浮世絵とは
浮世とはもとは「憂世」と書かれ、その字句から分かる通り厭世的な語感を含むものであった。近世に入るとこの暗い語感が疎まれるようになり、所詮この世は来世までの仮初の世だからこそ楽しく浮かれて生きていこうという楽天的な考え方に変化していった。そんな意味を持つ言葉で名付けられた浮世絵は、当世の風俗から歴史・物語・風景・妖怪・猥談まであらゆる物を描く、近世社会に合致した画期的媒体であった。
種類
浮世絵の種類は主に挿絵、一枚摺絵、肉筆画に分けられる。挿絵は黄表紙などの活字本に挿入される絵で、一枚摺絵は一枚で完結する絵のことである。肉筆画は絵師が筆で一枚一枚描いた絵である。挿絵と一枚摺絵は木版画による大量生産が可能だが、肉筆画は当然ながら制作に時間がかかるため、必然的に高価なものになった。
版画の制作工程
浮世絵版画は絵師一人によって制作されるものではなく、企画・作画・版画彫り・版画摺りなどの段階があり、おおよそ以下の様な行程を経て完成に至る。[1]
- 版元が企画を立てる
- 注文を受けた絵師が雁皮紙などに版下絵(ぬり絵のような線画)を描き、それを版下絵に墨で写す
- 検閲後、版元が出版許可の検印を押す
- 彫り師が版下絵に基づき主版を彫る
- 摺り師が主版から墨一色の校合摺りを作る
- 絵師が校合摺りに色を指定(色ざし)する
- 彫り師が色ざしされた校合摺りに基づき色ごとに版木を彫刻する
- 版元と絵師が立会いし、試験摺りの後初摺りが完成
※ 「彫り」と「摺り」の実演動画
版画材料
- 板木・・・版画用の木の板。木材は山桜が硬さや粘り気の点で版画制作に適していたため利用された。
- 和紙・・・和紙は多色摺りに強い奉書紙が使われた。
- 絵具・・・植物性染料と鉱物性顔料の2種類がある。色合いは赤・青・黄の3色に大別される。
- 赤・・・紅花から精製された「紅」、硫化水銀から精製された「朱」などがある。
- 青・・・露草の花弁の絞り汁を和紙に塗り、乾燥させた紙から抽出した「露草青」、藍葉を発酵・乾燥させた「藍」、そして無機鉄錯化合物であるベルリン酸塩「ペルシャンブルー」、江戸時代当時には「ベロ」「紺青」などと呼ばれた染料がある。
- 黄・・・ウコン、キハダ、藤黄などの植物から抽出したものと、硫化砒素の石黄(生黄)から抽出したものがある。
- 紫・・・紅と露草青を混ぜて作る。
- 緑・・・青と黄の絵の具を混ぜて作る。元となる絵具は不明。
- 墨・・・基本となる絵具。主線を描く。
- 白・・・塩基性炭酸塩の鉛白を使う。
- 雲母・・・珪酸塩化合物。絵の彩飾に利用する。
- 金銀銅・・・粉化したものや箔を利用する。
歴史
十七世紀前期 -浮世絵以前-
浮世絵は16世紀・戦国時代の「洛中洛外図屏風」などの、当時における実際の生活ぶりが描かれた風俗画にその萌芽が見られる。戦国~安土桃山~江戸時代へと激変する時代にあって、世を憂えずに現世の生を積極的に肯定する風潮が生まれた。この時期は狩野永徳をはじめ、狩野秀頼、狩野長信などの狩野派を主とする御用絵師集団が生活感のある風俗画を多く描き、これら一連の風俗画が後世の浮世絵に連なっていった。
他に特筆すべき絵師として岩佐又兵衛が挙げられる。又兵衛が制作に携わったとされる「洛中洛外図屏風」船木家本は、既存の表現手法をデフォルメした躍動的な人物描写などに特徴があり、これら又兵衛の既製作品は在野絵師によって広められた。江戸時代後期の文人・大田蜀山人は又兵衛を浮世絵の祖と呼んでいる。
十七世紀後期 -浮世絵の興隆-
江戸時代に入ると狩野探幽ら狩野派は幕府の御用絵師となり、風俗画から手を引いた。代わって風俗画の新たな担い手となったのが町絵師と呼ばれた在野の絵師達であった。
