島朗
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島 朗 九段 | |
---|---|
名前 | 島 朗 |
生年月日 | 1963年2月19日(61歳) |
プロ入り年月日 | 1980年9月18日(17歳) |
棋士番号 | 146 |
出身地 | 東京都世田谷区 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 高柳敏夫名誉九段 |
弟子 | 水町みゆ |
段位 | 九段 |
棋士DB | 島 朗 |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 1期 |
一般棋戦優勝回数 | 3回 |
2017年1月21日現在 |
島 朗(しま あきら、1963年2月19日 - )は、将棋棋士。棋士番号146。高柳敏夫名誉九段門下。東京都世田谷区出身。
来歴
[編集]- 1980年四段プロデビュー。いわゆる「55年組」の一人である。
- 1988年度の第1期竜王戦で米長邦雄に4-0のストレート勝ちし、初代竜王に輝く。3組2位からの竜王戦出場・竜王位獲得は共に史上唯一である[注 1]。島が竜王になるとはほとんど予想されていなかったため、「シンデレラボーイ」と呼ばれた。翌年の第2期竜王戦では羽生善治に3勝4敗(1持将棋)で敗れた[注 2]。
- 第38期王将戦(1988年度)、第65期棋聖戦(1994年度後期)、第44期王座戦(1996年度)、第45期王座戦(1997年度)では挑戦者になるも、いずれもストレートで敗れてタイトル獲得はならなかった。
- NHK杯テレビ将棋トーナメントでは、第39回(1989年度)と第42回(1992年度)で準優勝となった。第42回の決勝戦の相手は同門兄弟子の中原誠で、NHK杯決勝戦初の同門兄弟弟子対決であった。
- 1989年度の第10回JT将棋日本シリーズでは準優勝。第4期竜王戦(1991年度)と第6期竜王戦(1993年度)では1組で優勝した。
- 2004年8月8日、静岡市民文化会館で行われた第25回JT将棋日本シリーズ1回戦第4局で藤井猛に勝ち、1046局目の対局にして通算600勝に到達。森内俊之に次いで、史上30人目の将棋栄誉賞に輝く[注 3]。
- 2006年度の第47期王位戦リーグで白組優勝を果たした。
- 2018年2月6日、第76期順位戦C級1組10回戦で、門倉啓太に勝ち、1471局目の対局にして通算800勝に到達。同じ55年組の南芳一に僅か半月程遅れる形で、史上21人目の将棋栄誉敢闘賞に輝く[1]。
棋風
[編集]- 基本的に居飛車党であるが、著書には振り飛車を詳細に解説した大著「島ノート」がある[注 4]。
- 独特の美意識を持った人物であり、かつては形勢が不利になるとあっさり投了してしまうことから「早投げの代表格」とも呼ばれた[2]。しかし「自分の投了図を将棋ソフトに調べさせたら、何局も『優勢』と形勢判断された」ことから、2019年に「これからは早く投了しないようにします」と語っている[2][3]。
- 第61回NHK杯テレビ将棋トーナメント1回戦第18局で女流棋士の甲斐智美と対局。女流棋士との公式戦初手合となった。結果は甲斐のゴキゲン中飛車に対し、島が4筋の位を取る珍しい作戦にでて快勝した。流行型を指しこなしつつも、矢倉中飛車などの古くからある作戦に独自の工夫を加えていく島らしい戦型選択であった。
→「島朗 § 主な著書」も参照
人物
[編集]将棋
[編集]- 若手棋士との研究会や、パソコンによるデータ管理など、将棋界に新風を吹き込んだ[注 5]。中でも、羽生善治・佐藤康光・森内俊之が参加していた「島研」(1986年(昭和61年)頃から1990年(平成2年)頃まで)は伝説的研究会といわれる。島が名付けたのではないが、米長邦雄が各方面で言及した結果、定着した。島研のメンバーはのちに全員が竜王位を経験し[4]、島以外は全員が名人位につき、八冠いずれかの永世称号資格保持者となった。
- 島はNHK杯の解説で、指された手に対して数年前の対局の棋譜を並べだすこともよくあった。
- 若手時代は将棋と定時制高校の青春時代の反動からプレイボーイとなり[5]、第1期竜王戦ではブランド物(アルマーニ)のスーツで現れ、マスコミを賑わせた[注 6]。「高額な盤駒を購入するくらいなら、ブランドのスーツを買う」と述べたこともあった。2004年の談話では、「スーツを着るからには変なスーツを着るわけにはいかなかった。和服を着ておけば楽だったものを、一体当時は何を考えていたのか…」などと述懐している[6]。ただ2018年のインタビューでは、「(ウィキペディアにいろいろ書かれているために)アルマーニのスーツを着てタイトル戦に臨んだというイメージがあるようだが、1着しか持っていない」「当時は和服の着付けができなかったので、和服着用はハンデと考えたから」とも述べている[7]。
