はじめに-源頼朝とはどんな人物だったのか
源頼朝は、平安末期~鎌倉初期の武将であり、鎌倉幕府の初代将軍です。それまでの貴族中心の政治を脱し、武士中心の政治を確立していきました。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、主役である義時を右腕に天下を狙う武将(演:大泉洋)として描かれます。
⽬次
はじめにー源頼朝とはどんな人物だったのか
源頼朝が生きた時代
源頼朝の足跡と主な出来事
まとめ
源頼朝が生きた時代
平安末期には、武士として初めて実権を握った平清盛が政治をほしいままにしていました。清盛は「平氏でなければ人ではない」と言うほど驕りたかぶり、貴族や他の武士などの反感を買っていました。こうした中で、東国から平氏を打つべく挙兵したのが、源頼朝だったのです。
源頼朝の足跡と主な出来事
源頼朝は、久安3年(1147)に生まれ、正治元年(1199)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
源義朝の第三子として誕生
源頼朝は武将・源義朝(よしとも)の三男として誕生しました。母は熱田神宮の宮司・藤原李範(すえのり)の娘である由良御前(ゆらごぜん)です。
保元3年(1158)、頼朝は12歳で皇后宮権少進(こうごうぐうのごんのしょうじん)に任官。翌年2月に鳥羽法皇の皇女・上西門院に仕える上西門院蔵人となりました。6月には後白河上皇の皇子・二条天皇に仕え、蔵人に任じられます。その昇進の速さから、若くして優秀な人物だったことがうかがえます。
平治の乱が起こる
頼朝の父・源義朝は藤原信頼(のぶより)とともに、平治元年(1159)12月、平清盛の熊野詣での留守をねらってクーデターを起こし、政権の奪取に成功しました。このとき、義朝は播磨守、頼朝は従五位下右兵衛佐と呼ばれる官位を叙任。しかし、信頼らは帰京した清盛との合戦に敗れ、義朝は東国へ敗走しました。この戦いを「平治の乱」といいます。
伊豆へ流される
その後、頼朝は父・義朝とともに東国へ逃れようとしましたが、父は尾張内海で武将・長田忠致(ただむね)に謀殺されました。頼朝自身も美濃において、平頼盛(よりもり)の郎党・平宗清(むねきよ)に捕らえられ、京都に護送されました。まさに斬罪に処せられんとするところを清盛の義母・池禅尼(いけのぜんに)の口添えによって死を免れ、解官のうえ伊豆に配流されることとなりました。
頼朝は、以後20年間にわたって読経三昧の日々を過ごしたとされています。しかし、この間も天野遠景(とおかげ)、土肥実平(さねひら)、岡崎美実(よしざね)ら伊豆、相模の武士たちと連絡を続け、京都の三善康信(みよしやすのぶ)から情報を受け取るなどして、政治情況の変化を適確に把握していました。北条時政の娘である北条政子との結婚もこの間の出来事です。
源氏の挙兵から源平合戦が始まる
治承4年(1180)5月には、後白河上皇の皇子・以仁王(もちひとおう)と源頼政が平氏打倒をスローガンに挙兵。以仁王の令旨を受けた頼朝は、時政らの援助を得て、8月、伊豆の目代・山木兼隆(かねたか)を討って反平氏の旗幟を鮮明にしました。
平氏は頼朝を討つために平維盛(これもり)を派遣しました。両軍は富士川で対陣しましたが、夜襲を極度に恐れていた平氏の軍勢は、水鳥の羽音に驚いて戦わずして敗走したとされています。その後、頼朝は祖先の地である鎌倉にて東国経営に努めました。頼朝に対して自立の動きを示していた常陸の佐竹氏を討滅し、ついで傘下の武士たちを統率する機関として「侍所」を設置しました。
養和元年(1181)2月に平清盛が病死すると、頼朝は後白河法皇に密奏して法皇への忠誠を誓うとともに、源平の共存を申し入れました。しかし、この案は平氏によって拒絶されます。その後、源義仲(よしなか)が平氏を追って入京しますが、彼の政治力の欠如と義仲軍の狼藉が京都貴族の反発を呼び、義仲はしだいに後白河法皇と対立するに至ります。頼朝はこの機を逸することなく再度奏上し、法皇と貴族の歓心を買うことに成功しました。そして寿永2年(1183)10月には、東国諸国の支配権を公的に承認されています。
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす
寿永3年(1184)正月、頼朝は6万の大軍を京都に進め、義仲攻撃を開始しました。義仲を近江に討滅した鎌倉軍は、勢力を回復して摂津福原に戻っていた平氏を一ノ谷で破りました。文治1年(1185)2月には屋島で勝利し、ついに3月には壇ノ浦へと追い詰め、平氏を滅亡させたのでした。
この間、頼朝は鎌倉にあって、寿永3年(1184)10月には「公文所」と「問注所」を設置し、幕府の体制を着々と強化していきました。平氏滅亡後、頼朝は北条時政らを上洛させ、全国武将たちの反乱防止の具体策として「守護・地頭」の設置を法皇に承認させました。これは、幕府の支配権を西国にまで及ぼす契機となりました。
平氏滅亡後、源義経と後白河法皇との接近を恐れた頼朝は、義経謀反事件を捏造 し、法皇の責任を追及するとともに、義経追討の院宣 (いんぜん) を出させました。その後の文治5年(1189)、頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を討ち、葛西清重(きよしげ)を陸奥の奉行に命じ、陸奥、出羽を幕府の直轄領としました。こうして源平争乱の開始以来10年にして内乱は終息し、幕府の支配権は全国に及ぶこととなったのです。
征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開く
建久3年(1192)3月後白河法皇が没すると、九条兼実の計らいによって同年7月に頼朝はついに征夷大将軍に補任されました。これから数年の間、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義(かげよし)が鎌倉を追われるなどの事件が続きます。幕府内で深刻な権力闘争が展開し、北条氏が勢力を伸張させていったのです。
建久6年(1195)3月、頼朝は東大寺再建供養に臨むため上洛。妻子を伴っての上洛は、娘の大姫(おおひめ)の入内工作を促進する目的も持っていました。しかし大姫が死去したことにより、入内の計画は実現することなく終わります。
謎に包まれた死を遂げる
建久9年(1198)の暮れ、頼朝は、政子の妹の追福のために新造した相模川の橋の供養に参加しました。しかしその帰途に落馬し、正治1年(1199)正月13日、53歳で死去しました。死因は様々に憶測されていますが、不明となっています。
幕府の公式な日録であるといわれる『吾妻鏡』は、なぜか建久7年(1196)から正治1年(1199)2月までの記述が欠落しており、鎌倉幕府の創設者の死を正確に伝える記録はないとされています。とはいえ、頼朝の死はいち早く京都に伝えられ、世間に大きな衝撃を与えることとなりました。
まとめ
高いリーダーシップで源氏・東国御家人を一つにまとめ上げ、平家滅亡、幕府の設立などを成し遂げた源頼朝。彼が築いた多くの功績は、武士の社会を目指す意志の強さと好機を逃さない鋭い判断力があったから成せたことだったのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)