アメリカ合衆国海軍長官
海軍長官 | |
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海軍省紋章 | |
初代 | ベンジャミン・ストッダート |
設置日 | 1798年6月18日 |
公式サイト | Official Website |
アメリカ合衆国海軍長官(アメリカがっしゅうこくかいぐんちょうかん、英語: Secretary of the Navy)は、海軍省のトップであり、海軍省の指揮監督を行う[1]。1947年までは内閣の閣僚であったが、国防総省と国防長官の設置後はその指揮監督下に置かれることとなった[1]。海軍軍人及び海兵隊員は海軍長官を非公式にSECNAV(セクナヴ)と呼ぶ。
職務
海軍長官は合衆国法典第10編の規定の下、大統領が指名及び上院の助言と承認(advice and consent)を受けた文民が就任する[2]。原則として軍の将校であったものは、退役して7年以内の者は指名されない[2]。
海軍長官は海軍省の全ての事務を指揮・監督する権限・義務を負っている。すなわち海軍省・海軍の人員を補充・組織・供給・装備・訓練・動員・復員させることができる。また海軍の艦船・施設・設備についての建造・支給・修理を監督する[2]。
歴代海軍長官(内閣)
歴代海軍長官(国防総省)
脚注
出典
関連項目
外部リンク
海軍長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/26 00:57 UTC 版)
「ベンジャミン・トレイシー」の記事における「海軍長官」の解説
1888年、ベンジャミン・ハリソン大統領はトレイシーを海軍長官に指名した。トレイシーは戦いに容易に勝つことのできる力強い「2つの海の海軍」を掲げた。 トレイシーは合衆国における「新たな海軍」の構築に大きな役割を果たしたことで有名となった。合衆国海軍は南北戦争以後、大きく陳腐化していた。トレイシーは海軍組織に大改革を施し、それまでの沿岸防衛や通商破壊ではなく、攻撃面に重きを置いた戦略を主張した。この試みには海軍の理論家アルフレッド・セイヤー・マハン大佐が有力な協力者となった。1890年、マハンは The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783 を刊行した。この著書においてマハンは歴史の例を引用して、公海上で戦うことのできる「青海原の海軍」の構築を支持した。 トレイシーはまた、近代的軍艦の構築を支援した。1890年6月30日、合衆国議会は海軍法案を可決し、3隻の戦艦の建造を認可した。これらの戦艦は、インディアナ、マサチューセッツ、オレゴンと命名された。さらにその2年後、戦艦アイオワ (BB-4)の建造が認可された。
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