「時は戦国・・・」
戦国時代とは、
- 春秋戦国時代の後のほう、晋が下克上によって滅び、韓・魏・趙に分裂した後のことと一般にはされる。
→春秋戦国時代 - 1から命名された日本の時代区分の一つ。時代区分としては室町時代や安土桃山時代と被ったりかぶらなかったりする。
- 2から更に、業界の覇権を持つ者がはっきりと確定せず、大小の勢力が入り乱れた状態を比喩する言葉。有力勢力が3つだと三国志と呼ばれる。
概要
統一政権が存在しない、または衰弱・消滅した状態で、複数勢力が戦闘を断続的に繰り返し覇権を争っている時代を言う。
単に戦国時代と言えば日本の歴史上の戦国時代を指すことが多いが、中国の歴史上の戦国時代を指すこともある。
日本の戦国時代
日本におけるこの時代を戦国時代と称するのは、中国の戦国時代を踏まえた後法成寺関白記の「抑世上の儀、偁うに戦国の時の如し」に由来するとされる。
明確に時代区分を出来るわけではないが、15世紀後半からから16世紀にかけてのこととされる。始まりも終わりも諸説色々。以下に各説を挙げていく。
始まりの説
- 1455年:関東に限れば比較的有意義な考え。室町時代の関東を統治した鎌倉公方の機構が崩壊し、以後関東は戦乱の時代に突入する。
- 1467年:応仁の乱が始まった年。かなり一般的な説。乱の終わりには、京都の荒廃と幕府権威の失墜、守護領国制の崩壊と戦火の全国的拡大という一般に想像される戦国時代の要素が大体そろうため。但し、最近の研究で、畿内や近畿周辺では、大名達も幕府の動員令に従っていることや地方でもしばらく幕府の裁定が認められていることから、畿内や近畿周辺では、応仁の乱後も幕府や将軍は一定の実権や権威を保っていることが分かっており、そのため下の1493年の説が比較的有力な説となっている。
- 1493年:明応の政変が起こった年。足利将軍が細川氏を中心とする配下によって廃立させられた事件。近年の日本史学会ではこちらが基本。足利将軍家が二流に分かれたことで、幕府奉公衆も二分し、足利将軍家の軍事的基盤は崩壊、以後、足利将軍は何者かの武力を背景にしなければ、将軍位に付けない状況になる。
- 1494年:北条早雲の伊豆討ち入りの年。明応の政変の説が出る前は割と言われた。本来、武力を持たない人間が、幕府(堀越公方)を滅ぼすという下克上の象徴の事件と言えるため。ただし、近年は、早雲の伊豆討ち入りは明応の政変と連動しており、早雲自身の意思だけではなかったと言う説が有力。
終わりの説
- 1568年:信長上洛の年。以後、天下が信長の元に帰服していくその象徴の年。但し、まだ信長に比肩する戦国大名は全国にいる。織豊時代あるいは安土桃山時代の始まりとも。
- 1573年:義昭追放、室町幕府崩壊の年。以後、中央政治から足利氏は消え、織田信長の天下統一の道筋は決定的となる。織豊時代あるいは安土桃山時代始まりとも。
- 1587年:豊臣秀吉による関東・奥羽への惣無事令が出された年。天下平定へ諸々の政策はあったが、全国一律の政策の施行を目指した初のもの。これは地方の大名への大義名分となり、これによって、諸大名の帰順や北条氏やいくつかの大名は取りつぶしが起こった。とはいえ、例外も多い。
- 1590年:北条征伐、小田原開城の日。これ以前に、奥州の伊達政宗が秀吉に帰順しており、武力を以って豊臣氏に逆らいうる大大名はいなくなったから。
- 1590年:奥州仕置の年。北条氏滅亡以後も、関東や奥州には豊臣氏に反抗しているものがおり、これらの平定をもって、天下平定とする考え。
- 1591年:九戸政真の乱鎮圧の年。奥州仕置以後も、豊臣氏の政策に反発するものがおり、奥州では、葛西大崎一揆、仙北一揆など一揆が多発していた。これらの鎮圧のために兵を出し、最終的に九戸政真の乱鎮圧を以って、一揆は収束した。これをもって天下統一とみなす考え。
