戦国時代単語

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「時は戦国・・・」

戦国時代とは、

  1. 春秋戦国時代の後のほう、下克上によって滅び、に分裂した後のことと一般にはされる。
    春秋戦国時代
  2. 1から命名された日本の時代区分の一つ。時代区分としては室町時代安土桃山時代と被ったりかぶらなかったりする。
  3. 2から更に、業界の覇権を持つ者がはっきりと確定せず、大小の勢力が入り乱れた状態を喩する言葉。有力勢力が3つだと三国志と呼ばれる。

概要

統一政権が存在しない、または衰弱・消滅した状態で、複数勢力が戦闘を断続的に繰り返し覇権を争っている時代を言う。
単に戦国時代と言えば日本の歴史上の戦国時代をすことが多いが、中国歴史上の戦国時代をすこともある。

日本の戦国時代

日本の歴史
室町時代
(1338 - 1573)
戦国時代
(1467 - 1590)

日本におけるこの時代を戦国時代と称するのは、中国の戦国時代を踏まえた後法成寺関白記の「抑世上の儀、偁うに戦国の時の如し」に由来するとされる。

明確に時代区分を出来るわけではないが、15世紀後半からから16世紀にかけてのこととされる。始まりも終わりも諸説色々。以下に各説を挙げていく。

始まりの説

  1. 1455年:関東に限れば較的有意義な考え。室町時代関東を統治した鎌倉方の機構が崩壊し、以後関東は戦乱の時代に突入する。
  2. 1467年:応仁の乱が始まった年。かなり一般的な説。乱の終わりには、京都の荒と幕府権威の失墜、守護領制の崩壊と戦火の全的拡大という一般に想像される戦国時代の要素が大体そろうため。但し、最近の研究で、畿内や近畿周辺では、大名達も幕府の動員に従っていることや地方でもしばらく幕府の裁定が認められていることから、畿内や近畿周辺では、応仁の乱後も幕府や将軍は一定の実権や権威を保っていることが分かっており、そのため下の1493年の説が較的有力な説となっている。
  3. 1493年:明応の政変が起こった年。足利将軍細川氏を中心とする配下によって立させられた事件。近年の日本史学会ではこちらが基本。足利将軍が二流に分かれたことで、幕府奉公衆も二分し、足利将軍軍事的基盤は崩壊、以後、足利将軍は何者かの武力を背景にしなければ、将軍位に付けない状況になる。
  4. 1494年:北条早雲伊豆討ち入りの年。明応の政変の説が出る前は割と言われた。本来、武力を持たない人間が、幕府(堀越方)を滅ぼすという下克上徴の事件と言えるため。ただし、近年は、早雲伊豆討ち入りは明応の政変と連動しており、早雲自身の意思だけではなかったと言う説が有力。

終わりの説

  1. 1568年:信長の年。以後、下が信長の元に帰していくその徴の年。但し、まだ信長肩する戦国大名は全にいる。織豊時代あるいは安土桃山時代の始まりとも。
  2. 1573年:義昭追放、室町幕府崩壊の年。以後、中央政治から足利氏は消え、織田信長天下統一筋は決定的となる。織豊時代あるいは安土桃山時代始まりとも。
  3. 1587年:豊臣秀吉による関東羽への惣が出された年。定へ諸々の政策はあったが、全の政策の施行をした初のもの。これは地方の大名への大義名分となり、これによって、諸大名の帰順や北条氏やいくつかの大名は取りつぶしが起こった。とはいえ、例外も多い。
  4. 1590年:北条征伐、小田原城の日。これ以前に、州の伊達政宗秀吉に帰順しており、武力を以って豊臣氏に逆らいうる大大名はいなくなったから。
  5. 1590年:州仕置の年。北条氏滅亡以後も、関東州には豊臣氏に反抗しているものがおり、これらの定をもって、定とする考え。
  6. 1591年:九戸政の乱鎮圧の年。州仕置以後も、豊臣氏の政策に反発するものがおり、州では、葛西大崎仙北など一が多発していた。これらの鎮圧のために兵を出し、最終的に九戸政の乱鎮圧を以って、一は収束した。これをもって天下統一とみなす考え。
  7. 1600年:関ヶ原の戦いの年。天下統一後も、豊臣政権の基盤は磐石ではなく、秀吉死後、結局下は家康に帰することとなった。この年の戦いによってそれは決定的となった、即ち戦国の世が終了したとする考え。
  8. 1603年:徳川家康征夷大将軍就任、及び江戸幕府開府の年。これによって二年の太が始まったため。
  9. 1615年:大坂夏の陣豊臣氏滅亡の年。元和偃武の始まり。
  10. 1638年:天草の乱鎮圧の年。この乱は、当該地域の浪人が多数参加しており、単なる農民反乱ではなく、戦国空気が残っていた中での勃発のため。以後、大平八郎の乱まで幕府軍が公式に出動をすることはなかった。

