にわたり合いだしたり
もう見ていてひたすら不快になるしどうしてもイムリのことが好きになれない。
ていうかなんなのこいつ?
一つしかない命を懸けてズタボロになって死んでいく人間の戦士たち、
一つしかない命を懸けて得体のしれない何かに身を投じている元人間の魔女たち、
何回でも復活できるズルだけど一応真剣勝負をしに来てる魔王たち、
ゼロ年代のインターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語版ウィキペディアで、ウクライナに関する有益な記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。
しかし、Alex Kさんはウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナの歴史上の人物や、都市や、教会についての記事を執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事を修正しようとした。それが問題のはじまりだった。
話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由にキリスト教を布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師を日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書が必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自の日本語版聖書を作った。正教会の宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめしい文体の日本語訳聖書を作った。カトリックやプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会の聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会の聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。
正教会 | カトリック |
---|---|
主教 | 司教 |
顕栄 | 変容 |
生神女 | 聖母 |
至聖三者 | 三位一体 |
イイスス・ハリストス | イエス・キリスト |
これがいいか悪いかは、その人の価値観によるだろう。他の教会と共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自の伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利は日本人の正教徒にしかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。
このようにキリスト教各派が使っている用語がバラバラなので、日本語版ウィキペディアでは、「各派の独自用語を尊重する」というデファクトスタンダードが確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自の呼称である「教皇」が採用された。カトリックの教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。
ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別は存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自の用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。
このような反論にAlex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ、投票に参加しなかったにもかかわらず勝手に記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさんは日本語版ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。
Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会の立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会はロシア正教会の一部なのである。
それの何が問題なのだろうか。日本のカトリック教会は、全世界の信徒を統べるカトリック教会の地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会がロシア正教会の支部であって何か問題があるのか? カトリックと正教会の組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界の組織がピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだ(コンスタンティノポリスの全地総主教はあくまで同輩中の首席にすぎない)。
正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会やブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自の組織が存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的に日本人の信徒や神品(聖職者)で決めているが、教会トップはモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省の統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会はロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジアに独立教会がない。中国正教会もロシア正教会の傘下だし、韓国や香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。
つまり、ウクライナ民族主義者であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会を尊重せよ」というのは、「ロシア正教会を尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会とカトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリックと差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会が存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたことから、ウクライナ民族主義の核になっている)。
しかしAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会は日本人によって運営されている教会だ、という点である。確かに教会の設立はロシア人によるものだし、ある時期まではトップがロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒は自分たちで教会組織を運営するようになり、ここ半世紀は教会のトップも日本人が務めている。しかも、日露戦争やロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話である。ロシア正教会が気に食わないというウクライナ人の気持ちは理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。
ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人のあいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロ・コロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会の用語法を意図的に無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会の管轄地である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイートを公然としている。まあ、こういうツイートでウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教の精神的双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。
(そもそも、ウクライナ正教会が日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒は基本的に日本正教会の聖堂に通うべきだからだ。とはいえ、移民が移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本に支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会が独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワの許可が必要なんだ?」と嘯いたそうだ)
さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本の総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教は日本正教会の自治権を認めておらず、韓国に派遣したギリシャ人の神品を日本の正教会のトップに任命しているのだ。彼は韓国の正教会のトップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情は理解できる。だがそこでも、日本正教会が日本人の運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人の神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人が日本の正教会のトップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?
ロシアのウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンとプーチンを盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教は腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本の教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人、特にウクライナ正教会の関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会の信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統は尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。
ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。
На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].
この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナルの記述である。
Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».
Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的な解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに「第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者の勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界の言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法はモスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<
被害者2倍!怖さも2倍!
というわけにはいかなかったね……残念。
今回の被害者は黒人少女のアンジェラとその友人で白人少女のキャサリン。
この二人がココット占いとかいう明らかにヤバい儀式を行った結果
悪魔に取り憑かれるという話。
キャサリンのバックボーンを完全にオミットしている点だと思う。
アンジェラは母親を妊娠中に亡くしていて父親との関係は友人のように好調。
ちょっとおませなティーンちゃんだけど、母の愛に飢えているといった風に
詳しく描写されているがキャサリンに関してはその描写がマジで一切ない。
なんでこいつがアンジェラの友人なのかも不明だし、なんで儀式をやろうとしたのかも不明。
一人娘が悪魔に取り憑かれて苦しむキャサリンの両親が描かれるけど
この作品では最終的に悪魔が「2人のうちどっちかを選べ。選ばれなかったほうを殺す!」と宣言。
全て悪魔の掌の上だったのだ!
