はてなキーワード: イデア論とは
君は、いつから病んでいた?
思い起こす限り死にたいと思ったのは、明確には小学四年生だった。でもそれは、ほんのちょっとした好奇心だったような気がする。
高校で、環境が変化すると今、どのような立ち位置にいて、どんな人間なのかが分かってくる。そうして文学作品に触れるようになった。暗い人間ではなかったものの、物語ではやたらと人が自殺する。まさか、そんな幼稚で一種悪趣味のような理由で死にたがってるとは思えん。
高校から少しは知っていたが、キモチヨクなれる薬がドラッグストアに売っているらしい。メンヘラというのがいるらしい。
セックスに明け暮れながら、大学生活の片手間に薬をバカ飲み。皮膚もキモチヨク擦れて、内側からも「泉が溢れるように」キモチイイ。
そうしてあんたは、キモチヨクなった。キモチヨクなりたいだけ一心。
いろいろ気にしなきゃいけないセックスと、待つだけの快楽なら、あんたはより楽なものを選ぶ。
「薬目的かと思った」
精神科に通い出したころ、当時の彼女に言われた。「眠れないんだよ」と言った。嘘だった。
ドラッグストアで買える系はあらかた試して、個人輸入もあらかた試したから、いざケミカルの海へと向かった。
おまえは、いつから病んだ? 分からない、分からないが、このときは病んでいなかった。キモチヨクなりたいだけだった、のかもしれない。
おまえは、詩や小説を書くのに力をいれるようになった。誰かに読んでほしいとか、応募するつもりもなく、この内側から「泉が溢れるように」来る、なにかについて記したかった。
一瞬、これがいわば真理てきなモノかと、思ったはいいけど、しかし腹がへる。一日一食。体重がへる、へる。
書く。とりあえずネットに上げる。書く。
私は、それを読むのが、大好きだった。まるで「自分のものとは思えない」が「自分のものとしか思えない」ものが出来ていることについて、興奮していた。
死とか、自殺とか、そういうものがよく書かれていたが、そこに絶望はなかった。
微塵も。
幸福な「ここではないどこか」について書いているわけでもないのに。SFでも、シュールレアリスムでもないのに。
内側から溢れる、生ぬるい懐かしさ。
あんたはそれから五年間、前進せずにひたすら、懐かしさと死に惹かれる生活を送る。
投稿するようにも、なっていた。
眠れない自分を除いて。
ほとんど惰性で通っていた精神科。薬について「飽き」ても、チョコボールのくちばしにエンゼルがいるかもしれない、軽い感覚で成分や効果を調べる。
いろんな薬を飲んだ。じつに、いろんな薬を。
バカ、なのか正直者、なのか、症状が出るにつれ治療には熱心になっていった。ADHDではないし、双極っぽいと。
さっきの彼女、あんたには黙ってたけど精神科ハシゴして薬もらってたみたいね。
腕、イカ焼きだったな。
死ねないんですがね。
トー横界隈、というのが騒がれるようになった。それより前にはストゼロ、地雷系とかあったけど、薬と密接な象徴ではなかった。それは意外なことにDXM。へえ〜、コンタックかブロン液Lかな〜。
いやいや、メジコン。
え? メジコン?
メジコン。
みんな個人輸入してるの?
いや、ドラッグストアで売ってる。
え?
発売した。
絶句。
おまえはメジコンが合わなかった。いや、個人輸入の品がハズレだったのかもしれない。と、いうかDXMなんて何がキモチイイの……
あっ。
みんなで盛り上がれるからか。
でもわかる。
バツグンに爽快な到達点が、ある。
みんな、それを共有したいのか。
あんたと違って。
なぜなら薬がやめられないから!
私は、ながらく人間の内側にはどうしようもないパッションがあると考えていた。実際ある。あるのだが、私たちはその「あるということ」しか分からない。が、考えをウムムムムムムムーーーーーと巡らせると、それに近づいたり色が付いているように感じたりする。「あるということ」よりも明確な姿をとらえられるようになる。これは半分比喩で、半分比喩じゃない。ましてや真理でもない。イデア論でも物自体でもないし、現象学でも自我論でもドゥルーズでもガタリでもない。
あんたが分かると思った時に生まれる「その分かるもの以外」。この対立が、思考が止められない。
あるいは真理が、あると思っていたのかもしれない。それが分かったとたん、世界が段ボールとしてバタリと倒れて、みんな手をつないでお辞儀して終了なのかもしれない。
みんなって、誰?
