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2024年12月11日水曜日

女子の遠慮、男子の欲望

 娘(小学五年生)と、その友だち(女の子二人)といっしょにファミレスで食事をする機会があった。

 女の子たちは「ピザをとってみんなで分けよう」と言い、一枚のピザを頼んだ。

 興味深かったのが、ピザの分け方。


 三人いたので、まずピザカッターでピザを六つに分ける。とはいえもちろん均等に分けることなんてできないから、大きさはばらばら。

「けっこう大きさちがうね」「どうするー」と話していた彼女たちは、驚いたことに、なんと大きなピザの押し付けあいをはじめた。

「わたしこの小さいのでいいから大きいのどうぞ」

「いやいや、〇〇ちゃんが大きいの食べなよ」

「いいって。△△ちゃんが食べて」

 遠慮かなとおもっていたら、いつまでたっても押し付け合いが終わらない。どうやら彼女たちは本気で大きなピザをとることを嫌がっているようだ。

 結局、大きなピザをさらに分割してなるべく公平に近づくようにして、さらにじゃんけんをして、じゃんけんで負けた子がいちばん大きなピザを食べることになった


 その様子を見ていて、女子だなあと感心した。

 これが男子ならどうだろう。よほどの満腹とかでないかぎりは、「おれが大きいのを食べたい!」で揉め、じゃんけんをした場合は「勝った人がいちばん大きいものを取る」になるだろう。もしかすると、話し合うより先に誰かが「早い者勝ち!」といちばん大きいピザをつかんでしまうかもしれない。

 男子はこうだ女子はどうだと言うのもアレだけど、やっぱり傾向として違いはある。


 たとえ軋轢や争いが生じても己の欲を優先する男子と、争いを避けることが最優先でとにかく妬みや恨みを買いたくない女子。

「ピザの分配」にはっきりと違いが表れていると感じた。


2024年11月20日水曜日

小ネタ30 (ひざこぞう / 定規とものさし / 英語で)

ひざこぞう

 ひざこぞうとは言うがひじこぞうとは言わない。

 なんでだ。ひざよりひじのほうが小さくてかわいいだろ。

 こぞうはひじに譲って、ひざのことはひざ入道と呼ぶことにしよう。


定規とものさし

 定規とものさしの違いは、0と端の間にスペースがあるのが定規、端が0になっているのがものさしだそうだ。定規には「0を起点とする線を引きやすい」というメリットがあり、ものさしには「床や壁からの長さがはかりやすい」というメリットがあるそうだ。

 ふうん。たしかに定規では床や壁からの距離が測りにくい。

 それはしかたないんだけど、ぼくが常々おもっているのは「0と端の間にスペースがあってもいいんだけど、そのスペースをぴったり1cmにしておいてほしい」ということだ。そしたら、定規の端を床にぴったりつけて長さを測り、読み取った目盛りから1cmを足すだけで正確な長さが求められる。定規とものさしのいいとこどりだ。

 でもだいたいの定規は「0と端の間のスペース」が0.4cmとか半端な長さなんだよね。何か理由があるのかな。


英語で

「イヌは英語でドッグだ」と「ドッグは英語でイヌだ」は、どちらも同じ意味になる。

 前者の「だ」は「と呼ばれる」の意味であり、後者は「の意味」だ。



2024年9月17日火曜日

すごろく向きのサイコロをつくる

  ふつうのサイコロを1つ振ったとき、出る目は1~6の6通りで、その確率はそれぞれ1/6ずつだ。


サイコロを2つ振ってその差を求め、それに1を加えたものを出目とする」としてみよう。この場合もやはり出目は1~6の6通りとなる。

 ただし確率はそれぞれ等しくない。1(つまり2つのサイコロが同じ目)になる確率は1/6。これは通常のサイコロと同じ。

 2や3になる確率は1/6より高く、6になる確率はかなり低い。

(分母を18にそろえるとわかりやすい。
  1:3/18
  2:5/18
  3:4/18
  4:3/18
  5:2/18
  6:1/18)

左の表は出目 右の表は出目の確率
ABS関数と参照の絶対/相対をうまく使ってるのがオシャレだね♪

「1~6の6通りの出目」を維持したまま、確率に傾斜があるサイコロができるわけだ。


 すごろくをすると「おもしろいイベントマスがあるのに、誰も止まらない」ということがままある。みんなが5とか6とかの大きい目を出して、すっ飛ばしてしまうのだ。

 この「(2つのサイコロの目の差+1)サイコロ」だと、5や6が出にくいので、指示のあるマスに誰も止まらないという事態が起こりにくくなる。

 それでいて2~4あたりはよく出るので「あらゆるマスに止まってしまう」というイライラ展開も防げる。

 すごろく向きのサイコロといえるだろう。




2024年9月11日水曜日

小ネタ26 (ハンマー投げ / 砲丸投げ / プールサイドを走ってはいけない理由)