寛永期(1624-1644)から寛文期(1661-1673)にかけて、女性の美しさを描く美人画が隆盛し、その中から最初の浮世絵師と呼ばれる菱川師宣が登場した。
師宣は現在の千葉県に生まれ、江戸で絵を修行し、寛文12年(1672年)に『武家百人一首』を刊行。絵師として名を知られるようになった。人気を得た師宣は旅行案内、古典、好色本など多岐に渡る書籍の挿絵を手掛け、多くの門人を抱える流派を形成した。師宣はそれまで文章に従属することに甘んじてきた挿絵を文章よりも多く目立たせることで耳目を引き、更に文章を省き絵そのものの魅力を売りにした「一枚摺(いちまいずり)」という版画浮世絵を確立した。また、師宣は高級な肉筆画も多く執筆しており、代表作として知られる『見返り美人図』はその一つである。
元禄7年(1694年)、師宣の死没後新たな浮世絵の流派が台頭する。
十八世紀前期 -浮世絵の多様化-
元禄期、上方出身の鳥居清信という絵師が、歌舞伎役者を主題とする一枚摺の絵を描き好評を得た。清信は腕や足の筋肉の凹凸感を表現した「瓢箪足」や、ミミズのようにくねった人体の動きを描写した「蚯蚓描」という表現方法を創始した。また、役者絵の他芝居小屋の看板制作にも携わり、歌舞伎役者が芝居で見得を切る一瞬を捉えた絵を多く残した。清信(または父の清元)を祖とする鳥居派は現代(九代目鳥居清光)まで続く唯一の浮世絵の流派として知られている。
同じ時期に登場した主な浮世絵師に懐月堂安度がいる。安度は師宣や清信の影響を受けつつ、太く簡潔な描線と美しい衣紋模様の彩色で様式化された人物画を描く独自の手法を編み出した。肉筆画を専門とし、工房を開き門人も従えていたが、正徳4年(1714年)に大奥の醜聞に巻き込まれて遠島を科され、活躍の場を失った。
清信、安度に続いて登場した主要な浮世絵師として宮川長春と奥村政信が挙げられる。宮川長春は尾張の出で、師宣や土佐派の画風に習った肉筆美人画や緻密な風俗画を描き、18世紀初めから半ばまでの間活躍した。奥村政信は師宣や清信の影響を受けながら、18世紀初頭から約60年に渡る長期活動の間、時代の流行に合わせ多彩な画風を創りあげた。一例として西洋画の遠近法を用いた「浮絵」と呼ばれる画風があり、これは当時解禁された蘭学から影響を受けたとみられている。
彼らと同じ時代に上方で活躍した浮世絵師に西村祐信がいる。祐信は狩野派や土佐派に学び、多彩な美しい衣装を纏うふっくらとした顔貌の美人画を良く描き、江戸の奥村政信や鈴木春信らの画風に影響を与えた。
浮世絵の技法も師宣以降徐々に発展していった。単色の墨摺絵に始まり、鉱物の酸化鉛を用いた赤系統の絵具で塗られた丹絵、植物を用いた淡い赤色を基調とした紅絵、装飾として金属粉をまぶした漆絵、版画に目印を付けて色ずれを防ぐことで重ね刷りを可能とした紅摺絵など、17世紀末から18世紀半ばにかけて需要の高まりとともに様々な技法が開発された。そして大量生産と多色刷りが可能になった18世紀後期に至ると錦絵として結実する。
十八世紀後期・壱 -錦絵の誕生-
錦絵とは18世紀後期に興った多色摺り画の総称で、この錦絵の大立者として知られるのが鈴木春信である。春信は、明和年間(1764-1872)の初め頃に好事家の間で流行った絵暦交換会において、絵の趣向や風流にこだわる趣味人達の要望に応え、摺り師・彫り師達と協力して多色摺りによる多様な彩色を可能にした。春信らによって作られた色鮮やかな浮世絵に版元が目を付け、「東錦絵」として売り出すと一般の購入者から高い支持を得た。春信は亡くなる明和7年(1770年)までの短期間に大量の錦絵を描き上げ、古典文学や故事からの引用による知的かつコンセプチュアルな創作活動で浮世絵史にその名を残した。
