ソマリア
- ソマリア連邦共和国
- Jamhuuriyadda Federaalka Soomaaliya
(ソマリ語)
جمهورية الصومال الفدرالية
(アラビア語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:Qolobaa Calanked
祖国を賛美せよ -
公用語 ソマリ語 首都 モガディシュ1 最大の都市 モガディシュ 独立
- 宣言
- 承認イギリスとイタリアより
1960年7月1日2通貨 ソマリア・シリング(SOS) 時間帯 UTC+3 (DST:なし) ISO 3166-1 SO / SOM ccTLD .so 国際電話番号 252 -
データには原則としてソマリランドを含む。
注1 : 2012年制定の暫定憲法より[3]
注2 : ソマリア北部は、1960年6月26日にイギリスから独立し、ソマリア南部は、1960年7月1日にイタリアから独立し、同時に両者は合併してソマリア共和国となった。
ソマリア連邦共和国(ソマリアれんぽうきょうわこく)、通称ソマリアは、東アフリカのアフリカの角と呼ばれる地域を領域とする国家。エチオピア、ケニアおよびジブチと国境を接し、インド洋とアデン湾に面する。
1991年勃発の内戦により国土は分断され、事実上の無政府状態が続いていた。のちにエチオピアの軍事支援を受けた暫定政権が発足し、現在では正式な政府が成立したが、依然として一部地域を他の国家であると主張する政府が統治している。現在の国土はソマリア連邦共和国政府が統治する中南部と、91年に独立宣言した旧英領のソマリランド共和国(首都ハルゲイサ、国際的に未承認、東部地域でプントランドと領土紛争)の北部、おもに南部に展開するイスラム急進派アッシャバーブ支配域に大きく3分割されている。
また連邦共和国政府内部も、北東部で1998年7月に自治宣言したプントランド(首都ガローウェ)、中部のガルムドゥグ、南部の南西ソマリア、最南のジュバランド(軍閥ラスカンボニが母体)といった自治地域を含有しており、統一はされていない。
国名
[編集]正式名称はソマリ語で「Jamhuuriyadda Federaalka Soomaaliya」。アラビア語で「جمهورية الصومال الفدرالية」、英語で「Federal Republic of Somalia」。通称Somalia、国民・形容詞ともSomali。日本語の表記は「ソマリア連邦共和国」。
ソマリアの公式国名を「ソマリア民主共和国(Somali Democratic Republic)」とする場合が多かったが、これはモハメド・シアド・バーレ政権下で「ソマリア民主共和国憲法」が有効であった時期の国名である。1991年に同政権が崩壊し憲法が廃止され、その後の暫定政府は「ソマリア共和国(Republic of Somalia)」を国名としていたが、全土を実効支配しておらず、公式国名とは見なされていなかった。2012年8月、暫定政権の統治終了を受けて公式国名がソマリア連邦共和国に改称された。
歴史
[編集]プント国
[編集]- 紀元前26世紀、エジプト第4王朝のクフ王にプント国から黄金がもたらされたという記録がある。
- 紀元前25世紀、エジプト第5王朝のサフラー王にプント国から没薬と白金がもたらされたという記録がある。
- 紀元前21世紀、エジプト第11王朝のメンチュヘテプ2世がプント国に商隊を送ったという記録がある。
- 紀元前15世紀、エジプト第18王朝のハトシェプスト女王にプント国から乳香と没薬がもたらされたという記録がある。
- 紀元前1500年ごろから香料の産地としてエジプト、近隣諸国に知れていた。
- 紀元前1070年ごろ、エジプト第20王朝が滅亡するとプント国とエジプトの交易は途絶え、古代オリエント世界との交流が途絶えた。
ソマリ族の到来とソマリアのイスラム化
[編集]10 - 14世紀の間に、アラビア半島南部から遊牧民のソマリ族が移住してきた。彼らは早くからアラブやペルシャと交易していた。
植民地時代
[編集]ソマリ人は元々6つの氏族に分かれ、それぞれの氏族に帰属意識を持って暮らしていた。しかし第二次世界大戦でイギリス軍がイタリア領ソマリランドを占領、またイタリアが占領していたエチオピアも41年に皇帝軍が奪還すると、東部のオガデン地方はイギリスが暫定統治することになり、ケニア北東部を含めイギリス支配の下にソマリ人居住地域は統一されることになった。その中で1943年にはソマリ青年クラブ(後にソマリ青年連盟=SYLに改称)が結成されると、居住区域で反発を続けた。独立直前には、イタリア領ではSYLが、イギリス領でもSYLの影響を受けたソマリランド民族連盟(SNL)が第一党となった[4]。
- 1886年にイギリスが北部をイギリス領ソマリランドとして領有。このころ、南部はイタリアの保護領であった。