ハンマー投げ

 陸上競技の投擲種目について。

 古代オリンピックは軍事演習みたいなものだったそうだ。当然、投擲に使うものは武器だ。

 槍はもちろん、砲丸も武器として使える。円盤もギリわかる。

 よくわからないのはハンマー投げだ。

 どう考えても武器として優れているとはおもえない。あんなぐるぐる回って放り投げて、狙ったところに当てるなんてほぼ不可能だろう。へたなやつがやったら味方を攻撃してしまいそうだ。おまけに回っている間は隙だらけだ。

 ハンマーブロスみたいな投げ方をするのならわかるのだが。


砲丸投げ

 学生時代、砲丸投げをしたことがある。

 投げ方について「決して野球のように肩で投げてはいけない。肩を壊すから」と何度も念を押された。

 まああんな重いものを肩で投げたら肩が壊れるだろう。

 だが世界は広い。砲丸を肩で投げられる人がどこかにいるんじゃないだろうか。めちゃくちゃ肩と腕を鍛えたらソフトボール投げみたいなフォームで砲丸を投げられないだろうか。そしてふつうの砲丸の投げ方よりも遠くへ飛ばせるんじゃないだろうか。

 肩が壊れるかもしれない。だが今大会で引退を決めている選手だったら「もう肩がぶっ壊れてもいいからこの一投に賭ける!」みたいな気持ちでやったりしないのだろうか。


プールサイドを走ってはいけない理由

 プールに行った。「プール内で子どもを持ち上げて放り投げる」という遊びをしていたが、監視員に注意されることはなかった(もちろん周囲に人がいないのを確認してから投げていた)。

 プールによっては注意される行為だ。ここは監視がゆるいんだな、とおもっていたのだが、プールサイドを走る子どもに対しては異様に厳しくて、監視員がでかい音でホイッスルを鳴らして怖い声で「走らない!!」と注意していた。

 そういや子どものころから「プールサイドを走るな」と口を酸っぱくして注意されたものだが、なんでだろう。

 他人とぶつかると危ないから?

 でも走ってて他人とぶつかる可能性があるのはプールサイドだろうが公園だろうが公道だろうがあんまり変わらない。公園や公道で小走りしたぐらいで笛を鳴らして「そこ走らない!!」と厳しく叱責されることはないのに、プールサイドだけは親の仇のように厳しく注意される。

 すべって転びやすいから?

 たしかに濡れた地面はすべりやすい。でもすべりやすい場所をすべって転ぶのは、はっきり言って自業自得だ。「気を付けなよ」みたいな言い方ならともかく、赤の他人が叱るほどのことか。アイスクリームをたくさん食べている子どもに赤の他人が「こらっ、そんなに食べたらおなかこわすだろ! 食べるな!」と怒鳴りつけていたら頭のおかしい人だ。それがなぜか「プールサイドを走ること」についてだけ許容されている。

 プールサイドを走っていると異常に厳しく注意される理由としてもうひとつおもいついたのは「笛を持っていると吹きたくなってしまうから」というものだ。

「笛を持たされるけど吹いてはいけない状態」というのはしんどいものだ。だから理由をつけて吹いてしまう。案外これが正解かもしれない。



2024年9月5日木曜日

小ネタ25(求人サイト / 演技プラン)


求人サイトはいつもひとつ 

「私が犯人だって? はっはっは、君、その想像力を活かして小説家にでもなったらどうだ? 小説家が嫌なら脚本家でもいいし、漫画の原作者という道もあるぞ。絵が描けるのなら漫画家になったらいいし、最近だと映像作品を作って世に出る人も少なくないな。またCMプランナーなんかも想像力を活かせるだろうからマーケティングの勉強をしてみるのはどうだ? 大学に入りなおすという手もあるがやはり近道は広告代理店に就職することかな。大手は狭き門だが中小企業なら今はどこも人材不足だから中途未経験でも決して無理ではないだろう。まずはこちらからかんたん60秒登録で君にぴったりの仕事が見つかるぞ!」


演技プランはいつもひとつ

探偵「そう、犯人はおまえだ!」

「私が犯人!? はっはっは。はーはっはっはっはっ。あははははははは。いーひっひっひっひっ。あは。あははは。あはは。えっ、ちょっ、まじで言ってんの、ひひひひ。待って待って腹痛い。ひいっ、ひいっ、いひひひ。やばいやばい、ふははははは、はあ、苦しい、わ、わたしが、はんにんひひひひひひうはははは。ありえんありえん、ははははんにんはははは。ぎゃははははふはーはっはっはっ」

探偵「これが芝居だとしたらすごい演技力だな。その演技力を活かして俳優にでもなったらどうだい?」



2024年9月2日月曜日

小ネタ24 (成人式 / 世界一どうでもいいニュース / ジェンダーフリー)


