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樺山資雄 (官僚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
樺山資雄
樺山資雄・直子夫妻の墓(青山霊園内)。東京都港区南青山

樺山 資雄(かばやま すけお、1839年5月27日天保10年4月15日) - 1899年明治32年)11月16日)は、幕末薩摩藩士明治期の官僚。官選県知事。旧姓・春山。

経歴

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薩摩藩士・春山休兵衛の四男として鹿児島城下で生まれる。母は高島鞆之助の父方叔母[1]。幼名は八十次。嘉永3年(1850年)元服し春山直在(なおあきら)と名乗る。文久2年(1862年)、樺山弥左衛門資始の娘・直子と結婚して、直子の祖父・樺山十郎太資容の養子となり、樺山平左衛門資雄と改名した。ちなみに妻・直子の母である阿幾は大久保利通の母・福の実妹。

明治5年1月15日1872年2月23日)、新政府に出仕し都城県大属に就任。同年8月27日(9月29日)、陸軍省に転じ十等出仕となり、さらに陸軍会計軍吏補に就任。

1876年1月、地租改正事務局九等出仕となる。1878年7月、茨城県一等属に任じられ、租税課長兼土木課長を務めた。1881年5月、内務一等属となり、以後、内務省御用掛、秋田県少書記官、栃木県少書記官、同県大書記官などを歴任。

1885年1月、栃木県令に就任。以後、栃木県知事、佐賀県知事を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行い死傷者を出し、同年8月に非職となる。1895年3月、岐阜県知事として復帰し、さらに宮城県知事を務める。1898年6月、宮崎県知事に任じられたが、1899年8月、病のため休職。栃木県上都賀郡鶴田の別荘で療養したが、同年11月16日に死去した。

栄典・受章・受賞

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位階
勲章等

親族

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脚注

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  1. ^ 高島鞆之助三崎一明、追手門経済論集 42 (1), 117-163, 2007-09-30
  2. ^ 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
  3. ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
  4. ^ 『官報』第4898号「叙任及辞令」1899年10月27日。
  5. ^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
  6. ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  7. ^ 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
  8. ^ 『官報』第2703号「叙任及辞令」1892年7月2日。
  9. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
  10. ^ 『官報』第4900号「叙任及辞令」1899年10月30日。

参考文献

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  • 『樺山資英傳』樺山資英伝刊行会、1942年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 内閣「休職宮崎県知事正四位勲三等樺山資雄特旨叙位ノ件」明治32年。アジア歴史資料センター レファレンスコード:A10110627000