由来・歴史
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江戸時代に天王祭として行われ、山本貞晨著作『三河国吉田名跡綜録』(吉田神社所蔵)という絵文書にもその様子が描かれている。神輿渡御の行列は源頼朝をしのぶものとされ、鎌倉・平安時代の服装で練り歩く。 なお手筒花火は永禄元年(1558年)に今川義元の吉田城代、大原備前守の吉田神社への奉納に始まるとされている。吉田神社内に「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」の碑がある。大筒花火は町内会が自分で手作り、それを神輿がわりに担いで練り歩く。
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山名は「沖の船から山で火が燃えているのに気づき、そこを掘ってみたら銭壺が出てきた」という伝説に由来するという説が有力であるが、他にも、海賊衆が財宝を壺に入れて埋めたという説、平家の落人が壷に入れた財宝を埋めたという説、あるいは幕末の頃、幕府軍が長州藩に四境戦争で討伐をしようとした際に、戦火を恐れた麓の人々が自分の家に代々伝わる宝や銭を持ち出し、壷に入れて隠したなどの説も存在する。 かつて瀬戸内海賊が全盛だった頃、この一帯を支配していた大島海賊の見張所がこの山にあり、船の接近を狼煙で本拠地に伝えていたと言われる。また、1865年(慶応元年)の四境戦争の時に、岩国藩神代村の民兵隊の駐屯地「銭山保」が設けられ、隊が解散になる1870年(明治3年)までこの地で警備についた。
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不思議のメダイから10年後の1840年1月、聖ビンセンシオ・ア・パウロ愛徳姉妹会修道女のジュスティーヌ・ビスケイブリュが聖母マリアの像の前で祈っていると聖母の出現があった。その後、数度の聖母の出現があったのち、1840年9月8日の出現の際に聖母マリアの左手に「緑のスカプラリオ」が持たれていた。緑のスカプラリオの表には聖母マリアの絵が、裏側にはの剣で刺し貫かれた心臓があり、その周りに「聖マリアの汚れなき御心よ、今も臨終の時も我等の為に祈り給え」という文字が書いてあった。そして「このスカプラリオによって、信仰のない人は信仰の恵みを受け、信仰のある人はより熱心になり、特に臨終の時に大きな助けを受けます」という声を聞いた。その後、緑のスカプラリオの頒布が始まり、以来、多くの奇跡的な回心と癒しの事例が伝えられ、ローマ教皇のピオ9世により、1863年と1870年に認可を受けた。1870年に認可した際にピオ9世は「それを作り配布する権威を与えます。良き姉妹たちにそう伝えなさい」と発言している 。
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正式な読みは「りょうぜんざん」であるが、「りょうぜんやま」と読まれたり、「霊仙」と略称されることも多い。 近江国坂田郡(現・米原市)を根拠地とする地方豪族・息長氏の出身とも伝えられる平安時代前期の法相宗の僧であり、日本で唯一の三蔵法師である霊仙を、名祖(なおや)とする。「霊仙三蔵堂」が麓の醒井養鱒場の脇に建立されている。明治以前には「霊山」と呼ばれていて、祖先の霊が籠る山であることが山名の由来であるとする説もある。奈良時代に山頂に「霊仙寺」が建立されたと伝えられているが、現在はその痕跡は見られない。榑ヶ畑コースの登山口付近には、第二次世界大戦には約50戸、160人の榑ヶ畑集落があったが、1957年(昭和32年)に廃村となった。現在は緩やかな山の斜面に民家の石垣が残され、ユキノシタが見られる。経塚山(北霊仙山)に役小角の修行所があり、宣教大師が山麓に7つの寺院を建立したと伝えられていて、松尾寺がその一つである。 672年(白鳳元年) - 704年(慶雲元年)と2度に渡り、山頂に霊仙寺が建立され、そこで研いだ米の水が溜まって山頂の北側にある「お虎ヶ池」となり、それが流れ出して「漆ヶ滝」ができたという伝説がある。 1950年(昭和25年) - 琵琶湖国定公園の特別地区に編入される。 1998年(平成10年)- 台風で霊仙山の山頂北東の避難小屋が倒壊した。 2003年(平成15年) - 霊仙山の山頂北東の避難小屋が再建された。