成人式

 知人が「来週、四十九日の法要があって、次の日は結婚式に参列して、その次の日はフェスに行く」と話していた。

 あと成人式さえあれば冠婚葬祭全制覇だ。

 ただ結婚式や葬儀に参列する機会はまあまああるが、市長にでもならない限り成人式に出席するのはたいてい一生に一度(かゼロ)なので連続コンプリートはむずかしい。


世界一どうでもいいニュース

 ニュースで「アイドルグループ××を卒業した○○さんを直撃! 卒業後に最初に食べたものとは!?」という世界一どうでもいいニュースをやっていた。

「出た後最初に何を食べた?」と訊かれるのは、アイドルグループを卒業した人と刑務所から出た人ぐらいだろう。


ジェンダーフリー

 テレビで男子高校生がスカートを履いてダンスを披露していて、審査員として来ていたおじいちゃんの某演出家が「ジェンダーフリーで良かったです」とコメントしていた。

 いやいや、ジェンダーフリーって言っちゃったらジェンダーフリーじゃないんだよ。それをジェンダーフリーだと明示するということは「ふつう男はスカートを履かないもの」という意識を明らかにするのと同じなわけで。

 「私は黒人も差別しません」と言うようなもので、その発言自体がフリーじゃない。



2024年8月23日金曜日

小ネタ23 (早口言葉 / ウナギ / テツandトモの無駄づかい)


早口言葉

スモモも酢の物のモモもモモのうち


ウナギ

 水産庁が、ウナギの稚魚を安価に生産する技術を発表した、というニュースを見た。

 生物を“生産”ってどういうことだろ? という技術はさておき、ある本で読んだクロサイ保護の方法をおもいだした。

 アフリカで、密漁によって数が減ったクロサイを保護するためにクロサイ猟を認めた、という事例がある。保護するために猟をするってどういうこと? とおもうかもしれない。だが、これはちゃんと効果のある保護方法なのだ。

 クロサイ保護には近隣住民の協力が欠かせないが、サイは人間にとって役に立たないので、研究機関や自然保護団体の人以外は、保護しようという動機を持たない。ところがクロサイ猟を政府が公式に認めて「お金を払えばクロサイを狩ってもいいですよ」ということになれば、クロサイは金儲けのための資源になる。なにしろクロサイが増えるほど手に入る狩猟代が増えるのだから。

「金儲けの道具」にすることで保護しようとする動機が生まれるのだ。倫理的には微妙な気持ちになるが、現実的には効果のある手法だ。

 ウナギも同じで、ウナギがおいしいからこそ、人々が金と労力を使って増やそうとするわけだ。もしもウナギがぜんぜんおいしくなかったら、積極的に増やそうとする人はずっと少なかっただろう。

「金儲けの道具」になるせいで減少したのなら、増やすことが「金儲けの道具」になるようにすればいい。


テツandトモの無駄づかい

 テレビCMで、テツandトモが出てきてお墓の宣伝をはじめた。ぼんやり見ていたのだが、最後まで見て驚いた。なんとテツandトモが歌わないし踊らないのだ。

 ふつうに「お墓が安く買えます!」としゃべるだけだ。

 テツandトモを使ってお墓のCMをつくってくださいと言われたら、百人中九十九人は「お墓がこんなに安く買えるのなんでだろう~♪(なんでだろう~♪)」みたいなことを言わせようとするだろう。

 それなのに、ふつうにしゃべらせるだけ。すごい。最高の無駄づかい。


2024年8月19日月曜日

小ネタ22 (仰げば尊し / レジの効率化 / 冷)

仰げば尊し

『仰げば尊し』の一番の歌詞は、

あおげばとうとし 我が師の恩
教えの庭にも はやいくとせ
おもえばいととし このとし
今こそわかれめ いざさらば

と、三回「とし」という言葉が出てくるが、すべてまったく別の言葉だ。古文の問題に使えそうだ。


レジの効率化

 スーパーやコンビニのレジの流れを効率化するアプリがあるらしい。アプリに「持っているポイントカードは何か」「支払いはカードかお財布ケータイか現金か」「20歳以上かどうか」「マイバッグを使うか」などの情報を登録しておくと、レジに近づいただけで店員にその情報が表示され、いちいち「ポイントカードはお持ちですか?」などの会話をする手間が省ける、というふれこみだ。

 予想だけど、レジの流れをスムーズにしたいとおもってこのアプリを使ったら、余計にイライラすることが増えるような気がする。

理由1)「アプリに登録してるんだからいちいち訊いてくるなよ!」とおもう。

 たとえば「エコバッグを持っている」と登録していても、店員からしたら「レジ袋は必要ですか?」と訊かざるをえないだろう。だってその日はたまたま持っていないかもしれないんだから。

理由2)自分が早くなるほど他人が遅いのが許せなくなる

 みんなレジの支払いに1分かかっていたら、前の客が1分かかっていても気にならない。でも自分はアプリを使って20秒で終わるようになれば、1分もかけている前の客が許せなくなる。「おれはアプリまで入れてこんなに早くやってるのになんでこいつはやらないんだよ!」