なぜ、このように始まりや終わりに諸説あるかといえば、他の時代区分にべ、戦国時代があいまいであるからということにつきる。日本の時代区分は飛鳥時代から江戸時代までは、政治権力の中心地によって名づけられており、それ以後は、天皇の在位によって区分されている。ところが、戦国時代は「政治の中心地がない時代」が定義であり、従って人によって基準にばらつきがでるのである(にたようなのに「幕末」がある)。

戦国時代はその性質上、様々な英雄が出現しまた各人の人気も高いが、果たして歴史上価値のある人物を
挙げるとするならば織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康の三名にまで絞られるだろう。
逆を言えば、その他の武将や大名はどんなに人気があったとしてもテストに出る事はい。
先生戦国オタだったりした場合はその限りではないが、やはり入試には出ない。
入試の問題を作った人が戦国オタだったりした場合もまた、その限りではないが、やはり配点は低い。
しかしまあ、出る時は出るので、勉強はしておくに越した事はいだろう。

戦国時代の流れ

応仁の乱直前

戦国時代の始まりの一端は、室町幕府代将足利義教嘉吉の乱によって赤松満祐に討たれたこと。彼は将軍への権力集中を進めており、その過程でままならぬなら、大名やもう一つの足利鎌倉方ですら滅ぼしている。しかしそうしてできた将軍への権力集中は彼の死によって崩壊し、それによって幕府内部も混乱に陥る。強大な権力がなくなり権力の隙が生じたためであり、如何に幕府が混乱していたかは彼の死後一箇ぐらいは赤松征伐軍が編成されなかったのを見れば分かる。また混乱と同時に、彼の亡き後の隙を埋めるように大名間の政争が始まっていった。大金を持ったおじいさんが死んだ後の遺族を想像すればよろし。

しかも、彼の死後七代将軍には彼の息子足利義勝が就いたが、十歳の幼君である上、一年立たずに死亡した。

その後の将軍足利義政である。彼は初期においては大名の争いに介入するなど意欲がみられたが、次第に近臣たちや有力大名の政治介入に嫌気が差してきたようであり、建築宴に入り浸りになる。何しろが飢餓者で埋まり、そのことで天皇からもどうにか対策せいと言われたのに無視したほどである。んで、近臣の専横がひどくなります。

それに合わせて、大名たちの争いがひどくなってくる。まず、赤松討伐の第一功労者ら顔の山名持豊(宗全)がかつての山名氏の繁栄を気付こうと勢力拡し始める。また管領細川勝元がこれに対抗し、赤松討伐の武功をもつ宗全に対し、赤松などとやらかす。ついでにこれを止めるべき他の管領畠山や斯波もお争いを始めるわ、各地の大名も似たような状況になるわで大変。そしてこれに先の両者が絡んでくる。

こうして、争いの土壌は形成されていったが、それでもまだ彼らは妥協し合うなどの余地があった。というか彼らは宗全の婿が勝元であったし、本来協力しあっていたのである。それを更にややこしくしたのは義政自身だった。彼は妻日野富子との間に子供ができないといって、義尋を還俗させ義視と名乗らせ、将軍補としてしまうのである。この時彼は28であり、か若いような気もするが最彼にとって政治なんてどうでもよく、飲みながら建築に明け暮れたかったのだろう。文化人である。

が、この翌年に富子が男子を産む。これが問題とならないがない。しかも、富子はだいぶ気の強い女であり、義視が細川政元の後見を受けていたのでだったらと、山名持豊に義尚支援を頼みに行く。でも、義政は知らぬ顔して文化事業に明け暮れた。優柔不断とも言う。しかも彼の側近は大名によって追放されており、どうにも政治が動かない状況になる。

