にっちょう‐しゅうこうじょうき〔ニツテウシウカウデウキ〕【日朝修好条規】
日朝修好条規
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日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年)2月26日(時憲暦光緒2年=高宗13年2月2日)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが[1]、通例として朝鮮国との修好条規(ちょうせんこくとの-)、日朝修好条規、日鮮修好条規(にっせん-)などと呼称する。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。江華島で調印されたため江華島条約(カンファド/こうかとう じょうやく、朝: 강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約(へいししゅうこうじょうやく、朝: 병자수교조약)ともいう。
- 1 日朝修好条規とは
- 2 日朝修好条規の概要
日朝修好条規
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
日朝修好条規は日本側に有利な不平等条約だった。日本が開港の際に欧米諸国と結んだ条約よりも不平等な点が多く、開港場から4キロ以内の旅行や通商権、開港場における日本貨幣の使用、米穀輸出の自由、無関税なども定められていた。これによって、日本の対朝鮮貿易は拡大した。日朝修好条規によって朝鮮は日本に朝鮮修信使を派遣して、開化政策が行われた。日本は倭館の敷地を引き継いで日本人居留地を建設し、朝鮮は釜山港、元山港、仁川港を開港した。1880年に日本公使館が漢城に設置された。
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