B-29とは、第二次世界大戦中にアメリカ軍が開発した大型爆撃機である。通称は「スーパーフォートレス(超空の要塞)」。
概要
陸軍で使用するためにボーイング社が開発し大量投入した。その後空軍が創設され本機も空軍に移管している。いわゆる戦略爆撃機のはしりであり、当時としては先進的な機能を取り入れていた。
排気タービンを備えた新型エンジン4発、高空でも酸素マスクなしで任務に就ける与圧室、機銃の遠隔操作装置と火器管制装置を搭載している。
上記の装備等により6,000km強の航続力、偵察機型は高度10,000メートルを、爆弾を積んだ状態でも高度9,000メートル以上を飛行できる高高度性能、優れた防御力や爆弾搭載量を発揮して日本に対する本土爆撃で威力を発揮した。逆に言えば、日本にとっては大規模爆撃や核攻撃で大きな犠牲を生み出したにっくき爆撃機でもあった。
時代を超越した新鋭機でありそのコストも従来機と比べると莫大で、従来機のB-17が18万ドル、B-24が21万ドルB-25が12万ドルに対しB-29は60万ドルだった。(価格はいずれも当時価格)
ちなみに日本円に換算すると、当時の為替レートがおよそ1ドルが4円であったため1機約240万円。現在の価値では24億円から48億円ほどのお値段。なお参考として完備状態の零戦は当時の価格で1機17万5000円であった。B-29を1機生産するコストで零戦を13機作ってお釣りがくる計算であり、これを大量生産するアメリカの国力は本当に恐ろしい。
特徴
エンジン
B-29は離昇出力2200馬力のライトR-3350エンジンを4基搭載している。このエンジンは当時最大級の出力を誇っていたものの、軽量化のためにマグネシウム合金を多用したためエンジン火災を起こしやすく、またオーバーヒートしやすい構造だったこともあって、飛行の度に念入りの整備を必要とする色々とアレなエンジンだった。
そこでアメリカは自国の大量生産能力を活かして、「エンジンの使用時間に規定を設け(初期は飛行時間200時間)、規定に達したエンジンは前線基地でさっさと交換し、使用済みエンジンはアメリカ本土に送ってオーバーホールする」という形でエンジンの欠点をカバーしてしまった。[1]
余談だが撃墜したB29から回収したR-3350エンジンを見た日本の技術者たちは「ありふれた技術で作ってある」と安堵したそうな。問題はそこではないのだが
排気タービン
空気の薄い高空で運用するため、エンジン1基に付き2基の排気タービン式過給器(ターボチャージャー)を搭載した。
従来の機械式過給器が「エンジンパワーの一部で動作する」ものだったのに対し、排気タービン式過給器は「エンジンの排気ガスで動作する」ものだったため、エネルギー効率において高い優位性を持っていた。
高温の排気ガスにさらされる排気タービンは破損しやすく、実用にこぎつけるには高い技術力が必要とされたものの、アメリカは「逆に考えるんだ。壊れちゃっていいやって考えるんだ」とばかりに消耗品として設計し、使い捨てにすることで強引に実用化に成功した。 いかにもアメリカらしいやり方ではあるが、その使い捨て品ですら日本を始めとした大戦参加各国はまともに作れなかった事も覚えておいて欲しい。
与圧キャビン・空調完備の快適設計
当時の軍用機は(現代も一部では)機内が与圧されていないため、空気が薄く気温が低い高高度を飛ぶ場合は酸素ボンベや防寒服など、専用の装備が必要であった。
しかしB-29は機内が与圧されており、また空調により常時快適な気温に保たれていたため、乗員は酸素マスクはおろか防寒着すら着用する必要がなかった。文字通り「快適な機内でコーヒーを飲みながら」任務に従事することが出来たのである。
しかし、与圧化されているため被弾には意外にも脆く、僅かな損傷が大損害に繋がってしまうこともあったという。
撃墜されたB-29の中にあった、防寒着すら着ていない乗組員の遺体を見て、日本側が「敵は防寒着を作れないほど追い詰められている」と勘違いした事があった。
FCS付きリモコン式旋回機銃