- 1600年:関ヶ原の戦いの年。天下統一後も、豊臣政権の基盤は磐石ではなく、秀吉死後、結局天下は家康に帰することとなった。この年の戦いによってそれは決定的となった、即ち戦国の世が終了したとする考え。
- 1603年:徳川家康の征夷大将軍就任、及び江戸幕府開府の年。これによって二百年の太平が始まったため。
- 1615年:大坂夏の陣、豊臣氏滅亡の年。元和偃武の始まり。
- 1638年:島原天草の乱鎮圧の年。この乱は、当該地域の浪人が多数参加しており、単なる農民反乱ではなく、戦国の空気が残っていた中での勃発のため。以後、大塩平八郎の乱まで幕府軍が公式に出動をすることはなかった。
なぜ、このように始まりや終わりに諸説あるかといえば、他の時代区分に比べ、戦国時代があいまいであるからということにつきる。日本の時代区分は飛鳥時代から江戸時代までは、政治権力の中心地によって名づけられており、それ以後は、天皇の在位によって区分されている。ところが、戦国時代は「政治の中心地がない時代」が定義であり、従って人によって基準にばらつきがでるのである(にたようなのに「幕末」がある)。
戦国時代はその性質上、様々な英雄が出現しまた各人の人気も高いが、果たして歴史上価値のある人物を
挙げるとするならば織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三名にまで絞られるだろう。
逆を言えば、その他の武将や大名はどんなに人気があったとしてもテストに出る事は無い。
先生が戦国オタだったりした場合はその限りではないが、やはり入試には出ない。
入試の問題を作った人が戦国オタだったりした場合もまた、その限りではないが、やはり配点は低い。
しかしまあ、出る時は出るので、勉強はしておくに越した事は無いだろう。
戦国時代の流れ
応仁の乱直前
戦国時代の始まりの一端は、室町幕府六代将軍足利義教が嘉吉の乱によって赤松満祐に討たれたこと。彼は将軍への権力集中を進めており、その過程でままならぬなら、大名やもう一つの足利、鎌倉公方ですら滅ぼしている。しかしそうしてできた将軍への権力集中は彼の死によって崩壊し、それによって幕府内部も混乱に陥る。強大な権力がなくなり権力の空隙が生じたためであり、如何に幕府が混乱していたかは彼の死後一箇月ぐらいは赤松征伐軍が編成されなかったのを見れば分かる。また混乱と同時に、彼の亡き後の空隙を埋めるように大名間の政争が始まっていった。大金を持ったおじいさんが死んだ後の遺族を想像すればよろし。
しかも、彼の死後七代将軍には彼の息子足利義勝が就いたが、十歳の幼君である上、一年立たずに死亡した。
その後の将軍が足利義政である。彼は初期においては大名の争いに介入するなど意欲がみられたが、次第に近臣たちや有力大名の政治介入に嫌気が差してきたようであり、建築や酒宴に入り浸りになる。何しろ川が飢餓者で埋まり、そのことで天皇からもどうにか対策せいと言われたのに無視したほどである。んで、近臣の専横がひどくなります。
それに合わせて、大名たちの争いがひどくなってくる。まず、赤松討伐の第一功労者赤ら顔の山名持豊(宗全)がかつての山名氏の繁栄を気付こうと勢力拡張し始める。また管領細川勝元がこれに対抗し、赤松討伐の武功をもつ宗全に対し、赤松再興などとやらかす。ついでにこれを止めるべき他の管領家畠山家や斯波家もお家争いを始めるわ、各地の大名も似たような状況になるわで大変。そしてこれに先の両者が絡んでくる。
こうして、争いの土壌は形成されていったが、それでもまだ彼らは妥協し合うなどの余地があった。というか彼らは宗全の娘婿が勝元であったし、本来協力しあっていたのである。それを更にややこしくしたのは義政自身だった。彼は妻日野富子との間に子供ができないといって、弟義尋を還俗させ義視と名乗らせ、将軍候補としてしまうのである。この時彼は28であり、些か若いような気もするが最早彼にとって政治なんてどうでもよく、酒飲みながら建築に明け暮れたかったのだろう。文化人である。