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成田祇園会は、1721年(享保6年)の文章の中に6月8日(旧暦)に権現の祭礼を行ったとあり「享保六年丑迄は祭礼踊仕り候」とあり、享保年間には開催されていたことがわかる。どのように行われていたのかは不明である。現在のように山車を引く形態で行われた祭礼の起源は、江戸後期と言われるが、正確には不明である。祭りの形態を問わなければ、約300年の歴史といえる。現存する山車で最も古いものは明治期になる。 囃子は江戸系統、佐原系統の2系統が混在することが特徴であるが、おそらくは祭礼を実施するにあたり、地元で開催する力量(費用面も含め)がなかったため、周辺からかき集めたというのが実情と『成田の祇園祭』に記される。 当初は、成田山で管理する湯殿山権現社(現在のJR成田駅東口脇)を中心とした祭礼であった。氏子は住時33ケ村にも及び、時代の変貌と共に、明治初期の神仏分離政策以後、奥の院大日如来の祭礼へと移った。明治に入り、村から町へと変わり道路や商店が整備され、これに合わせて祭りも現在の形に近いものへとなっていったと考えられる。 平成16年4月18日(日) 千葉県成田市で市制施行50周年記念山車祭りが行われ、成田市内16基の山車・屋台が曳き廻しされた。 平成21年4月19日(日) 千葉県成田市で市制施行55周年記念山車祭りが行われ、成田市内15基の山車・屋台が曳き廻しされた。 平成26年4月20日(日) 千葉県成田市で市制施行60周年記念山車祭りが行われ、成田市内18基の山車・屋台が曳き廻しされた。 令和2年4月20日(月)新型コロナウイルス感染拡大防止のため、7月10日(金)~12日(日)に開催予定だった「令和2年成田祇園祭」の中止が発表された。尚、「成田山祇園会」は、7月7日(火)〜12日(日)まで規模を縮小して行われた。 令和3年4月23日(金) 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、7月9日(金)~11日(日)に開催予定だった「令和3年成田祇園祭」の中止が発表され2年連続中止となる。尚、「成田山祇園会」は、7月7日(水)〜11日(日)まで行われた。
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永享12年(1440年)、同じ肥前国の平戸に渡って来た明の陶工が、茶栽培の適地を探し求めて不動山皿屋谷に移住。自家用の茶樹の栽培を伝えたと言われている。その後、茶葉の育成に適した環境と、その後に明人の紅令民が持ち込んだ南京釜を使用した釜炒り技術により産地は拡大した。江戸時代には長崎の出島から輸出され、欧米に評判が広がった。安政6年(1859年)の長崎、横浜、箱館開港に先立つ嘉永6年(1853年)、大浦慶によってオランダ人商人・テキストルに三階級9斤の嬉野茶のサンプルが供された。約3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人、W・J・オールトから巨額の注文を受けた。わが国の幕末期の本格的な茶の輸出の始まりである。
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およそ400年ほど前の江戸時代初期に、獅子舞を伴った神輿の巡幸による雨乞いの祭礼として始まったとされる。明治時代になって、神輿渡御の行列に前述の歌舞伎行列を加えるようになり、更に後年には手筒花火の奉納や打ち上げ花火などの煙火も行われるようになって、現在に至っている。
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1830年7月18日、パリ(現在のパリ7区)のバック通りにある修道院でカトリーヌ・ラブレは子供の声を聞いて目を覚まし、そこで彼女は聖母マリアの出現を目撃した。聖母マリアは「神はあなたに使命を委ねます。あなたは否定されるでしょう、しかし恐れてはいけません。あなたは恩寵によってその使命をなしとげるでしょう。フランス、そして世界は今、悪の時代です」と話した 。 同年11月27日、カトリーヌは夕方の黙想の時間に聖母マリアが再び現れたと報告した。聖母マリアは楕円形の枠の中で地上に立ち、様々な色の指輪をしており、ほとんど指輪からは輝く光線が地上に降り注いでいた。楕円形の枠のへりには "Ô Marie, conçue sans péché, priez pour nous qui avons recours à vous."(原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉るわれらのために祈り給え)という文字があり、そして楕円形の枠は裏返り、12の星の輪と十字架の上に乗る大きなMの文字、茨に囲まれた王冠を冠したイエス・キリストの心臓(至聖なるイエスのみ心)と、王冠を冠し剣の刺さった聖母マリアの心臓(聖母マリアの汚れなきみ心)が見えた。カトリーヌはまた、聖母マリアが「このイメージを聴罪司祭に伝え、彼らにそのメダイを身に着けるように言い『それを身につける人は大きな恵みを受けるでしょう』と話しなさい」と言うのを聞いた。 