爆撃機の旋回機銃座による見越し射撃は大変に高い熟練度を必要とする。戦闘機など機銃が前方に固定されている場合、「旋回など、自機の運動による機銃弾のズレ(偏向量)」が予測しやすく、射手=パイロットである、などの理由から容易に補正が可能であり、ある程度の経験があれば見越し射撃を行うことは難しくない。
だが旋回機銃の場合はパイロットは自分以外の誰かであり、かつ機銃の角度次第で偏向量が大きく変わるため予測、補正が大変に難しいのである。例えば後上方の敵機に対し見越し射撃を行う場合、敵機の後方を照準する必要がある。
このように、爆撃機の旋回機銃による見越し射撃は戦闘機のそれと比べて大変に高い熟練度が必要なのだ。
B-29の旋回機銃は、「目標をセンターに入れてスイッチ」するだけでコンピュータが自動的に見越し射撃を行ってくれるチート機銃座なのである。
原爆投下型
1943年12月に1機のB-29に対し、「シンマン」(=やせっぽち。後に再設計され「リトルボーイ」という隠語が付けられた)と「ファットマン」という寸法の異なる二種類の原子爆弾を搭載できるように、極秘裏に爆弾倉の改造が行われた。リトルボーイとファットマンの模型を使った投下実験を24回行った後に懸吊装置や爆弾の設計変更を行って実験を再開、この実験機に基づいて戦争終結時までに46機が改造された。[2]
B-29 日本本土上空での戦い
日本本土防空戦史
B-29は1942年に初飛行、1943年には試作機でテストが繰り返されていたが、早くもそれと同じ時期である1943年8月にアメリカ・イギリス・カナダ首脳が集まったケベック会議で、対日戦略爆撃に優先して使用されることが決定されている。
その決定に基づき、アメリカ空軍の父と呼ばれた陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド元帥が、陸軍から陸軍航空隊(後の米空軍)を独立させる為の圧倒的な実績作りとして、B-29による日本本土戦略爆撃を利用することとした。それでアーノルド司令はB-29の量産の目途がつくや、すぐに500機の大量発注を行っている。開発費用も含めた予算は総額は53億ドルにも上る超大型プロジェクトとなった。この金額は当時アメリカが持てる科学力の総力をつぎ込んで進めていたマンハッタン計画(原爆開発計画)の総予算20億ドルの倍以上にもなる途方もないものであった。
その後、B-29の日本本土爆撃の為に第20空軍が1944年4月に編成され、その隷下として第20爆撃機集団が中国の成都基地に進出し、1944年6月以降八幡製鉄所等の九州各地の主に工場や軍事基地に対する高高度爆撃を開始した。但しさすがのB-29でも成都から九州までの距離は長く、また高高度からの爆撃では効果が少なかった為、米軍が1944年夏以降に日本から奪ったマリアナ諸島に航空基地を整備すると、1944年末からはマリアナからの爆撃が主体となった。
マリアナからの爆撃も当初はB-29の圧倒的な高高度飛行能力を活かす為に、高度8,000m~10,000mの超高高度から行われたが、その高高度では日本軍の迎撃を弱体化できても、爆撃の精度が悪く当初は成都からの爆撃同様に成果が上がらなかった。
1944年4月26日、中国・インドの国境間で単機移動中のB-29が帝國陸軍の一式戦闘機2機と交戦。これが日本軍との初戦闘だった。この出来事で陸軍はB-29の出現を確認したと言われる。
同年6月16日、北九州を爆撃したB-29が撃墜された。陸軍は機体の残骸を研究し、開発が進められていたB-29と判断。捕虜にした機関士を尋問した事で、ある程度のスペックは把握していた。
高性能な過給器や高高度性能に優れたエンジンを装備していなかった日本軍機は、10,000m近い高高度を時速500km以上で巡航するB-29に追いつくのですら困難な有様であり攻撃には大変な困難を伴った。
それでも日本軍は陸軍の二式複戦「屠龍」二式戦「鍾馗」三式戦「飛燕」海軍の夜間戦闘機「月光」雷電等が対B-29戦の主力となり、多数の撃墜を記録している。