が、この翌年に富子が男子を産む。これが問題とならない筈がない。しかも、富子はだいぶ気の強い女であり、義視が細川政元の後見を受けていたのでだったらと、山名持豊に義尚支援を頼みに行く。でも、義政は知らぬ顔して文化事業に明け暮れた。優柔不断とも言う。しかも彼の側近は大名によって追放されており、どうにも政治が動かない状況になる。
応仁の乱とその影響
そうこうしてるうちに、終に京都は上御霊神社で畠山家の武力衝突が始まった。これをきっかけに守護達が京都へ集結。およそ三十万弱の兵が十年以上戦い続ける応仁の乱が始まったのである。これに参加した大名は西は九州北部から西は駿河までに至り、影響を受けた地域は奥州から筑紫の果てまで日本全国に及んだ。そして京都は灰塵となる。「先の大戦(おおいくさ)で全て焼けてしまいました。」そんな中でも義政は酒宴と建築にふけっていたらしい。最早執念すら感じる。
最初に述べた通り、六代将軍は足利義教は家臣に殺されており、その点で赤松満祐は下克上の先鞭をうったといえるのだが、この時には、これまでの戦いとは比較にならないほど足軽や傭兵が活躍した。と同時に両者が、味方を増やすために家格を無視して役職につけた上、下克上の風潮と相混じり各地で守護大名が守護代やその下の地位のものに脅かされ始めた。例として、越前では斯波氏が、朝倉英林孝景に、加賀では冨樫が一向宗にといったように。但し、この当時豪族や農民商人たちの生産力が室町時代を通じて増大しており、それまでの既得権益者との利益の歪みを正しただけとも言える。
ついでに言うなら、灰塵とかした京都を捨て地方に落ちていく文化人が地方の文化を活気づけたことは見落とせない。それによって土佐一条氏や地方に小京都と呼ばれる都市ができていった。全く流石は文化人義政。でも応仁の乱で各地のお家争いが触発されたため、文化ついでに争いの種も地方に蒔かれている。
その後
応仁の乱は、乱の主たる原因である細川勝元と山名宗全が死んだことと西軍の主戦力で合った大内氏の帰国により自然に立ち消えとなる。義尚が将軍となるも、後には義視系統と義政系統の将軍が交互に就任する。暫くは、近畿地方ぐらいは支配下に収めていた幕府であったが、明応の政変によって完全にその権威を失う。その後の近畿では細川政元→細川澄元→細川高国・大内義興→細川晴元→三好長慶といった感じで勢力争いが繰り広げられ、三好なきあとは松永久秀と三好三人衆の政争が続きさしたる勢力も現れないまま信長上洛を待つことになる。
また、関東は応仁の乱より十年早く似たような闘いが既に始まっており、これに北条家が食い込む形で関東は戦国時代となる。
奥州は中央から遠く、為にその影響を他の地方ほど受けなかったが、天文の乱(洞の乱)の後、争いは激化していく。 その頂点は伊達政宗。
中国地方は大内一極から大内対尼子、毛利対尼子、毛利一極支配、毛利対織田と変遷していく。中国地方の東側は山名赤松浦上宇喜多別所などの中規模の勢力が覇を競った。
四国は細川氏没落以後、三好氏が支配し、三好氏没落以後は大友や毛利といった大勢力に影響されながら土佐の長宗我部氏の統一へと向かう。
九州では、初めは大内対他勢力であったが、少弐氏没落以後安定するも、大内氏滅亡以後、毛利対大友となり毛利氏撤退後は、大友氏が北九州を支配したが、耳川の戦いでその勢威を失い、島津氏、龍造寺氏との三つ巴となる。さらに、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討ち取られると、龍造寺氏はその勢いを失い、島津氏が九州統一を目指すが、その目前で豊臣秀吉の九州征伐となった。
もはや日の本の情勢複雑怪奇なこれらによって、階級間の流動は活発化していき、ついに行き着いた先が農民が関白となる世界であった。