そして竜王戦の賞金は服と靴と車に消えた。当時バブル景気が賑わっていたと言う背景もあった。また、多額の税金も支払ったとされている[6]。 翌年の竜王戦は羽生善治との対戦であったが、初日の終了後に、羽生らとモノポリーに興じた[注 7]。
- 王座戦等の観戦記を執筆。棋士の観戦記には評論のような文章が多いとされるなかで、独特の文体と描写で物語のような文章となっている。
自著の「角換わり腰掛け銀研究」は1995年に第7回将棋ペンクラブ大賞著作部門大賞を受賞した。この本はあまりに詳細にわたる研究だったため、島自身も忘れている部分があり、若手棋士との対局で島がある変化手順について尋ねたところ、「島先生の本に載ってました」と答えられたというエピソードがあるほどである。
- テレビ対局の銀河戦[注 8]で、持ち駒の銀将を裏返した状態(成銀)で打って反則負けとなった[注 9]。島は、「銀河戦で使用する駒は表・裏とも1文字のもので、金将と成銀の書体が似ているために起こったハプニングである」と将棋世界1998年9月号で述懐した。
- 従来、将棋の駒は盤の枠内の真ん中に置くものとされていた。それに対し島は駒を枠内の手前の線にピッタリ置く。駒音も静かであり、後に多くの若手棋士が島のスタイルに追随していった。中村修はNHK杯の解説で、「島さんの功績・功罪」と述べていた。
丸山忠久との相性
[編集]- 丸山忠久との相性が悪く、公式戦初対局から0勝21敗と完封されている(2023年10月6日現在)。ともにタイトル経験者(丸山は名人2期・棋王1期)かつA級在位経験者というトップ棋士同士で、これだけの大差が生じるのは非常に珍しい。非公式戦のため記録には計上されていないが、上述反則負けの際の相手も丸山であった。
対局日 | 棋戦 | 先後 | 戦型 | 結果 | |
---|---|---|---|---|---|
1990年12月 3日 | 第13回勝ち抜き戦 | 予選 | 後手 | ● | |
1991年 7月30日 | 第10回全日プロ | 3回戦 | 先手 | 陽動振り飛車 | 千日手 |
3回戦千日手指し直し局 | 後手 | 角換わり腰掛銀 | ● | ||
1992年 1月10日 | 第40期王座戦 | 二次予選2回戦 | 後手 | 角換わり腰掛銀 | ● |
1992年 9月14日 | 第14回勝ち抜き戦 | 本戦 | 後手 | 向かい飛車 | ● |
1995年 6月27日 | 第45期王将戦 | 二次予選1回戦 | 先手 | 矢倉 | ● |
1995年 8月 7日 | 第45回NHK杯戦 | 本戦2回戦 | 先手 | 横歩取り | ● |
1995年 9月11日 | 第67期棋聖戦 | 二次予選2回戦 | 後手 | 相掛かり | ● |
1998年 7月 1日 | 第6期銀河戦 | 本戦Aブロック22回戦 | 先手 | 矢倉 | ●(反則) |
1998年 9月24日 | 第57期順位戦 | A級4回戦 | 先手 | 横歩取り | ● |
1999年11月16日 | 第58期順位戦 | A級5回戦 | 後手 | 角換わり | ● |
2002年 3月 6日 | 第21回勝ち抜き戦 | 本戦 | 後手 | 向かい飛車 | ● |
2002年 7月25日 | 第61期順位戦 | A級2回戦 | 後手 | 四間飛車 | ● |
2003年 2月10日 | 第52回NHK杯戦 | 本戦準々決勝 | 後手 | 中飛車 | ● |
2003年 6月22日 | 第24回日本シリーズ | 1回戦 | 先手 | 横歩取り | ● |
2004年 2月 3日 | 第62期順位戦 | A級8回戦 | 後手 | 向かい飛車 | ● |
2008年 2月 7日 | 第49期王位戦 | リーグ戦白組1回戦 | 後手 | 横歩取り | ● |
2009年11月 4日 | 第3回朝日杯 | 二次予選1回戦 | 先手 | 三間飛車 | ● |
2011年 9月26日 | 第61回NHK杯戦 | 本戦2回戦 | 後手 | 角換わり | ● |
2012年 2月10日 | 第25期竜王戦 | 1組ランキング戦1回戦 | 後手 | 相掛かり | ● |
2016年 9月21日 | 第58期王位戦 | 予選2回戦 | 後手 | ● | |
2017年 8月28日 | 第3期叡王戦 | 九段予選2回戦 | 先手 | 対抗型 | ● |
2023年10月 6日 | 第1期達人戦 | 予選準決勝 | 後手 | 雁木 | ● |
