1981-1982シーズンより1995-1996シーズン
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「バッファロー・セイバーズ」の記事における「1981-1982シーズンより1995-1996シーズン」の解説
1981-1982シーズン、ニールソンがカナックスのヘッドコーチに就任したため、ボウマンがヘッドコーチに復帰した。チームは11月を12勝5敗7分で終えたが、デトロイト・レッドウィングスとのトレードの後、ボウマンの代わりにアシスタントコーチがヘッドコーチに昇格、3月半ばに再度ボウマンがヘッドコーチに就任した。チームが混乱する中、39勝26敗15分でディビジョン3位となり、プレーオフに進出したが、ボストン・ブルーインズに1勝3敗で敗れた。 1982-1983シーズン、38勝29敗13分でディビジョン3位となった。プレーオフではカナディアンズを3連勝で破った後、ブルーインズに3勝4敗で敗れた。 1983-1984シーズン、ドラフト全体5位でトム・バラッソ(Tom Barrasso)を獲得、彼はカルダー記念賞とベジーナ賞に選ばれた。チームは48勝25敗7分でディビジョン2位となったが、プレーオフではケベック・ノルディックスに3連敗で敗れた。 1984-1985シーズン、ショーンフェルドがチームに復帰した。チームは38勝28敗14分でディビジョン3位となった。プレーオフ1回戦、ケベック・ノルディックスとの第5戦では残り9分で5-3とリードしていたが、立て続けに3点を失い敗れた。 1986年3月7日のデビルス戦でペローが通算500ゴールを達成した。チームは37勝37敗6分で12年ぶりにプレーオフを逃した。 1986-1987シーズン、ペローが最初の14試合で9ゴールをあげた。11月24日、ペローが引退、5勝15敗3分となった12月2日、ボウマンGMが解任された。チームはNHLワーストの28勝44敗8分けで2年連続プレーオフを逃した。 1987-1988シーズン、ドラフト全体1位でピエール・タージオン(Pierre Turgeon)を獲得、タージオンはチーム6位となる42ポイントをあげた。またデイブ・アンドレイチャックがチームトップの78ポイントをあげた。チームは37勝32敗11分で3年ぶりにプレーオフに進出、ブルーインズに2勝4敗で敗れてシーズンを終えた。 1988-1989シーズン序盤、トム・バラッソをトレードしてダレン・パッパ(Darren Puppa)を獲得した。1989年1月27日、パッパが腕を骨折したため、控えのジャック・クルーティエ(Jacques Cloutier)でシーズンを戦った。3月にワシントン・キャピタルズからクリント・マラチャック(Clint Malarchuk)をトレードで獲得したものの、3月22日のブルース戦でマラチャックはスケートのエッジで、頸静脈を6インチ切る大怪我をした。トレーナーとチームドクターの素早い救命措置でマラチャックは一命を取り止め、翌日には退院した。チームは38勝38敗7分でディビジョン3位となり、プレーオフではブルーインズに敗れた。 1980年代、セイバーズのスター選手にはペローのほか、タフでかつ技巧を誇った Mike Foligno, ディフェンスのフィル・ハウズリー (Phil Housley)、左ウイングのデイブ・アンドレチャク (Dave Andreychuk) らがいた。しかし1980年代を通じて、たった2度しかプレーオフ第1ラウンドを突破することはできなかった。 1989年には、ベルリンの壁の崩壊に続いて、旧ソビエト連邦の若手トップ選手がNHLへと流入したが、セイバーズは、前年のドラフトで全体89位で指名したアレクサンドル・モギルニー (Alexander Mogilny) と契約を結んだ。モギルニーは43ポイントを獲得、タージオンがキャリア初の100ポイントを達成した。チームは45勝27敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦でカナディアンズに2勝4敗で敗れた。 1990年、ドラフト当日のトレードでウィニペグ・ジェッツからデール・ハワーチャック (Dale Hawerchuk) を獲得、彼はこのシーズン89ポイントをあげた。開幕から7試合で1勝もあげられなかったが、31勝30敗19分でディビジョン3位となりプレーオフに進出、1回戦でカナディアンズに敗れた。 1991-1992シーズンも開幕から2勝5敗1分とスロースタートであったが、10月25日にアイランダーズからセンターのパット・ラフォンテーヌ (Pat LaFontaine) をトレードで獲得した。11月16日にラフォンテーヌはあごを骨折し、チームを離脱したが、12月21日に復帰、57試合の出場で93ポイントをあげる活躍を見せた。チームは31勝37敗12分でディビジョン3位、プレーオフではブルーインズに3勝4敗で敗れた。 1992-1993シーズン、ラフォンテーヌとモギルニーがそれぞれ100ポイント以上をマーク、ラフォンテーヌはアメリカ生まれの選手としては最高の148ポイントをあげた。モギルニーはウィニペグ・ジェッツのテーム・セラニ (Teemu Selanne) と並ぶリーグトップタイの76ゴールをあげ、ラフォンテーヌは53ゴール、95アシストをあげた。その一方でチームは297失点を許し、38勝36敗10分でディビジョン4位となった。プレーオフでは1回戦で第1シードのブルーインズと対戦、4連勝で10シーズンぶりに1回戦を突破した。なお、ブルーインズとの第4戦の延長にブラッド・メイ (Brad May) が決勝点を挙げたときのベテランラジオアナウンサー Rick Jeanneret の実況「メイが決めた!」("May Day!") はリーグの語り草になっている。チームは2回戦でこの年スタンレー・カップ優勝のカナディアンズを相手に3試合で延長まで戦ったものの4連敗で敗退した。 1993-1994シーズン、11月19日にラフォンテーヌがひざの負傷でシーズン絶望となった。またゴーリーのグラント・ファー(Grant Fuhr)もひざの手術をすることになり、6週間以上欠場することとなった。控えゴーリーのドミニク・ハシェックがこのチャンスをものにして、ベジーナ賞に選ばれる活躍を見せた。デビルスとのプレーオフ第6戦でハシェックは70本のシュートを打たれたがシャットアウト、味方もマーティン・ブロデューアからゴールを奪えず、延長5分43秒にマイク・ハナンがあげたゴールで3勝3敗のタイに持ち込んだが、第7戦では敗れた。 1994-1995シーズン、NHLは4ヶ月ロックアウトが実施された。ハシェックはこの年もベジーナ賞を獲得した。ラフォンテーヌが22試合しか出場できなかったものの、チームは22勝19敗7分でプレーオフに進出、フィラデルフィア・フライヤーズに1回戦で敗れた。 1995-1996シーズン、モギルニーをカナックスにトレードした。チームはこの年33勝42敗7分でノースイースト・ディビジョン5位でプレーオフを逃した。このシーズンで本拠地メモリアル・オーディトリアムに別れを告げた。
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