とう‐しん【東晋】
読み方:とうしん
⇒晋(しん)
東晋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 02:09 UTC 版)
東晋(とうしん、拼音: )は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(後の前趙)によって滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別するが、また西晋と併せて晋と総称される。
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- ^ 403年に桓玄(武悼帝)が安帝を廃して楚を建国したため、東晋滅亡。
- ^ 404年に桓玄が殺害され、楚滅亡、東晋が復活。
- ^ 司馬懿の四男の琅邪武王司馬伷の長男で、西晋の武帝の従弟にあたる。
東晋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)
東晋(317年 - 420年、書人、筆跡、書論) 三国時代から西晋を通じて行書、草書が行われ、南方に移った東晋の貴族たちによって、さらに美しく洗練されてゆく。碑刻に乏しいが刻帖は豊富であり、この時代の法帖としては王羲之のものが最も多い。当時は特に書道を尊重し、紳士の一資格として書をよくしないと上流に交わることができないという風潮があった。東晋の最初の丞相の王導が南下に際し、鍾繇の『宣示表』の真跡を身につけていたことは有名であり、これは能書を鑑賞する風尚を示している。 江南に居住するようになった貴族たちは、政権を掌握するとともに、広大な荘園を所有して経済的にも豊かな生活ができた。佳麗な地である江南の風景は絶佳であり、書の発達にこのような風土の関係も見逃すことができない。 書聖・王羲之 王羲之の出現によって書道は芸術としての域にまで高められた。羲之は、楷行草いずれも極致の域に達した人で、古来、中国第一、書聖と仰がれている。また、羲之を大王とも称し、羲之の第7子である王献之は小王といわれ、父子を合わせて二王、または羲献と称される。羲之の諸子はみな能書家であり、献之は最年少であるが書の天分に恵まれた。この流麗、温雅、端正な王羲之一派の書は後世の範とされ、日本には奈良時代に移入されて、日本書道の母胎ともなった。
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