おまえは独りでキモチヨクなってたくせに。
大好きなアーティストのDJライブ。ごりごりの踊れるフロアで、チープなリズムマシンの音で、えげつなくダンス。デヴィッド・バーンではない、ジェームス・ブラウンのような踊り。
ダンス。
ああ、違法薬物やってるな。
いまにも吐いて倒れそうにピクついてる。
私は思った。
好奇心から薬に手を出して、その姿だけを確かめることのできた「あなた」は、この目の前にいる中毒者に並ぶほど尊いものだったか?
と言ったとこで
無いので「???」みたいな顔される
やめよう
嬢は内心「頭おかしいよこの人」と思う
だけですし
やめよう
家電量販店じゃあるまいし、値引きしてくれませんよ。
やめよう
思えませんし、例えマウントとったとして
だらけのデモに連れ出すのは無謀です
数合わせも大概にしましょう
大半です
やめよう
「他人とすれ違う原因ってなんだと思う?」
「実存主義ってどう思う?」
「てかイデア論知ってる?笑」
などと嬢に言ったところでキャバ嬢はキリストでも仏様でもありません。そんな話は大学でやりましょう。
「お注射こわいよぉ」などと髭が生えたおっさんがするのは気持ち悪い以外何者でもありません
やめよう
獲得したのは分かります、だけどキャバクラ嬢全員が匿名はてなを知ってるとは限りませんし
としか思われません
やめよう
追伸。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
同じ心理が作り出す別の影、それがエロゲでありアニメであり文学であり現実であり空想だったんだ。
俺たちは結局同じものを表現しようとして、別の形を使っていたんだ。
この世の全てのものはエロゲによって表現できるけど、エロゲによって表現されるものはエロゲ以外の物によってもできる。
そして、エロゲが表現しようとしているものはエロゲそのものではないし、それは他の表現物についても同じなんだ。
やっと分かったぞ。
色即是空なんだ。
「〇〇はエロゲ」とはすなわち色即是空が別の形をとったものだったんだ。
全てを知ったぞ。
エロゲを卒業して10年……10年の時を超えてエロゲは僕らに世界の真理を教えてくれた。
10年間離れることによってようやくその形が見えるようになったんだ。
木と森の形を両方知ってやっと見えるものがある。
それは何でもよくて、俺達にとってはたまたまそれがエロゲだったんだ。
そして、人々の心がエロゲから離れて離れて離れきって、その状態で再びエロゲの方を振り向いた瞬間に、大勢が同時に心理に気づいたんだ。
凄い。
こんなことってあるのか。
忘れられることで伝えられることがあるって教えてくれたんだ。
名付けるって便利だよな。
ソシュールもイデア論もわからねえけど、「無敵の人」っていう言葉を共感覚として誰もが理解している現代怖いよ。
「無敵の人」に犯人をカテゴライズしておけば自分とは違う存在にできるもんな。
私にはそう思えないよ。
自分が発達障害を持っててメンタルクリニックはズッ友人生だから、ってのもあるけどさ、精神病んでるっていうのは、「普通」とそこまでの差があるんだなって驚いてる。
私は無敵の人側の人間扱いされてる感じがして怖いんだ。私だって許せねえよあんな事件起こしたやつ。
ただな、みんなのニュースへの反応見て、思ったんだよ。
お前が「無敵の人」になる可能性は、ゼロだとでも思ってるのか?
無敵の人ってあらかじめそう生まれたわけじゃないと思う。まあ、発達障害に限らず生まれ持っての特性はある程度あるにしても、無敵の人って、「全てを失った絶望の果てにいる、普通の人の成れの果て」なんだと思うんだよ。
犯人を許す必要はない、被害者を軽んじるつもりは一切ない。心からの哀悼を示す。
だからこそ、だからこそ、未来の事件を防ぐために、私たちはあの理解の不能に見える「無敵の人」を、自分たちと同じ普通の人に引き摺り下ろして、私たちと同じ人間ということを思い出すべきなんだ。
地球は宇宙船、全ての生き物は乗組員とかそういうはなしをしてーんじゃねえけどさ。
小説パクられたからって人を殺す人間を、わからないままにしていいわけないと思う。
今後、人生においてわからないものに出会う時なんていくらでもあるのに、わからないから全て逃げていくわけにいかなくない?
