思い出野郎Aチームが提示した、ライヴの新たな可能性──ソウルが手話になり、手話がソウルを伝えるまで
2021年11月27日、新木場USEN STUDIO-COASTで思い出野郎Aチームがバンド最大規模となるライヴ〈ソウルピクニック 2021〉を開催。バンドとしては実に1年9ヶ月ぶりの有観客ライヴとなったこの日は、Fukaishi Norio、沼澤成毅、ファンファン、asuka ando、YAYA子もサポートに加わり、感動的な素晴らしいライヴで成功を収めた。そしてこの日はもうひとつ特別な取り組みとして、歌詞をろう者の方々にも伝えるための手話通訳もライヴに参加したのである。日本では前例もほぼない中で、バンドはこの日のライヴに向けてどう取り組んでいったのか。バンドからヴォーカルである高橋一と、当日手話通訳チームとして参加したペン子、バンドのマネージメントを担当する仲原達彦の3人から話を訊いた。
最新シングル「日々のパレード」「君と生きてく」
INTERVIEW : 高橋一、ペン子
通常、手話通訳というとテレビ画面の片隅に直立不動で手振りをする姿が思い浮かぶだろう。だが、この日の通訳チームは、その常識をくつがえした。彼女たちは思い出野郎が鳴らすリズムやメッセージに共振するように体を揺らし、踊り、顔の表情まで含めてさまざまな体のパーツを使いながら手話をしていた。こんなの見たことない。手話もひとつの楽器やコーラスみたいだ。会場や配信でその様子を目撃した人なら誰もが驚いただろう。その手話通訳スタッフの中心となったのが、音楽と手話の結びつきについて考え、the HIATUSの日本武道館ライヴなど、さまざまな発信を続けているペン子さん。彼女の提案で観劇サポート支援団体〈TA-net〉のみなさんも加わり、思い出野郎のライヴ当日は見事に通訳がやり遂げられた。
しかし、「歌詞を手話にして伝える」と口で言うのは簡単でも、それを実際に実現するにはどういう苦労があるんだろう? どうしてあんなに楽しそうに踊りながら手話をすることができたんだろう? まだまだ僕らにはわからないことが多い。その疑問は、思い出野郎Aチームのリーダーでソングライターとして全曲の歌詞を手がけ、手話によるメッセージを通訳に託したマコイチこと高橋一にも同じだったはず。感動のうちに終了したライヴを終えて数日後、あらためて行われたこのマコイチ × ペン子対談で初めて明かされた、ソウルが手話になり、手話がソウルを伝えた過程。それは、もしかしたら音楽のとらえ方を変えてしまいかねない発見の連続だった。
インタヴュー&文 : 松永良平
写真 : 中嶋翔(インタヴュー)、廣田達也(ライヴ)
言いたかったことは何なのか逆説的に整理されていく不思議な感覚
──先日(11/27)のスタジオコーストで行われたワンマン・ライヴ〈ソウルピクニック 2021〉の特別演出で、ひときわ目を引いたのが同時手話通訳でした。最初に登場したペン子さんからのダンシング手話や、手話スタッフもバンドの一員であるかのようなチーム感、そして最後の“アホな友達”の手話を使った“黙唱”では全員笑って踊りながら心は大号泣という感動的な演出! 今日は、思い出野郎Aチームのマコイチ(高橋一)さん、ペン子さんのお二人から、実現に至る流れや苦労、そして当日を振り返っての思いを聞かせていただけたらという取材です。
マコイチ : 2019年のサード・アルバム『Share the Light』を出したあと「なんとなくポリティカルなことを歌に入れているだけじゃないか」という反省も自分たちにはあったんです。マジョリティとしての自分が持っている無自覚な加害性や、傍観しているだけで加担してしまっていること、そういったことに対して言及があんまり入れ込めてないなと。この先そういったことも踏まえて歌詞を書いていくなら、曲にするだけではなく、実際の行動に移すようなことができたらなという。そこで今回1年9ヶ月ぶりのライヴをやるにあたって「手話通訳はどうだろう?」というアイデアが出てきました。もともとはサポートの人をいろいろ呼んでスペシャル編成はどうかという、マネージャーのタッツくん(仲原達彦)からの提案からなんですけど。