春信の美人画は同時代の浮世絵師達に広く影響を与え、その中から北尾派、勝川派、歌川派といった流派が現れた。北尾派の祖・北尾重政は特定の絵師に師事せず独学で絵を学び、黄表紙の挿絵を中心に活躍した。弟子の育成にも熱心で、著名な弟子として山東京伝こと北尾政演(まさのぶ)、窪俊満がいる。
役者絵の新機軸を打ち出して活躍したのが勝川派の祖・勝川春章である。春章はそれまで描かれてこなかった役者達の似顔絵や楽屋での素顔を写実的な画風で描き好評を得た。弟子の勝川春好は後に流行する大首絵の創始者として知られる。また、葛飾北斎ははじめ春章の門人として活動し、35歳頃に勝川派を離れ独自の道を歩んでいる。
歌川豊春は歌川派の祖である。豊春の作品に特徴的なのが浮絵作品の多さである。奥村政信が得意としていた遠近法を用いた画風を豊春は更に精密にするため、西洋の銅版画を参考に遠近法を学んで、異国の風景や江戸の町並みを臨場感溢れる筆致で描いた。弟子に初代歌川豊国、歌川豊広など優れた門人や孫弟子が居り、歌川派として江戸時代後期から末期にかけて大勢力を形成した。
十八世紀後期・弐 -最盛期-
錦絵の登場によって表現の幅が飛躍的に向上した浮世絵は、天明年間(1781-1789)にその最盛期を迎える。
鳥居派四代目・鳥居清長はこの時期、大判(B4より若干大きい)縦絵の美人画、ことに等身の高い女性の2枚続きや3枚続きの絵を大量に制作し、天明年間の浮世絵界を席巻した。
浮世絵美人画の代名詞とも言うべき喜多川歌麿も天明年間に頭角を現した絵師である。デビュー当初の安永4年(1775年)から暫くの間は技術的に稚拙な絵が多く不遇をかこっていたが、版元の蔦屋重三郎は歌麿の資質を買い、自身が経営していた蔦屋耕書堂から歌麿の作品を出版。天明末期から寛政初め頃に描いた狂歌絵本『絵本江戸爵』(えほんえどすずめ)『画本虫撰』(えほんむしえらみ)などによって世に知られるようになる。寛政4~5年頃には世に名高い一連の大首絵の美人画を制作し、寛政年間(1789-1801)を代表する絵師として不動の地位を得た。
しかし、寛政年間から続く享和年間(1801-1804)、文化年間(1804-1817)は老中・松平定信による寛政の改革が尾を引いた時期で、春画も大量に制作した歌麿は格好の標的として文化元年(1804年)に取締の対象になり入牢。2年後に亡くなった。
寛政の改革によって出版物への規制が厳しくなると、前述の蔦屋重三郎は新たな花形絵師としてそれまで全く無名だった東洲斎写楽なる絵師を世に送り出した。写楽の活動記は一期から四期に分けられ、寛政6年(1794年)、役者の大首絵28図が出版されたのが第一期である。有名な「江戸兵衛」をはじめ、写楽の最も知名度の高い作品群は当時の人々から見ても奇抜・滑稽で毒のある作風だったらしく、役者を美化せず顔の皺や大きな鼻を誇張した絵柄は題材にされた役者自身やそのファンから不評を買い、二期目以降は奇抜さが影を潜めるようになった。続く第三期の作風は既存の浮世絵師の模倣とも言え、第一期とは似ても似つかぬ作風に変わり果てた。翌寛政7年1月の出版(第四期)を最後に写楽は活動を休止。約10ヶ月間というわずかな活動期間であった。