 世の中のいろんなシステムが効率化してスピーディーになっているが、その分イライラすることが減ったかというとそんなことはない。むしろ逆じゃないか。


 知人が家を建てたので、新居祝いに高級牛肉(しゃぶしゃぶ用)を贈った。お礼のLINEが届いて「ありがとう! 冷しゃぶにして食べたけどおいしかった!」と書いてあった。

 いいんだけど、ぜんぜんいいんだけど、冷しゃぶかーとおもってしまった。

 せっかくのいい肉なんだから、冷しゃぶじゃなくて、あったかいしゃぶしゃぶで食べてほしかったな。ぜんぜんいいんだけど。

 なんでかうまく説明できないんだけど、肉の良さを百パーセント引きだすのは冷しゃぶじゃないだろう、とおもっちゃうんだよね。この感覚、ぼくだけだろうか。

 たとえば、コーヒー好きの人にいいコーヒー豆を贈ったら「ありがとう! アイスコーヒーにして飲んだらおいしかったよ!」と言われたような気持ち、と言ったら伝わるだろうか。

 いいんだけどさ。冷しゃぶでもアイスコーヒーでもいいんだけどさ。



2024年8月7日水曜日

【読書感想文】下川 裕治『日本を降りる若者たち』 / 外こもりも今は昔

日本を降りる若者たち

下川 裕治

内容(e-honより)
日本で悩み続けたことがバカみたいいに思えてきた。バンコクをはじめ増え続ける「外こもり」。彼らがこの生き方を選んだ理由とは。

 2007年刊行。

 若者の意識や行動の変化をデータをもとに論じた本……みたいなタイトルだが、ぜんぜんそんなのではなくて、著者が親しくしている若者たちの姿を書いたエッセイのような本。

 それはそれでいいし、半径五十メートルの観測から見えてくる社会変化もあるのだが、エッセイに対して本格ノンフィクションのようなタイトルをつけないでほしいな。



 著者がこの本で取り上げているのは「外こもり」。外国に行って、仕事をするでもなく、あちこち旅をするでもなく、学校に行くでもなく、ただだらだらと過ごす人たちのことだ。

 もちろん彼らも潤沢にお金があるわけではないので、いくら物価の安い国でも仕事をせずに生活していればお金がなくなる。資金が尽きたら日本に帰って工場派遣などで稼ぎ、半年ほど日本で働いたらまた外国に渡って暮らす、という生活をしている人たちが多いそうだ。

 そんな人たちに選ばれやすいのが、タイ。治安が良く、物価が安く、気候風土も良い。またタイ人もそれほどあくせく働いていないので、人目を気にしなくて済む。そして似たような境遇の人たちが集まってくるから余計に居心地が良くなる。

 ジミー君は、カオサンのいいところは、「人と出会える街」といった。外こもり組は、日本にいたとき、ひきこもり傾向にあった人が多いが、彼らが口をそろえるのは、日本にいると人と出会えないということだった。三十歳近くにもなり、アルバイトがないときなど家にいたりすると、周りからはひきこもりじゃないのといわれ、つい家から出なくなってしまうのだという。結局は部屋にこもり、ネットの「2ちゃんねる」にはまったり、ゲームで遊ぶしかなくなるのだが、やがてそれにも飽きてしまう。そんな暮らしをしていると、日本では人に出会えないのだという。大学や高校の同級生たちは皆、働いているから忙しくて相手にもしてくれない。
 ところがカオサンに来ると、時間だけはあまるほどある人が多い。話し相手はすぐにみつかるのだという。そしてその多くが、日本という社会に生きづらさを感じている若者なのだから、ベーシックな部分で生き方を共有している。話が合うはずだった。日本から眺めれば、それは同病相憐れむ姿にも映るのかもしれないが、彼らにしたらそこはまさに桃源郷なのかもしれなかった。


 ぼくはタイには行ったことがないが、中国の桂林という街で一週間ちょっと「外こもり」をしていたことがある。

 学生時代、友人たちと中国旅行をした。計画では天津→北京→桂林と渡り、そこから鉄道でベトナムに入る予定だった。ところが鉄道の切符を買うことができず(ツテがないと長距離列車の切符を買うのが難しかった)、桂林で足止めを食らってしまった。ちょうど旅の疲れが出たところでもあり、また桂林は中国の中でも南方なせいか人々がのんびりしていたこともあり、このまま桂林に滞在しようということになった。

 桂林は中国南部の中では大きい街だが、それでも田舎町といったほうがいいぐらいの規模(今はどうか知らない)。二、三ある観光名所をまわってしまえば特にやることがなかった。

 だがそれが良かった。朝起きたら、ホテルで点心の朝食。ぶらぶらと散歩をし、ホテルに戻ってテレビでビリヤードやモータースポーツなどを観る。昼になったら近くの食堂に行って、汗をかきながら熱い丼飯を食う。商店街を冷やかし、またホテルに戻って昼寝をする。なんせ暑くて日中は活動する気になれないのだ。夕方になると涼しくなるので、人力タクシーに乗って少し遠くまで飯を食いに行く。小さな商店でアイスクリームを買い、夕涼みをしながら歩いてホテルまで戻る……。