そのなかでケンドリック・ラマーとかチャンス・ザ・ラッパーがライヴに手話通訳を帯同していたとか、そういう知識は以前からぼんやりとあって、凄い、素晴らしいなあとかは思っていたけど、よく考えたら「なんで最初から自分たちのライヴで取り入れない前提で考えていたんだろう?」とも思ったし、実践して学んで変わっていくという意味でも、この機会に自分たちもやってみようという感じでした。バンド内ではスッと「いいんじゃない?」くらいのノリで始まった話だったんですが、アタックする先とか、実際進めていくのがどれくらい大変なのかというのはまったく考えてなく。手話通訳の手配はタッツくんに頼んでいたから、実はペン子さんになった経緯とかはあんまりわかってないんですよね。
ペン子 : まず、「思い出野郎のライヴに手話がつきます」という告知があった段階では、私に全く話は来てませんでした。その後、告知を見た友人から、「思い出野郎が通訳を付けてライヴするらしいよ、すごいよね!」って言われて、Twitterをみたら「広くご意見募集してます」みたいな文面を見たんです。当初、仲原さんは別のところに手話通訳派遣を打診してたんですよね?
仲原 : そうなんです。ただ、最初にお話を聞いていた団体がエンタメ向けの手話通訳を積極的にやっているところではなかったので、話がうまく進まなくて。そのへんもあって「広くご意見募集してます」という告知を出して、何か情報を得ることができたらいいなと思ったんです。そしたら(ペン子さんが)乗ってくれた。
ペン子 : 私も何かできることがあるかもしれないなと思って、インスタで「誰がやるかわからないけどすごくいい試みだと思うから、応援してます!」ってメンションをつけて投稿したら、その日の夜のうちに仲原さんから「話聞かせてください!」という連絡が来て。
仲原 : ペン子さんのアカウントを見たら、偶然共通の知り合いもいたので、この人なら相談できるかもと思った。
ペン子 : 2014年にthe HIATUSのライヴで手話をやらせてもらって。その後にいろんな人に「こうした手話の活動をやっていきたいんです」という話をしていたんですけど、まったく次の機会を得られず。なので今回は「チャンスがあるかも? もしよければ私も出たいです」という思いも込みで連絡してみたらという。
──ペン子さんのnoteを拝見したんですが、もともと渋谷WWWで働いていたんですよね?
ペン子 : オープニングスタッフでした。そんな私が手話通訳士を目指したきっかけは、2011年に起きた東日本大震災なんです。震災後しばらくライヴハウスのスケジュールがガラ空きになり、自宅待機をしていたんですがその間にも尊敬するバンドマンたちは東北に支援物資を運んでいて。対して自分の無力感を味わっていたときに政府の会見で手話通訳士の方々が活動されているのを見て、その瞬間に「これだ!」と思ったんです。手話を覚えれば、その人たちの言葉で「大丈夫ですか?」と話しかけることができるんじゃないか。その翌年には専門学校に入学し、2014年に手話通訳士の資格を取得しました。
仲原 : WWWのスタッフに共通の知り合いがいたんです。そういう繋がりや、手話通訳を始めたきっかけを聞いて、安心して頼めるなと思いましたね。
マコイチ : それ、かなり重要な話題じゃないですか。
仲原 : ペン子さんと打ち合わせしていくなかで〈TA-net〉っていうエンタメに特化した手話の派遣センターを教えてもらって。ペン子さんにお声がけしたタイミングが遅かったので、ひとりで2時間のライヴをやり通すのは準備の時間が足りない。だけど〈TA-net〉に協力してもらう形で、〈TA-net〉から4名、ペン子さんと5名体制であれば何とか間に合うだろうと。