- 1908年までにイタリアが南部をイタリア領ソマリランドとして領有。第二次世界大戦中、一時はイタリアが全土を占領、イタリア領東アフリカの一部となったが、その後イギリスの施政下に。
- 1948年に北部がイギリスの保護領に。
- 1950年には南部がイタリア信託統治領ソマリアに。
独立後
[編集]1960年4月にイタリア領とイギリス領の両リーダーが会談して統合を宣言すると、SYLのアデン・アブドラ・ウスマンが大統領に、SNLのイブラヒム・エガルが首相に就任した。しかしイーガルは半月足らずで国防相に格下げされ南部出身者に占められ[要追加記述]、また植民地時代の定数を引き継いだ議席数は人口比でも南部優位であるなど、南部に優位な政治が取られるようになった[5]。
- 1960年6月26日、イギリス領がソマリランド国として独立。5日後の7月1日にはイタリア領も独立し、南北統合でソマリア共和国が発足。
- 1969年10月、クーデターでモハメド・シアド・バーレ少将が実権を握り、国名をソマリア民主共和国に変更。
- 1970年10月には社会主義国家を宣言、ソマリ社会主義革命党の一党独裁体制に。
- 1977年、エチオピアのソマリ族によるオガデン州分離独立運動に端を発してエチオピアとの間でオガデン戦争勃発(1988年の両国の停戦合意まで続く)。
- 1977年10月、ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件。
- 1980年1月、人民議会はバーレを大統領に選出。
- 1982年 反バーレの反政府武装闘争が表面化。
ソマリア内戦
[編集]- 1988年 ソマリア内戦勃発。
- 1991年1月、反政府勢力統一ソマリ会議(USC)が首都を制圧しバーレを追放(バーレ政権崩壊)。暫定大統領にアリ・マフディ・ムハンマドが就任。
- しかし、USCの内部で、モハメッド・ファッラ・アイディード将軍派がアリ・マフディ暫定大統領派と対立。各勢力の内部抗争により南北は再び分裂。
国連PKO介入後
[編集]- 1991年 アイディード将軍派に首都を追われたアリ・マフディ暫定大統領が国際連合に対しPKO部隊派遣を要請。
- 1992年6月、アイディード将軍がいくつかの軍閥を統合してソマリ国民同盟(SNA)が結成される。
- 1992年12月、国連PKO部隊、多国籍軍を派遣。
- 1993年5月、武力行使を認めた第二次国連ソマリア活動展開。アイディード将軍は国連に対して宣戦布告。
- 1993年10月、モガディシュの戦闘。
- 1994年3月、 アメリカ合衆国、ソマリアからの撤兵。
- 1995年3月、国連PKO部隊撤退。SNAのアイディード派がアリ・アト派と内部分裂。
- 1995年12月、ナイジェリアに亡命したバーレ元大統領が、同国ラゴスにて死去。
- 1996年8月、アイディード将軍死去。
- 1998年7月、ソマリア北東部の氏族が自治宣言をし、ガローウェを首都とする自治政府・プントランド共和国を樹立。
- 2000年5月、ハッサン暫定政権樹立。アイディード派やソマリランドなど独立勢力を排除したために内戦は続き、さらに国家の分裂が進む。これ以降、氏族・軍閥・宗派と、さまざまな勢力が対立する群雄割拠状態となる。
- 2002年、ラハンウェインがベイ州とバコール州を中心とする地域で、バイドアを首都とする国家「南西ソマリア」(2002年 - 2006年)として独立宣言。
- 2004年初頭にヒズブル・シャバブ(アル・シャバブの前身)が結成され、2004年の半ばにアル・シャバブが結成された。
- 2006年6月、イスラム法廷会議(ICU)が首都モガディシュを占領。イスラム教とキリスト教という宗教対立によって、対外戦争の火種となる。
- 2006年12月、エチオピア軍が侵攻してソマリアを制圧。暫定政府が国権を掌握する。
- 2007年1月、アメリカ軍がエチオピア軍支援のため空襲。暫定政府は法廷会議に対し勝利宣言を行う。イスラム法廷会議(ICU)はケニア国境付近へ逃走し、国内の残党との連携でのちのデモやテロの根源となる。PKO再派遣が決定されるも、アフリカ連合(AU)中心で、参加国数も内容も低調に終わった。
- 2008年8月、イスラム法廷勢力との間の停戦協定。
- 2008年12月、アブドゥラヒ・ユスフ大統領辞任。
- 2009年1月、イスラム法廷会議の流れをくむソマリア再解放連盟(ARS)の指導者で穏健派のシェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドが大統領に選出され、オマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを首相とする内閣を発足させる。
東アフリカ大旱魃
