はてなキーワード: 九条兼実とは
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1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)