理事や顧問として
[編集]- 2005年5月から2007年5月まで、日本将棋連盟理事(普及事業、出版、会館担当)を1期務めた。理事在任中の実績として栄光ゼミナール主催の小学生将棋大会「栄光ゼミナール杯」誘致がある[注 10]。
- 2007年7月 渉外・普及特別顧問(東北担当)という新たな肩書きを将棋連盟に作ってもらい、2008年4月には自身も宮城県仙台市へ引っ越して、東北地方の将棋普及に本腰を入れている。朝日新聞の2008年10月17日付朝刊(宮城県内版)の記事によると、対局で訪れた仙台にほれ込んだといい、将棋好きな梅原克彦仙台市長(当時)に頼み込んで、仙台青葉まつりで青空将棋教室を毎年開催している。
- 2011年5月、日本将棋連盟非常勤理事に就任。併せて、東北統括本部長に就任。
- 2012年3月、女流棋士の鈴木環那と、やまがた特命観光・つや姫大使に就任。任期は三年。また、あったかふくしま観光交流大使にも就任している[9]。
- 2013年1月、日本将棋連盟常務理事に就任[10]。
- 2016年10月10日 自宅で会合を開き、三浦弘行九段のソフト不正使用疑惑問題について協議した。(参照:将棋ソフト不正使用疑惑)
- 2017年1月19日、体調不良により、常務理事を辞任すると表明していた件が、理事会で承認された[11]。
その他
[編集]- 麻雀愛好家であるが、先崎学の著書には「ハマりすぎるために麻雀牌を川に捨てた」という記述がある。しかし、2013年3月に出版された自著である「島研ノート 心の鍛え方」には、麻雀牌を捨てたのは事実でも川には捨てていないとする旨の内容がp222-223に記載されている。また、大のパチンコ好きでもあると先崎学の著書[12]にある。
- 社会問題への関心も強く、「THE・サンデー」や「しんぶん赤旗」のコメンテーターとしても活躍していた。
- 竜王戦第一局前夜祭で花束を贈呈したミス川崎と交際して結婚したが、2016年に亡くしている[13]。2018年頃に鈴木環那の母親と再婚した。配偶者を癌で亡くした者同士の再婚だった[14]。
弟子
[編集]女流棋士となった弟子
[編集]名前 | 女流プロ入り日 | 段位、主な活躍 |
---|---|---|
水町みゆ | 2018年5月1日 | 女流初段 |
(2020年4月1日現在)
昇段履歴
[編集]→昇段規定については「将棋の段級」を参照
- 1975年奨励会入会 5月 1日 : 6級 =
- 1975年 5月 1日 : 5級
- 1976年 3月 1日 : 4級
- 1976年 5月 1日 : 3級
- 1976年 6月 1日 : 2級
- 1976年12月 1日 : 1級
- 1977年 7月 1日 : 初段
- 1978年 1月 1日 : 二段
- 1979年 4月 1日 : 三段
- 1980年 9月18日 : 四段(奨励会規定・三段昇段後9連勝) = プロ入り
- 1984年 5月10日 : 五段(勝数規定 /公式戦100勝)
- 1986年 4月 1日 : 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1988年11月17日 (第1期竜王 獲得)
- 1989年 4月 1日 : 七段(特別昇段 /竜王獲得など抜群の成績)
- 1994年 4月 1日 : 八段(順位戦A級昇級)
- 2008年[15] 4月17日 : 九段(勝数規定 /八段昇段後公式戦250勝)
主な成績
[編集]獲得タイトル
[編集]は2024年12月現在の在位。登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。
他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照。
タイトル | 獲得年度 | 登場 | 獲得期数 | 連覇 | 永世称号(備考) |
竜王 | 1988 | 2回 | 1期 | 1 | - |
名人 | - | 0 | - | - | - |
王位 | - | 0 | - | - | - |
叡王 | - | 0 | - | - | - |
王座 | - | 2回 | - | - | - |
棋王 | - | 0 | - | - | - |
王将 | - | 1回 | - | - | - |
棋聖 | - | 1回 | - | - | - |
タイトル獲得 合計 1期 / 登場回数 合計6回 |
(1997年度王座戦終了まで)
- タイトル戦登場
- 竜王:2回(第1期=1988年度 - 2期)
- 王座:2回(第44期=1996年度 - 45期)