こんだけ無敵の人とやらが生まれる昨今だから、今こそ、彼らが自分たちの同等の人間だってことを思い出すべきなんだと思う。
ニュースで、彼の生い立ちを見た。
割と怒りに突き動かされる、衝動性が強いタイプの人だったのかなと思う。
思っちゃったんだよ、この人の人生において、心休まるひとときって、あったんだろうか。
知らないよ、彼の人生を見てるわけじゃねえもん。でもさ、自分以外の、彼の周りが全て敵に見えてたんじゃないかなって思っちゃったんだよ。
発達障害の自分は、障害持ちだと知らなかった頃、割ともうダメだと思ってた日々がある。
周りの世界が全て敵に見えて、手を差し伸べてくれる人も怖くて、けれど頭の中でずっと心が騒いでいる。くるしい、くるしいと。
その、叫びは、私の場合自分に向かったんだな。腕には今も無数の傷があるし、毎日見えないところに青あざ作ってた。屋敷しもべ妖精のドビーかよって感じで、部屋をのたうち回って体が傷つくのを求めてた。
異常だなぁって思うでしょ。でも私にはそれしか生きる方法がなかったんだよね。
薬1つで人の心なんて変わってしまうことを知った今だからふと思ったが、自傷ってあれドーパミン不足を補おうとしてるんじゃないか?
今は薬でドーパミン不足を補ってるんだけど自傷した後のどこかまったりとした感覚に似てるんだよこれが不思議なことに。
話ずれたけど。絶望が深まるうちに、自分に矛先が来るなら平和だよね、自殺だもん。
この矛先が、外に向いたのが、みんなの言う、無敵の人だと思うんだよ。
おっし、発達障害持ってるやつぜーんぶ無敵の人予備軍か!ってなるのは早計ですぜお兄さん。いわゆる無敵の人と呼ばれた犯人たちに発達障害を持たないやつはいるぞ、黒バス犯人は無かったはず。
結局はね、精神疾患なんですよきっと。
今回の京アニの犯人は精神科に通ってたみたいだけどそれでも救えなかったのは残念。
けれどさ、精神科で、揺らめく心を抑えることができれば、きっと、未来の犯人を先に救えるんじゃないかってそう思えるんですよ。
私はね、自殺寸前だった。
けれど、薬を飲んだ今、面白いね、世界が、こんなにも綺麗だって気付けたよ。
私は普通の人の中で下の下だと思ってたけど、普通の人から外れてみたら、割と普通のきらめく生活が待っていて、なーんだ、私って、穏やかに生活送れるんじゃんって。
この世の誰もが、いわゆる普通の、穏やかな人になれるんじゃないかって思ったんですよ。
そして言っておくとな、今はまだ気づいてない隠れ発達障害はたくさんいるだろうし、今後、心を病む可能性は誰にもある。
ただ、救いの手があるかどうか。それだけの違いじゃないのかな。
その救いの手はさ、何もかも精神科任せじゃなくてもいいんだと思う。
今までの無敵の人たちも、だれか温かい言葉をかける人がいたなら、何か変わってたのかもしれない。
私たちひとりひとりが、互いにちょっと優しくしあうだけで、世界は小さく小さくちりつもで穏やかになってくんじゃないかと思ってる。
いいじゃん、電車の席譲るとかさ、コンビニでバーコード面を上にしてレジ出すとかさ。
結婚もしにくい世の中で、誰もが老いていくうちにいろんな人とのつながりが切れて、きっと孤独な人は増えていく時代は、もう目前なんだよ。
インターネットで人とつながる機会が昔より増えた!って言う人いるけど、インターネットでの繋がりってさ、趣味とか話が合う人たちだけで固まるだけじゃないですか。どうやっても繋がれない人って出てくると思うんだよね。
昔の方が、村社会って言う物理的なエリア内での繋がりだったから逆に誰も見捨てられなかったんじゃないかって思う。
そういう風にさ、どんどん失うものがなくなっていくのが確実な世の中になってしまってるんだからさ。
ほんの少し、他人にも優しく、小さく親切にみんなで生きて、わずかにでも助け合って、繋がりを少しでも得て、お互いに、「無敵の人」に自分が、誰かが、ならないように生きていきません?
