音楽業界への帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:46 UTC 版)
「スティーヴ・マッケイ」の記事における「音楽業界への帰還」の解説
1997年にマッケイはオルタナティヴ・ロックのファンジン、ブラック・トゥ・コム(Black to Comm)誌上でインタビューを受けた。そして、このインタビューを担当したライター、ローレン・ドブソンとその後も親交を結んだことが、ソロミュージシャンとしてのスティーブ・マッケイが誕生するきっかけとなった。 2000年、マッケイはローレン・ドブソンからインストゥルメンタル・ミュージシャン、リキュールボール(Liquorball)を紹介され、ザ・クロコダイルというクラブでの共演を約束した。リキュールボールはこの話を音楽仲間でノイズ・インストゥルメンタル・デュオ、シカラ(Sikhara)のリーダーであり、インディーズレーベル、ラドンの主催者スコット・ニーデガーに伝えたところ、マッケイの1975年死亡説を信じていたニーデガーは興味を持ち、共演を見るためにザ・クロコダイルへ足を運び、マッケイと面識を得た 。 後日、マッケイはニーデガーに連絡を入れ、彼が主催するラドンから自費で自分の持つ未発表音源をアルバムとしてリリースしたいと依頼した。ニーデガーはこれを承諾し、1978年に録音されたカーナル・キッチンの音源をアルバム『エン・ヴォヤージ - ア・レトロスペクティブ』としてリリースした 。『エン・ヴォヤージ』リリース後、マッケイはニーデガーや彼の人脈で集めたミュージシャンたちを率いて西海岸ツアーを行い、同時期にロサンゼルスのカレッジ・ラジオ局KFJCのDJ、マーロン・カスバーグの番組に出演してセッションを披露した。 2001年、元ザ・ストゥージズのリードギタリスト、ロン・アシュトンからライブ参加を打診された。ロン・アシュトンは当時、ダイナソーJr.のオリジナルメンバー、J・マスシスが結成したユニット、J・マスシス+ザ・フォッグ(英語版)のツアーにゲスト参加し、主にザ・ストゥージズのカヴァー演奏を行うパートに出演していた。マッケイはこの依頼を承諾し、サンフランシスコのグレート・アメリカン・ミュージックホール(英語版)で開催されたライブで、ロン・アシュトンと30年ぶりに「ファン・ハウス」と「1970」を演奏した 2002年、オレゴン州ポートランドにあるチャイニーズレストラン、ザ・ジャスミン・ツリーで初のソロ名義のライブを成功させた。このライブでリトル・ベイルート・アンサンブル(Little Beirut Ensemble)と名乗ってバックを務めたバンドが、その後、マッケイのセッションを支えるザ・ラドン・アンサンブルズ(The Radon Ensembles)の母体になる。
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