はてなキーワード: 功徳とは
親戚とはいえ大した関係性のない人間に800万ポンと貸せる金持ちなら気前よくくれてやればいいじゃない。
遠い愛を求めて タイの花嫁たち https://asiandocs.co.jp/contents/85
タイには、日本以上に助け合いの精神が浸透しているといわれています。仏教の功徳のひとつとされ、豊かな人は貧しい人を助けるべきという価値観があるのです。そのため、助けられる側には、日本人のような恥ずかしさや気後れがないという現実もあります。そうしたなかで、「生きるために嫁ぐ」という考え方もまた、日本人の常識に比べ、ハードルは低いのかもしれません。そして、タイでは家族や親戚の絆が太い分、配偶者やその家族が豊かであれば、その豊かさにあやかりたいという親戚一同の欲求も高まります。ひとりの女性の結婚から、デンマークへ嫁ぐタイの女性が増えたのは、そうした価値観によるところも大きいでしょう。一方で、彼女たちは、外国へ移り住むことの困難にも直面します。言語も価値観も違う外国人の男性と人生をともに過ごすことの難しさは、当然ながら人生を一変させ、想像を超える苦難をもたらすのです。彼女たちにとって、結婚とは何なのか。愛とは何なのか。本作は、自ら人生を切り開こうとする彼女たちの、「愛」を求める遠く長い旅の記録です。
二番目のポイント「欲張らない」ということについて少しお話いたしましょう。私たちは普通、欲で生きています。「自分を良くしたい」と思いながらも、結局は「ああなりたい、こうなりたい」「あれが欲しい、これが欲しい」と欲のことを考えているのです。服を持ちたくなる、家を持ちたくなる、お金を持ちたくなる、家族を持ちたくなる、地位や名誉、権力を持ちたくなります。人生を良くしよう、成功させようと思って、所有することを考えているのです。でも「何かを得よう」とすると、身体も心も固くなり、失敗しやすくなります。あまりにも欲が強いと、すべてパーになります。欲しいものが得られないだけでなく、今持っているものまでなくなるのです。
それから死が訪れたとき、得た物はすべて置いていかなければなりません。財産を置いて死ぬのです。一つも自分のものではないです。家族がいても家族を残したまま自分が死ぬのです。あるいは逆に、家族が自分を残して先に死んでしまうのです。「これは私のものだ」と思っていても、死ぬときは全部置いて行かなければなりません。ですから物を獲得することに頑張ることは無意味なのです。
しかし、死ぬときに持っていくもの、自分のものといえるものが一つだけあります。それは、性格です。死ぬとき、性格だけは置いていくことができません。ですから、生きているうちに清らかで良い性格をつくることが大切です。この世に置いていかなければならないものを必死に集めても意味がありません。持っていけるものを集めましょう。善行為、いわゆる功徳は、持っていくことができます。死ぬまでに何を獲得すべきかというと、功徳です。これは、自分といっしょなのです。
ひねくれた見方をしますと「故人の冥福を祈ります」ということは「死後の暗闇の世界で迷っているあなたが、幸せになれますように」という意味になります。
浄土真宗では阿弥陀仏より「必ず救うぞ」「浄土に生まれさせてさとりを得させるぞ」という呼びかけがあり、それに順ってお念仏を称えます。
そのような方に向かって「あなたが暗闇の世界に生まれてしまったかもしれない」と心配して祈ることはかえって失礼にあたるのではないでしょうか。
故人の死後の幸福を祈るということは追善供養ということになります。
簡単に説明すると、善い行いをして功徳を積み、それを故人へと回向して(分け与えて)救うということです。
浄土真宗では煩悩まみれの私たちにそれは不可能であると考えます。
また、親鸞聖人は『正信念仏偈』の中で阿弥陀仏の徳を「無礙光」(何ものにもさえぎられることのない光)と讃えられています。
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 沒在於苦悩 故不為現身 令其生渇仰
我此土安隠 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 恵光照無量
得入無上恵 速成就仏身
誰の所有物でもない風力で回るマニ車があったとして、それが回ったことによる功徳は誰の功徳になるのか?
それを調べるために調査隊はダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページへ向かった
くらしの中の信仰(マニ車) | ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
また、マニ車には自然の力を利用して回転させるものもある。川や滝の水力で回るマニ車(「マニ・チュコー」)、灯明の熱で回る紙製のマニ車、自然の風で回るマニ車などがある。
なるほど、「心身込めて」が疑問を解くカギとみた
お経を唱えるのと同じ心持ちでマニ車を回すからこそ功徳を得られる、と読める
となれば誰も心身を込めずに自動的に回るマニ車は功徳を発生させない……というのが疑問の答えなのだろう
逆に言えば自動的に回るマニ車でも心身を込めれば功徳が発生する
Minecraftのアイテム取得目的のタワートラップみたいに功徳発生の完全自動化はできないということ
半自動化(回転の自動化)までは可能だが、心身を込めるという自動化できない工程が残る