- 王将:1回(第38期=1988年度)
- 棋聖:1回(第65期=1994年度)
- 登場回数 合計 8回(1997年王座戦まで)
一般棋戦優勝
[編集]- 勝ち抜き戦(5連勝以上) 3回(第5回-1982年度・8回・9回)
非公式戦優勝
[編集]- 第16回 富士通杯達人戦 優勝
将棋大賞
[編集]- 第12回(1984年度) 新人賞・最多勝利賞
- 第16回(1988年度) 殊勲賞
在籍クラス
[編集]→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
開始 年度 |
順位戦 出典[16]
|
竜王戦 出典[17]
| ||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
|||||
1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1980 | 39 | 四段昇段前 | 第20期十段戦 予選敗退 | |||||||||||||||
1981 | 40 | C228 | 6-4 | 第21期十段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1982 | 41 | C211 | 6-4 | 第22期十段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1983 | 42 | C208 | 7-3 | 第23期十段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1984 | 43 | C207 | 10-0 | 第24期十段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1985 | 44 | C118 | 8-2 | 第25期十段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1986 | 45 | B220 | 6-4 | 第26期十段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1987 | 46 | B209 | 7-3 | 1 | 3組 | 5-1 | 3-1 | |||||||||||
1988 | 47 | B203 | 5-5 | 2 | 竜王 | -- | -- | |||||||||||
1989 | 48 | B209 | 6-4 | 3 | 1組 | -- | 1-2 | |||||||||||
1990 | 49 | B206 | 8-2 | 4 | 1組 | 0-1 | 4-0 | |||||||||||
1991 | 50 | B113 | 7-5 | 5 | 1組 | -- | 1-2 | |||||||||||
1992 | 51 | B105 | 6-6 | 6 | 1組 | 0-1 | 4-0 | |||||||||||
1993 | 52 | B105 | 8-3 | 7 | 1組 | -- | 2-2 | |||||||||||
1994 | 53 | A 09 | 4-5 | 8 | 1組 | -- | 1-2 | |||||||||||
1995 | 54 | A 07 | 5-4 | 9 | 1組 | -- | 1-2 | |||||||||||
1996 | 55 | A 05 | 4-5 | 10 | 1組 | -- | 2-2 | |||||||||||
1997 | 56 | A 05 | 4-5 | 11 | 1組 | -- | 0-2 | |||||||||||
1998 | 57 | A 07 | 3-5 | 12 | 2組 | -- | 4-2 | |||||||||||
1999 | 58 | A 06 | 3-6 | 13 | 2組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2000 | 59 | A 08 | 3-6 | 14 | 2組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2001 | 60 | B101 | 11-1 | 15 | 2組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2002 | 61 | A 09 | 4-5 | 16 | 2組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2003 | 62 | A 08 | 2-7 | 17 | 2組 | -- | 0-3 | |||||||||||