B-29撃墜王は陸軍航空隊で二式複座戦闘機屠龍で26機のB-29を撃墜したとされる樫出勇大尉。 特に屠龍部隊と言われた飛行第4戦隊は屠龍を主力として合計240機のB-29を撃墜破(日本側記録)したとされる。 また飛燕で編成された陸軍244戦隊は、水冷であった飛燕の利点を最大限発揮し活躍、小林戦隊長自らB-29に体当たりで撃墜(生還)するなどB-29撃墜73機 撃破92機(いずれも日本側記録)の戦果を挙げている。
海軍航空隊では、有名なところで第七飛行隊の黒鳥四朗中尉が月光で6機のB-29を撃墜破している。 B-29撃墜王として名高い遠藤幸男大尉も、同じく月光で6機撃墜10機撃破している。これらの対B-29戦では屠龍や月光に装備された斜銃が威力を発揮しており、その斜銃を考案した海軍厚木航空隊(302空)司令官の小園大佐は斜銃を万能兵器と思い込み、単座戦闘機の零戦・雷電や彗星艦爆にも搭載させ、彗星の斜銃はそれなりの成果を挙げたが、戦闘機の斜銃は流石に使い物にならず、司令にバレないようにそっと外されたという逸話も残っている。雷電で活躍した搭乗員は撃墜王赤松貞明中尉が有名である。赤松中尉は癖の強い雷電で活躍し、後にB-29の護衛に付いてきて猛威を振るったP-51の撃墜記録もある。
また日本軍は武装を外して極限まで軽量化した鍾馗・飛燕・屠龍の体当たり攻撃部隊である震天制空隊を編成し、B-29への体当たり攻撃を行い、その戦果はB-29を62機撃墜(日本側記録)とされている。
爆撃の効果も十分上がらない中で、B-29の損失が増えていく状況にアーノルド司令の失望は大きかった。
わたしはB-29を多少失うことは仕方ないと考えている、しかし出撃のたびに3~4機が失われている。
この調子で損失が続けば、その数は膨大なものとなるだろう。
B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17と同じように扱ってはならない、B-29は軍艦と同じように考えるべきである。
その後、ドイツ本土戦略爆撃で成果をあげた弱冠37歳のカーチス・ルメイ少将が、アーノルドの抜擢で第20空軍隷下の第21爆撃機集団の司令に着任すると、今までの方針を変えて、中高度からの爆撃を多用し爆撃の精度を上げると共に、低高度から人口密集地への夜間無差別爆撃を行うようになった。そのせいで爆撃による国土の被害と国民の死傷者が激増することになったが、日本軍の高射砲による効果的な攻撃も可能となり、B-29の損害も更に増えていくこととなった。
日本本土防空での主力高射砲であった九九式八糎高射砲は、最大射程 15,700 m 最大射高 10,420 mあり、中高度を飛行するB-29を十分とらえる事ができた。
また、数は少ないながらも三式十二糎高射砲 最大射程 20,500m 最大射高 14,000m のように超高高度を飛ぶB-29を捉えられる大口径高射砲も配備され、終戦直前には五式十五糎高射砲 最大射程 26,000m 最大射高 19,000m も配備している。本砲はレーダーと連動する先進的な高射砲で一撃で2機のB-29を撃墜し、本砲が配置されてた久我山をB-29が避けて飛んだという伝説も残っている(真偽は不明)
以上の日本防空陣は、貧弱な戦力ながらもよくB-29と戦った。米軍は日本本土空襲でB-29を513機、他に事故等で261機、合計774機を喪失し、2,700機以上が撃破された。また戦死または行方不明となったB-29搭乗員は3,041名にも上る。
特に高射砲による戦果が大きく、撃破数での内訳は 高射砲によるもの:2,063機(76.4%)迎撃機によるもの:348機 (12.8%)双方によるもの :234機(8.5%) となっている。
B-29の総生産数は3,970機の内、第二次世界大戦中の生産機数は2,500機なので、日本軍は当時生産されてたB-29の20%を撃墜し、ほぼ全機に何等かの損害を与えていたことになる。 また撃破機の中には損傷が酷く廃棄された機体も多数含む。