ちなみに、鎌倉以来、多くの御家人がその領地を守らんと頑張っていたが、結局頼朝の時代から明治維新までを通して同じ地を支配し続けたのは島津氏、相良氏、相馬氏の三家のみである。守護、国持大名格に限ると島津氏のみとなってしまう。それ程までにこの戦国時代は日本の支配者層を変化させたのだ。
三英傑
織田信長
どこかのTV番組で「日本人の好きな偉人第一位」に選ばれた超有名人。その数々の偉業はしばしば三国時代の英雄、曹操と比べられる事もある。(が、本場中国では後周の名君である柴栄に比されることが多い)
尾張の国の大名、織田信秀のもとに生まれ、別名を「尾張のうつけ」とも。最初から城を持っていたが家柄は守護代のそのまた下であり、守護代織田信友、守護斯波氏を倒し、この時代の特色の一つでもある「下克上」を果たす。後々将軍である足利義昭を追放し、さらにスケールの大きな「下克上」を果たすことになる。
さて、信長が桶狭間で今川義元を破ったというのは今更書くほどでもない有名な話である。彼はこれ以降、天下人への道を駆け上がっていく。周辺諸国を次々と下し、足利義昭を確保、上洛。権威を手に入れ、その後も天下布武として武力による平和を求め続けた。
彼が評価される理由の一つに、その先見性、合理性がある。例えば「第六天魔王」の名前の由来になった比叡山焼き討ち。科学など無い当時、民衆に留まらず大名公家にまで大きく帰依を受けていた宗教の総本山を、それがたとえどんな理由であれ攻撃し下してしまうと言うのが一体どれほどの事か、想像が出来るだろうか。なお、これを知った武田信玄が信長へ抗議の手紙を出しているが、その返信の際の信長の自称が「第六天魔王」である。
日本全国の半分を、従属勢力を含めれば日本のほぼ全てを領有しており、並ぶものが居ない程の英雄になったが、西国攻略へ向かう途上、本能寺へ立ち寄り宿泊していた所、家臣の明智光秀に謀反を起こされ自刃した。信長のいなくなった織田家は没落衰退したが、織田秀信や織田信雄らによって大名としての命脈は保たれた。
豊臣秀吉
信長が本能寺で明智光秀に討たれた後、光秀を倒し信長の後継となったのが豊臣秀吉である。信長の小者として仕え、最下級から関白の地位まで上りつめるのだが、これは世界で見ても非常に珍しい。なお、権力者になりはしたものの信長の後を継ぐ形であるため、上の者を倒して力を手に入れる、という「下克上」には当てはまらない。そのため秀吉の主家にあたる織田家も滅ぼされたりせず、普通に存続している。
信長の天下平定事業を継いだ秀吉は、多少の障害もあったものの、順調に各地を平定していき、ついには関白、天下人となる。ここに日本は再びの統一を見せ、平和が訪れたかに見えたが・・・・
秀吉の行った天下事業として有名なのが、「太閤検地」と「刀狩」である。これにより日本全域で石単位の統一が行われ、農民は一揆を起こすための武器を奪われた。
そしてもう一つ、「唐入り(朝鮮出兵)」が行われている。緒戦は破竹の進撃で、朝鮮八道のうち平安道と全羅道以外の道を全て制圧したものの、点と線による表面的な支配に過ぎなかった。そのため各地で「義兵」と呼ばれる義勇軍が抵抗し、全羅道の朝鮮水軍もまた攻勢を強めた結果、日本軍は守勢にまわることになる。更に明の援軍が来ると戦局は完全に転換した。その膨大な戦費は豊臣政権を崩壊させる一因となった。秀吉自身はその最中に死去し、跡は息子の豊臣秀頼が継いだが、大坂の陣で滅亡した。
徳川家康
最後、戦国の世を生き延び遂に幕府を作り上げたのが徳川家康である。豊臣政権を支える五大老として選ばれるも、最終的には豊臣氏を追い落としている辺り、「下克上」と言えるかも知れない。