応仁の乱とその影響

そうこうしてるうちに、終に京都は上御霊神社畠山の武力衝突が始まった。これをきっかけに守護達が京都へ集結。およそ三十万弱の兵が十年以上戦い続ける応仁の乱が始まったのである。これに参加した大名は西は九州北部から西は駿河までに至り、を受けた地域は州からの果てまで日本に及んだ。そして京都となる。「先の大戦(おおいくさ)で全て焼けてしまいました。」そんな中でも義政は宴と建築にふけっていたらしい。最執念すら感じる。

最初に述べた通り、六代将軍は足利義教臣に殺されており、その点で赤松満祐下克上の先をうったといえるのだが、この時には、これまでの戦いとは較にならないほど足軽傭兵が活躍した。と同時に両者が、味方を増やすために格を無視して役職につけた上、下克上潮と相混じり各地で守護大名が守護代やその下の地位のものに脅かされ始めた。例として、越前では斯波氏が、朝倉に、加賀では冨樫一向宗にといったように。但し、この当時族や農民商人たちの生産力が室町時代を通じて増大しており、それまでの既得権益者との利益の歪みを正しただけとも言える。

ついでに言うなら、とかした京都を捨て地方に落ちていく文化人が地方文化を活気づけたことは見落とせない。それによって土佐一条氏地方に小京都と呼ばれる都市ができていった。全く流石文化人義政。でも応仁の乱で各地のお争いが触発されたため、文化ついでに争いの種も地方かれている。

その後

応仁の乱は、乱のたる原因である細川勝元山名宗全が死んだことと西軍の戦力で合った大内氏の帰により自然に立ち消えとなる。義尚が将軍となるも、後には義視系統と義政系統の将軍が交互に就任する。暫くは、近畿地方ぐらいは支配下に収めていた幕府であったが、明応の政変によって全にその権威を失う。その後の近畿では細川政元細川澄元→細川高国大内義興細川晴元三好長慶といった感じで勢力争いが繰り広げられ、三好なきあとは松永久秀三好三人衆の政争が続きさしたる勢力も現れないまま信長を待つことになる。

また、関東応仁の乱より十年く似たような闘いが既に始まっており、これに北条が食い込む形で関東は戦国時代となる。
州は中央から遠く、為にそのを他の地方ほど受けなかったが、天文の乱(洞の乱)の後、争いは化していく。 その頂点は伊達政宗
中国地方大内一極から大内対尼子、毛利対尼子、毛利一極支配、毛利織田と変遷していく。中国地方の東側は山名赤松宇喜多別所などの中規模の勢力が覇を競った。
四国細川落以後、三好氏が支配し、三好落以後は大友毛利といった大勢力にされながら土佐の長宗我部氏の統一へと向かう。
九州では、初めは大内対他勢力であったが、少弐氏落以後安定するも、大内氏滅亡以後、毛利大友となり毛利氏撤退後は、大友氏が北九州を支配したが、の戦いでその勢威を失い、島津氏、龍造寺氏との三つとなる。さらに、龍造寺隆信沖田畷の戦いで討ち取られると、龍造寺氏はその勢いを失い、島津氏が九州統一をすが、その前で豊臣秀吉九州征伐となった。

もはや日の本の情勢複雑怪奇なこれらによって、階級間の流動は活発化していき、ついに行き着いた先が農民が関白となる世界であった。

ちなみに、鎌倉以来、多くの御家人がその領地を守らんと頑っていたが、結局頼朝の時代から明治維新までを通して同じ地を支配し続けたのは島津氏、相良氏、相馬氏の三のみである。守護、持大名格に限ると島津氏のみとなってしまう。それ程までにこの戦国時代は日本の支配者層を変化させたのだ。

三英傑

織田信長

どこかのTV番組で「日本人の好きな偉人第一位」に選ばれた名人。その数々の偉業はしばしば三時代の英雄曹操べられる事もある。(が、本場中国では後周の名君である栄にされることが多い)
の大名、織田信秀のもとに生まれ、別名を「尾のうつけ」とも。最初からを持っていたが柄は守護代のそのまた下であり、守護代織田信友、守護斯波氏を倒し、この時代の特色の一つでもある下克上を果たす。後々将軍である足利義昭を追放し、さらにスケールの大きな「下克上」を果たすことになる。

