きんめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【欽明天皇】
きんめいてんのう 【欽明天皇】
欽明天皇
欽明天皇は、宣化天皇の娘で皇后の石姫皇女との間に訳語田渟中倉太珠敷尊(後の敏達天皇)らをもうけ、さらに蘇我稲目の娘の堅塩媛・小姉君を皇妃として迎えた。
堅塩媛との間には橘豊日尊(後の用明天皇)、豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)をもうけ、一方小姉君との間には泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)、聖徳太子の母となる泥部穴穂部皇女をもうけた。
欽明天皇の時代に、行き詰まっていた朝鮮半島経営が破綻し百済の任那への侵食がはじまり、ついで新羅の任那への侵攻を許し日本の朝鮮半島の拠点である任那を失った。
しかし、高句麗・新羅の圧迫を受けていた百済との外交・交易は盛んで、この時代に『仏教』が伝来するなど大陸文化が流入した。
また、蘇我稲目の台頭が著しく天皇家との繋がりを深め、稲目による中央集権的な政治体制が芽生えはじめた時代でもあった。
そして、蘇我稲目の仏教崇拝と物部尾興・中臣鎌子の国つ神を祀るべきとする両者が、互いに相手を非難し論争したのもこの時代の特色である。
欽明は新羅を討ち任那の再興を遺言してこの世を去った。
初見として、この欽明の崩御の後「モガリ」の儀礼が行われたとある。
第29代天皇 | |
天皇名 | 欽明天皇 |
読み方 | きんめいてんのう |
名・諱等 | 天国排開広庭天皇 |
読み方 | あめのくにおしはらきひろにわ |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 539?年から571?年 |
生年 | 生年不詳 |
没年 | 没年不詳 |
父 | 継体天皇 |
母 | 手白香皇女 |
兄弟 | 安閑・宣化 |
配偶者 | 石姫皇女 |
皇子女 | 訳語田渟中倉太珠敷尊 |
即位宮 | 磯城島金刺宮 |
天皇陵 | 檜隈坂合陵 |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字平田 |
欽明天皇 檜隈坂合陵
(きんめいてんのう ひのくまのさかあいのみささぎ)
欽明天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/10 23:45 UTC 版)
欽明天皇(きんめいてんのう、509年〈継体天皇3年〉 - 571年5月24日〈欽明天皇32年4月15日〉[1])は、日本の第29代天皇(在位:539年12月30日?〈宣化天皇4年12月5日〉 - 571年5月24日?〈欽明天皇32年4月15日〉)。
注釈
- ^ 「日本書紀」欽明天皇23年6月条に天皇が新羅が任那を滅ぼしたことを非難して任那再建を命じた詔を掲載しているが、これは「梁書」王僧弁伝に掲載された侯景打倒の誓盟文(552年)から引用した創作である。ただし、侯景の乱自体が欽明天皇期に起きた中国梁の事件であり、梁の侯景の乱と倭の任那喪失が前後して起きた結果、両国と同盟を結んでいた百済が苦境に陥っており、単なる創作ではなく倭にいた百済系フミヒト(書記官)によって創作された可能性があるとされる[2]。
- ^ 「日本書紀」には新羅は白旗を立てて欺いたと書かれている。同年の「三国史記」の新羅本紀にも伽耶が反乱を起こしたため、軍隊を送り、白旗を立てて敵を驚かせたという似た記述が見られる。
- ^ 天皇という称号が初めて使われた天皇が推古天皇または天武天皇で、それ以前は大王が使われていたという説も存在するが、ここでは扱わないこととする。
- ^ 「古事記」欽明天皇段には「弟(おと)、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇、師木島(しきしま)の大宮に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。師木島の大宮は、奈良県磯城郡に位置する。
出典
- ^ 「神皇正統録 上」(「続群書類従 第29輯ノ上 雑部」p.13)
- ^ 遠藤慶太「欽明紀における漢籍典拠」(初出:新川登亀男・早川万年編「史料としての「日本書紀」 津田左右吉を読みなおす」(勉誠出版、2011年)/改題所収:遠藤「欽明紀〈任那〉復建詔の漢籍典拠」「日本書紀の形成と諸資料」(塙書房、2015年)
- ^ “欽明天皇の宮殿?大型建物跡、桜井の遺跡で”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2010年6月3日) 2010年6月3日閲覧。
- 1 欽明天皇とは
- 2 欽明天皇の概要
- 3 即位年をめぐる議論
- 4 仏教公伝
- 5 脚注
「欽明天皇」の例文・使い方・用例・文例
欽明天皇と同じ種類の言葉
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