御輿から堺公方まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 09:36 UTC 版)
明応の政変に加え、永正の錯乱まで勃発すると、足利氏の将軍職争いに細川氏の管領職争いまで絡んだため、畿内の戦乱は複雑化し、長引いた。 足利義視の子である足利義稙と、足利政知の子である足利義澄の争いは、畿内の有力守護大名を巻き込み混迷を深めた。 やがて将軍職が12代・足利義晴(義澄の子)で一本化されようとも、細川氏では細川高国と細川晴元が、なおも管領職をかけて争い続けていた。その際、義晴将軍を名目上であろうと担ぎだした場合には、現職の管領(高国側)が官軍となり、他方(晴元側)が賊軍となってしまう。 元将軍の義稙は大永3年(1523年)に阿波で死去していた。そこで、義澄の実子でありながら義稙の養子となっている足利義維が必要とされた。義維が義稙の子(養子)であるというその事実こそが、義晴将軍に対して厳然たる対立軸として有効に機能する権威であり、晴元側としては見逃せない大きな魅力であった。他方、その義維としても、晴元に荷担することが、あわよくば将軍への道が拓けよう、養父義稙の無念を晴らせるであろうという利害の一致があった。 その後、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗退した高国が、掌中の玉・義晴将軍を伴って近江国坂本へ逃亡したため、立場を逆転させた義維・晴元体制は、和泉国で新政権樹立の足掛かりを築くまでになる(堺公方)。
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