カトリーヌは言われたとおり実行し、司祭は2年間の調査およびカトリーヌの日々の振る舞いについての観察の後、その身元を明かさずにパリの大司教に情報を持っていった。そして要請は受け入れられてメダイを作る許可が大司教から与えられ、聖母マリアがカトリーヌに示したイメージをもとに金細工師のアドリアン・ヴァシェットによって作り出された 。それ以後、このメダイを身につけ聖母に取り次ぎを願う人々に、いろいろな奇跡の恵みが与えられたため、いつとはなしに「不思議のメダイ」と呼ばれるようになった。 不思議のメダイに関しての多くの著しい出来事の中の一つは、ストラスブールのマリー=アルフォンス・ラティスボンヌ(フランス語版)の回心である。ラティスボンヌは友人に対し教会に入ることはないと宣言していた。しかし、友人の強い勧めにより彼は不思議のメダイをつけることにしぶしぶ同意し、ローマのサンタンドレア・デッレ・フラッテ教会(イタリア語版)に入ると、不思議のメダイが象徴している姿の聖母マリアが彼の目の前に現れ、彼は速やかに回心した。この時に出現した聖母を「シオンの聖母」といい、この出現も教皇庁は奇蹟として記録している。 この聖母の立像を鋳造した1,500個のメダイが聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会によって人々に配布された当時、手渡された人々はそのカトリーヌへの聖母の御出現その他の「メダイが鋳造された理由や由来」を何も知らされぬままであった。配布を受けた人々からは当時流行していたコレラ・狂犬病等の快癒が報告され、無神論者たちの改心も伴い「不思議のメダイ」としていつしか呼ばれ、その名が巷に流布することとなった。「不思議のメダイ」鋳造の経緯や、配布される理由などがカトリーヌの聴罪司祭アラデル司祭によって匿名で公表されたのはメダイ鋳造後、2年たってからである。
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「ロザリオ」という名称は、ラテン語の rosarium に由来するもので、これは「バラの冠」という意味であり、一般的な説では、珠を繰りながら唱える祈りがバラの花輪を編むような形になるからと言われている。(異説もあり。後述の起源についての説も参照 ) キリスト教の伝統の中で、聖母マリアへの祈りは初代教会から始まっていたと考えられている。ドミニコ会の創設者である聖ドミニコ(1170 - 1221年)がアルビの聖堂で祈っている時に、聖母マリアからロザリオを授けられたと言われている。15世紀にブルターニュのドミニコ会士アラヌス・デ・ルーペが、現在の形に「ロザリオの祈り」をまとめ普及させた。16世紀には聖ドミニコがロザリオの祈りの創始者と認められた。最初の頃は、マリアの主な5つの喜びの黙想だけだったが、やがてイエス・キリストの誕生から始って受難、復活、昇天という神秘の生涯を包括する黙想の形をとり、それによってマリアに対する愛と信心とともに救い主キリストに対する信仰を深めるための、素朴で誰でも近づきやすい方法の一つとして、普及していった。 日本には16世紀にイエズス会宣教師によって初めてロザリオが伝えられ、キリシタン・隠れキリシタンの時代から「コンタツ」(ポルトガル語: contas = 「数える」の意味) とも呼ばれてきた。
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弁天池は別府厳島神社の境内にある。伝説によれば、堅田の長林という林を開墾するために日夜努力していた当地の長者が、夢に現れた老翁に2つの鎌を託され、指示通りに林を切り開いたが、水がなくて困っていた。そうしたところ、諏訪明神より「これより北にある弁財天を勧請して祭りをすれば、必ず神の恵みがある」とのお告げがあり、早速に社を建立し祭を催したところ、その夜にわかに水が湧き出してきたとのことである。 同神社では、毎年9月の第1日曜日に行われる弁天祭に、別府念仏踊(山口県指定無形文化財)が奉納されている。
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英語では“dower”(down 下がったという意味)と呼ばれ、元々は、ニュースクールのヒップホップ系ファッションだった。その始まりには諸説あるが、囚人服の風采に由来するとの説が有力視されている。囚人服は、たいてい大きめの物が用意されており、自殺防止や武器として使用を防ぐ理由で、ベルトの着用が許されていなかったため、自然とずり落ちてきた。ヒップホップは抑圧されたアフリカ系やヒスパニック系の文化であり、社会への反骨と受刑者への羨望、あるいは実体験から、囚人のスタイルを模して、腰パンファッションが生まれたと考えられる。