 そんな生活を一週間ちょっと送った。最高だった。どんどん人間がだめになるのがわかる。しかし、暑い日中にクーラーの効いたホテルの部屋で昼寝をする気持ち良さったらない。労働や勉強なんてする気になれない。ホテル代、食費、あわせて一日三千円ぐらいだったろうか。

 幸か不幸か我々にはビザの期限があり、所持金が減っていく財布もあり、また日程の決まっている帰りの船のチケットもあった。至福の日々は一週間ほどで終わりを告げ、我々は桂林を後にした。


 あの最高な日々を知っているので、「外こもり」をする人の気持ちもわかる。海外で何もしない生活を送っていると、旅人の無責任さと、住民の居心地の良さのいいとこどりをできるんだよね。ずっとぬるま湯に漬かっているような気分。最高!




 ……とはいえ。心地のいいぬるま湯もいつかは冷めてしまう。

「いつかお金が尽きる」「歳をとっても同じような生活は続けることはできない」「こうしているうちにとれる選択肢はどんどん少なくなっていく」という不安はいつまでも残るだろう。かつて無職だったぼくにはわかる。

 外こもり組の中には、海外在留経験を活かして仕事を探す人もいるようだが、そうかんたんではないらしい。

 バンコクで発行されている日本語フリーペーパーの社長は、スタッフの採用にひとつの基準を設けていた。
 「これまで二十代後半から四十代半ばまでの応募がありましたね。まず書類を出してもらってます。志望動機のところに、『学生時代にタイを旅行してすごく楽しくて」なんて書いてある人とは面接しません。面接になって、アロハシャツでやってくるような人もだめ。タイでの仕事を誤解してるんです。仕事は仕事。基本的に日本と変わりません。面接はバンコクでやります。わざわざ来てもらうわけですから、その前にメールでいろいろ聞きます。いじわるな質問もする。だいたいそれでわかりますね。仕事をしようとしているのか、日本が嫌だからタイに住んでみようと思っているだけかどうかってことは」
 突き詰めていけば、日本で仕事がうまくいかない人は、海外で就職しても結局はどこかで躓いてしまうということらしい。

 うーん。

「日本で仕事がうまくいかない人は、海外で就職しても結局はどこかで躓いてしまう」か……。

 これ、残酷な言葉だけど真実なんだろうなあ。ステージを変えれば自分も輝けるんじゃないかとおもうけど、どの国にいても仕事は仕事。やることはそこまで変わらない。日本でうまく働けない人が海外でなら適応できるかというと、やっぱり難しいんだろう。Windowsを使いこなせない人がMacに変えたところで……みたいなことだよな。


 海外にいる人が自分の生活を日本の雑誌に寄稿してライターとして収入を得る、なんて〝成功例〟も書かれているけど、それで稼げるのはほんの一握りだろうし、ライターとして食っていけるぐらいになろうとおもったら他の人との付き合いだとか、嫌な仕事を引き受けなきゃいけないとか、結局は世渡り的な能力も必要になってくる。そういうのが嫌で海外に行ったのに……。

 結局どこにいたってゼロから金を稼ぐのは楽じゃないってことだ。つらいぜ。




  外こもり組は、そのあたりがわかった人たちなのかもしれなかった。いや、何回かタイと日本を往復するうちに、いまの場所に落ち着いてしまったということなのかもしれない。だから日本では、金を稼ぐだけに徹しようとする。それ以外の仕事のスタイルとか責任といったものは一切排除し、まるで工場のロボットのように体を動かすのだ。そういう働き方が、いちばん日本という国の流儀に染まることなく金を稼ぐ方法なのだろう。仕事の評価もせず、愚痴ひとついわない。そうしなければ、バンコクに戻ることだけを念じて仕事に打ち込めないのだ。
 死ぬつもりでカオサンに流れ着いたという日本人は、タイという国とタイ人に幻惑され、しだいに元気をとり戻していく。しかしそれは、タイという国が演出してくれる舞台で踊っているのにすぎない。どこかやっていけそうな気になって日本に帰ったとしても、待ち構えているのは、自分自身の心の均衡を狂わせ、弾き出そうとした不寛容な日本社会なのだ。


 この本で紹介されているのは、2000年代初頭の〝外こもり〟の生活。それから約20年。東南アジアの国々は当時より発展し、一方でその間日本の賃金はほぼ上がらず。円の価値は下がり、「日本で稼いで物価の安い国で暮らす」生活は楽なものではなくなっているはず。

〝外こもり〟の人たちは今、どうしているのだろうか。今も外こもりを続けているのか、それとも日本で別の生活をはじめたのか、はたまた生活が成り立たなくなっているのか……。

 20年後の現状を見てみたい気もするし、見るのが怖い気もする。


 昭和時代、「サラリーマンは気楽な稼業」という歌があった(聴いたことないけど)。はじめに就職したときは「これのどこが気楽やねん」とおもっていたけど、無職やフリーターや自営業みたいなものをやった挙げ句にサラリーマンをやっている今ならわかる。サラリーマンがいちばん気楽だ。