[編集]- 2010年7月20日、国連は南西ソマリアの2地域(下部シェベリ州、バコール州)で飢饉が起こっていることを公式に宣言。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、難民流出の状況を発表した。それによると、ソマリアからケニアに逃れた難民は今年度前半の6か月で約3万人。2009年同期の4万4,000人から3分の1近く減少した。アデン湾向岸のイエメンへの難民も2009年同期の1万3,000人から6,700人に減少した。事務所の報道官は、減少は安定でなく不安定さを増していると記者会見で語った。
- 2011年11月、国連は、ベイ川、ベクール川、シェベリ川下流の3地域(ベイ州、バコール州、下部シェベリ州)に対する飢饉地域指定を解除した(国連人道問題調整事務所(OCHA)による)。
ソマリア連邦共和国
[編集]- 2012年8月、暫定憲法を採択し連邦議会を招集。8月20日に暫定政府の統治期間が予定通り終了した。
- 2012年9月、大統領選挙を実施し、穏健派のハッサン・シェイク・モハムドが選出された[6]。
- 2012年10月、アブディ・ファラ・シルドンが首相に就任。
- 2012年11月、シルドン首相が閣僚を指名。新内閣発足。
- 2013年4月、IMFがソマリア連邦政府を22年ぶりに承認。これにより、IMFのソマリア支援の道が開けた[7]。
- 2017年2月、2017年ソマリア大統領選挙によってモハメド・アブドゥライ・モハメドが大統領に就任。過激派シャバブの対策に注力することとなる[8]。
- 2018年9月5日 - エリトリアの首都アスマラで、ソマリア、エリトリア、エチオピアの3カ国による「包括協力協定」に署名[9]。
- 2020年12月 - アメリカのドナルド・トランプ大統領は、2021年1月の任期切れを前に駐留米軍700人の撤収を発表した[10]。
政治
[編集]バーレ政権時代の最盛期には、社会主義の名のもと強力な軍事独裁が敷かれ、治安は比較的安定していた。しかしながら政権末期には首都モガディシュを除くほぼすべての地域を掌握できておらず、そのため大統領が「モガディシュ(モガディシオ)市長」とあだ名されることもあった。1992年に、バーレ大統領は国外追放された。以後、ソマリアには2007年まで中央政府が存在しない状態が続いていた。
政権崩壊後は地方豪族による分割支配が進行し、互いの勢力を攻撃しあうなど紛争状態が続いている。
2000年に誕生した正統暫定政府はジブチ共和国の首都ジブチ市に設置されていたが、2003年に崩壊。2005年、周辺7か国で構成する政府間開発機構の仲介により、この暫定政府を継承する形で暫定連邦政府がケニアのナイロビにおいて発足し、新設された議会でユスフ初代大統領が選出されるとともに、本拠地を南西部のバイドアに移す[11]。
2006年6月、イスラーム法学者(ウラマー)たちで運営する司法組織・イスラム法廷連合(のちイスラム法廷会議・UIC)が首都モガディシュを制圧、中・南部一帯を支配。イスラーム主義的な統治を開始すると同時に、付属の警察部隊がバイドア暫定政府に対し攻勢をかけていた。
国際連合安全保障理事会は、2006年7月13日、議長声明で無政府状態が続いているソマリアに国連平和維持軍の派遣を検討する意向を表明した。12月6日に派遣は決定されたが、その実働前に暫定連邦政府軍がエチオピア軍の支援のもとでイスラム法廷会議に攻勢をかけ、モガディシュを奪取した。イスラム法廷会議は南部へと敗走。2007年1月1日、暫定政府軍はイスラム法廷会議の最後の拠点だったキスマヨを制圧し、暫定政府軍はソマリランドを除くソマリアのほぼ全土を制圧したことになった。
暫定政府は2007年7月に国民和解会議を開催して国内の各勢力の和解に乗り出す。2007年9月、エチオピア軍に駆逐されたイスラム法廷会議はエリトリアでソマリア再解放連盟(ARS)を結成。2008年8月、暫定連邦政府とARSの穏健派グループがジブチ合意(停戦など)に署名するものの、2008年12月29日、暫定連邦政府内の対立からユスフ大統領が辞任する。2009年1月、エチオピア軍撤退終了後、反暫定連邦政府勢力アル・シャバーブがバイドアを掌握。1月31日、ジブチにおいて開催されたソマリア国会で大統領選挙が行われ、ARSの指導者で穏健派のシェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドが新大統領に選出された。アフメド新大統領は2月20日にはオマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを首相に任命し、新政権を発足させた。
2009年4月18日、暫定議会は全会一致でイスラム法の導入を決定した。
2009年6月18日、反政府軍への掃討作戦を指揮していたオマル・ハシ・アデン国家安全保障相が自爆テロにより暗殺される。さらに同月22日、暫定政府軍に対して攻勢を強めるイスラム急進派アッシャバーブの部隊に大統領官邸が包囲される事態となり、アフマド大統領はソマリア全土に非常事態を宣言するとともに、ケニアやエチオピアなど周辺国に対して軍事介入を求めた。