歌麿と並び寛政年間の美人画に足跡を残したのが鳥文斎栄之である。栄之は五百石の旗本出身で、絵師を志して狩野派に学び、浮世絵師として画壇に登場した。鳥居派・勝川派・歌麿などの影響を受けつつ寛永中期には画風を確立し、武家出身らしい上品でしとやかな女性を好んで描いた。寛政後期には浮世絵版画から手を引き、その後は専ら肉筆画を中心に活動。自身の作品を朝廷に献上したり、酒井抱一などの文化人達との交流に勤しんだ。
窪俊満は浮世絵以外に文芸方面でも活躍した多才な浮世絵師として知られる。俊満は北尾重政などに絵を学び、天明年間から活動が目立つようになる。天明後期にはスラリとした背の高い女性の微細な仕草を描く画風で活躍した。寛政中期以降は錦絵の制作を中止し、摺物版画や肉筆画に集中するようになり、晩年までこの傾向が続いた。また、南陀伽紫蘭(なんだかしらん)という筆名による黄表紙の執筆や俳句、狂歌なども残している。
十九世紀前期 -百花繚乱-
歌川派の開祖・歌川豊春の弟子である初代歌川豊国は天明年間から活動を始め、寛政6~7年頃に役者を描いた大判錦絵を相次いで出版し高評価を得た。美人画にも造詣が深く、歌麿亡き後の美人画を牽引し、表情豊かで生活感を感じさせる女性の絵をものした。
兄弟子の豊国と同じく天明年間に活動を始め、黄表紙や読本の挿絵を中心に錦絵、肉筆画を制作し、上品で穏やかな作風に定評がある。豊国・豊広は共に門弟が多く、代表的な人物を挙げると豊国は歌川国貞(三代目豊国)、歌川国芳。豊広は歌川広重といった、江戸時代末期を代表する浮世絵師を数多く輩出した。
歌川国貞は初代豊国の門下として十代の頃から絵を学び、二十代前期に美人画や役者絵で人気絵師となる。以後40年近くの間歌川派の重鎮として第一線で活躍し、柳亭種彦『偐紫田舎源氏』の挿絵等膨大な数の作品を残した。
同じく初代豊国の門下であった歌川国芳も歌川派の巨頭と言えよう。
国芳ははじめ武者絵で頭角を現したが、その後美人画・春画・風景画・擬人化・妖怪絵・寄せ絵から果ては落書きまでありとあらゆるジャンルを描いた。現代においてもその驚異的な想像力や創意工夫に魅せられる人が多く、度々特別展が開かれている。
国貞・国芳共に多くの弟子が居たが、特に注目すべき絵師としては国芳門下の河鍋暁斎・落合芳幾・月岡芳年らが挙げられる。
歌川派の中でも豊国・国貞・国芳の系列に属さない絵師として一時代を築いたのが歌川広重である。
広重は下級武士の出で、15歳の頃に歌川派開祖の豊春の門下であった豊広に入門し、豊広の一字を貰い広重と名乗った。30代半ばまでは特に目立つほどの活躍をしなかったものの、天保2年(1831年)に出版された「東都名所」から始まる風景版画は広重の最も得意とするところで、次いで出版された「東海道五十三次」で抒情的と評される風景版画の第一人者としての地位を不動のものとした。広重は風景画の中に時間や天候の移り変わりを巧みに取り入れ、彩色のグラデーションや構図も緻密に構想した上で絵を描き上げ、間もなく訪れる新しい時代に残すべき思い出の如く、美しく懐かしい風景画の世界を築いた。
歌川派一強の時代に一定の支持を得ていた一派として菊川派の菊川栄山と渓斎英泉が挙げられる。栄山は題材や人物のポーズなどデザイン面で喜多川歌麿の影響を受けつつ、上品かつ穏やかな画風で「浮世絵美人画中興の祖」と称される人気を博した。栄泉は武家出身だったが、わけあって浪人となった後、栄三の父である英二の家に住み込み、浮世絵師として画壇に登場した。文化年間末頃から活動を始め、遊女をモデルにした色艶のある美人画を多く描いた。また、栄泉は新奇を好む傾向があり、アルファベットの文字列を額縁の枠のように配置した風景画や、当時普及し始めたベルリン藍(ベロ)という青い顔料を多用し、藍摺と呼ばれる青を主色とする風景版画などを残している。
18世紀後期から19世紀中期まで約70年に渡る長期間活躍したのが葛飾北斎である。
北斎ははじめ勝川派の門下として活動していたが30代半ばで勝川派を離れた。その後は勝川派以外の流派や西洋画の画法を咀嚼しつつ、黄表紙や読本の挿絵、肉筆画を主にこなし、曲亭馬琴の戯作にも挿絵を提供して人気を得た。
50歳を過ぎた頃、絵を学ぶ人向けの絵本「北斎漫画」を著し、圧倒的な観察力と画力を示した。このシリーズは文化11年(1816年)から刊行が始まり、明治11年(1878年)の完成に至るまで全15巻が出版されている。
天保年間(1830-1844)には世界的に名高い「神奈川沖浪裏」を含む「富嶽三十六景」や「諸国滝巡り」「諸国名橋奇覧」等を出版。それまで培った技術を結集して制作された浮世絵版画は空間構成・彩色・造形・視覚効果等いずれも高い品質と完成度を誇る。
晩年に至ると絵本や肉筆画に注力するようになり、天保6年(1835年)から刊行が始まった絵本「富嶽百景」において「6歳の頃より筆を取り」「70歳までは取るに足らぬ絵ばかり描いていた」「73になり少し鳥や獣、虫や魚の骨格や、草木の生態がわかってきた」云々という有名な宣言を後書きに記した。その宣言通り最晩年まで創作意欲は衰えず、数え年90歳で亡くなるまで作品を作り続けた。
十九世紀後期 -終焉-
嘉永年間(1848-1854)に入ると対外的な脅威が現実味を伴って訪れた。嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、物情騒然とする世相に反応した浮世絵は、時事性や攘夷の風潮、残虐性を帯びるようになる。河鍋暁斎や月岡芳年は歴史上の事件や擬人化をモチーフとした異国船打払いの絵を描き、落合芳幾は前述の芳年との合作による「英名二十八衆句」という血みどろ絵を描いて不穏な世情を作品に反映した。
明治時代に入ると浮世絵は報道の性格を強め、文明開化に伴う様々な文物や事件を描いた。芳年・芳幾らも草創期の新聞事業に関わり、初期の新聞錦絵や新聞の挿絵制作に携わった。後に芳幾は精彩を欠くようになるが、芳年は新時代に適応すべく、武者絵から歴史画へと自身の作風を変化させた「大日本名将鑑」等を描いた。しかし、晩年には北斎などかつての浮世絵師に対する私淑と懐古を漂わせる作風に回帰していった。暁斎は浮世絵からの脱皮を図り、日本画とも仏画とも解釈される新しい作風の絵画をパリ日本美術縦覧界に出品したが、死後その画業は顧みられなくなった。
彼らの活動は浮世絵という絵画の最後の光芒となり、日露戦争における報道以降浮世絵は役割を終えた存在として逝きし世の栄耀栄華を偲ばせる文化遺産となっていく。
海外の反応 -ジャポニスム-
1856年(安政3年)、フランス人画家のフェリックス・ブラックモンは、版画摺り師のオーギュスト・ドラートルの仕事場を訪れた。そこでブラックモンは、日本から送られてきた陶器の包み紙として使われていた「北斎漫画」を目にした。絵師・彫り師・摺り師の連携が無ければ制作できない高い技術をそこに見出し、浮世絵の魅力にとりつかれたブラックモンは「北斎漫画」の蒐集を始め、事あるごとに画家仲間達へ紹介した。その中にはエドゥアール・マネやエドガー・ドガ等が居り、やがてクロード・モネ、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、フィンセント・ファン・ゴッホ等の画家にも影響を与え、いわゆるジャポニスムという美術界の潮流となった。
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