1956年のハンガリー動乱における役割
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「カーダール・ヤーノシュ」の記事における「1956年のハンガリー動乱における役割」の解説
「ハンガリー動乱」も参照 ナジは自由化プロセスを開始し、新聞・出版への国家統制を廃止し、多くの政治犯を釈放した。ワルシャワ条約機構からハンガリーを脱退させたい旨も表明し、ナジは連立政権を樹立した。ソ連の指導者達は「互いの尊重と対等な立場に基づいてハンガリーとの新しい関係を築くよう努力する」と声明を出していたが、11月の初日にソ連共産党幹部会は、革命を力づくで弾圧することを決定した。 この間に、ハンガリー勤労者党(共産党)は解党を決議し、ハンガリー社会主義労働者党の名前で党を再編した。カーダールは書記長に選出された。カーダールはまた、国務相としてナジ政府の一員でもあった。11月1日に、カーダールは在ブダペストソ連大使館に誘拐され、ソ連の指導者たちが待つモスクワに連れ去られた。そこでソ連の指導者たちは、ハンガリーでの「反革命」の展開はなんとしても終結させなければならないとカーダールに信じさせようとしたのだった。カーダールは最初その圧力に抵抗し、ナジ政府は社会主義体制の廃止を目論むものではないと主張した。カーダールがその圧力に屈したのは、ソ連の指導者たちからハンガリーに駐留するソ連軍が革命を弾圧するという決定は既に下されており、従来の共産主義指導体制がハンガリーに戻されるだろうと知らされた時だったのであり、カーダールには新政府首相の地位を引き受けるつもりはなかった。ソ連の戦車は革命を弾圧するため、11月4日の夜明けにブダペストに向かって動き出した。同日、カーダールを長とした、いわゆる「臨時労農革命政府」(Provisional Revolutionary Government of Workers and Peasants)の樹立宣言がソルノクから放送された。 カーダールはこの新政府のための「15項目の綱領」を宣言した。 ハンガリー国家の独立・主権を確保する。 人民民主主義・社会主義体制をあらゆる攻撃から擁護する。 兄弟同胞の争いを終らせ、秩序を回復する。 完全対等および不干渉を基礎として、他の社会主義諸国と緊密な兄弟関係を築く。 政府の形態に関わりなく、全ての国々と平和のために協力する。 ハンガリー全ての国民の生活水準を早急かつ十分に向上させる。 生活水準におけるこの増加を考慮し、5カ年計画を修正する。 労働者の利益のために、密室政治を除去し、民主主義を広める。 広められた民主主義を基礎に、工場および企業においては、労働者による管理が行われねばならない。 農業生産を発展させ、強制配給を撤廃し、そして個々の農民に無償で資金援助をする。 すでに存在する行政府および革命評議会においては、民主的な選挙を保証する。 職人および小売業を支援する。 ハンガリーの革新的伝統の精神にのっとり、ハンガリー文化を発展させる。 人民の利益を代行するハンガリー革命労農政府は、我が国民が悪意ある反動勢力を打ち砕き、ハンガリーに秩序と平静を回復することを支援するよう、赤軍に要請する。 危機が去った後、ハンガリーに進駐したワルシャワ条約機構軍の撤退に関する交渉をワルシャワ条約機構側と行う。 カーダールはまた「敵対しない者は誰もが我らと共に」あり、「普通の人々は、弾圧はもとより監視さえも恐れる必要なく、その経済活動を続け、演説し、読み、書くための正当な自由を得る」と付言した。これは、自らに従わない者を全て敵とみなしたスターリン主義独裁者ラーコシによる支配とは特筆すべき対照をなした。 綱領の15番目に掲げられた「ワルシャワ条約機構軍の撤収」は、20万の強力なソ連分遣隊がハンガリーに駐屯するというワルシャワ条約由来の圧力の後に撤回されたが、結果的にカーダールは巨額の国防予算を福祉予算に転用することができた。 ナジはルカーチ・ジェルジ、ロションツィ・ゲーザ (Losonczy Géza)、ライク・ラースロー未亡人ユリアをともない、ユーゴスラビア大使館に逃れた。カーダールは彼らからの求めに対して安全な帰還を約束したが、ソ連の党指導者達がユーゴスラビア大使館で亡命を求めたナジ・イムレおよび他の政府要員はルーマニアへ追放することにしたため、この約束は果たされなかった。後に、1956年の出来事におけるナジ・イムレ政府の責任について裁判が起こされた。これはたびたび延期されたが、最終的に被告は反逆ならびに「民主国家の秩序」の転覆の企てで有罪とされた。ナジ・イムレ、マレーテル・パール (Maléter Pál)、そしてギメシュ・ミクローシュ (Gimes Miklós) は死刑判決を受け、1958年6月16日に処刑された。ロションツィ・ゲーザとシゲシ・アッティラ (Szigethy Attila) の2人は裁判途中に不審な状況下で獄死した。
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