代表選考
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リオ五輪代表選考会を兼ねた2016年第92回日本選手権(4月3日~10日)において、池江は50m自由形、100m自由形、200m自由形、100mバタフライの計4種目にエントリーし、リレーを含めた7種目での代表入りを狙った。日本水泳連盟が設定したこれらの種目の五輪派遣標準記録は、日本記録の更新が大前提となるようなきわめて厳しいものであったが、池江はいきなり大会初日の100mバタフライ準決勝で自身の持つ日本記録を0秒01更新すると、翌日の決勝でも派遣標準記録を切る57秒71で優勝して、この種目のリオ五輪代表権を獲得した。優勝後のインタビューでは喜びのあまり両手で顔を覆い号泣した。 続く200m自由形では日本記録に0秒02と迫る1分57秒39の高校新記録で優勝。100m自由形では高校新記録となる54秒06で2位になった。これらの種目では個人の派遣標準記録には及ばなかったものの、池江を含む上位4選手のタイムの合計がリレーの派遣標準記録を超えたため、400mフリーリレー、800mフリーリレーでのオリンピック代表に選ばれた。大会最終日の50m自由形決勝では世界ジュニア新記録及び高校新記録となる24秒76で優勝したが、派遣標準に0秒17足りず、この種目での派遣は見送られた。同大会の結果により、個人種目の100mバタフライの他に、400mフリー及び800mフリーリレー、400mメドレーリレーの計4種目でオリンピック代表に選出されることとなった。 日本選手権から約2ヶ月半後の6月27日、池江のその後の大会での活躍や将来性を高く評価した日本水泳連盟は、日本選手権では五輪派遣を見送った自由形3種目においても池江をエントリーすることを発表した。これにより池江は日本人選手としては初めて五輪で7種目に出場することになった。 種目派遣標準記録*池江の決勝記録タイム差派遣準決勝/予選当時の日本記録50m自由形 24.59 24.76(高校新) +0.17 後に決定 準決勝:25.30 (高校新)予 選:25.76 24.74(池江自身が保持) 100m自由形兼4x100mフリーリレー選考 個人 53.81 54.06(高校新) +0.25 後に決定 準決勝:54.50 (高校新)予 選:56.04 53.99(池江自身が保持) リレー 54.43 -0.37 200m自由形兼4x200mフリーリレー選考 個人 1:56.82 1:57.39(高校新) +0.57 後に決定 準決勝:1:59.57 (高校新)予 選:2:00.65 1:57.37 リレー 1:58.96 -1.57 100mバタフライ兼4x100mメドレーリレー選考 個人 57.77 57.71 -0.06 準決勝:57.55 (日本新)予 選:58.14 (高校新) 57.56(池江自身が保持) リレー 58.74 -1.03 *決勝の記録のみが選考の対象。リレーの代表派遣には決勝上位4名全員が派遣標準を突破している必要がある。 7月18日、五輪直前合宿地のサンパウロへ出発する際に羽田空港で報道陣の取材に応じ、筋力トレーニングで体が大きくなり、4月に採寸した日本選手団の公式ジャケットがきつくなっていることを明かした。その上で「全部を出し切って、細くなって帰国したい」とユーモアを交えて意気込みを語った。
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代表選考
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「国際化学オリンピック」の記事における「代表選考」の解説
2003年-2005年度は、前年度7月(1次試験)、8月(2次試験)に夢・化学-21委員会、日本化学会化学教育協議会が主催する化学グランプリの成績優秀者で、なおかつ高校一年生か二年生の生徒の中から4名が選出されていた。 2006年-2007年度は、前年度の化学グランプリで約8名の代表候補を選び、その翌春に代表選抜合宿を実施して理論試験により代表4名を選ぶようになった。 2008年度は、化学グランプリでの賞の受賞に関係なく、参加した高校一、二年の成績優秀者から約20名の代表候補を選ぶように変更され、その翌春の代表選抜合宿で行われる理論試験により代表4名が選ばれた。 2009年度は、2008年度と同様の選考基準で代表候補が約20名選ばれた。代表候補には参考書等が配布され、さらにその約20人の代表候補から8名に絞るための第一回選抜試験が年明け早々に行われ、春の最終選抜合宿で代表4名が決定するように変更された。 代表決定後には実験問題の訓練合宿が行われる。
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代表選考
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野球の国際大会にプロ選手の参加が認められてからも、各国はプロリーグの日程を優先したり、主力選手の離脱に難色を示すプロ球団の意向などもあり、代表チームで最高の選手を揃えることは難しい。しかしキューバ球界は例外で、国際大会での勝利を最優先し、国内リーグの日程を国際大会参加に支障がないように組んでいる。 キューバ国内リーグは2段階に分けられている。第1段階はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルと呼ばれるもので、11月から翌年4月まで全16球団で戦うリーグ戦である。これが終わると、日本などのプロ野球リーグに派遣される選手などは除き、第2段階のスーペル・リーガに移る。スーペル・リーガは2002年から始まったもので、セリエ・ナシオナルで優秀な成績を残した選手のみが招集され、5球団に分けられて28試合を戦う。毎年5月から7月にかけて開催され、ここで優秀な成績をあげた選手が代表候補となる。その後各国代表などと強化試合を行い、日本などのプロ野球リーグに派遣される選手を含めて、最終的な代表が決定する。 大学代表チームも、週1回大学に通っていれば、学生とみなされるため、ほぼ毎日練習漬けの選手かつ、代表クラスの選手を派遣することができる。 他国へ亡命した選手は代表には招集されない。また、ケンドリス・モラレスのように「亡命の意志がある」と見なされただけで代表チームから追放されるケースもある(モラレスはその時点で亡命の意思はなかったが、追放されたのを機に亡命に至っている)。代表を引退した選手は、オマール・リナレスのように他国でプロ選手になることが認められる例があったものの、方針により巨額年俸での契約はできなかった。しかし、フレデリク・セペダなど、現役キューバ代表選手が、巨額年俸でプロ選手になるなど、アメリカ以外で、プロ選手になることが解禁されることになった。この背景には、月収2000円程度(キューバ国民からしてみても大学教授並の相当高い方ではある)と言われているキューバ代表の主力選手が、亡命が頻発していることや、日本などの野球シーズンが、キューバの野球シーズンオフであることが大きな理由である。
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