さて、信長狭間で今川義元を破ったというのは今更書くほどでもない有名な話である。彼はこれ以降、下人へのを駆け上がっていく。周辺諸を次々と下し、足利義昭を確保、上。権威を手に入れ、その後も下布武として武力による平和め続けた。

彼が評価される理由の一つに、その先見性、合理性がある。例えば「第六天魔王」の名前の由来になった比叡山焼き討ち。科学などい当時、民衆に留まらず大名公家にまで大きく帰依を受けていた宗教の総本山を、それがたとえどんな理由であれ攻撃し下してしまうと言うのが一体どれほどの事か、想像が出来るだろうか。なお、これを知った武田信玄信長抗議手紙を出しているが、その返信の際の信長自称第六天魔王である。

日本の半分を、従属勢力を含めれば日本のほぼ全てを領有しており、並ぶものが居ない程の英雄になったが、西攻略へ向かう途上、本寺へ立ち寄り宿泊していた所、臣の明智光秀謀反を起こされ自した。信長のいなくなった織田落衰退したが、織田秀信織田信雄らによって大名としての命脈は保たれた。

豊臣秀吉

信長が本寺で明智光秀に討たれた後、光秀を倒し信長の後継となったのが豊臣秀吉である。信長の小者として仕え、最下級から関白の地位まで上りつめるのだが、これは世界で見ても非常にしい。なお、権力者になりはしたものの信長の後を継ぐ形であるため、上の者を倒して力を手に入れる、という「下克上」には当てはまらない。そのため秀吉にあたる織田も滅ぼされたりせず、普通に存続している。

信長定事業を継いだ秀吉は、多少の障害もあったものの、順調に各地を定していき、ついには関白下人となる。ここに日本は再びの統一を見せ、平和が訪れたかに見えたが・・・・

秀吉の行った下事業として有名なのが、「太検地」と「狩」である。これにより日本全域で石単位の統一が行われ、農民は一を起こすための武器を奪われた。
そしてもう一つ、「唐入り(朝鮮出兵)」が行われている。緒戦は破の進撃で、朝鮮のうちと全羅以外のを全て制圧したものの、点と線による表面的な支配に過ぎなかった。そのため各地で「義兵」と呼ばれる義勇軍が抵抗し、全羅朝鮮軍もまた攻勢を強めた結果、日本軍は守勢にまわることになる。更に明の援軍が来ると戦局は全に転換した。その膨大な戦費は豊臣政権を崩壊させる一因となった。秀吉自身はその最中に死去し、跡は息子豊臣秀頼が継いだが、大坂の陣で滅亡した。

徳川家康

最後、戦国の世を生き延び遂に幕府を作り上げたのが徳川家康である。豊臣政権を支える五大老として選ばれるも、最終的には豊臣氏を追い落としている辺り、「下克上」と言えるかも知れない。

幼少時を今川に人質として過ごし、独立後は織田信長豊臣秀吉に同盟、臣従する形で手腕を発揮する。前田利家の死後、関ヶ原で敵を尽く排除し征夷大将軍に就任、幕府を作る。積み重ねた功によりナンバー2となり、前任が居なくなった後をつぐのは秀吉と共通しているが、その時点の制度やスタート状況が違っていた。家康の代で幕府が成立、将軍を徳が務める事が決められたため、家康の死後も、徳が権力の座を失う事はかった。

この後、大坂の陣豊臣秀頼を自させ、豊臣氏を滅ぼし天下統一完成させた家康は元和二年(1616年)に75歳した。ここに戦国時代は終わりを告げ、徳川家康江戸に築いた幕府により江戸時代が始まる事となる。徳はその後大いに繁栄し、江戸時代が終わっても名として一置かれている。