2010年9月21日、暫定政府のシェルマルケ首相は、治安対策の失敗の責任をとり辞任した。背後にはイスラム強硬派(アルシャバブなど)武装勢力の攻勢が強くなるなかで、政府運営をめぐるアハメド暫定大統領との確執があると推測されている。こうしたなか、人口約800万人の40パーセント以上にあたる約320万人が人道援助に依拠し、約140万人が国内避難民、約59万人が近隣諸国に難民として生活している[12][13]。
2012年8月20日に暫定政府は予定していた統治期間を終了。暫定議会により暫定憲法が採択されて新連邦議会が発足。9月10日に大統領選挙を実施し、ハッサン・シェイク・モハムドが選出され、就任した[6]。ここにおいて、21年ぶりに統一政府が樹立されることとなる。
2012年世界汚職国家ランキングでは、ソマリア・北朝鮮・アフガニスタンが最悪という評価を受けている[14]。
海賊行為の多発
[編集]以前からソマリランドとプントランドが面するアデン湾は海賊行為の多発海域である。国際商業会議所(ICC)国際海事局(IMB)の調査によれば、2001年にインド洋側でも海賊による襲撃が報告されるようになり、2005年にいたって多発し、インドネシア周辺海域に次いで海賊行為が多い海域として急浮上した。以来2007年まで上位5海域に位置づけられ、沿岸から最遠で390海里まで達するソマリア拠点の海賊によってアデン湾も含むソマリア周辺海域は船舶航行にとって非常に危険なものとなっている。
人権
[編集]ソマリアはイスラムを基礎とする国家であり、サウジ、イエメン、イラン、アフガニスタンなどと同様ブラジャーを着用した女性に対し公開鞭打ちが執行されていた。強盗犯に断手刑を執行した事例もある。9歳くらいでも婚約が認められる[要出典]。
地方行政区分
[編集]2012年の連邦制施行後、ソマリアは6つは構成国(Federal Member States (FMS)、自治国、自治州とも訳される)と首都地域の合計7つの連邦構成体から成る[15]。ただしソマリランドは事実上独立しており、構成国に含まないことがある。
- ソマリランド - 1991年成立、独立宣言。
- プントランド - 1998年成立、独立宣言。2004年以降はソマリア政府に協力的。
- ガルムドゥグ - 2006年成立。
- ヒーシェベリ - 2016年成立。
- バナディール首都地域 - 2017年成立。
- 南西ソマリア - 2014年成立。
- ジュバランド - 2013年成立。
内戦前は地域(州)と地区(県)から成っていた。
主要都市
[編集]首都モガディシュはバナディール州の州都でもある。ほかの主要都市ハルゲイサ、ベルベラ、キスマヨ、マルカなどがあるが、一部の都市はソマリランドの統治下にある。
地理
[編集]沿岸部は高温多湿だが、内陸は砂漠である。アデン湾に沿って、グバンと呼ばれる幅2 - 12キロの海岸平野がある。北部に最高地点のシンビリス山(標高2,416メートル)がある。降雨量はきわめて少なく、エチオピア高原からインド洋沿岸のキスマユへ流れるジュバ川、同じくモガディシュへ至るシェベリ川以外に四季を通して水の流れる川はない。
経済
[編集]内戦で経済は壊滅、崩壊状態である。世界最貧国の一つであり、IMFによると2020年度のソマリアの一人当たりGDPは332ドルで、世界195の国家・地域の内193位[16]。平和基金会が発表した失敗国家ランキングでは2008年から2013年まで6年連続で第1位にランクづけされており、国際的に承認された政府が21年ぶりに発足したにもかかわらず2014年・2015年も2位に位置づけられた。2013年度のイギリス情報誌のエコノミスト治安ランキングワースト10では第2位。また、内戦で大量の難民が発生しており、各国からの援助が頼りの状態である。
主産業はバナナを中心とする農業、ラクダ(飼育数世界1位)・羊・ヤギなどの畜産業。主要輸出品はバナナ、家畜、皮革となっている。畜産業の経済に占める比率はGDPの40パーセント、輸出収入の65パーセントに達する。農産品の加工を軸とした小規模な軽工業はGDPの10パーセントに達する。このほか植民地時代から木炭の輸出を行っていたが、アル・シャバブに対する資金源とならないよう2012年に国連安保理より輸出が禁じられており、禁輸措置は2022年現在も継続している[17]。地下に石油・ボーキサイトなどを含有する地層が存在するが、未開発である[要出典]。
主要輸入品は原油、石油製品、食料品、機械類など。