という感じで終わるのだが、そもそもキャサリンに何一つ感情移入できる要素がないから
アンジェラが生き残ってキャサリンが死んでしまった!と言われても「でしょうね」としか思えない。
神父、牧師、祈祷師、医者、セラピストが集まって悪魔祓いに挑むのは
マイフェイバリットホラーの「来る」の除霊フェスを思い出して胸が熱くなった。
そんだけ集まってまったく手も足も出ないのも「来る」リスペクトを感じられてよい。
ハロウィンもそうだったけど、伝説的な作品の登場人物の「その後」を登場させて
正式続編ですよとするリブート作品増えてるけど、ハリウッドもネタないんだなぁ。
総じて60点くらいの映画だった。
ちょっと知ってる人にも「それ本当にコロンブス自身がやったことか?」と疑問に思うことまでコロンブスのせいにしている人も目立つ
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/f38d0dacb278645cdec06fd702e741790db2cbb0
このうち確かにコロンブスがやったことは一番上、原住民の奴隷化だが、
コンスタンティノープルを陥落させたマホメッド二世とかも敗者を奴隷にしてないか?やったろうけど今のコロンブスほど悪し様に言われてないだろ。
残りはコルテスやピサロなど、他のコンキスタドールがやったことだし
疫病の蔓延はコロンブス自身が意図してやったという記録は今のところ見えない。
北米制圧の時の入植者がわざと疫病がついている毛布を原住民にやったという記録はあるが、それはコロンブスではない
ちなみに当時、新大陸におけるスペインのコンキスタドール全体所業は確かに当時の水準においても悪行と呼べるものだったようで
ラス=カサスという神父が『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』という書面で告発し改善を訴えてる
https://www.stampmates.sakura.ne.jp/Gv-eLasCsas.htm
で。じゃあこのカサス神父がコロンブスのことをどう思っているのか?
そこは概ね好意的なもので、むしろ事あるごとに肩を持っているような面が氏の著書『インディアス史』に記載されているようだ
ここらあたりのポストが参考になるかも
というわけで、どうもコロンブスは後続のコンキスタドールの悪行やらその後の北南米原住民を襲った悲劇やらの
昭和~平成前半の体罰という名の虐待が許されてた時代に育児してたもんだから
令和の今も体罰(虐待)してる母親に「わかるわかる~わたしもやっちゃったんだよね~キャハハ」みたいな返しをするのがとんでもなくきもい
そのYouTuberのところに虐待してる母親が集まって、「わたしはこんな暴力をしました」「あんな暴力を子供にしました」みたいな告白をして、別の虐待した母親が集まってきて「わかるわかる。そんなときもあるよ」みたいな感じでよってきて、
育児系YouTuberが虐待した母親の懺悔の告白をなんでも聞いて許してくれる神父みたいになってんのほんときもい
同じ育児系YouTuberでも、自分の子供全員東大にいれましたな母親は教育虐待してる母親に対して、ちゃんとぶったぎってるのがよかった
子供の味方になって話してたわ
虐待に関しては母親の味方に立つんじゃなくて子供の味方になってほしい
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
エクソシストの新作観た。
取り憑かれての異常行動も割と控え目だったし、ホラーって感じはあんまりしなかった。前のもそうだけど、悪魔に蝕まれていく辛さみたいなのが大きい。
キリスト教に限らず、人生に対する希望と言い換えても良いような「信仰」がテーマになってた。
悪魔祓いは色んな文化圏であると繰り返し言われてたり、非キリスト教の聖職者が参加してたり、主人公が無神論者だったりと。悪魔の囁きも抽象的な信仰というよりは具体的な人生の後悔を掻き立てるものばかりだった。
前作主人公が出てくる所でアツいやつじゃんと思ったらあっさりやられたし、神父も満を持して参加したかと思えばあっさり殺された。その辺でもやっぱりキリスト教の抽象的な話というよりは普遍的なヒューマニズムに寄せてる気がした。