2004 | 63 | B101 | 6-6 | 18 | 3組 | 0-1 | 3-1 | |||||||||||
2005 | 64 | B106 | 5-7 | 19 | 2組 | -- | 2-2 | |||||||||||
2006 | 65 | B109 | 7-5 | 20 | 2組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2007 | 66 | B106 | 3-9 | 21 | 2組 | -- | 0-2 | |||||||||||
2008 | 67 | B201 | 7-3 | 22 | 2組 | -- | 4-1 | |||||||||||
2009 | 68 | B204 | 5-5 | 23 | 2組 | -- | 2-2 | |||||||||||
2010 | 69 | B210 | 7-3 | 24 | 2組 | -- | 3-1 | |||||||||||
2011 | 70 | B205 | 6-4 | 25 | 1組 | -- | 0-2 | |||||||||||
2012 | 71 | B207 | 4-6 | 26 | 2組 | -- | 0-2 | |||||||||||
2013 | 72 | B212x | 1-9 | 27 | 2組 | -- | 4-1 | |||||||||||
2014 | 73 | B225* | 5-5 | 28 | 2組 | -- | 0-2 | |||||||||||
2015 | 74 | B216*x | 3-7 | 29 | 3組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2016 | 75 | C101x | 2-8 | 30 | 3組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2017 | 76 | C133* | 5-5 | 31 | 3組 | -- | 0-2 | |||||||||||
2018 | 77 | C121* | 4-6 | 32 | 4組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2019 | 78 | C125* | 5-5 | 33 | 4組 | -- | 0-3 | |||||||||||
2020 | 79 | C118*x | 1-9 | 34 | 5組 | -- | 0-3 | |||||||||||
2021 | 80 | C204 | 3-7 | 35 | 6組 | -- | 2-2 | |||||||||||
2022 | 81 | C242 | 4-6 | 36 | 6組 | -- | 3-2 | |||||||||||
2023 | 82 | C241 | 4-6 | 37 | 6組 | -- | 1-2 | |||||||||||
2024 | 83 | C238 | 38 | 6組 | -- | |||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
年度別成績
[編集]本節には
- 「出典元」が存在しない内容・データ
- 「出典元」と一致しない内容・データ
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
---|---|---|---|---|---|
1980 | 16 | 9 | 7 | 0.5625 | [18] |
1980 (小計) |
16 | 9 | 7 | ||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
1981 | 34 | 18 | 16 | 0.5294 | [19] |
1982 | 54 | 36 | 18 | 0.6667 | [20] |
1983 | 50 | 32 | 18 | 0.6400 | [21] |
1984 | 60 | 44 | 16 | 0.7333 | [22] |
1985 | 63 | 41 | 22 | 0.6508 | [23] |
1986 | 51 | 34 | 17 | 0.6667 | [24] |
1987 | 56 | 36 | 20 | 0.6429 | [25] |
1988 | 63 | 41 | 22 | 0.6508 | [26] |
1989 | 52 | 29 | 22 | 0.5686 | [27] |