なんかさ、一日一善!じゃないけどさ、小さなこと、助け合って、生きていきたいよ、みんな。
私さ、あの言葉好きなんだ。
「人にはそれぞれの地獄がある」
って。
もう誰もが地獄を抱えてるよ、そりゃ。
でもね、覚えておいて欲しいんです。
もしかすると、その地獄は、精神科だったり、あるいは行政の支援サービスだったり、何かで和らぐものかもしれないんですよってこと。
あなたが、無敵と言えるまでに、心を壊してしまう前に、助けてくれるところはきっとあるんですよ。
忘れないでね。
というわけでまとめでーす。
・無敵の人って傷つきすぎた果てになるのかも。
・辛い時は、頼ろう。精神科でもなんでも。
・余裕がもしあればさ、ちょっと人に親切してみない?
って感じです。
そんなわけで今日は外国人に道案内したり酔ってふらふらしてるおじさんに電車の席譲ったり、会社の人にキャンディおすそ分けしてみたりしました。
…ただのお人好しなだけか?
あと、書いてて社会学やいろんな知識、インテリジェンスが足りてねえ!って思ったのでこれ読め!って本とか、おすすめあったら教えろください。
最後に。
美しい、あのアニメーションの世界に救われたものの一人として、深い悲しみの中にいます。
決して繰り返さぬよう、せめて小さなことでも何かしていきたいと思います。勝手にですけど。
ほんと、何にもできない一人の人間ですけど。
生まれながらにして少年少女を愛する者たちがいる。しかし少年少女を愛するということは罪なのだ。判断力がない子供たちを騙し自分の欲を満たそうとする極悪非道のやつら、それが少年少女愛者なのだ。
私は中学生の少年愛者である。社会は私のことを人間のクズだとか社会の敵だというがそれに対し何ら反抗する気はないしそんなこと言われなくてもわかっている。
私は社会に自己批判を強いられ少年愛という反社会的思考から転向するか我が人生から愛をなくすかの二択を迫られた。だがそのような選択はできるのだろうか。
古代ギリシアにプラトンという哲学者がいた。かつてプラトンはイデア論とそこからプラトニックラブというものを提唱した。プラトニックラブは現代でもたびたび使われる言葉であるが意味は違っている。これは純潔だとかそういう下らないことを言っているものではなく美のイデアの崇拝を説いているのだ。つまり肉体的精神的を問わず少年一人一人に固執する一般的な愛ではなく少年個人は美のイデアの陰にすぎないとしイデアそのものに恋をせよと説いているのである。これは現代の少年少女愛者の悩みを解決するものではなかろうか。これが現実に可能であれば、少年少女愛者の苦しみと少年少女への危害はなくなるだろう。
長年彼のツイートを直接関わりなくただ眺めて楽しませていただいている一人としては、彼のことをテレビで知ったりはてなで論じたりするのもどうにも不思議な気のするもので、そういった立場から彼のフィクションという言葉の使い方について一言二言一家言ある身として書いていきたいと思う。
我々は認知する機械でしかないことは近年科学が発達した結果として多くの人が理解するところだと思う。現実は物質、人間も物質。けれどそれだけでは人間社会は成り立っていない。そこには文化がある。文化は必ず物質であるわけではない。しかし多くの人がその文化になんの疑問を抱くこともなく物質と同じように自明で今ここに存在しているものとして認識している。この現実について、彼は疑問を抱いているのだと、長年彼を見ていた身としては思う。至極当然のことを彼は言っているだけだ。
彼の指している中東のフィクションとは、中東の文化と言い換えることができる。すなわちイスラム国においての宗教、彼はその文化に、もしかしたらこの日本の文化よりも上手く適応できるかもしれないという青い鳥症候群を我々に見せたのである。女を性奴隷にして人を殺す世界、彼は新天地を夢見ている。
どれほど頭がいい人間でもよくて大学教授、悪ければ非正規雇用の教員、使い捨てられるポスドクにしかなれない。儒教的な上下関係、年功序列、徹底されていない半端なメリトクラシー。曖昧かつ意味がないこのつまらない現実に彼はほとほと嫌気がさしている。そしてこのつまらない現実を、本当なら実体なんてないただの文化で、いつでもひっくりかえるような普遍性も何もあったものじゃないフィクションであると言い切って切り捨てたいのだろう。彼が彼自身を障害者であるとして自称するのは高度な皮肉であって、意味が無いものについて意味があると思っている大勢の人を馬鹿にしている。しかし同時に自分自身が社会に不適合を起こしていると客観視して自虐しているのである。
……結果として公安に追い回される日常という非日常を彼は手に入れた。それもまた今は自覚はなくとも彼にとっては好ましいことでしかないのだ。