日々のこと

定期更新じゃないので、ブログというよりコラムです。

フリーになったご報告と、人生ままならない話

ご報告です。

私、浅野真澄は、12年間お世話になった青二プロダクションを離れ、2021年1月1日から、フリーランスとして活動していくことになりました。

声優の仕事をはじめて、丸20年。温かく居心地のいい実家を出て、一人暮らしをはじめる新成人――今、そんな心境に近いかもしれません。

正直、不安もあります。でも、たくさん悩んで、自分で決めて踏み出した冒険の旅、こうなったらとことん味わい尽くそう!そう思っています。

「言葉」と「声」によって創り出される世界が、私は好きです。どんな声で伝えるかで、同じ言葉なのに意味が変わったり、聞いた人の心に、それまでなかった感情が生まれたり。そんな奥深い世界を、生涯をかけて真摯に極めていきたいのです。

これからも、声優としてナレーターとして、精進していきます。どうか今までと変わらず、応援していただけたら嬉しいです。

2021年からも、浅野真澄を、よろしくお願いいたします。

浅野真澄/あさのますみ official website】↓ご連絡、ボイスサンプルはこちらから

f:id:masumi_asano:20201228210349j:plain

そしてここからが、人生ままならない話。残念ながら明るい話ではありません。でも、こういう経験談を必要としている人もいると思うので、ありのままを書かせていただきました。気分じゃない方は、ぜひ読み飛ばして下さい。

 

 ☆

 

フリーになろうと決意した理由のひとつに、父の介護が始まりそうだから、というのがありました。なにかのときすぐ対応できるように、スケジュールを自分で決められる仕事形態にしよう。そんな思いからでした。

ところが。あと数週間でフリーランス生活がはじまる12月半ば、父は、持病だった間質性肺炎が急性増悪し、たった10日間の入院で、あっというまに逝ってしまいました。コロナの影響で面会が極端に制限される中、きちんと話もできないままのお別れでした。

不養生だった父は、自分が難しい肺炎を患っていることを、認識していませんでした。当然家族も把握しておらず、最初は母も私も、二人の弟たちも、父は数日の入院で回復するものと思っていました。

でも、1日に1度かかってくる病院からの電話は、いつも必ず「前日より悪化しました」。母はそのうち電話に怯えるようになり、私が代わりに内容を聞きました。その頃のメモが出てきたのですが、

ステロイド前日のさらに10倍 悪化 延命措置どうするか今日午後までに決断 

シクロスポリン 重い副作用 心臓に負担 酸素濃度すでに上限値 かなり危険」

よれた文字で、こんな走り書きがしてありました。

病院から、突然呼び出されることもありました。それはつまり、容態悪化を意味するのでした。そういうときだけは数分ですが父に会わせてもらえるので、毎回大急ぎで駆けつけました。

私の家から病院まで、高速道路で約1時間。まだ初心者マークの私はいつも、Spotifyから流れる曲を、大声で歌いながら車を走らせました。

映画やドラマで、涙を浮かべたヒロインが道路を爆走、なんて場面を見たことがありますが、高速道路にまだ数回しか乗ったことがない私の運転技術では、ゆがんだ視界での走行ってとんでもなく危険なのです。頭の中を、歌だけでいっぱいにしようと躍起になりながら、こう思わずにはいられませんでした。

ああ、人生はままならないなあ。

きっと傍から見たら私は、ご陽気なドライバーに見えるんだろう。タクシー運転手だった父に、上手な運転を見せたくて毎日練習したのに、下の弟のところには、父待望の孫が、あと2ヶ月で生まれるのに――勝手に湧き出す思考をふり払いつつ、大声で歌いながら高速道路を何往復もしたあの10日間を、私は生涯忘れないと思います。

 

父は、控えめに言っても、身勝手でめちゃくちゃな人でした。

18歳だった私が、やっと取得した大学の奨学金を、黙って全部使いこんじゃうくらいには身勝手でした。父のおかげで、お金にまつわるエピソード満載の毎日。私にとっては「尊敬できる父親」って、ユニコーンと同じくらい、想像上の生き物です。

でも、その一方で父は、身勝手さと矛盾するような愛情深さもまた、持っていました。

父の容態を聞いて、上の弟の元奥さんが、病院に数年ぶりに会いに来てくれたことがありました。そのとき父は、すでに高度治療室に入っていて、高濃度の酸素をどうにか吸わせ呼吸を維持するという、かなり苦しい状態だったのに、彼女の顔を見るなり両手を持ち上げて、

「よかった! 離婚してから、元気にしてるのかずっと心配で心配で……顔が見れてよかった、よかった!」

と、泣き出したそうです。シングルマザーになった彼女のことを、父は長いあいだ、とても案じていたのです。

おいお父さんよ、私のときはもっとリアクション薄かったじゃんよ。そう思いながらも、父が渾身の力で口にしたのだろうその言葉は、かつての身勝手さに対してほんのちょっと溜飲が下がるような、私にとっても忘れられないメッセージになりました。

その日を最後に、父は言葉を発する力がなくなり、緩和ケアに移行。クリスマスの日の明け方、静かに旅立ってゆきました。

 

 

人生のままならなさを実感しながら迎える2021年、そして、フリーランス元年。

年末、身辺が落ち着かなかったことで、ごく一部の方にしかフリーになることを直接ご連絡できませんでした。この場を借りて、不義理をお詫びいたします。

不安はあります。でも、覚悟を決めて、臆せず一歩踏み出してみようと思います。

願わくば、出会いに恵まれたよき年になりますように。

お仕事のご依頼、お待ちしております!