1945年5月25日の東京空襲では498機のB-29に対して一日で26機撃墜89機撃破(米側損害記録による)という大きな戦果も挙げている。
しかしその敢闘も爆撃による工業力の低下により高射砲の生産が進まず、また硫黄島が攻略され、P-51戦闘機の護衛がB-29に付くようになると戦闘機による迎撃は困難となり、また本土決戦に備えて航空戦力の温存も図られたため迎撃は下火になり、B-29の損害も減っていった。
資源に乏しい日本側は、撃墜されたB-29からアルミを回収する事で急場を凌いでいた。
B-29が最後に2桁の損失を出したのは昭和20年6月5日の神戸空襲(11機撃墜 139機損傷)その後は100機以上の大編隊でも損失は多くて3機程度で、損害がない場合も多かった。最後にB-29が失われたのは8月8日の中島飛行機武蔵工場及び東京レーダー基地爆撃で、高射砲により3機のB-29が失われ、26機が撃破された。その後も8月15日まで爆撃は続けられたが、B-29の損失は無かった。
日本軍によるマリアナ諸島B-29基地攻撃
硫黄島が未だ健在であった頃、日本軍の爆撃機や戦闘機が硫黄島より繰り返しサイパン島やテニアン島の航空基地を攻撃している。
初回攻撃は1944年11月2日、マリアナからB-29の偵察機型F13Aによる東京初偵察飛行が行われた翌日になる。9機の陸軍の97式重爆による攻撃で、日本軍は3機の重爆を損失したが、B-29に損害は無かった。
最大の戦果を挙げた攻撃は、東京が初空襲を受けた11月24日の3日後の27日の攻撃である。まずは陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機(飛龍)2機がサイパン島のアスリート基地を爆撃し12機を撃破(米軍記録 撃破4機と16機が損傷等で出撃不可)し全機帰還、その後海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機と偵察機彩雲2機がイリスイ基地を襲撃、零戦は機銃掃射で地上に駐機していたB-29を5機撃破し、また迎撃したP-47の1機が友軍誤射により撃墜された(米軍記録)しかし戦闘機の迎撃と高射砲により零戦10機損失となった。
新海少佐の第二独立飛行隊は12月7日の夜にも夜間攻撃をかけて、B-29を4機を撃破、23機を損傷(米軍記録)させている。新海少佐はこの功績により昭和天皇と拝謁したが、後に特攻の戦果確認任務で戦死している。
最後の攻撃となったのは1944年のクリスマスで、四式重爆撃機がチャフを散布しレーダーを欺瞞させた後に低高度と高高度の同時攻撃という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。
日本軍によるマリアナの航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、米兵に45名の戦死者と200名の負傷者が出ている。
結局は、日本本土爆撃に支障をきたす程の損害を与える事はできなかったが、米軍兵士の手記によれば、日本軍によるもっと大規模な爆撃があり、それに呼応して日本軍守備隊の残存兵が基地を襲撃してくるという噂が蔓延していたとの事で、精神的な効果は大きかった様である。
この執拗な攻撃に頭を悩ませたアメリカ軍は、(本土爆撃の足がかりを確保するという名目もあったが)硫黄島攻略作戦を立案する事になる。
シンガポール空襲
本土爆撃の印象が強いB-29であるが、実はシンガポールへの空襲も行っている。
1944年11月5日から断続的に空襲が行われた。外地最大の軍港を持つシンガポールは、当然ながら連合軍の重要攻略目標だった。本土との連絡を断たれた帝國海軍の艦艇が集まる拠点としても機能していたため、爆撃は続けられた。重巡妙高や高雄が逃げ込んでくると、この2隻が主な爆撃目標となった。
1945年1月11日の爆撃では、高雄が放った主砲がB-29に命中し撃墜される事態が起きた。パイロットは脱出したものの捕虜となっている。
日本側は迎撃機を上げて抵抗していたが、1945年に入ると稼動機は激減。2月1日の爆撃では、わずか2機しか飛び上がれなかった。