マコイチ : 手話の座組みが決まっていくなかで歌詞を手話に翻訳していくやりとりが始まりました。そこでようやく、僕らも「手話ってこういうことなのか」ってわかってきた。ひとつの歌詞ごとに「ここはこういう解釈ですか?」とか「ここはどういう景色ですか?」というやりとりがあるんです。僕らの曲は、語数が限られた言葉の中にダブル・ミーニングとか含みを入れて作っているけど、それを手話でどう表現するのか、それをメールで相談していくうちに、自分が歌詞で1番言いたかったことは何なのか逆説的に整理されていく不思議な感覚がありましたね。自分でもよく分からず書いてるところも、手話でははっきりと説明できないといけない。例えば、“同じ夜を鳴らす”はペン子さんに訳してもらったんですけど、歌い出しが〈街路樹がコマ切れにする街のあかり〉なんですけど、ペン子さんからは「その街路樹は下から見上げてるのか遠くから見てるんですか?」という質問がきたりする。
ペン子 : 少し補足をすると、日本には大きく、2種類の手話があります。私たちがやっている“日本手話”というのは“日本語”とか“英語”とかと同じように、手の動きと上半身の動きで“意味”を伝えるひとつの“言語”なんです。もうひとつは“日本語対応手話”というタイプもあるんです。これは“手指日本語”と言われたりもするんですけど、視覚的な補助として一語一語、日本語の“音声”に合わせて手話を出していくものです。
※編集注 “日本手話”は手話によるひとつの“言語”として“意味”を手話に“翻訳”して伝えるのに対して、“日本語対応手話”は“日本語”の“一語一語”を、日本語の語順のまま視覚的な補助として手話へ“変換”して伝える。
仲原 : 僕も手話通訳を入れたい、と言いつつ、不勉強だったので、最初は同時通訳みたいなもので、歌詞を聴いてその言葉をそのまま手話の形で伝えるタイプのものだけを想像していたんですが、それは大間違いだったんです。僕らが最初にイメージしてたのは“日本語対応手話”。だから、歌詞をパッと聞けばできるんじゃないかっていうのが根底にありました。
マコイチ : ペン子さんがやっている“日本手話”は、そういったものとは違うということがわかってなかった。日本語の文章を英語にするとしたら“日本手話”は英文にする、“日本語対応手話”は日本語の音をローマ字に書いていくことに近いのかなと。
ペン子 : それに近いです。“日本手話”は生まれたときから音が耳から入らなかった人たちが使う言語で、“日本語対応手話”は中途失聴のかた、難聴のかたなど、言語のベースがすでに日本語で頭に入ってる人が使うものなんです。今回一緒にやったメンバーのなかにもバリバリ“日本手話”の人もいれば、“日本語対応手話”寄りの人もいて、実はいろんな手話でお送りしていました。
──なるほど。“日本手話”では意味を表現するものだから、歌詞の意味や設定が重要になってくるんですね。
ペン子 : “日本手話”の場合は自分の目の前にある空間を自由に使える。なので、最初に1行目で作った街の空間を2行目でどう使おうかとか、そういうふうに考えながら訳していくので、翻訳が進んでいったら最初の街の位置があんまりいい場所になかったから反対側にして作り直したりとか。空間の配置はすごく戦略的にというか、考えながらやってますね。
──だから街路樹をどこから見ているのかという、視点の違いが必要になるんですね。
ペン子 : (その歌詞の視点が)もし遠くから見ているのであれば自分より遠くに街を作るし、自分が見上げているのであれば自分が街のなかにいる状態で作るし。
マコイチ : このやりとりは、もし僕が作家だとしたら、「作品を映像化したいんですけど、その場合こういうカットですよね?」って映像監督さんに相談を受けてる感じに近いかも。それはけっこう初めての感覚でした。そういう意味では、手話通訳をライヴに導入するという本来の目的とは違う勉強ですけど、歌詞を書く人は一度こういう工程を経験してみると感覚が変わるんじゃないかな。(思い出野郎の曲は)説明がめちゃくちゃ少ない映画みたいな感じです。言葉数が少なかったり、なるべくわかりやすい言葉を使っているつもりなんですが、その分意外と聞く人の解釈の幅が広かったりもして、説明しないと分からないよねっていう部分が思っていたよりも沢山ありました。
ペン子 : 街路樹を写真で送ってくださったじゃないですか。こういう感じですって。
マコイチ : Google検索して。「街路樹 街」で。(笑)