はてなキーワード: 佐野眞一とは
乾物屋を商った東北出身の父は婿養子で、ただ寡黙に働くために生まれてきたような男だった[1]。男ばかり3人兄弟の長男[1]。初孫だったために粋人の祖父に溺愛され、小学生のころから浅草で酒の味や映画、演芸の享楽を仕込まれた[1]。
早稲田大学第一文学部[2]在学中は映画監督を志し、「稲門シナリオ研究会」に入った[1]。大学卒業後、主に子供向けソノシート制作などを手がけていた音楽出版社・勁文社に入社。1971年12月、自ら編集を手がけ発行した「原色怪獣怪人大百科」がこの当時の第二次怪獣ブームを受け、53万部を完売する[3]という当時としては画期的なベストセラーになった[1]が、労組を結成したため1年半で解雇された[1]。その後、フリーに転身[1]。
1997年(平成9年)、民俗学者宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』により第28回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2009年(平成21年)、『甘粕正彦 乱心の曠野』により第31回講談社ノンフィクション賞受賞。
2003年から2012年まで、開高健ノンフィクション賞選考委員を務めていたが、週刊朝日による橋下徹特集記事問題で辞任した。
この橋下事件をきっかけに、佐野による数々の剽窃行為が明るみに出され、溝口敦・荒井香織『ノンフィクションの「巨人」佐野眞一が殺したジャーナリズム 大手出版社が沈黙しつづける盗用・剽窃問題の真相』(2013年、宝島社)の中で盗用問題の詳細が検証された。溝口はまた、佐野からの直筆の詫び状をインターネットで公開している[4]。
2013年7月31日、著作権を侵害されたとして日隈威徳から訴訟を起こされた[5]が、2014年10月16日に和解が成立した[6]。
2015年2月18日、大阪地裁における裁判で、大阪維新の会総支部長の橋下徹に対して、「タイトルをはじめ記事全体が差別的で、深くおわびする」との「おわび文」を渡し、解決金を支払うことで、和解が成立した[7]。
以上パクリ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80
大阪市の橋下市長が、週刊朝日にて掲載されている自身の出自をめぐる記事について吠えている。
メディアを通じてこの件について知った人も多いだろう。
多くの人は、また橋下市長が例のごとくメディアに喧嘩をふっかけて自身および維新会の露出を増やすための作戦と思っていることだろう。
彼のtwitterを見ても、ああまた火がついたんだな、という程度に思っているはずだ。
だが、今回のこの週刊朝日の一件については、自分自身この記事はありえないと思う。心底唾棄すべき記事だ。
この号の実物を見ていない人もいると思うので表紙の画像を貼っておく。
https://publications.asahi.com/ecs/image/cover_image/14316.jpg
内容を見る前にまず、このタイトルに注目して欲しい。
私は、このハシシタという表現は、橋下市長をあえて揶揄するために、こういう読み方にしたのだったと最初は思っていた。
先ほどふいに、田舎の父親がかつて部落差別のついて語っていた際に、被差別部落の人たちを「橋の下」という言葉で蔑んでいたという話を思い出した。
そこではたと膝を打ったようにこの記事のタイトルにかけられた悪意と下劣さが私には分かったのだ。
佐野眞一というノンフィクション作家については対象者のバックグランドを描く際にルーツおよび血縁にこだわることを特徴としている書き手である。
ノンフィクションとしてそういうアプローチの仕方があることは否定しない。たとえば、ソフトバンクの孫正義社長を扱った昨年の昨年、「あんぽん」などは同じように孫社長のルーツであるところの、福岡の朝鮮部落に始まり、親戚一同をそこまで描く必要があるのかというぐらい血脈にこだわった取材が行われている。
その結果、「あんぽん」という作品自体は孫社長も認めるほどのノンフィクションとして無類の傑作となっている。
いっぽう翻って対象者を橋下市長に変えた今回の週刊朝日の連載については、そのアプローチ自体は佐野眞一のいつも手法として認める側面がありつつも、父親不在という事実を前にすれば、そもそもそういうアプローチは成立しえないのではないかという危惧もいだいた。
その点では橋下市長が血脈主義を嫌悪して怒る理由も分からなくはない。
ただ、このハシシタという表現の意図が分かった現在では、週刊朝日は言論機関として自殺したにも等しいと認識している。
私としてはここにいたって橋下市長の怒りの原因がようやくわかった次第だ。
と、こんなことを書きながら、もしかして他にも同じことを思っている方がいるか思い、「ハシシタ」で検索すると以下の記事が見つかった。
ttp:https://www.j-cast.com/tv/2010/01/21058412.html
ノンフィクション作家の佐野眞一さんが、私にこう語ってくれたことがある。「かつて『新潮45』が、えらく停滞していたときがある。そのとき、もう80歳を超えていた斎藤十一(新潮社の伝説の名編集者=筆者注)が乗り出してきて、雑誌の命はどういうことかということをいった。それは何かというと、こういう企画をやれば人様に喜ばれるとか、こういう記事を書けばあいつが喜ぶとか、そんなことは金輪際考えてはいけない。絶対考えてはいけない。そうではなくて、自分が読みたい記事を書け。これは雑誌作りの鉄則だといったのです」。
https://anond.hatelabo.jp/20080721222220
アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
まあ、どのくらいの数のルポオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、 その上で全く知らないジャーナリズムの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持って る」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、日本のノンフィクションのこと
を紹介するために見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にルポルタージュを布教する
のではなく相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、財布的に過大な負担を伴う単行本で2000円超えるようなのは避け
たい。
できれば文庫、単行本でもブックオフでよく見かける程度にとどめたい。