通貨はソマリア・シリング(SOS)。アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、2007年調査時点で世界でもっとも価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1ドル=1387.77ソマリアシリング[18]。現在国内ではドルやユーロ、サウジアラビア・リヤルなどがおもに流通している。なお2004年よりソマリア名義の地金型銀貨が、2010年より地金型金貨が発行されているが、これはドイツのバイエルン州造幣局が製造したもので、ゾウが描かれていることからエレファントコインとも呼称される[19]。
通信とメディア
[編集]ソマリアでは、多数の私営新聞、ラジオ、テレビ局がこの10年間で[いつ?]急速に発達し(モガディシュでは2つのテレビ局が熾烈な競争を行っている)、私営ラジオ局や新聞とともにほぼすべての主要都市に存在する。大きなメディア企業としてはShabelle Media Network、Radio Gaalkacyo、ガローウェ・オンライン傘下のRadio Garoweなどの名が挙げられる。
ソマリアにおけるインターネットの利用は、2000年から2007年までの間に44,900パーセント増加し、アフリカでもっとも高い成長を記録した[20]。ソマリアの情報技術会社は、近年50万人以上のインターネット利用者を市場として競っている。22のインターネットサービスプロバイダが設立されており、年平均15.6パーセントで成長する234のネットカフェが存在する。衛星サービスによるインターネットも、また、特にダイアルアップやワイヤレスインターネットサービスが存在しない遠隔地や都市に存在している。国際連合やNGO、特に送金を行う金融機関、ネットカフェがおもな顧客である。近年では[いつ?]ヨーロッパやアジアのテレポートと結ばれている300以上の衛星ターミナルが国内各地で利用可能である。この種のサービスは年平均10 - 15パーセントの安定成長を見せている。
ソマリアはアフリカ大陸でもっとも整備された遠距離通信システムが存在し、Golis Telecom Group、Hormuud Telecom、Somafone、Nationlink、Netco、Telecom、Somali Telecom Groupのような複数の企業が明晰なサービスを提供しており、国際長距離電話も月額約10USドルである。ソマリアのダイアルアップインターネット回線はアフリカでもっとも急速に成長しており、地上回線が年平均12.5パーセント以上の成長を遂げ、略奪による深刻な衰退と、銅線ケーブルのコストが国際市場での高騰を経験しているアフリカの角、および東アフリカ地域とのほかの諸国と比較しても大きな発達を遂げた。地上回線の設置に必要な待機期間は、隣国のケニアでは年単位で長期間待たされる一方、ソマリアでは3日間である。ただし、これらは群雄割拠の状態により、通信事業に関する免許といった中央政府による許認可が事実上存在しないことが大きい。
国家安全保障
[編集]暫定政府の総兵力は5,000人。2002年の国防予算は1,500万米ドル。国内の武装勢力がそれぞれ兵員を保持。
ソマリア空軍
[編集]かつてはMiG15やMig17をそれぞれ20機以上 Mig218機、ホーカー ハンター8機 を保有していたが内戦で崩壊した。 2012年にソマリア暫定政権にイタリアの支援で国防軍傘下に空軍が創設した。 尚、An-242機が内戦の影響でジョモ・ケニヤッタ国際空港に放置されている
交通
[編集]鉄道
[編集]2013年現在、国内に鉄道の存在は確認されていない。植民地時代にはモガディシオ・ヴィラブルッチ鉄道が存在したが独立前に廃線となっている。その後、バーレー政権時代に鉄道再建が計画されたがこれは内戦で実現しなかった。
航空
[編集]現在、ソマリアにはダーロ航空とジュッバ航空の2つの航空会社が存在すると言われている。また1991年のソマリア内戦により運航停止となったフラッグキャリアのソマリ航空も2012年より運行再開の準備が始まり、2013年12月に機材導入予定である。
国際関係
[編集]日本との関係
[編集]国民
[編集]民族
[編集]ソマリアはおよそ983万2,017人の人口を有し、85パーセントがソマリ人(ハウィエ、イサック、ダロッド、ラハンウェイン、ディル、イッサ族)である[23]。その他の15パーセントは、en:Benadiri people、en:Somali Bantu、en:Bajuni people、en:Bravanese people、エチオピア人、インド人、パキスタン人、ペルシャ人、イタリア人、イギリス人などとなっている。
1990年代初頭の内戦により、ディアスポラ(ソマリ人ディアスポラ(en))の数が著しく増大することとなった。この際は国内でももっとも教育水準の高いソマリ人が大挙中東やヨーロッパ、北アメリカなどに逃れた。
ソマリアの都市化に関して信頼性の高い統計情報はほとんど存在しない。しかしながら、荒い推計によればソマリアの都市化率は年間5 - 8パーセントとみなすことができ、多くの町が急速に都市に成長している。現在のところ人口の34パーセントが町や都市に居住しており、この割合は急速に増加している[24]。