 組織で働くしんどさもあるけど、先が見えない不安に比べたらずっとずっと気楽なんだよな。その不安を楽しめる人もいるんだろうけど、ぼくはそうじゃないから。


【関連記事】

【読書感想文】下川 裕治『歩くアジア』

ヴァカンス・イン・桂林



 その他の読書感想文はこちら


2024年7月29日月曜日

教科の大罪

  

図工:彫刻刀を人に向ける

家庭科:裁ちばさみで紙を切る

理科:沸騰石を入れない

音楽:リコーダーをおもいきり吹く

体育:柔軟体操をせずに全力疾走

国語:「みんなで声を出して読む」ときに周囲を待たずにすらすら読む

算数:0で割る


2024年7月25日木曜日

小ネタ21 (アンパンマンの出自 / 折りたたみ傘じゃない傘)

出自

 アンパンマンを毎週観ている人には常識だろうが、アンパンマンとカレーパンマンは同族ではない。というかあのアニメに出てくるキャラクターの中で、アンパンマンだけが他と違う。

 カレーパンマンも、しょくぱんまんも、天丼マンも、アンニンちゃんも、鉄火のマキちゃんも、自分の顔を人に食べさせたりしない。それぞれ自分の名前のついた料理をつくってふるまうだけだ。

 そしてもうひとつ異なる点は、しょくぱんまんはことあるごとに「しょくぱんのように美しい」と言い、てんどんまんとカツドンマンは天丼とかつ丼のどっちがおいしいかで喧嘩をしたりするのだが、アンパンマンが「アンパンがいちばんおいしいよ!」などと言っているのを聞いたことがない。アンパンマンはべつにアンパンに誇りを持っているわけではない。

 これは出自に由来する。アンパンマンはジャムおじさんがつくったアンパンに「いのちの星」が入ったことで誕生した。つまり、アンパンマンはアンパンそのものである。

 だが他のやつらはそうではない。あの世界において、しょくぱんまんは、食パンみたいな顔をした“人”である。天丼マンもアンニンちゃんも鉄火のマキちゃんも“人”だ。アンパンマンだけが食品なのだ。


 保育園で、娘のいる5~6歳児クラスが自画像を描いていた。20人ぐらいの絵を見たのだが、誰も鼻を描いていなかった。それぐらいの年齢の子は鼻を描かないのだろうか。だとしたら何歳から鼻を描くようになるのだろう。

 娘に「誰も鼻描いてないな」と言ったら「かいてるけどはだいろやからわかりにくいだけ!」と言われた。なるほど。


レトロニム

 新しい種類が誕生したことでもともとあった概念に新たにつけられた名前を「レトロニム」と呼ぶ。携帯電話ができたことでそれまで単に「電話」と呼ばれていたものが「固定電話」になったり、デジカメが誕生したことで「カメラ」が「フィルムカメラ」と呼ばれたりするようなものだ。

 ふと、「折りたたみ傘じゃない傘」を指すレトロニムがないな、と気づいた。

 日傘との区別をつけるためにそれまで「傘」だったものが「雨傘」と呼ばれるようになった。だが「折りたたみ傘じゃない傘」のことはなんと呼べばいいのだろう。「折りたたみ傘じゃない傘」と呼ぶしかない。

 さらにまぎらわしいのは「折りたたみ傘じゃない傘」もたためるということだ。折りこそしないが、たためてしまう。


 ……とここまで書いたところで調べてみると、「折りたたみ傘じゃない傘」を指す言葉はちゃんとあった。「長傘」というそうだ。聞いたことねえ!



2024年6月28日金曜日

小ネタ19

和製

 和製って人にしか使わないよね。工業製品だと「日本製ドライヤー」なのに、スポーツ選手などに使われるのは「和製ストライカー」「和製大砲(長距離打者の意味)」だ。

 また「和製メッシ」「和製イニエスタ」のように外国の人物の名前がつけられることもある。

「和製メッシ」は、製品ではないからほんとは和製ではない。もちろんメッシでもない。


狛犬ポジション

 電車の扉横のポジション(俗に言う“狛犬ポジション”)が好きな人は多い。そんなに混んでないときは好きにすればいいのだが、満員電車だとあそこに陣取ったまま一歩も動こうとしない人はたいへん迷惑だ。駅に止まったときはあのポジションの人がいったん外に出てくれるとスムーズに乗客が乗降できるのだが、あのポジションの人はまず動こうとしない。動いたら、べつの狛犬ポジション好きに取られるからだ。

 みんなが「この人がいったん外に出てくれたらスムーズに人が流れるのにな」とおもってても、狛犬ポジションの人は「私は関係ありませんよ」という顔をしている。京都の「いけず石」のようだ。

 狛犬ポジションに陣取る人を減らすためには、あそこの乗り心地を悪くするのがいい。

 といっても、人を不快にするためにエネルギーを使うのはよくない。どうせなら「他のお客さんの役に立つように、けれど狛犬ポジションの人は負担が増えるように」するのがいい。