その他の大名達

時は戦国
と言う事で、この時代には様々な英雄が出現したのは先も述べたとおりだ。
その中には皆大好き武田信玄や、上杉謙信、3つの矢の逸話で有名な毛利元就チートじいさん北条早雲、生まれが遅かったので乱世の中心になる事は適わなかったが、その生き様で色々とネタにされやすい“独眼竜伊達政宗などなど、大勢の魅力的な人物がいる。まあ、その辺の詳しい事は戦国時代の人物の一覧にでも任せておくとしよう。

彼等はこの乱れた世の中、自己の領を治めていた訳だが、当然の如く幕府の定めた法になぞ力はい。ではどうやって治めていたのか?そう、法がければ作ればいいのである。これをと言う。これがまた領毎に良く出来ていて、例えば伊達集(じんかいしゅう)などは、条文その数なんと170条! これは分法の中でも最大規模である。その他武田氏の甲州法度次第、今川氏の今川仮名録などが有名である。
実はこの三つを抑えておけば十分だったり。

こうして各地域は治められていた。優れた治世の場には人が集まり、文化も発展する。次は文化について見てみよう。

文化面

たとえ乱世と言えども、文化は常に発展し続ける。
欧州大航海時代に端を発する南蛮渡来の舶来物、それを参考とした南蛮文化
千利休がその完成させた茶道
他に狩野や、歌舞伎の祖である阿国歌舞伎の出現などもある。
文化史と言うのはこの時代に限らず個々の繋がりが見え難いため覚え辛いが、その時代を語るためには
決して欠かせない重要な物なので、テストには良く出る。
なお、これらの文化を総称して安土桃文化と呼ぶ。

南蛮貿易と鉄砲伝来

地方歴史は、交易を軸にして世界歴史と繋がっている。
同様に、世界歴史もまた、地方歴史と繋がっているのである。
この時代、ヨーロッパオリエントにあったイスラームの強オスマン帝国)によりオリエント以東との貿易を制限され、欧州へと閉じ込められていた。どうにかを開こうとしても、その強には全くが立たない。
そこで彼らがを付けたのがである。を渡ればまた新しいが開けるかもしれない。
これが俗に言う大航海時代の始まりであった。

さて、日本にはまずポルトガル人が辿りついた。
もっとも、彼らのは難破し、半ば漂着するような形でのものだったのだが。
これを機に、日本の諸南蛮人との貿易が始まるようになり、この時代の戦略や戦術を大きく変えた
種子島も伝来する。
よく勘違いされがちだが、実は種子島日本最初のではない。
中国で火が発明されたのがもっと前だからである。

あ、あと、決して忘れてはならないのがキリスト教の伝来である。
どこに行っても宗教とは相手の土地を教化しようとするもので(逆に寛大な政策を取るのもまた策の一つである)、
日本にも九州をはじめとして様々な場所にキリスト教、伴連とも言うか、が広まっていった。
ちなみに、この時に日本に来たのはイエズス会とかのカトリックである。ヨーロッパではこのころ教会の汚職を糾弾するための運動が起こっており(宗教改革)、旧態依然とした教会抵抗するプロテスタントローマカトリックの間で、大きな溝が出来てしまった。
さんざんかれて、ヨーロッパでの立場が悪くなったカトリックはこの先どうすれば良いのだろう?
「そうだ、外に版図を広げれば良いんじゃね!?
こうして航を繰り返した挙句、辿り着いたの一つが日本なのである。

なお、プロテスタントカトリック突は、日本にもしており、最終的にカトリックであるスペインポルトガルプロテスタントオランダによって日本との貿易を締め出されることとなった。また、幕府の禁教鎖国政策もこうした欧州でのやり取りに関連してるといわれる。

戦国の多彩な文化

まずは超絶集団である狩野の説明をしよう。
その出自は室町時代にまで遡る。
元々室町幕府の御用絵師として仕えていた狩野氏は、後に時の人織田信長へ接近し、代々の権力者の加護を得て一代閥へと成長した。
ありとあらゆる種類の絵を画き、何年と画壇のトップに居た集団のため、覚えておくとテストで楽が出来る。
・・・・・・かもしれない。
彼らが何故重要かは、この画壇のトップに居座り続けた。と言う所にある。
この集団にを受けた画も多く、今尚残っている作品は多くが宝となっている。