言語
[編集]公用語はソマリ語とアラビア語。ソマリ語はソマリ人の国語であり、少数のマイノリティとも同様に、ほぼすべてのソマリ人によって事実上全土で使用されている。政府機関やエリート層では欧米系言語が主流であるサブサハラアフリカ諸国の国の中では例外的に、エチオピアのアムハラ語やタンザニアのスワヒリ語とともに非欧米系言語の言語が共通語、作業言語として広く機能している国である。少数派言語は存在し、ソマリア中南部でラハンウェイン氏族によって話されるAf-Maayが挙げられる。なおラハンウェイン氏族が話すのはマイ・テレー(Mai Terreh)という方言という説もある。さまざまなスワヒリ語(Barawe)もまた沿岸部一帯でアラブ人によって話され、バントゥー語(Jareer)もまた話される。
多くのソマリ人はアラブのメディアや、宗教教育の遠大な影響によるアラブ世界との緊密な結びつきのため、アラビア語を話す。英語も旧植民地イギリス領ソマリランドであった現ソマリランドで広く用いられ、教えられている。イタリア語はかつて主要言語だったが、現在では内戦と教育の欠如により、流暢に話せるのは老人世代に限られる。
宗教
[編集]イスラム教が国教であり、国民の95パーセントがムスリムである。ムスリムのうち98パーセントはスンナ派である。その他の宗教が5パーセントである。
キリスト教の影響は1970年代に教会運営の学校が閉鎖され、宣教師が帰国すると著しく減少した。1989年からは国内のカトリック大聖堂でも大司教ら聖職者が1人もおらず、モガディシュの大聖堂は内戦中の1992年1月から2月にかけて深刻な打撃を受けた。
ソマリアの憲法はイスラーム以外の宗教の普及と伝達を妨げている。この措置は多くがキリスト教徒(特にアムハラ人とその他のエチオピア人)か土着の信仰を奉ずる近隣のアフリカ諸国から、ソマリアとの距離を広げている。
教育
[編集]1991年の中央政府の崩壊により、教育システムは私営となっている。初等学校は、内戦前600校だったものが2005年には1,172校に達し、2005年までの3年間で初等学校の入学者は28パーセント増加した[25]。2006年には、北東部のプントランド自治地域はソマリランド地域に続いてソマリアで2番目に無償の初等教育を導入した地域となり、今や教員は給与をプントランド政府から受け取っている[26]。ベナディール大学、ソマリア国立大学、モガディシオ大学、キスマヨ大学、ゲド大学など、ソマリアの8つの大学のうちの機能している5つがソマリア南部に存在し、高等教育を提供している。
2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は37.8パーセント(男性:49.7パーセント、女性:25.8パーセント)である[27]。
保健
[編集]ソマリアはアフリカ全土においてきわめてHIV感染率の低い国家の一つである。これはソマリ社会のムスリムの性質と、ソマリ人のイスラーム的モラルの固守によると考えられている[28]。1987年(観測初年度)に推定されたソマリアのHIV感染率は成人の1パーセントだったが[28]、2007年になされた推定では内戦にもかかわらず、成人人口の0.5パーセントに過ぎない[27]。
一方、政府がまともに機能していない以上、当然のことながら医療制度は崩壊状態にあり、ほとんどの国民はまともな医療を受けられない状態にある。長年に渡り国境なき医師団が活動していたが、職員の殺害・誘拐が相次いでいる。ソマリア国内の各勢力が、保護どころか積極的に医師団を攻撃対象にしてきたことも重なり、2013年、国境なき医師団はソマリアからの撤退を決定、22年間の活動に幕を下ろした[29]。
婚姻
[編集]ソマリ人は伝統的には結婚しても改姓しない(夫婦別姓)。一方、西洋系社会の家庭では、妻は夫の姓を用いる[30]。
文化
[編集]料理
[編集]ソマリア料理は地域ごとにさまざまな変化があり、多様な調理法を包括する。ソマリ料理を結びつける一つの作法はハラールの存在である。それゆえ、豚肉料理やアルコールは出されておらず、勝手に死んだものは食べられず、血は含まれない。ソマリ人は夕食を午後6時以降に食べる。ラマダーンの間は、タラウィーの祈りのあとの、時に夜の11時以降に夕食が出される。
Cambuulo はソマリアのもっともポピュラーな料理のひとつであり、国中を通して夕食として享受されている。料理はよく料理された小豆と、バターと砂糖が混ぜられる。digir と呼ばれる豆は、レンジの上に弱火で5時間以上放置され、大変美味である。Barriss(米)とbasto(パスタ)は一般的な食材だが、季節によって独特のフレーバーと多くのスパイスが加えられる。
文学