 たとえば狛犬ポジションの人からは路線図が見えるようにしておき、「停車駅について知りたい人は扉横に立っている人にお尋ねください」という車内アナウンスを流す。じっさいに尋ねる人は少ないだろうが、「知らない人に質問されるかも」とおもうだけで立ちたくなくなる人は多いだろう。

 これはなんの根拠もないが、狛犬ポジションに立つ人は、知らない人に話しかけられるのを嫌う度合いが人より強いんじゃないかとおもう。


いけず石

「いけず石」について説明しておこう。

 車が自宅の敷地に入ってこないように、敷地の角に設置される石のことだ。石というよりちょっとした岩ぐらいのサイズ。主に京都で見られる(「いけず」は京都弁で「意地悪」)。

 都市部、とくに古都ということで、京都市内の家はたいてい狭い。塀や囲いなどない場合が多い。道路も狭く歩道がないことが多いので、家の外壁のすぐ近くを自動車が走ることになる。そのため「いけず石」が設置されることになったのだろう。

 しかし「自宅を壊されたくない」とおもうのは誰しもあたりまえに持っている気持ちだ。なのに「自宅を壊されたくないから自宅の敷地内に石を置く」ことを「いけず」と呼ぶなんてひどい。何にも悪くしてないのに。

「あの人は泥棒に入られないように家に鍵かけて番犬飼ってはるわ。いけずやわあ」と言うようなものだ。泥棒側の意見だ。



2024年6月12日水曜日

小ネタ18

何座

 小四の娘から「今、何座?」と訊かれた。

 質問の意味がわからなかったのでどういうことか尋ねると、どうやら「〇〇座の期間」があるとおもっているらしい。三月下旬から四月上旬はおひつじ座の期間、みたいに。

「ひょっとしたら占いの世界では今が〇〇座とかあるのかもしれないけど、ふつうは『今はうお座』みたいな言い方はしないよ。その期間に生まれた人はうお座の生まれ、とは言うけど」
と教えた。

「でも『今年は辰年』とか言うじゃない」と言われて、「それは……」となってしまった。

「今はうお座」という言い方、アリなのかな……?



少子化対策

 韓国が莫大な金を使って少子化対策をしたが逆に出生率は下がったというニュースを見た。

 もしかしてだけど、少子化対策とか言いすぎたらかえって出生数は減るのかもしれない。

 生む人が減っています、みんながどんどん生まないとこの先の人が困ることになるのです、どんどん予算を投じて少子化対策に取り組んでいきましょう。

 そんなふうに言われたら「出産・育児ってそんなに嫌なものなのかな」とおもえてくる。「とにかく勉強しなさい!」と言われたら勉強したくなくなるのといっしょだ。

 だから、金持ちとか政治家とか(それも子どもを三人四人と持っている人たち)が「君たち庶民はあんまり子どもを生まないでねぐふふふふ」なんて言ったら、さぞかし子どもを持つことにはメリットがあるのだろうとおもって逆に出生率は上がるかもしれない。



いいクイズ

 いいクイズを考えた。

クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ。
この中で、オリンピックの種目にないのは?


2024年6月3日月曜日

おさえつけ


 某中学校のオープンスクールに行った。娘が受験するかも、ということで。

 校長の話、放送部の進行による質疑応答コーナー、校舎見学、体験授業。

 すべて終わった後で娘に「どうだった?」と訊いたら、「図書室に本が多いのがよかった」と言っていた。ま、他の中学校を見たことがないからいいとか悪いとか判断のしようがないよなあ。


 娘の判断に影響を与えちゃいけないとおもって何も言わなかったけど、ぼくは「いい学校だな」とおもっていた。

 そうおもったのは、校長の挨拶の前に、進行を担当していた放送部の子が「それでは校長先生、てみじかにお願いします」と言ったからだ。言われた校長は苦笑い。

 校長の話が長いことをいじれる環境。もしかするとそれすらも台本通りだったのかもしれないが、とにかく「生徒が多少は校長をいじってもいい」という姿勢を見せたことをすばらしいとおもった。


 ぼくだって他の中学校を知らない。比較できるのは、三十年近く前に自分が通っていた中学校だけ。

 ぼくの通っていた中学校では、生徒が教師を、それも校長を、おおっぴらにいじるなんてとてもできる空気じゃなかった。

 なにしろ、講演に来たゲストが「みなさん足をくずして楽な姿勢でお聞きください」と言い、生徒たちが足をくずして楽な姿勢で話を聞き、講演が終わってゲストが帰ったら体育教師が「ほんとに足をくずすやつがあるかぁ! 失礼だろうがぁ!」とぶちぎれた学校だ。今考えても異常者だ。こういうやつがいるから生産性は上がらないのだ。


 ぼくの中学時代、教師たちは「とにかく生徒をおさえつけること」を目的として生きていた。もちろん個々の教師にはそれぞれいろんな考えがあったのだろうが、少なくとも学校全体の姿勢としては「生徒ふぜいが教師にちょっとでもたてつく真似を見せたら殺す」みたいな感じだった。

