後期のOHL
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:11 UTC 版)
1916年ファルケンファインに代わりタンネンブルクの英雄パウル・フォン・ヒンデンブルクが参謀総長及び陸軍最高司令官となった。しかし、彼は実際に権限を持っていたわけではなく、実権を握っていたのは同じくタンネンブルクの英雄のエーリヒ・ルーデンドルフであった。彼の役職はプロイセン参謀本部の参謀次長(第一兵站総監)である。次長に就任したルーデンドルフは各軍集団や各師団を陸軍最高司令部の指揮下においた。彼は、自身の指揮拡大を狙ったのである。これ以降ドイツの第一次世界大戦事情はルーデンドルフにより指導されることとなった。また彼には政治的野心があり、国家指導に乏しかった帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに代わり、国政にも干渉するようになった。これによりドイツはルーデンドルフ及び陸軍最高司令部による軍部独裁体制(事実上の軍事政権)が始まった。 皇帝や帝国指導部は陸軍最高司令部の事実上傀儡として機能し、ルーデンドルフの指示により帝国宰相が辞任させられたり、着任させられることもあった。陸軍最高司令部は、総力戦戦略であるヒンデンブルク綱領を通じて、決定的な勝利を求めた。 ルーデンドルフは、1917年2月に無制限潜水艦作戦の実施を宣言した。この作戦がツィンメルマン電報とともに、アメリカ参戦のきっかけとなった。またロシアでは、ロマノフ王朝に対する不満と第一次世界大戦の混乱の中、ウラジーミル・レーニン率いるボルシェヴィキが十月革命を起こした。その後ロシアは第一次世界大戦及び連合国から離脱した。陸軍最高司令部はブレスト・リトフスク条約を交渉し、西部戦線での1918年春季攻勢のために東部戦線から軍を撤退させた。百日攻勢で戦争の流れがドイツ不利に傾いた1918年9月下旬、ルーデンドルフはドイツ政府の「議会化」と即時の休戦交渉を求めた。彼が進路を逆転し、10月に再戦を要求したが、とうとうルーデンドルフは解任された。その後、陸軍最高司令官及び参謀総長ヒンデンブルクも辞任し、軍部による独裁体制が終了した。
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