奈良時代 単語

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(592 - 710)
奈良時代
(710 - 794)
平安時代
(794 - 1185)

奈良時代とは、日本の時代区分。遷都(710)から平安京遷都(794)までをす。

名前の由来は、の置かれた場所の地名。

概要

中大兄皇子天智天皇)による大化の改新大海人皇子(天皇)による申の乱とその後の天皇持統天皇による制の推進によって中央集権国家としての様々な改革が行われた前代。皇位継承にすこし時間が生じたものの、遷都されたのち、聖武天皇もそれを引き継いでいった。

ヤマト王権による中央集権体制は東大寺大仏建立によってその最盛期を見せるが、その裏では数多くの政変を引き起こし、ついに称徳天皇の死によって、天皇系の皇統も絶えてしまった。こうして天智天皇系の天皇中継ぎにし、天皇系の皇統の復活がもくろまれたが、肝心の天皇の離反を招き、済王氏出身である高野との間に生まれた桓武天皇が即位。傍流ゆえの弱体な基盤を系で強化しようとした桓武天皇によって山への遷都がもくろまれ、794年に平安京への遷都をもって、の時代は終わりを告げるのである。

平城京前史

天皇の妻である持統天皇は、制を進めていく一方で、息子皇子亡き後の自分の皇統への継承を確固たるものとした。こうして即位したのが文武天皇である。ところが持統天皇してからわずか4年後の大宝三年(707年)に文武天皇が亡くなり、文武天皇息子である後の聖武天皇が成人するまでの期間別の天皇が必要になったのである。

そこで中継ぎとなったのが、文武天皇元明天皇である。そして和元年(708年)に、元明天皇に議政官たちが遷都を進める。旧来の都をモデルにした藤原への遷都計画はそれ以前から進められていたものの、唐の長安をモデルにした新しい都の造営が、制の徴として進められていく。こうして和三年(710年)にへの遷都が行われたのであった。

聖武天皇の即位

元明天皇は霊元年(715年)に退位した。その跡を継いだのは後の聖武天皇である孫の首皇子ではなく、元正天皇であった。これは中継ぎとしての役割を果たす実力があるからと、元明天皇元正天皇を信頼していたためとされる。

元正天皇の代には元明天皇の政策が引き継がれていたが、石上麻呂穂積王、大伴麻呂といった前代のトップたちが亡くなっていき、一残った藤原不比等とその息子たちが養老などを進めていった。しかし藤原不比等は養老四年(720年)に亡くなり、長屋王がそれを引き継ぐこととなる。

等が亡くなった後、多治三宅麻呂穂積老の二人が、謀反を企てたとして刑を命じられるも、首皇子の奏上で配流に減じられる、という事件が起きた。すでに藤原氏への反発が高まっていたのである。

そんな中、中継ぎを見事に勤め上げ、譲位しても問題ないと元正天皇はついに判断し、養老八年→神元年(724年)、ついに聖武天皇が即位したのであった。

聖武天皇政権と大仏建立

こうして聖武天皇は即位した。しかし、神四年(727年)には藤原明子との間に生まれた皇子はわずか3日で亡くなり、藤原氏に焦りが見え始めた。

そこでまず起こったのが元年(727年)の長屋王の変である。長屋王が謀反をたくらんだというのである。長屋一家はすぐに自害したものの、『続日本記』の記されたころにはすでにこれは冤罪である、という見方が強かった。その背後にいたのが、藤原氏とされた。

そして同年、荒業を使い藤原明子が立后され、天皇以外から初の皇后が誕生したのである。ところが、変地異と疫病が流行。七年(735年)から九年(737年)にかけて、新田王、舎人王や聖武天皇の外祖母・賀茂売といった皇族、活躍々しかった藤原不比等息子たち、藤原武智麻呂藤原房前、藤原合、藤原麻呂藤原四子といった朝廷トップ一気にいなくなり洞になったのである。

その隙間を埋めたのが、臣籍降下した葛城王、つまりである。藤原氏藤原不比等の孫たち、というまだ経験不足の人々しか残っておらず、藤原豊成を除けば、の政権に残ることはできなかった。そこで起きたのが十二年(740年)の藤原広嗣の乱であり、彼は政権に参画した僧・玄昉と吉備備の排除をもくろんだのだ。