[編集]ソマリアは多くの文学作品を、前世紀のソマリアの知識人によるイスラーム詩やハディースを通して生み出してきた。現代も口承詩が盛んであり、「詩人の国」とも称される[32]。
1973年のラテン文字の採用後には数年間で多くのソマリ人作家が本を出版し、それらは広範な成功を達成した。ヌルディン・ファラーはそのような人物のうちの一人である。『むきだしの針』(1976)や、From a Crooked Rib、Links のような小説は重要な文学的偉業とみなされ、それらは彼の1998年のノイシュタット国際文学賞受賞作品となった。その他の現代の文学者には、アリ・ジマール・アハメッドの名が挙げられる。
音楽
[編集]ソマリアはほぼまったく単一のエスニック・グループ(ソマリ人)で構成されている数少ないアフリカの国家である。伝統的なWaaberiや、Horseedのようなバンドは国外にも少数の支持者を得ている。その他に、Maryam Mursalはソマリの伝統的な音楽をロック、ボサノヴァ、ヒップ・ホップ、ジャズの影響を受けて融合させた。
大規模なソマリ人のコミュニティが存在するトロントは、不安定なモガディシュからソマリ音楽産業の中心と成り代わっており、ソマリ人のコミュニティはまたロンドン、ミネアポリス、コロンバスにも存在する。ソマリ人離散から生まれたポピュラー音楽家の一人に、トロント出身のラッパー、K'Naanがおり、彼の歌は内戦勃発以降のソマリアの生活の苦闘を語りかけている。
祝日
[編集]治安
[編集]ソマリアでは1991年のバレ政権崩壊後、無政府状態が続いており、ソマリアは世界で最も治安が悪い国と言える。武装しないと外出できず、武装しても命の危険がある状態である。日本外務省、オーストラリア政府、アメリカ政府ともに渡航はやめ、退避するよう自国民に呼びかけている。[33][34]
また、ソマリア周辺の海域では海賊が発生しており、昔に比べ減ったが、今でも海賊は発生している。[35]
スポーツ
[編集]サッカー
[編集]ソマリア国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1961年にサッカーリーグのソマリアリーグが創設された。ソマリアサッカー連盟(SFF)によって構成されるサッカーソマリア代表は、これまでFIFAワールドカップやアフリカネイションズカップには未出場となっている。
著名な選手としてはアユブ・ダウドが挙げられる。ダウドは、5歳の時に家族と共に内戦状態のソマリアからイタリアへと避難し、2000年にユヴェントスのユースチームに加入した。ユースでは際立った活躍を見せ、2009年のボローニャ戦にてセリエAデビューを果たしている。以後、スイスやハンガリーのクラブを渡り歩いたのち2017年に引退した。
著名な出身者
[編集]- アブドゥルカウィ・アハメド・ユスフ - 国際司法裁判所判事、副所長。
- ザフラ・アブドゥラ - フィンランドの政治家
- イマン・アブドゥルマジド - アメリカ合衆国のモデル
- ワリス・ディリー - 欧州在住のファッションモデル
- アヤーン・ヒルシ・アリ - オランダの政治家、フェミニスト
- ヌルディン・ファラー - 文学者、ノイシュタット国際文学賞受賞作家
- K'Naan - 自身のアルバム「Troubadour」収録の「Wavin' Flag」が2010年FIFAワールドカップ南アフリカ大会テーマ曲に選ばれたことがある歌手。
- イルハン・オマル - ムスリム女性初のアメリカ合衆国下院議員
- モハメド・ファラー-ソマリア出身の陸上選手
脚注
[編集]- ^ “Somalia” (英語). ザ・ワールド・ファクトブック. 2022年8月13日閲覧。
- ^ a b GDP(PPP)の値は2016年度の米ドルデータ。“The World Factbook”. 中央情報局 (2019年11月7日). 2019年11月10日閲覧。
- ^ “The Federal Republic of Somalia/Draft Constitution” (pdf) (2012年7月12日). 2019年11月10日閲覧。
- ^ 吉田(2012:91)
- ^ 吉田(2012:92)
- ^ a b “ソマリア大統領にモハムド氏選出、21年ぶりの安定政府樹立へ”. CNN.co.jp (CNN). (2012年9月11日) 2012年9月11日閲覧。
- ^ IMF “IMF Recognizes the Federal Government of Somalia After 22-year Interval” (2013年4月12日). 2013年4月29日閲覧。
- ^ “ソマリア大統領に元首相 「過激派との闘いの始まり」”. 朝日新聞. (2017年2月8日) 2017-02-11閲覧。
- ^ “エチオピアとエリトリアが平和協定締結、国境も再開”. ジェトロ (2020年9月19日). 2020年11月27日閲覧。