幼少時を今川家に人質として過ごし、独立後は織田信長、豊臣秀吉に同盟、臣従する形で手腕を発揮する。前田利家の死後、関ヶ原の陣で敵を尽く排除し征夷大将軍に就任、幕府を作る。積み重ねた功によりナンバー2となり、前任が居なくなった後をつぐのは秀吉と共通しているが、その時点の制度やスタート状況が違っていた。家康の代で幕府が成立、将軍を徳川家が務める事が決められたため、家康の死後も、徳川が権力の座を失う事は無かった。
この後、大坂の陣で豊臣秀頼を自刃させ、豊臣氏を滅ぼし天下統一を完成させた家康は元和二年(1616年)に75歳で没した。ここに戦国時代は終わりを告げ、徳川家康が江戸に築いた幕府により江戸時代が始まる事となる。徳川家はその後大いに繁栄し、江戸時代が終わっても名家として一目置かれている。
その他の大名達
時は戦国!
と言う事で、この時代には様々な英雄が出現したのは先も述べたとおりだ。
その中には皆大好き武田信玄や、上杉謙信、3つの矢の逸話で有名な毛利元就、チートじいさん北条早雲、生まれが遅かったので乱世の中心になる事は適わなかったが、その生き様で色々とネタにされやすい“独眼竜”伊達政宗などなど、大勢の魅力的な人物がいる。まあ、その辺の詳しい事は『戦国時代の人物の一覧』にでも任せておくとしよう。
彼等はこの乱れた世の中、自己の領国を治めていた訳だが、当然の如く幕府の定めた法になぞ力は無い。ではどうやって治めていたのか?そう、法が無ければ作ればいいのである。これを分国法と言う。これがまた領国毎に良く出来ていて、例えば伊達の塵芥集(じんかいしゅう)などは、条文その数なんと170条! これは分国法の中でも最大規模である。その他武田氏の甲州法度次第、今川氏の今川仮名目録などが有名である。
実はこの三つを抑えておけば十分だったり。
こうして各地域は治められていた。優れた治世の場には人が集まり、文化も発展する。次は文化について見てみよう。
文化面
たとえ乱世と言えども、文化は常に発展し続ける。
欧州の大航海時代に端を発する南蛮渡来の舶来物、それを参考とした南蛮文化。
千利休がその道を完成させた茶道。
他に狩野派の興隆や、歌舞伎の祖である阿国歌舞伎の出現などもある。
文化史と言うのはこの時代に限らず個々の繋がりが見え難いため覚え辛いが、その時代を語るためには
決して欠かせない重要な物なので、テストには良く出る。
なお、これらの文化を総称して安土桃山文化と呼ぶ。
南蛮貿易と鉄砲伝来
地方の歴史は、交易を軸にして世界の歴史と繋がっている。
同様に、世界の歴史もまた、地方の歴史と繋がっているのである。
この時代、ヨーロッパはオリエントにあったイスラームの強国(主にオスマン帝国)によりオリエント以東との貿易を制限され、欧州へと閉じ込められていた。どうにか道を開こうとしても、その強国には全く歯が立たない。
そこで彼らが目を付けたのが海である。海を渡ればまた新しい道が開けるかもしれない。
これが俗に言う大航海時代の始まりであった。
さて、日本にはまずポルトガル人が辿りついた。
もっとも、彼らの船は難破し、半ば漂着するような形でのものだったのだが。
これを機に、日本の諸国と南蛮人との貿易が始まるようになり、この時代の戦略や戦術を大きく変えた
種子島も伝来する。
よく勘違いされがちだが、実は種子島は日本最初の銃ではない。
中国で火薬が発明されたのがもっと前だからである。
あ、あと、決して忘れてはならないのがキリスト教の伝来である。
どこに行っても宗教とは相手の土地を教化しようとするもので(逆に寛大な政策を取るのもまた策の一つである)、
日本にも九州をはじめとして様々な場所にキリスト教、伴天連とも言うか、が広まっていった。
ちなみに、この時に日本に来たのはイエズス会とかのカトリックである。ヨーロッパではこのころ教会の汚職を糾弾するための運動が起こっており(宗教改革)、旧態依然とした教会へ抵抗するプロテスタントとローマ・カトリックの間で、大きな溝が出来てしまった。
さんざん叩かれて、ヨーロッパでの立場が悪くなったカトリックはこの先どうすれば良いのだろう?