B-29対日本軍のまとめ
日本軍の敢闘空しく、日本各地の都市がB-29の爆撃により焼き払われ、人的損失も死亡者は50万名以上(広島・長崎原爆の犠牲者を含む)にも上ると推計されている。また爆撃と同時並行で行われた機雷散布による海上封鎖により、日本近海における海上交通や漁業も麻痺状態に陥り、最終的にはB-29が投下した2発の原子爆弾が大きな要因となり、日本軍は無条件降伏に追い込まれた。
日本に対する戦略爆撃は、同じ連合軍により行われたドイツに対する戦略爆撃と比較すると期間も短く、投下された爆弾量も参加した機体数も圧倒的に少なかったが、その効果は遜色ないものという評価であった。それは日本の建物(特に一般家屋)のぜい弱性と、そして日本側の防空体制の不備が大きな要因であった。
日本の同盟国ドイツは、1940年から英米による本土空襲を受けており、それに対抗すべく重高射砲約16,000門、軽高射砲約50,000門という膨大な数の高射砲を製造、配備していた。また全土に配備されたレーダーによる充実した早期警戒体制の構築や優れた射撃指揮装置の開発、高高度戦闘機の実戦投入など技術面の向上にも余念がなく、連合軍合計で14000機の重爆撃機を撃墜している。
一方の日本は工業力、技術力ともに乏しく、また本格的な本土空襲も1944年からであった為高射砲の生産が遅れ、1945年時点で本土に配備できた数がようやく2000門と、圧倒的に数が足りなかった。
技術面に関しても、効率的な早期警戒システムの構築や高高度戦闘機の実戦投入はおろか、高性能の早期警戒レーダーの開発も行えず、ドイツ製高性能レーダー「ウルツブルグ」のデッドコピーすら行えなかった。高空の敵機に対し正確に照準するための射撃管制システムも性能、数共に不足しており、仮にドイツ並みの高射砲を製造できていても、それを活用することは出来なかっただろう。
そのような限られた戦力で日本軍の防空部隊はよく戦ったが、負けるべくして負けた戦いであるともいえる。
その後のB-29
B-29は1950年に勃発した朝鮮戦争にも投入され、21000ソーティの出撃を記録しているが、損失は34機にもなった。このうち16機がMiG-15による撃墜で、さすがのB-29もジェット戦闘機には抗し得ないのが明白になったが、[3] 朝鮮戦争後も、しばらくの間は戦略核爆撃機として第一線に配備された。
B-29は戦略爆撃機としてエポックメイキング的な存在であり、未だに評価が高い航空機である。
米技術専門誌のポピュラーメカニクスは「史上最強の軍用機 ベスト6(The 6 Most Lethal Aircraft in History)」という特集記事を組み、 独自調査に基づく航空機史上に残る名機ベスト6を発表したが、B-29は並居る名機を抑えて堂々の3位に選ばれている。
(1位は第一次世界大戦に活躍した事実上、世界初の戦闘機「フォッカー・アインデッカー(Fokker Eindecker)」。 2位は第二次世界大戦初期から中期に活躍した日本の「零戦」であった)
退役後はスクラップにされた機体が多く、現存するB-29は飛行可能機が「フィフィ(機体番号44-62070号機)」と「ドック(機体番号44-69972号機)」の2機のみ。静態保存機も合計24機(うち2機は広島・長崎への原爆投下機である「エノラ・ゲイ(機体番号44-86292号機)」と「ボックスカー(機体番号44-27297号機)」)が存在するのみである。
この他に1947年にグリーンランドの氷原に不時着・放棄された「キーバード(機体番号45-21768号機)」が1990年代に修復されて飛行可能状態になったが、この機体は氷原からの離陸滑走中の発火で喪失してしまった。
また、変わった形の現存機としては1948年にネバダ州で実験飛行中にミード湖に不時着水して沈んだ45-21847号機(正確には偵察型のF-13)が湖底にほぼ完全な形で残っており、同機は国指定の史跡遺産に認定されている。
派生
B-50
