神輿
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神輿、御輿(みこし、しんよ)は、通常、神道の祭の際に、普段は神社にいる神霊が氏子町内、御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である[1]。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが[1]、それを台車(御所車、牛車)に乗せて曳くものなど別形態のものも指すことがある。
注釈
出典
- ^ a b 宮本 2011, p. 17.
- ^ 神田祭400年ご遷座、p40、神田祭と神田明神を知るための本 平成27年版、ISBN 978-4-902583-06-9
- ^ 神道いろは p121 ISBN 4-915265-99-4
- ^ ISBN 4-901577-01-8 P255、256 | 神社への誘い(現代口語の対話式で書かれた本)
- ^ 万燈神輿
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=H4U2Whqx_Ak
- ^ 宮本 2011, p. 18.
- ^ 宮本 2011, p. 19,95.
- ^ 神田祭400年ご遷座、p17、神田祭と神田明神を知るための本 平成27年版、ISBN 978-4-902583-06-9
- ^ 宮本 2011, p. 17,20-21.
- ^ a b 宮本 2011, p. 94.
- ^ a b 宮本 2011, p. 99.
- ^ a b c 宮本 2011, p. 82.
- ^ 宮本 2011, p. 40,58.
- ^ 宮本 2011, p. 98.
- ^ 宮本 2011, p. 52.
- ^ a b c 宮本 2011, p. 49.
- ^ 宮本 2011, p. 59.
- ^ 宮本 2011, p. 17,55.
- ^ 余すところなく周囲に行き渡らせる所作(しょさ) 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』プレジデント社 2015年 63頁
- ^ 豊作や大漁を願うだけではなく、古来、神は祟り(天変地異)を起こすと考えられていたことから、霊威を高め、町を鎮めるお力も高めた。 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』プレジデント社 2015年 63頁
- ^ 魂込めてみこし化粧直し 仙台・三瀧山不動院、あす祭りで披露(河北新報 2018年7月27日)
- ^ 宮本 2011, p. 146.
- ^ youtube浅草三社祭(浅草神社例大祭)/Asakusa Sanja festival
- ^ a b c d e 宮本 2011, p. 105.
- ^ https://www.hikawa-maturi.com/?page_id=43
- ^ youtube城南神輿戸越八幡荏原一2008本祭連合渡御ダイジェスト
- ^ youtube平成20年濱降祭斎主寒川神社還幸茅ヶ崎甚句あり
- ^ youtube小田原担ぎ! 松原神社 本社神輿の6点棒!他 2015 Odawara style MIKOSHI
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=taa1ns1IWA0
- ^ 参考文献「江差姥神大神宮祭礼写真集」北海道出版企画センター・刊 写真:爲岡進 ISBN 4-8328-0204-6 C0021
- ^ “暴力団幹部に現金渡す みこし会4団体に勧告 神奈川県公安委”. iza (2019年9月20日). 2019年9月20日閲覧。
- ^ 小川進一『宇佐神宮と大神氏』P92~97、文芸社
- ^ 宮本 2011, p. 102,128.
- ^ a b c 宮本 2011, p. 128.
- ^ 宮本 2011, p. 129.
- ^ 宮本 2011, p. 130.
御車(山車)
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唐子車(からこしゃ)…高須賀町所有 寛保元年(1741年)建造。知多半島の中で現在祭礼で曳かれている御車としては最古と思われる。からくり人形は前棚に麾振唐子、最後部に大将の塩土老翁、その前では2体の人形が肩車をし、そこから松の木へ移って木に下がった太鼓を叩く所作を行い合計4体が載せられる。全て蔦屋(竹田)藤吉の作。全体に見られる「松」の彫物は後年追加されたとみられるが、名工・瀬川治助重光の手によるものである。ちなみに「松」はこの御車の一つのシンボルとなっている。水引幕は森高雅の下絵による「鳩群飛」。氏神は町内の小倉神社。 紅葉車(こうようしゃ)…橋詰町所有 文久3年(1863年)建造。先代は天保6年(1835年)に創建。その後売却された隣町・西之口にて「西寳車」として現在も曳かれている。随所にあしらわれた瀬川治助による彫刻を見ても判るとおり、この御車のシンボルは車名の「紅葉」である。からくりは全4体載せられ、前棚に麾振唐子、最後部に大将の豊太閤(豊臣秀吉)、その前で太鼓を叩く中唐子、木の上で逆立ちし鉦を捌く小唐子の編成となっている。また、この御車には各所に「源氏香」の紋があしらわれ、高貴なイメージを醸し出している。水引幕は喜田嘉堂下絵の「鶴」。氏神は町内の風之宮社。 梅榮車(ばいえいしゃ)…十王町所有 嘉永元年(1848年)建造。先代「榮遊車」は天明5年(1785年)~6年(1786年)に創建されたが後に売却。直後に当時575両(現在の1億円以上に相当)を投じて名古屋の名工達が手がけた御車が現在の梅榮車である。学問の神様・菅原道真を大将座に座らせ、前棚には麾振唐子、上段では横笛を吹く童子(唐子ではない)とそれに併せて舞楽「蘭陵王」を舞い、瞬時に面を被り変身する面かぶり童子の計4体が操られる。この御車のシンボルは文字通り「梅」。前幕には江戸唐様派の大家で幕末三筆の市河米庵による「十王町」の文字、水引幕は金糸をふんだんに使った唐織錦「蜀江金襴」と、先述の蘭陵王や梅と併せて「唐」や中国に憧れつつもついに渡ることのできなかった菅原道真に向けて誂えたと思われる内容である。ちなみに大将人形も唐へ渡ったときの姿を想像し模して作られた「渡唐天神像」である。氏神はかつて大野にあったが現在は宮山へ遷座した天満社である。 唐子車 紅葉車 梅榮車
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