1990 | 52 | 30 | 22 | 0.5769 | [28] |
1981-1990 (小計) |
586 | 341 | 245 | ||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
1991 | 37 | 23 | 14 | 0.6261 | [29] |
1992 | 40 | 22 | 18 | 0.5500 | [30] |
1993 | 38 | 24 | 14 | 0.6316 | [31] |
1994 | 41 | 17 | 24 | 0.4146 | [32] |
1995 | 39 | 22 | 17 | 0.5641 | [33] |
1996 | 40 | 21 | 16 | 0.5250 | [34] |
1997 | 37 | 17 | 20 | 0.4595 | [35] |
1998 | 36 | 16 | 20 | 0.4444 | [36] |
1999 | 45 | 24 | 21 | 0.5333 | [37] |
2000 | 33 | 14 | 19 | 0.4242 | [38] |
1991-2000 (小計) |
386 | 200 | 186 | ||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
2001 | 32 | 17 | 15 | 0.5313 | [39] |
2002 | 43 | 25 | 18 | 0.5814 | [40] |
2003 | 25 | 7 | 18 | 0.2800 | [41] |
2004 | 35 | 17 | 18 | 0.4857 | [42] |
2005 | 37 | 21 | 16 | 0.5676 | [43] |
2006 | 37 | 19 | 18 | 0.5135 | [44] |
2007 | 35 | 12 | 23 | 0.3429 | [45] |
2008 | 42 | 24 | 18 | 0.5714 | [46] |
2009 | 32 | 20 | 12 | 0.6250 | [47] |
2010 | 34 | 18 | 16 | 0.6765 | [48] |
2001-2010 (小計) |
352 | 180 | 172 | ||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
2011 | 34 | 18 | 16 | 0.5294 | [49] |
2012 | 26 | 8 | 18 | 0.3077 | [50] |
2013 | 28 | 10 | 18 | 0.3571 | [51] |
2014 | 25 | 9 | 16 | 0.3600 | [52] |
2015 | 24 | 7 | 17 | 0.2917 | [53] |
2016 | 23 | 4 | 19 | 0.1739 | [54] |
2017 | 28 | 11 | 17 | 0.3929 | [55] |
2018 | 23 | 6 | 17 | 0.2609 | [56] |
2019 | 27 | 10 | 17 | 0.3704 | [57] |
2020 | 24 | 3 | 21 | 0.1250 | [58] |
2011-2020 (小計) |
262 | 86 | 176 | ||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
2021 | 27 | 9 | 18 | 0.3333 | [59] |
2022 | 27 | 11 | 16 | 0.4074 | [60] |
2023 | 36 | 18 | 18 | 0.5000 | [61] |
2021-2023 (小計) |
90 | 38 | 52 | ||
通算 | 1640 | 859 | 781 | 0.5238 | [62] |
2023年度まで |
その他表彰
[編集]- 2004年将棋栄誉賞(公式戦通算600勝達成、通算 1046局/ 600勝445敗、持将棋1/ 勝率0.574)[63] 8月 8日 -
- 2005年 現役勤続25年
- 2018年将棋栄誉敢闘賞(公式戦通算800勝達成、通算 1471局/ 800勝670敗、持将棋1/ 勝率0.544)[1] 2月 6日 -
主な著書
[編集]- 角換わり腰掛け銀研究(1998年9月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-0066-3)
- 第7回将棋ペンクラブ著作部門大賞受賞作。
