名人とは、
2.の概要
囲碁・将棋における七大タイトルの1つである。ちなみに、囲碁における「名人」と将棋における「名人」は意味合いが違う。
囲碁の名人
歴史の中で「名人」という語が初めてできたのは織田信長の時代である。初代本因坊算砂の碁をみて、信長が「あなたこそが名人だ」と発言したのが名人という語の起こりとされる。江戸時代には将棋と同様に名人碁所を争って家元同士がお城碁を打った。争ったのは本因坊家・安井家・井上家・林家。
後に本因坊秀哉の引退碁を元に、観戦記者の一人だった川端康成が小説「名人」を執筆した。
棋戦としての名人タイトルは「将棋界で名人戦が盛り上がってるから囲碁でもやろうぜ」という事で読売新聞協賛の下、当時の名人本因坊秀哉が引退し、(旧)名人戦が始まる。それ以前にも日本最強決定戦が「実力名人を決める」為と謳っていたが、そもそも囲碁の名人は「自然に生まれてくるもの(木谷実)」というのが旧来からの考え方であり、保守派の棋士から反対もあった。名人とは自ら語るものではなく、自然に世の中から呼ばれるものであったのである。なお、後に本因坊秀哉の引退碁を元に、観戦記者の一人だった川端康成が小説「名人」を執筆している。
結局名人タイトルは藤沢秀行の改革などもあり、「リーグを制覇し勝ち取るもの」へと変化した。その後、賞金に対していざこざがあり、スポンサーが朝日新聞に変わる。これが現在の囲碁の名人戦である。
将棋の名人
将棋における「名人」は元々大橋家・伊藤家・大橋分家のいづれかが世襲してきた称号であった。然し、江戸幕府の終焉で庇護を失った家元制度は崩壊し、明治から昭和初期までは推挙により名人となる制度が誕生した。名人は終身制で、前の名人が死去してから次の名人を選ぶとされた。名人を名乗るのは年功者つまり高齢で老い先短いものがなるのでこれで十分と思われたが、最初の推挙による名人である小野五平は91歳まで長生きし、そのため井上義雄、阪田三吉など名人の実力がありながら順番が回ってこなかった棋士が発生した。
小野の後を継いだ関根金次郎(彼も順番待ちでなかなか名人になれなかった)は1937年、名人の「引退」を表明し、その後は実力によって名人を決める制度とした。将棋でも名人は皆から呼ばれてなるものという意識があり、また当時、将棋界は棋士たちが有力者を代表とする様々な団体に分裂と集合を繰り返していた。このため、囲碁同様一悶着あったものの、関根がなんとかまとめあげた。
戦前は数年に一度、戦後は年に1回名人を決めるための「名人戦」が行われる。これは現在の名人と予選を勝ち抜いた棋士が対局し、勝者が名人の座を得るというものである。この予選は当初は選抜された棋士が参加するリーグ戦であったものの、のちに戦後に順位戦(5階層に分かれたリーグ戦)の制度が導入され、その最高位であるA級順位戦の優勝者が名人に挑戦するようになっている。
なおこちらも囲碁と同様、主催の新聞社が何度か変わっており、毎日新聞→朝日新聞→毎日新聞と変わったのち、2007年より毎日新聞・朝日新聞の共催となっている。
各界の名人
囲碁
終身制時代
旧名人戦
新名人戦
太字は名誉名人資格者。
現在の名人
将棋
世襲制
- 一世名人:初代大橋宗桂
- 二世名人:二代目大橋宗古
- 三世名人:初代伊藤宗看
- 四世名人:五代目大橋宗桂
- 五世名人:二代目伊藤宗印
- 六世名人:三代目大橋宗与
- 七世名人:三代目伊藤宗看
- 八世名人:九代目大橋宗桂
- 九世名人:六代目大橋宗英
- 十世名人:六代目伊藤宗看
- 十一世名人:八代目伊藤宗印
推挙制
実力制
- 実力制第一代名人:木村義雄(十四世名人)
- 実力制第二代名人:塚田正夫(称号としての実力制第二代名人)
- 実力制第三代名人:大山康晴(十五世名人)
- 実力制第四代名人:升田幸三(称号としての実力制第四代名人)
- 実力制第五代名人:中原誠(十六世名人)
- 実力制第六代名人:加藤一二三
- 実力制第七代名人:谷川浩司(十七世名人)
- 実力制第八代名人:米長邦雄
- 実力制第九代名人:羽生善治(十九世名人 資格保持者)
- 実力制第十代名人:佐藤康光
- 実力制第十一代名人:丸山忠久
- 実力制第十二代名人:森内俊之(十八世名人 資格保持者)
- 実力制第十三代名人:佐藤天彦
- 実力制第十四代名人:豊島将之
- 実力制第十五代名人:渡辺明
- 実力性第十六代名人:藤井聡太
贈名人
名誉名人
現在の名人
テレビゲーム
ヨーヨー
菓子
- ふんわり名人(越後製菓)
関連動画
関連項目
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