同じく、後世江戸文化を与え、現在も残っているものに歌舞伎がある。
出雲阿国が踊った舞を発祥とする歌舞伎は、江戸時代を代表する文化である。
が、果たして戦国時代にはあまり関係がい。
どちらかと言うと「江戸時代歌舞伎の発祥」なのが重要なのである。

上記の二つには共に江戸時代における文化の走りと言う共通点がある。
では戦国時代特有の文化は何なのだろうか。

茶道

初めて日本がもたらされたのは中国では唐の時代、日本平安時代にまで遡る。
しかし戦国時代の茶道と言えばやはり千利休の大成したわびであろう。
彼はのみならず席の間そのものを芸術として昇した。

その精神を言葉で表すのは難しいが、こう言った戦国文化面を知るための入門漫画として、「へうげもの」がある。
個人的にオススメしておきたい一品である。
これに限らず、戦国史などはそれを題材にした漫画を三種類も読めば大体の流れは頭に入ってくる。
全て買いえるとなると多少値はるが、今はブックオフ漫画などもあるので、読もうと思えば読めない事もない。
歴史理解への一手段として、頭の中へ入れて貰いたいと思う。

語句紹介

征夷大将軍
征夷、つまり夷(外敵)を征する大将軍の事。将軍の上に大が付くのと付かないのとじゃえらい違いがある。
形式上はあくまでも朝廷の官の一つであり、軍権のトップ天皇の代理として全に居る将軍達を揮する権限を持っている。
何故将軍の居を幕府といったり、軍人であるはずなのに内政をしたりするのか疑問に思った事はいだろうか。
たしかに、この征夷大将軍は有事の際にしか権力を持たない。しかし逆を言えば、有事でさえあれば権力を持っていられると言う事にもなる。
実は室町時代江戸時代などの幕府のある時代は、名戦争を続けている事になっている。
幕府の幕は幕(戦争時自る幕の事)であり、大名の使用する宿をなどと呼んだりするのはこのため。
内政をするのも、戦をするために力を蓄えているから、となる。
京都にいくこと。上にも二つあり、単に挨拶に行くだけの場合(上杉謙信など)と政権奪取をす場合とがある。後者の場合、将軍の後見人になると言ったような意味が強い。
下の将軍を擁し盛り立てると言うのは即ち将軍の権勢や下への大義名分を利用できると言う事であり、利用価値は幾分にもある。
ちなみに、上の「」は中国の都「陽」から来ている。
下布武
織田信長の政策の一つ。「武力で下を取る」ではなく、「武力で下を支配する」の意。
似ているようだが、全然別物。
関白を譲った者の意。
現在関白べて経験も功績もある前任への尊敬語である。
今では豊臣秀吉があまりにも有名であるため、ただ太と呼ぶ場合には秀吉の事をす場合が多い。
オリエント
日の出ずる所の意。つまり東の方。
世界史を勉強している時に、良くここの区分が分からないと言う人が出てくるが、何の事はい、中東である。
ヨーロッパから見て東の方にある良く分からない所と言う意味。

戦国時代の出来事・戦乱

ひとまず大百科に記事があるもののみ。

その他

あまり言及されていないことだが、戦国時代は室町時代から続く治安の乱れた時代でもあり、細なもめ事の解決手段として、武器を用いた暴力行為も辞さなかった。具体的には界線や地の奪い合いから、単に侮辱された、歌っていた等のしょうもないことで流血沙汰になる場合すらあった。

また、これらの蛮行が個人同士、同士で終われば良いが、それぞれ領や他と同盟や従関係を結んでいることも多く、それらに救援を要請し個人の喧嘩が領同士の合戦に発展したケースもあった。

当時は武士でなくとも、短刀携帯する事はおろか、に置いておくことしいことではなかったし、それによる暴力沙汰もその後の処理も、支配層側は自分たちの都合が悪くなったり訴えたりしない限りしばしば黙認した。(一応、これらの問題を防ぐための法はあった。)

この血生臭い因習は豊臣政権や徳幕府が定めた、喧嘩停止狩りなどの法令により徐々に薄らいでいくものの、江戸時代初期まで続いていく事になる。

関連項目

日本の歴史
戦国時代
室町時代  安土桃山時代
(織豊体制)
江戸時代

脚注

  1. *記事自体は武田元繁へのリダイレクトだが内容の関係上ここにも記す。
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戦国時代