- 純粋なるもの(1996年11月、河出書房新社、ISBN 4-309-26300-3)(1999年、新潮文庫)
- 島ノート 振り飛車編(2002年11月、講談社、ISBN 4-06-211633-2)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 第19期から制度が変わり、3組からは優勝者しか本戦に出られなくなったため。
- ^ これが羽生の初タイトル獲得となった。
- ^ 599勝目を挙げて以降、12連敗を喫するという大変な難産の末の達成であった。
- ^ 元囲碁名人の依田紀基はこれに倣って「依田ノート」を著している。
- ^ 当時、棋士は研究を一人で行うのが普通であった。
- ^ タイトル戦でスーツを着用した例は島の他には加藤一二三及び村山聖(1993年・第24期王将戦で谷川浩司王将の挑戦者となったが、和服の発注が間に合わず、第1・2局のみスーツ姿で対局に臨んだ。)、永瀬拓矢、藤井聡太(2020年・第91期棋聖戦で渡辺明棋聖の挑戦者となったが、第1・2局のみスーツ姿で対局に臨んだ。)以外知られていない。
- ^ 「対局者同士は別行動」がそれまでの常識であった。
- ^ 対丸山忠久戦、1998年、当時は非公式戦。
- ^ 第1期新銀河戦(非公式棋戦)1回戦の藤井聡太竜王 対 田中寅彦九段の対局(2022年4月2日配信)に於いても同様に、田中九段が駒台にある「裏返した状態の銀将(成銀)」を隣の金将と取り違えて盤面に打ち反則負けとなった。
- ^ 島は理事選挙立候補時の公約の一つとして「教育業界との連携による普及事業推進」を掲げていた。
出典
[編集]- ^ a b “島朗九段、800勝(将棋栄誉敢闘賞)達成|将棋ニュース|日本将棋連盟”. www.shogi.or.jp. 2024年8月12日閲覧。
- ^ a b “将棋のはなし(75)信用も大きな武器 | カルチャー | カナロコ”. web.archive.org (2019年6月20日). 2024年8月12日閲覧。
- ^ “2019年7月30日~7月31日 七番勝負 第2局 豊島将之王位 対 木村一基九段|第60期王位戦”. live.shogi.or.jp. 2024年8月12日閲覧。
- ^ 『日本将棋用語事典』pp.87-90, 93
- ^ 将棋ペンクラブログ (2013年7月26日). “島朗九段のルーツ”. 将棋ペンクラブログ. 2024年8月12日閲覧。
- ^ a b 『日本将棋用語事典』pp.175-178
- ^ 「文春オンライン」編集部. “初代竜王・島朗九段が考える「コンピューター将棋」と世代交代 | 観る将棋、読む将棋 | 文春オンライン” (日本語). 文春オンライン 2018年11月10日閲覧。
- ^ “「将棋の棋譜でーたべーす」”. ww38.wiki.optus.nu. 2024年8月12日閲覧。
- ^ “島朗九段と鈴木環那女流初段がやまがた特命観光・つや姫大使に就任|将棋ニュース|日本将棋連盟”. www.shogi.or.jp. 2024年8月12日閲覧。
- ^ “島朗|棋士データベース|日本将棋連盟”. www.shogi.or.jp. 2024年8月12日閲覧。
- ^ 連盟公式サイト(Japan Shogi Association) 「将棋ニュース:臨時総会のお知らせ」(2017年01月19日 12:25)
- ^ まわり将棋は技術だ p.183
- ^ 伊藤果のTwitter(2016年8月19日)
- ^ 森内チャンネル♯19トーク編『勉強法と島研エピソードそして環那の重大発表あり!! (YouTube). 森内俊之の森内チャンネル. 21 August 2020. 2020年8月21日閲覧。
- ^ “島朗八段が九段に昇段(2008年4月17日付)|将棋ニュース|日本将棋連盟” (2008年4月17日). 2023年12月13日閲覧。
- ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
- ^ 「竜王戦」『日本将棋連盟』。
- ^ [1][名無しリンク]
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- ^ “島朗八段、通算600勝を達成(日本将棋連盟からのお知らせ)”. 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 原田泰夫 (監修)、荒木一郎 (プロデュース)、森内俊之ら(編)、2004、『日本将棋用語事典』、東京堂出版 ISBN 4-490-10660-2