「そうだ、外国に版図を広げれば良いんじゃね!?」
こうして航海を繰り返した挙句、辿り着いた国の一つが日本なのである。
なお、プロテスタントとカトリックの激突は、日本にも影響しており、最終的にカトリックであるスペイン・ポルトガルはプロテスタントのオランダによって日本との貿易を締め出されることとなった。また、幕府の禁教令や鎖国政策もこうした欧州でのやり取りに関連してるといわれる。
戦国の多彩な文化
まずは超絶画家集団である狩野派の説明をしよう。
その出自は室町時代にまで遡る。
元々室町幕府の御用絵師として仕えていた狩野氏は、後に時の人織田信長へ接近し、代々の権力者の加護を得て一代派閥へと成長した。
ありとあらゆる種類の絵を画き、何百年と画壇のトップに居た集団のため、覚えておくとテストで楽が出来る。
・・・・・・かもしれない。
彼らが何故重要かは、この画壇のトップに居座り続けた。と言う所にある。
この集団に影響を受けた画家も多く、今尚残っている作品は多くが国宝となっている。
同じく、後世江戸文化に影響を与え、現在も残っているものに歌舞伎がある。
出雲の阿国が踊った舞を発祥とする歌舞伎は、江戸時代を代表する文化である。
が、果たして戦国時代にはあまり関係が無い。
どちらかと言うと「江戸時代の歌舞伎の発祥」なのが重要なのである。
上記の二つには共に江戸時代における文化の走りと言う共通点がある。
では戦国時代特有の文化は何なのだろうか。
茶道
初めて日本に茶がもたらされたのは中国では唐の時代、日本の平安時代にまで遡る。
しかし戦国時代の茶道と言えばやはり千利休の大成したわび茶であろう。
彼は茶のみならず茶席の空間そのものを芸術として昇華した。
その精神を言葉で表すのは難しいが、こう言った戦国文化面を知るための入門漫画として、「へうげもの」がある。
個人的にオススメしておきたい一品である。
これに限らず、戦国史などはそれを題材にした漫画を三種類も読めば大体の流れは頭に入ってくる。
全て買い揃えるとなると多少値は張るが、今はブックオフや漫画喫茶などもあるので、読もうと思えば読めない事もない。
歴史理解への一手段として、頭の中へ入れて貰いたいと思う。
語句紹介
- 征夷大将軍
- 征夷、つまり夷(外敵)を征服する大将軍の事。将軍の上に大が付くのと付かないのとじゃえらい違いがある。
- 形式上はあくまでも朝廷の官の一つであり、軍権のトップ。天皇の代理として全国に居る将軍達を指揮する権限を持っている。
- 何故将軍の居城を幕府といったり、軍人であるはずなのに内政をしたりするのか疑問に思った事は無いだろうか。
- たしかに、この征夷大将軍は有事の際にしか権力を持たない。しかし逆を言えば、有事でさえあれば権力を持っていられると言う事にもなる。
- 実は室町時代や江戸時代などの幕府のある時代は、名目上戦争を続けている事になっている。
幕府の幕は陣幕(戦争時自陣に張る幕の事)であり、大名の使用する宿を脇本陣などと呼んだりするのはこのため。 - 内政をするのも、戦をするために国力を蓄えているから、となる。
- 上洛
- 京都にいくこと。上洛にも二つあり、単に挨拶に行くだけの場合(上杉謙信など)と政権奪取を目指す場合とがある。後者の場合、将軍の後見人になると言ったような意味が強い。
- 天下の将軍家を擁し盛り立てると言うのは即ち将軍家の権勢や天下への大義名分を利用できると言う事であり、利用価値は幾分にもある。