実際は貧困から成長後も着用できる大きなサイズの服を買い与えたところから定着した。 日本においては、一部のヒップホップ系ファッション、サーファーやスケーターの間で1990年代前半からされていたが、1990年代後半に男子中高校生の間で制服の着こなしとして大流行した。関東から全国へ広がり、茶髪・ピアス・ミニスカート・ルーズソックスと並び、校則違反のファッションとして学校を悩ませる社会問題となった。2000年前後の流行には、ドラゴンアッシュなどのJポップのミュージシャンの模倣があった。 また、近年では女性においても学校指定ジャージ、スウェットなどで腰パンしている者も見受けられるようになり、男性に限ったものではなくなってきている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:09 UTC 版)
技術の歴史は人類誕生から続いており、科学よりも古い。(厳密には、1870年代まで《技術》は「芸術」や「技芸」と呼ばれ、《科学》は「自然哲学」と呼ばれていた。) 技術の語源はギリシア語のテクネー(technē)やラテン語のアルス(ars)で、「わざ、業、技、芸」を意味する。技術と近代科学が接近したのは、1870年代以降の先進国内だった。そこでは物理学者や化学者が、大企業によって雇用されるようになっていた。政府も、軍備や産業振興のために研究所を設置した。
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由来・歴史
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藩政時代の新田開作で海岸線が南下する以前は、有帆の辺りが河口だったようである。近世期には「ぬのめ川」と呼ばれるほど氾濫を繰り返す暴れ川だった。古代には水量豊かで船運も盛んだったようである。川沿いの地域には「神功皇后伝説」にまつわる伝承が数多く伝えられている。
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由来・歴史
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坂の名前は、江戸時代、この坂の途中に三河国田原藩(現在の愛知県田原市)・三宅家の上屋敷(現在の国立劇場周辺)があったことに由来する。当時はこの坂に沿って、三宅家のほかにも近江国彦根藩・井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館・国会前庭等)もあった。 また、三宅家や井伊家の屋敷から坂道を挟んだ向かい側は江戸城の内堀(桜田濠)であるが、堀端に皀莢(さいかち)や橿(かし)の木が植えてあったため、「皀莢坂(さいかちざか)」、「橿木坂(かしのきざか)」の別名があった。 明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれた。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前・戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞だった。なお、1941年(昭和16年)12月8日から15日にかけて、陸軍省、参謀本部、教育総監部、陸軍航空本部、陸軍航空総監部が、三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地に移転した。 戦後、参謀本部跡地は国会用地に転用、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分は国会の観光バス駐車場などになり、一角には国有地を借地して社会文化会館(日本社会党本部)が1964年(昭和39年)に建設された。三宅坂界隈は戦前と戦後で様相を一変させ、「三宅坂」は戦前の参謀本部から新たに国会の議席の多数を占めるようになった日本社会党、そして現在の社会民主党を指す通称として使われるようにもなった。しかし東日本大震災後は、耐震性が疑問視され、2013年春に解体。党本部は、近くのビルに移転した。跡地には「警視庁永田町庁舎」が、2016年(平成28年)6月1日に着工され、2017年(平成29年)3月31日に完成する。 一方、三宅家屋敷跡の側は米軍に接収されて連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住むパレス・ハイツになった。占領が解除されてパレス・ハイツの土地が返還された後、1965年(昭和40年)から国立劇場、最高裁判所が相次いで建設された。
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