どう‐たく【銅×鐸】
銅鐸 (どうたく)
銅鐸
主名称: | 銅鐸 |
指定番号: | 34 |
枝番: | 03 |
指定年月日: | 1969.06.20(昭和44.06.20) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 考古資料 |
ト書: | 兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘町出土 |
員数: | 1口 |
時代区分: | 弥生 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | これらの一括遺物は昭和三十九年十二月神戸市灘区桜ケ岡町で土取り作業中に出土したものである。同一地点から銅鐸が数多く出土した例としては明治十八年八月滋賀県野洲から発見された十四口が最も著名であり、さらに近年その付近から十口出土しているのが注目される。それに次ぐものは昭和七年徳島市での七口の発見報告と、江戸時代に淡路の笥飯野から八口出土したことが江戸時代の記録にあるが、それらはいずれも散逸したものが多く、また一か所に保存されていないので、本遺跡出土のものはその意味においてもきわめて貴重な新例を加えたものである。しかも二口の袈裟襷文銅鐸に旧大橋家の銅鐸(国宝・伝香川県出土・現在国有)と同様の画象を鋳表わしていること、流水文銅鐸の一口は滋賀県新庄(大原総一郎氏蔵・重文)、鳥取県泊(東京国立博物館保管)の二か所から出土したものおよび辰馬悦蔵氏所有のもの(二口、うち一口は重文)と、一口は岸和田市神於【このの】(京都大学保管)、一口は鳥取県本庄(京都国立博物館)から出土したものといわゆる同笵であること、しかも銅戈七口を併せ出土していることなどは、この種青銅遺物の性格を知る上にもきわめて重要である。 |
銅鐸
銅鐸
銅鐸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:41 UTC 版)
先年の騒動が静まってから、島根県教育委員会では、周辺に未発掘の遺物、遺跡がある可能性が大として、磁気探査器を使って調査したところ、銅剣出土地より南へ7メートルに反応があり、発掘が始められた。発掘開始まもなく、銅剣出土地点よりも7メートルほど谷奥へ行った場所で銅鐸6口が発見された。埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていた。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力である。12年後に出土した加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきている。北部九州製の可能性が高い。三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されている。二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明した。なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じである。 地元の研究者である速見保孝によると、近辺に銅鉱山があり、また鋳型を作るための材料となる「来待石(砂岩の一種、細かい細工がしやすく、勾玉などの製造に際して砥石として利用された)」が大量にある事から、出雲で原材料を集め、大量に製造したのではないか、という説もある。更なる研究が待たれる。 成分 銅を主成分としスズと鉛を含む、青銅である。 スズは8.79~17.3%、平均で12.6%。鉛は1.53~7.53%、平均で4.3%含んでいることが分かった。銅とスズの合金である青銅は、スズの配合によって色が変化する。このような成分組織では、銅鐸の地金の色は少し黄色味を帯びた銅色(現在はサビで覆われている)を呈していたと考えられ、中には金色に近い色を呈していたものもあったのではないかとみられている。
※この「銅鐸」の解説は、「荒神谷遺跡」の解説の一部です。
「銅鐸」を含む「荒神谷遺跡」の記事については、「荒神谷遺跡」の概要を参照ください。
「銅鐸」の例文・使い方・用例・文例
銅鐸と同じ種類の言葉
- >> 「銅鐸」を含む用語の索引
- 銅鐸のページへのリンク