九州で起きたこの反乱に聖武天皇は次々と遷都を繰り返す(この順番がまた覚えにくい)。恭仁香楽難波といった数々の都を放浪した末に、聖武天皇大仏の建立を計画する。結局十七年(745年)にに戻ってきた聖武天皇は、この間国分寺建立の詔や墾田永年私財法を発布しつつも、僧・行基を大僧正に任じ、ついに勝宝四歳(752年)に東大寺舎那開眼供養が行われたのであった。

聖武天皇の没後と数々の政変

さかのぼること感宝元年(749年)に聖武天皇倍内王に譲位し、孝謙天皇が即位した。そして大仏の建立を見届けると、勝宝八歳(756年)に引退聖武天皇することとなる。

勝宝九歳(757年)にが亡くなると、突然皇太子祖王がされ、大炊王が皇太子となる。祖王に継がせるという聖武天皇の遺言はあっさり反故にされたのである。

かつて藤原不比等が作った養老が施行される一方で、朝廷では息子である奈良麻呂が外され、代わって藤原麻呂が頭を現した。そしてついに奈良麻呂謀反を企てているという奈良麻呂の変が発し、安宿王、文王、祖王ら皇族も含めた刑罰の末、奈良麻呂獄死したのである。

さらにこの件で責任を取らされた藤原豊成が解任され、元号宝字に変わる。そして孝謙天皇皇太子の大炊王(天皇)に譲位する。一方藤原麻呂恵美押勝と名を改め、唐に改められた官名の中から恵美押勝は従一位の大師に任じられたのである。しかし一方で調整役だった明子が亡くなり、天皇恵美押勝と孝謙天皇との間に齬をきたし始めていた。さらに恵美押勝の藤原麻呂が亡くなったことで、次第に恵美押勝の権勢に陰りがさし始めていた。

そして安史の乱の下で、新羅への侵攻計画も進められる中、悪が続くようになった。そんな中孝謙天皇に接近したのが僧・道鏡である。疫病の結果新羅征討計画がついに中止されたタイミングで、宝字八年(764年)、恵美押勝の乱が起きる。先手を打たれた恵美押勝は太政官印を持って逃走するも、陸からの攻撃でついに捕まり、斬首された。

乱が終わると、藤原豊成が復権し、天皇位されて淡路に流される。また舎人王の子である王、池田王も流された。こうして孝謙天皇が称徳天皇として重祚。翌年には神護に改元する。そして、和気王が殺されるという和気王の変が唐突に起きる。称徳天皇はさらに道鏡を法王に、藤原永手を左大臣に、吉備備を右大臣に任じ、道鏡の権勢は絶頂に達した。称徳天皇は、神護に改元。神護三年(769年)には突然不破王が配流される。

こうして相次ぐ政変の後、ついにかの有名な八幡宮神託事件が起きる。道鏡を皇位につかせようとする神託を、和気清麻呂が否定した結果、配流されたのである。

光仁天皇の即位と平安京へ…

しかし、翌年ついに称徳天皇が亡くなった。吉備備の反対工作があったかどうかは不明だが、藤原氏らによって天智天皇系の王が皇太子とされ、さらに道鏡も含めた孝謙・称徳天皇の関係者が処罰されていった。

王、つまり天皇藤原麻呂以来の混乱した政務の立て直しを図り、聖武天皇井上王を皇后とした。しかし、宝二年(771年)に井上王および、皇太子・他戸王がされ、高野との間の子・山部王が皇太子とされたのである。天皇難波王が亡くなると、井上王、他戸王を閉し、二人とも怪死する。
なお、天皇の時代は宝十一年(780年)に治呰麻呂の乱に代表される、羽での三十八年戦争が盛んになった時代でもあった。

そして応元年(781年)、山部王、つまり桓武天皇が即位する。天皇はその年のうちに亡くなる。あけて延元年(782年)、焼王の子・氷上川継が謀反を起こそうとしているという事件が起きる。氷上川継や母親不破王は流罪にされ、藤原成といった人々が処罰された。加えて左大臣・藤原名も降格左遷された。

そしてついにからの遷都が行われ、時代は平安時代になっていく。

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