- ^ “トランプ氏、ソマリア駐留の米軍撤収指示 近隣国に移動”. 朝日新聞DIGITAL (2020年12月5日). 2020年12月4日閲覧。
- ^ “ソマリア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年9月4日閲覧。
- ^ ソマリア首相辞任、暫定大統領と対立 The Sekai Nippo 2010/9/21
- ^ ソマリア首相が辞任 数カ月前から大統領と対立 MNS:産経ニュース 2010.9.22
- ^ 世界汚職国家ランキング、北朝鮮とソマリアが今年も最悪CNN.co.jp 2012年12月7日
- ^ “Federal Member States (FMS)” (英語). 計画・投資・経済開発省. 2021年6月14日閲覧。
- ^ GLOBAL NOTE
- ^ “Somali PM suspends foreign minister for abuse of power”. 新華社. (2022年5月24日) 2022年5月26日閲覧。
- ^ Foreign Policy:The List: The World’s Worst Currencies、GIGAZINE 2007年6月19日 世界で最も価値の低い通貨トップ5
- ^ “A Bullion Coin from Germany: The Somalia Elephant”. Cosmos Of Collectibles. 2023年12月28日閲覧。
- ^ “Internet Usage Statistics for Africa”. Internetworldstats.com (2008年12月31日). 2009年2月25日閲覧。
- ^ 外務省 ソマリア基礎データ
- ^ 在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表
- ^ “Somalia”. World Factbook. Central Intelligence Agency (2009年5月14日). 2009年5月31日閲覧。
- ^ An Urban Development Programme for the European Commission in Somalia
- ^ Ihebuzor, Noel (2005 01 31). “EC and UNICEF join hands to support education in Somalia”. United Nations Children's Fund (UNICEF). 2007年2月9日閲覧。
- ^ Staff writer, Staff writer (2006 04 06). “Puntland (Somalia) to introduce free primary schools”. Afrol News. 2007年2月9日閲覧。
- ^ a b https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/so.html 2009年11月14日閲覧。
- ^ a b Religious and cultural traits in HIV/AIDS epidemics in sub-Saharan Africa Archived 2008年4月13日, at the Wayback Machine.
- ^ エリック・ウアネス国境なき医師団日本事務局長 (2013年9月6日). “ソマリアから撤退する理由”. ハフィントン・ポスト 2013年9月7日閲覧。
- ^ A Guide to Name and Naming Practices, March 2006.
- ^ 黒柳徹子のレポートに詳しい。www.inv.co.jp。
- ^ 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002/12
- ^ 外務省. “外務省 海外安全ホームページ”. 外務省 海外安全ホームページ. 2024年10月11日閲覧。
- ^ “ソマリアのトラベルアドバイザー”. オーストラリア政府. 2024年10月11日閲覧。
- ^ “ソマリアの危険度”. アメリカ政府. 2024年10月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 岡倉登志:編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店、2002/12
- 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002/12
- 吉田一郎『消滅した国々:第二次世界大戦以降崩壊した183ヵ国』社会評論社、2012年11月30日、89-94頁。ISBN 978-4-7845-0970-6。