B-29のエンジンを2500馬力のものに換装、垂直尾翼を大型化したもの。すでにジェット爆撃機の時代を迎えつつあったので、生産数は300機程度にとどまった。後に空中給油機(KB-50K/J)に改造され、TAC(戦術航空軍団)で1959年まで使用された。[4]
B-50は史上初の無着陸世界一周の快挙を果たしたほか偵察機(RB-50)や空中給油機(KB-50K)としてベトナム戦争の頃まで使われた。またロケット実験機ベルX-1の発射母機や熱帯低気圧の観測機(ハリケーンハンター)として運用されたことでも知られる。
※2:05から空中給油するKB-50が登場
輸送機・旅客機
B-50の胴体部を拡張する形で再設計したC-97(ボーイング367)輸送機と給油機型であるKC-97が開発され、さらにC-97を改良した民生旅客機型としてボーイング377「ストラトクルーザー」旅客機が就役している。
ボーイング377はレシプロエンジンを搭載した旅客機としては最終世代の機体であり、パン・アメリカン航空や英国海外航空などの航空会社にて使用された。特に国際線仕様機では二段寝台やバー、豪華なラウンジを備え「空のホテル」とも称された、まだまだ空の旅が特別なものであった時代を象徴するような絢爛豪華な機体であった。
だが主な活躍の場であった幹線路線でジェット旅客機が就役すると、大型故につぶしの効かなかったボーイング377は急速に退役したのであった。
そしてこのボーイング377及びC-97を特大貨物輸送用に更に胴体部分を拡大改造したのが、俗に「プレグナントグッピー」と呼ばれる超大型貨物機である。
その名の通りに子持ちシシャモをひっくり返したような特異な胴体を持つ、おおよそB-29の血筋とは思えない奇妙な見た目の機体ではあったが、その輸送量は確かなものであり、宇宙開発用の資材の運搬などで活躍し、アメリカの宇宙開発を支えた隠れた名機でもあった。この発展型にさらに胴体部分を巨大化させた輸送機ボーイング377-SG「スーパーグッピー」があり、アポロ計画用のサターンロケットを始めとした大型宇宙航空部品の運搬に長年従事した。
この「スーパーグッピー」のうちNASAで今も飛ぶ機体が、現存するB-29ファミリーで唯一現役飛行する機体である。
Tu-4
第二次世界大戦中に満州を爆撃した後、ソ連領内に不時着したB-29をソ連が接収し、ほぼフルコピーのTu-4を製造し実際に配備した。
Tu-4自体はB-29より早く1953年に退役しているものの、そこで培われた技術は後のソ連の戦略爆撃機製造技術の基礎となり、その技術により多くの高性能の戦略爆撃機が製造され、皮肉にもアメリカへの大きな脅威となった。
アニメ『LITTLE JOHNNY JET(邦題 ぼくはジェット機) 』
朝鮮戦争の講和も間近の1953年4月にアメリカで擬人化されたB-29を主人公としたアニメが製作されている。現代日本では兵器の擬人化・美少女化が一大ブームであるが、アメリカは半世紀以上前にその領域に踏み込んでいたわけである。(但し主人公のB-29のジョンはおっさん)
日本でも1960年代にTBS系列で、同じアメリカのドタバタアニメであるトムとジェリーと同時に放映されていた。ちなみに、題名のLITTLE JOHNNY JET(ぼくはジェット機)のジェット機とは主人公ジョンのことではなくて、その子供(ベビージェット)のことである。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
脚注
- *第2次大戦で「戦は数」を体現 B-29のエンジンすら大量生産・大量消費だった米国の凄さ 2020.12.6
- *「B29 日本本土の大爆撃」 カール・バーガー著 中野五郎・加登川幸太郎訳 1971 サンケイ新聞社出版局 pp.196-197
- *「兵器最先端7 ミサイルと核」 読売新聞社:編 1986 p.123
- *「兵器最先端7 ミサイルと核」pp.122-123
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