捨て身の短い上京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:00 UTC 版)
梶井基次郎は、約1年半の伊豆湯ヶ島での転地療養でも結核が好転することはなかった。卒業も完全に諦め東京帝国大学文学部英文科の授業料も滞納していたため、1928年(昭和3年)3月に除籍となったが、仮に卒業したとしても病身では就職の当てもなかった。実家からの送金も途絶え、常宿「湯川屋」の宿泊代も滞っていた基次郎は湯ヶ島を離れることを決め、宿を5月10日前後に引き払い、東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の堀口庄之助方の下宿に戻って来た。 留守中に部屋を貸していた北川冬彦と同居していた伊藤整(東京商科大学生)と初対面した基次郎は、伊藤が故郷北海道の父親の急病により帰省するまでの短期間親しく交流し、英訳で読んだボードレールの『硝子売りの話』の魅力や、まだ発表していない自作『櫻の樹の下には』について話し聞かせた(詳細は櫻の樹の下には#帰京後を参照)。病人や文学青年にありがちな陰鬱さがなく幼児のように屈託ない基次郎にたちまち惹かれた伊藤は、基次郎の絶望感と明るさが融合したような生き方に興味を持った。 しかし明るい振舞いだったが、この頃の基次郎は自身の命が人より短く限られたものであることを感じ、睡眠薬を多く飲んでも寝られない状態であった。上京前の4月やその直後の5月には、湯ヶ島で執筆した『筧の話』『器楽的幻覚』『冬の蠅』などを各種の同人誌に発表し、いくらかその界隈で名前が知られるようになってはいたが、まだ原稿料を稼げるような職業作家への道は拓けておらず、進む病状の中での〈どうせ夏までしかゐられない〉という捨て身の上京であった。 僕は此頃睡眠薬を飲んでゐるのですが、定量以上約二倍を飲んでも寝られず足だけふらふらして眼だけが冴えてゐるのです それでお出ししようとしてゐた手紙を書くことにしました 此頃身体は元気です、東京にはどうせ夏までしかゐられないでせうが、その間にこゝで原稿を書いたり、新らしい世界観への勉強をしたりする積りです(中略)麻布はいゝ所です、樹が多く夏にはひぐらしが鳴き、夜寝ないでゐるとほととぎすの鳴いたのをきいたことがありました位樹が多いところです 殊にこの家は植木屋で殊更木が多いです 昨夜あたりは盛に梟がなきました — 梶井基次郎「仲町貞子宛ての書簡」(昭和4年5月日付不明) 上京直後、基次郎の身体を心配していた広津和郎から日本橋の漢方医を勧められ注射を打ちに通ったが予後不明と診断されていた。あまり〈口碑的な伝説的〉民間療法を信じていない基次郎だったが、広津の好意を断わることもできず、高額な注射代を全額負担してくれる親切な広津に感謝すると同時に、そんな不甲斐ない状況の自身に〈みじめになつて〉しまう心持でもあった。 また、基次郎は東京で新たな刺激を受け、深川の貧民街での実社会の見聞を作品に取り入れたい気持もあったが、結核の身では居住は望めず、しばらくは高い下宿代の飯倉片町にいるしかなかった。『ある崖上の感情』で描かれる瞰下景は、この飯倉片町の坂の多い町の地域の風景が元になっている。 やがて基次郎は下宿の食事代も払えなくなり、7月に『ある崖上の感情』を発表した後は、漢方医に言われた南向きの部屋を広津和郎や友人らに探してもらうが適当な所が見つからず、再び湯ヶ島の「湯川屋」に連絡をとるが断られたため、東京府東多摩郡和田堀町堀ノ内(現・杉並区堀ノ内)の中谷孝雄の借家に身を寄せることになった。しかし基次郎の病状は日に日に悪くなり、最後の短い再上京生活に終止符が打たれ、9月に大阪市に帰郷することになった(詳細はのんきな患者#大阪帰郷を参照)。
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