- ちなみに、上洛の「洛」は中国の都「洛陽」から来ている。
- 天下布武
- 織田信長の政策の一つ。「武力で天下を取る」ではなく、「武力で天下を支配する」の意。
- 似ているようだが、全然別物。
- 太閤
- 関白を譲った者の意。
- 現在の関白に比べて経験も功績もある前任への尊敬語である。
- 今では豊臣秀吉があまりにも有名であるため、ただ太閤と呼ぶ場合には秀吉の事を指す場合が多い。
- オリエント
- 日の出ずる所の意。つまり東の方。
- 世界史を勉強している時に、良くここの区分が分からないと言う人が出てくるが、何の事は無い、中東である。
- ヨーロッパから見て東の方にある良く分からない所と言う意味。
戦国時代の出来事・戦乱
ひとまず大百科に記事があるもののみ。
- 享徳の乱 (1455~1483・関東一帯)
- 応仁の乱 (1467~1477・畿内一帯ほか各地)
- 明応の政変 (1493・山城)
- 有田中井手の戦い(1517年・安芸)[1]別名・西国の桶狭間
- 河越夜戦 (1546・武蔵)
- 甲相駿三国同盟 (1554・甲斐/相模/駿河)
- 桶狭間の戦い(1560・尾張)
- 金ヶ崎の戦い<金ヶ崎の退き口/金ヶ崎撤退戦/金ヶ崎崩れ> (1570・越前、若狭)
- 信長包囲網 (1570年代・畿内一帯ほか各地)
- 木崎原の戦い(1572・日向)別名・九州の桶狭間
- 三方ヶ原の戦い(1572・遠江)
- 長篠の戦い (1575・三河)
- 鳥取城の戦い <鳥取の飢え殺し> (1581・伯耆)
- 本能寺の変 (1582・山城)
- 山崎の戦い (1582・山城)
- 賤ヶ岳の戦い (1583・近江など)
- 秀吉包囲網 (1584・尾張ほか各地)
- 四国征伐 (1585・四国一帯)
- 関白相論 (1585・朝廷)
- 関ヶ原の戦い (1600・美濃ほか各地)
- 大坂の陣 (1614~1615・摂津)
その他
あまり言及されていないことだが、戦国時代は室町時代から続く治安の乱れた時代でもあり、些細なもめ事の解決手段として、武器を用いた暴力行為も辞さなかった。具体的には村の境界線や水源地の奪い合いから、単に侮辱された、歌っていた等のしょうもないことで流血沙汰になる場合すらあった。
また、これらの蛮行が個人同士、村同士で終われば良いが、それぞれ領主や他村と同盟や主従関係を結んでいることも多く、それらに救援を要請し個人の喧嘩が領主同士の合戦に発展したケースもあった。
当時は武士でなくとも、刀剣や短刀を携帯する事はおろか、槍や弓を家に置いておくこと珍しいことではなかったし、それによる暴力沙汰もその後の処理も、支配層側は自分たちの都合が悪くなったり訴えたりしない限りしばしば黙認した。(一応、これらの問題を防ぐための法はあった。)
この血生臭い因習は豊臣政権や徳川幕府が定めた、喧嘩停止令や刀狩りなどの法令により徐々に薄らいでいくものの、江戸時代初期まで続いていく事になる。
関連項目
日本の歴史 | |||
戦国時代 | |||
室町時代 | 安土桃山時代 (織豊体制) |
江戸時代 | |
脚注
子記事
兄弟記事
- なし
- 28
- 0pt
- ページ番号: 962909
- リビジョン番号: 3145470
- 編集内容についての説明/コメント: