ラプラタ沖海戦とは、第二次世界大戦中の1939年12月13日に生起したドイツ海軍装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーvsイギリス艦隊の戦闘である。
概要
背景
1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻により英仏連合軍が対独宣戦布告。ここに第二次世界大戦が勃発した。しかし互いに準備不足だった事もあり、地上での戦闘は不活発。いつしか「まやかし戦争」と呼ばれ、クリスマスまでには終結すると両軍の兵士は楽観視していた。
だが、のんびりムードだったのは地上だけだった。イギリスの補給線を断つべく、北海や大西洋ではドイツ海軍のUボートや装甲艦が活動。片端から輸送船を沈めまくっていた。対する英仏連合軍は強大な海軍力こそ持っていたが、巧みに現れては消えてゆく装甲艦ドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーに手を焼いていた。特にアドミラル・グラーフ・シュペーのもたらす被害は深刻で、北大西洋からインド洋までの広範囲に出現。圧倒的優勢であるはずのイギリス海軍を振り回した。グラーフ・シュペーは専用の補給艦アルトマルクを伴っていたので寄港する必要が無く、これがイギリス軍の追跡を撹乱。12月6日時点で既に9隻(5万89トン)が、グラーフ・シュペーによって海の藻屑となり、61名のイギリス人が捕虜となっていた。しかしグラーフ・シュペーは捕虜に対して紳士的に振る舞い、奇妙な絆すら生まれていたという。
イギリス南大西洋方面艦隊南米支隊を率いるヘンリー・ハーウッド代将は、次にグラーフ・シュペーはラプラタ沖に向かうだろうと推測した。ウルグアイのラプラタは貿易が盛んで、獲物となる商船が多数集結しているからだ。待ち伏せの罠を張るべく、英巡洋艦アキレス、アジャックス、エクセターに参集の命を下した。ハーウッド代将の読みは当たっていた。グラーフ・シュペーの艦長ハンス・ラングスドルフ大佐は、ベルリンの海軍司令部から「ラプラタ河に獲物が集まっている」との情報を受け、舳先をラプラタに向けていた。エサに釣り上げられたグラーフ・シュペーの悲劇が今、始まろうとしていた。
アドミラル・グラーフ・シュペーの悲劇
12月12日午前7時、ラプラタ沖にハーウッド代将の巡洋艦3隻が合流。何も知らずに向かってくるグラーフ・シュペーを仕留めようと出撃した。翌13日午前6時10分、水平線に一筋の薄い煙を認めた。ハーウッド代将はエクセターに調査させたところ、「ポケット戦艦と思われる」との信号が返ってきた。3隻の巡洋艦は突撃を開始した。一方、グラーフ・シュペーは管制塔の高さと測距儀の性能により、いちはやくイギリス艦隊を発見して戦闘準備を整えていた。相手は3隻、数の上では圧倒的に不利だった。しかし敵艦に増援を呼ばれては更に状況が悪化する。ラングスドルフ大佐は戦闘を決意し、臆する事無く増速を命令。敵はエクセターとアジャックス、アキレスの二手に分かれて迫ってきた。午前6時12分、グラーフ・シュペーは東南東に針路を取って砲戦に備える。優位に立つハーウッド代将の艦隊も追いかけるように増速し、アジャックスとアキレスが北東に、エクセターが西北西に針路を取る。
午前6時17分、まずグラーフ・シュペーが先に動いた。距離1万7150mからエクセターに向けて28cm砲の一斉射を行い、数分後にアジャックスとアキレスも砲撃を開始した。三度目の斉射で夾叉し、エクセターの煙突とサーチライトを粉砕、魚雷要員を殺傷せしめた。余波で2機のウォーラスを破壊し、投棄へと追いやっている。グラーフ・シュペーの猛攻は続き、砲弾の1発がB砲塔に直撃。B砲塔を破壊し、飛散した破片でベル艦長と士官2名を除いて艦橋要員が全滅した。この影響で各部署の連携がズタズタとなる。更に2発の直撃弾を与え、エクセターの操舵室と通信系統を破壊。優勢な敵を相手に善戦する。しかしグラーフ・シュペーも無傷とはいかず、至近弾でラングスドルフ大佐が軽傷を負う。また、エクセターを囮にしてアジャックスとアキレスが肉薄してきていた。午前6時30分、主砲を旋回させて満身創痍のエクセターから接近中の2隻に矛先を変える。2隻から雨のように軽量砲を撃ち込まれ、損傷したグラーフ・シュペーは煙幕を展開して左舷150度に回頭した。そこへ死にかけのエクセターが放った20cm砲弾が命中。致命傷にはならなかったが、エクセターにも注意を払わなければならなくなった。午前6時31分、一発逆転を狙ってエクセターが2本の魚雷を放ってきた。命中すればグラーフ・シュペーですらひとたまりも無いが、幸い回避に成功。数分後、小うるさいエクセターに28cm砲弾2発をブチ込み、前部砲塔を破壊しつつ火災を引き起こした。加えて第三弾も命中させ、午前7時30分にエクセターを完全に艦隊から脱落させた。この時、エクセターの各所で火災が発生し、砲塔は使用不能、電力及び通信系統喪失、650トン浸水、戦死者50名以上という沈没しないのがおかしいくらいの重傷を負っていた。ドイッチュラント級の高い性能を図らずも示した形となった。
勇戦するグラーフ・シュペーであったがアキレスとアジャックスから追い回され、西への退避を強いられていた。逃げながらも砲撃を行い、28cm砲弾がアジャックスの後部マストと後部砲塔2基を破壊。事実上無力化に成功した。これにトドメを刺すべくグラーフ・シュペーは魚雷を発射したが、上空を飛び回る敵のフェアリー・シー・フォックス水上機によって報告され、回避されてしまった。ハーウッド代将はグラーフ・シュペーが西へ逃げている様子を見て、「戦意を喪失した」と判断。戦闘をやめ、一時後退した。エクセターとアジャックスを撃破したグラーフ・シュペーであったが、自身もかなりの損害を負った。直撃弾20発(うち3発は20cm徹鋼弾)を受け、28cm砲弾も6割を消費。戦死者36名、重傷者6名、軽傷者53名と人員面の損害も無視できなかった。戦闘能力こそ残っていたが、とても本国まで辿り着ける状況でなかった。艦内の損害状況を調べ上げた結果、ラングスドルフ大佐は最寄りの中立国に逃げ込む事を決意。終日西進した。手酷くやられたにも関わらず、61名の捕虜に負傷者はいなかった。
グラーフ・シュペーとの戦闘で大損害を受けたハーウッド代将の艦隊は、十分距離を取ったうえで追跡。午前10時5分、うかつにもアキレスが近づきすぎたため、28cm砲で反撃。かなり正確な砲撃だったため、アキレスは煙幕を張って逃げ出してしまった。ラングスドルフ大佐はベルリンに簡単な戦闘報告を送り、修理のためモンテビデオ港に行きたいとレーダー提督に願い出た。数時間後、レーダー提督はこれを許可した。対するハーウッド代将も動き出し、ブエノスアイレス駐在のイギリス海軍武官に「グラーフ・シュペーが入港する可能性がある」と警告した。19時15分、アジャックスに向けて二度の斉射を実施。ビビったアジャックスはアキレス同様煙幕を張って逃亡。同時刻、ウルグアイの領海に入った事でウルグウイ海軍の巡洋艦が姿を現した。中立国の領海内にも関わらずグラーフ・シュペーとイギリス艦隊はたびたび撃ち合った。明らかに中立国の主権を侵す問題行為だったが、ラングスドルフ大佐は「アキレスの方から先に撃って来たので、我が方に責任は無い」と主張。観戦していたウルグアイ海軍巡洋艦ウルグアイの艦長フェルナンド・フエンデスも彼の主張を支持。イギリス海軍が悪者になった訳だが、イギリス政府はウルグアイの主張を一蹴した。23時50分、グラーフ・シュペーは中立国ウルグアイのモンテビデオ港に入港。沖合いにはアジャックスとアキレスが監視をしていた。
外交戦と情報戦
グラーフ・シュペーの入港は、全世界が注目するところになった。各国から報道陣が押し寄せ、グラーフ・シュペーの動向を発信。また野次馬のウルグアイ人も75万ほど集まり、一躍時の艦となった。砲撃戦は終わったが、ここからは情報戦が始まった。ドイツ側はウルグアイ駐在ドイツ大使のラングマン博士とアルゼンチン大使館付海軍武官を派遣して、ラングスドルフ大佐と事後対策を協議。沖合いから監視するハーウッド代将は増援を呼び寄せ、巡洋艦カンバーランド、シュロップシャー、ドーセットシャー、コーンウォール、グロスター、ネプチューン、巡洋戦艦リナウン、空母アーク・ロイヤル、イーグルが続々と集結。数の暴力で沖合いや脱出路を封鎖し始めた。
その頃、英独の代表はウルグアイ政府を中心として互いに意見を主張。机上で激しく戦っていた。「ハーグ協定第11条に則り、24時間以内に出港すべきだ」と主張するイギリス側。対するドイツ側はハーグ第11条に付随する「航海のため必要不可欠な修理を行う場合、24時間の期限を延長する事が出来る」という点に着目し、期限の延長を訴えた。グラーフ・シュペーの修理には約15日必要と見積もられていた。両国の板ばさみとなったウルグアイ政府は損傷具合を調査するため、12月14日19時に士官2名を赴かせた。調査の結果、修理は3日で済むと判定された。またフランスやアメリカがこの外交戦に首を突っ込み、ウルグアイ政府に「24時間以内に出港できなければグラーフ・シュペーを抑留すべき」と焚きつけてきた。当時まだイタリアと日本は参戦しておらず、ドイツの肩を持つ国は現れなかった。12月15日、ウルグアイ大統領は72時間の猶予を認めると発表。期限は17日20時までと定められた。ここにグラーフ・シュペーの運命は窮まった。72時間では到底修理はできない。かといって出て行けば、ガチガチに封鎖しているイギリス艦隊に討ち取られるのは目に見えている…。まさに絶体絶命だった。
一方、グラーフ・シュペーでは間に合わないと知りつつも、乗組員が船体の修理を始めていた。12月14日深夜零時過ぎ、1人の重傷者が陸に運ばれた。翌15日、ラングスドルフ大佐は戦死者を弔う軍葬の許可を取り付け、世界の報道機関に見せ付けるため真っ白な夏服に身を包んだ320名を上陸させた。そして戦死者36名の葬儀を郊外の墓地で挙行。参列者のドイツ人は全員ナチス式敬礼をしていたが、ラングスドルフ大佐だけは旧海軍式の敬礼で見送った。そして61名の捕虜もすぐに釈放され、自由の身となった。12月16日、ドイツ本国から「アルゼンチンのブエノスアイレスに入るか、無理なら自沈を選べ」との訓令電が届いた。この夜、ラングマン博士は期限延長の交渉に失敗。日付が変わって間もない翌17日深夜、ラングスドルフ大佐は自沈を決意した。自沈に向けた作業は夜明け前より開始され、まず機密書類を投棄。手榴弾を手にした水兵が無線装置や測距儀など精密機械を破壊して回った。残っていた魚雷や弾薬は爆破処分の一助にすべく、艦の急所に集められた。14時、ドイツ人所有の商船タコマに900名の乗組員が乗船。グラーフ・シュペーにはラングスドルフ艦長、航海長、機関長、下士官など43名が残った。民衆75万人が見守る中、18時15分にタコマは出港。ドイツに友好的なブエノスアイレスへと向かった。43名の士官はグラーフ・シュペーを出港させ、ゆっくりとモンテビデオ港から出て行った。その様子をアメリカ人のラジオ報道記者マイク・ファウラーが実況中継した。一時は領海外へ出て行く航路だったため、手ぐすね引いて待ち構えていたハーウッド代将の艦隊が戦闘準備に入った。ところがグラーフ・シュペーは突如西へ回頭し、領海内に留まった。満身創痍の袖珍戦艦はモンテビデオ西南西で停止。爆破用の時限信管を全てセットし、国旗を降ろした。最後まで残っていた士官もタグボートで脱出し、艦内は無人となった。20時54分に起爆。大爆発が生じ、火災が発生。瞬く間に深さ12mの水底に沈んでいった。単独でイギリス海軍を振り回した勇士が、本国から遠く離れた異国の地で息を引き取った。
その後
グラーフ・シュペーの生存者はタコマに乗せられてブエノスアイレスに向かっていたが、領海を出る前にウルグアイ海軍に拿捕され、4名が拘束。だがラングスドルフ大佐は用意周到で、ドイツ大使館が借り上げていた数隻の曳き船に移乗して無事ブエノスアイレスまで辿り着いた。ブエノスアイレスは親独だからこれでドイツ本国まで移送してもらえるはずだったが、思いのほか冷淡な態度で迎えられた。生存者は難波船の乗員と認定されず、戦争が終わるまで抑留されるハメになってしまった。生存者の本国移送に失敗したと知ったラングスドルフ大佐は意気消沈し、そして疲れ果てていた。115日間、大地を踏む事無く戦い続けてきた彼に戦意は残っておらず、全国の報道機関が戦わずに自沈を選んだ彼を「臆病者」だと非難している。ドイツ本国は積極的な支援をしてくれない。上官のレーダー提督でさえも。生きる気力を根こそぎ奪われた彼は、机に向かって3通の手紙を書いた。このうち2通が家族宛、1通がブエノスアイレスのドイツ大使館宛だった。「シュペーを自沈に至らしめた全責任は自分にある」と書き残し、8月19日夜、ドイツ海軍旗に身を包んでルーガー拳銃で自殺した。戦わずに自沈したグラーフ・シュペーの存在は、ヒトラー総統に水上艦への不信を抱かせる最初の出来事となった。以降ヒトラー総統は大型艦の喪失を恐れるようになり、ビスマルクの喪失でそれが確固たるものになっていく。グラーフ・シュペーが不幸を一身に背負ったからか、同型艦のリュッツォウとアドミラル・シェーアは戦果を挙げ、終戦の数日前まで生き残っていた。
ちなみにグラーフ・シュペーの専属補給艦アルトマルクは別行動していたため、難を逃れた。しかし1940年2月16日、中立国ノルウェーの領海を航行中にイギリス海軍の襲撃を受け、拿捕されてしまう。ウルグアイ領海内での戦闘といい、イギリスは中立国の領海で戦闘を仕掛けるのがお好きなようである。この事は「イギリスは中立国の法を守る気がない」とヒトラー総統を怒らせ、ヴェーゼル演習作戦へと繋がる。
ドイツの同盟国として参戦した大日本帝國により、グラーフ・シュペー包囲に参加した重巡洋艦エクセターが討ち取られた(スラバヤ沖海戦)。この時、日本は「アドミラル・グラーフ・シュペーの仇を取った」と喧伝している。続くセイロン沖海戦ではコーンウォールとドーセットシャーが撃沈された。
関連項目
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