あと、いくらジャーナリズム的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
社会派映画好きが「『市民ケーン』は外せない」「『アラバマ物語』ぐらい見とけ」と言っ
ても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
報道知識はいわゆる「噂の真相」的なものを除けば、毎週週刊文春程度は見ている サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「立花隆以前」を濃縮しきっていて、「立花隆以
後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。児玉隆也は手に入らないし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要
最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」
アレって典型的な「記者が考える一般人に受け入れられそうな事件(そうオッサンが思い込
んでいるだけ。実際は著者が暴走しすぎ)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「ジャナオタとしてはこの二つは“妄想”として片付けていいと思うんだけど、率直に言っ
てどう?」って。
まあ佐野さんは『巨怪伝─正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文春文庫)『カリスマ─中
内功とダイエーの「戦後」』(新潮文庫)が格段に出来がいいのだが、長すぎるんで。
ある種のウヨが持ってる犯人山口二矢への憧憬と、「あーだこーだ言っても要するにロマン
は欠かせないのよ」的なナンバーをはじめとする文春ノンフィクションを彼女に紹介すると
いう意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも沢木耕太郎な
「愚直なヒーロー」を体現する山口二矢 「庶民的なオヤジ」を体現する浅沼稲次郎
の二人をはじめとして、著者好みのキャラを世界にちりばめてしまっているのが、紹介して
みたい理由。
たぶんこれを読んだ彼女は「魚住昭だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いと
いえば狙い。
この系譜の作品が何故か読売批判に繋がったこと、これが何故か日本推理作家協会賞を受賞
したこと、本当ならデヴィ夫人批判に繋がって、さっさと退場してもいいのに日本国内でそういった動
きがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりスピリチュアルとか怪しいよね」という話になったときに、そこで選ぶのは『カ
ルト資本主義』(斎藤貴男:文春文庫)でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、
この作品における福本さんのスタンスが好きだから。
怪しいところに自ら入り込んでそれで結局ばっさり斬る、っていう行為が、どうしても俺の
心をつかんでしまうのは、その「人を信じる」ということへの諦めきれなさがいかにもこの
人だなあと思えてしまうから。
精神世界や自己啓発批判についての第一人者だしだからこそこの本に信憑性があるとは思う
けれど、一方でこれが斎藤さんなら罵詈雑言ばかりで題材にする量も半端じゃなくなるし、
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』(朝日出版社)の森達也さん
だったらきっちり40分のドキュメンタリーにしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて一冊の単行本を作ってしまう、というあたり、どうして
も「「人を信じる」ということを諦めきれない一個人」としては、たとえ福本さんがそうい
うキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。
作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層で『のだめ』を見たことのない人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹
介してみたい。
音楽という身近でありながら遠く感じてしまう題材をどうやって料理するか。その一つの解
答が本書だと思う。主張に一貫性がないとかエピソードの取捨選択を誤っているなどの批判
も多いのだが、分かっているようで分からない主題にどうやって近づいていくか、そのアプ
ローチの仕方は単純にすごいと思うし、そこらへんを彼女に感じてもらいたくはある。
在日外国人としての「目」あるいはレヴィ・ストロース的な「世界観」をオタとして教えた
い、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない日常を疑ってみる」的な感覚がジャーナリズムには共通してあるのかなという
ことを感じていて、だからこそ在日というか朝鮮半島の問題が竹島をはじめとして今でも話
題に上るのだろうと思う。
「世界の中の日本人」という感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「気分」の源
は在日問題にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に読ん
でもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう現在進行形の重大事件を当事者との近距離にいるというかたちでノンフィクション
化して、それが常識として受け入れられるか、気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみ
たい。
9本まで決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に奥崎を選んだ。
立花隆から始まって原一男で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、映像ドキュメント時代の先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
ちなみに、あえて当事者による実録ノンフィクションははずした。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。