537 ななしのよっしん
2023/09/29(金) 06:36:17 ID: pLuaa4gFOP
戦国時代の特徴としてキリスト教や検地よりも重要なぐらいの要素だから
この記事で語るのは当たり前の話でしょ
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538 ななしのよっしん
2023/10/04(水) 16:02:42 ID: MpPXCNIUrU
実際にあった戦いの考察や究明じゃなく架空戦記みたいな話ばっかりだな
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539 ななしのよっしん
2023/10/04(水) 16:07:44 ID: kZU8vrg3rf
素人的にはそっちのほうが専門知識の量関係なく仮説立てられるから楽しいんだろう
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540 ななしのよっしん
2023/10/22(日) 17:42:49 ID: pG6YfKm9Ba
戦国期のの保有数に関しては日本の総数を具体的に表記した資料がないからわからないというのが相だろうね。有名な50万丁やら欧州保有なんて話はノエルリンという人が書いた「を捨てた日本人」という書籍を元に適当
盛られた数字からきたものだしな。

各大名のの保有数の記録足し算すれば分かるだろうけど、全部調べるなんて到底理だろう

現状で分かっている合戦での数は長篠3000丁(1000丁説が有力)、沼の合戦が8000丁、関ヶ原が西軍と東軍合わせて2万丁使用されたみたいだけどこれだけの情報欧州数なのか
どうかは不明だし。

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541 ななしのよっしん
2024/04/09(火) 22:59:04 ID: saKs0QmRWg
教科書の記述変わるかも」 山城国古文124通発見
https://mainichi.jp/articles/20240409/k00/00m/040/013000cexit

戦国時代、自治に初めて成功したとされる「山城国(やましろのくにいっき)」(148593年)に関する古文書が大量に見つかった。

の原動力となった人(地方在住の武士)らのやり取りが明に記された新出史料。詳しい分析はこれからだが、専門は「将来、教科書の記述が変わる可性もある」とみている。
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542 ななしのよっしん
2024/04/18(木) 17:33:37 ID: W+5u6Zy2k3
1世紀続いたとなると本能寺の変以降も持続したって考えると凄いな… 椿井文書だから偽書の可性も捨てきれない(書体とかが室町中期当時と巧妙に酷似してるし、実際にない日付が書かれたりといった特色がある)がその椿井文書の中から偽書を見抜いた先生なら大丈夫っぽいか
戦時中の国衆や自治する村人達の細かいやりとりも本来ならいざって時の保身に備えて破棄しないといけないようなことが書いてあったら楽しみ
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543 ななしのよっしん
2024/04/18(木) 18:42:40 ID: pLuaa4gFOP
この記事もかなり伝統的な教科書記述だもんね
最近の研究だと、古代からずっと続いてきた武力による自力救済に代わって、近世的な秩序の芽の時代という説が増えてきた
一気に教科書まで書き換わる史料がみつかるといいな
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544 ななしのよっしん
2024/08/07(水) 21:36:19 ID: 1NC4qcHOt5
この時代は黒人が活躍していたのが今の通説なんだよね
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545 ななしのよっしん
2024/08/08(木) 14:46:17 ID: eqacvs04/4
>>544
」の定義による
少なくとも大村肥前有馬大友島津松浦加藤清正、末次政直、長谷川継らの下で黒人が雇用されていたことは記録に残っている
文化だと秀吉から報賞をもらった踊り手の中にも黒人がいたりする
ただし、その身分や活躍の度合いについて情報が少なく多くのことは言えない
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546 ななしのよっしん
2024/09/26(木) 02:31:16 ID: +BSwqu9Nvq
>>540
の総数では欧州を上回っていたとしても、野戦軍におけるの装備率では西洋を上回っていないね。
関ヶ原の戦いと同じ年に行われた1600年のニーウポールトの戦いでは、西両軍のの装備率は50%以上だったので。
当時の日本の戦は、軍事的合理性というよりも、政治的な領域や文化的な領域に属する、内戦の論理によってかに左右されているので、そういう日本固有の事情の中で、新来の火兵器がどのような役割を果たしたのか(いわば、アクセントを加えたのか)を見ていく方がいいと思う。
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