 その姿勢がもっとも表れていたのが朝礼や始業式・終業式などで、校長先生がお話しされている間は、私語はおろか、身体を動かすことすら認めていませんよ、という感じだった。

 べつにぼくの通っていた中学校が荒れていたわけではなく、それどころか市内でも有数の“荒れていない学校”として有名だったぐらいで、それでも刑務所のような厳しさで生徒を管理しようとしていたので、その時代の公立中学校はどこも似たり寄ったりだったのだろう。


 ぼくが中学生だった1990年代後半は、ヤンキーブームは去っていたものの、まだそれを若干引きずっていた時代だった。そのへんは当時の人気漫画にも表れていて、『SLAM DUNK』『幽遊白書』『GTO』など“元ヤンキーが主人公の漫画”が多かった(『ろくでなしブルース』のようにヤンキーどまんなかはダサいとおもわれていた)。

 じっさい、ぼくらよりも十年ぐらい上の世代はわりと荒れていたそうだ。

 というわけで教師たちも「ちょっとでも手綱をゆるめてまた不良が増えたら困る」とおもっていたのだろう。生徒に対してはとにかく厳しく厳しく接していた。時代だ。


 もうひとつ、オープンスクールに行った学校がぼくの通っていた中学校とちがうところがある。

 それは「私立でそもそも不良あるいは不良予備軍は入学してこない」ということだ。

 そもそも荒れそうな人が入ってこない。だから締めつける必要がない。

 そういや高校でも、トップクラスの進学校は校則がほとんどなかったり、服装や髪色が自由だったり、しめつけがゆるい。「おまえらなら、どこまでやっていいかわかるよな」という感じだ。そうでない学校は「自由にさせたらおまえら何するかわからないからめいっぱい締めつけとく」となってしまう。

 自由を求めすぎると自由を与えてもらえない。

 皮肉なものよ。



2024年5月29日水曜日

小ネタ17

むしゃくしゃ

 転居したので役所にマイナンバーカードの住所変更に行った。

 マイナンバーカードと住民票を出して「住所変更お願いします」と言うと、「身分証明書はお持ちですか?」と訊かれた。

 一瞬ポケットをさぐりかけて……ん? マイナンバーカードが身分証明書だろ。

「(マイナンバーカードを指さして)それです」
「いえ、免許証など」
「なんでマイナンバーカードだとだめなんですか?」
「えっと……。ではこれで大丈夫です。」

 ではってなんだよ。相手の態度によって必要な書類が変わるのかよ。

 職員の名札を見ると、派遣大手P社の名前が。ああ、公務員の非正規化の弊害がこんなところにも……。

 この人に怒りをぶつけてもしょうがないしな。日本が貧しいのが悪い。

 むしゃくしゃしたので焼肉を食べた。後悔はしていない。


うどん

 うどん屋を発見したので入った。立ち食いだった。立ち食いなら立ち食いでもいいけど、そうとわかるように店の外に大きく書いといてほしいよなあ。

 狭いなあ。足元に小麦粉とか積んであって足の置き所がないし。

 注文してからずいぶん待たせるなあ。うどんでこんなに時間がかかるかね。

 狭いからうどん運びにくいなあ。注文カウンターと食器返却口とレジがすぐ近くにあるから混雑してしょうがない。動線が悪いんだよなあ。

 と、不満だらけだったのだが、うどんを食ったらめちゃくちゃうまかったので全部吹き飛んだ。うまいは強い。強いはコシ。うどんだけに。


ガラパゴス

 独自の進化をしていることを「ガラパゴス化」と言う。「日本だけ〇〇でガラパゴス化している」とよく聞く。

 ひょっとしたらガラパゴスのほうでは「ガラパゴスは日本化している」と言っているかもしれない。



2024年5月24日金曜日

小ネタ16

親切

 以前、某政党が掲げる政策に対して批判的な記事を書いたところ
「てめえ〇〇党をばかにしやがったな。許さねえ」みたいなコメントがついた。

 コメントは削除してしまったので細かい言い回しは忘れたが、ほんとにこんな感じの文章だった。具体的な反証などは一切なく「〇〇党のやることにちょっとでも不満をいうやつは絶対に許さない」みたいな感じだった。

「たとえ世界中を敵にまわしてもぼくは君の味方だよ」というやつと同じく、行動や主張の内容ではなく「誰が言ったか/やったか」で立場を変えるタイプの人間だ。

 〇〇党の支持者がどういう人間なのかをわかりやすく教えてくれる、たいへん親切な人だった。


彼女をさがすふりしてオオクワガタの幼虫をさがす山崎まさよし

枯れた木の下 腐葉土の中 こんなとこにいるはずもないのに


クレタ人

 クレタ島出身の人って

「クレタ人です」

「あーあの嘘つきの」

みたいなやりとり百回ぐらいやられててうんざりしてるんだろうな。



2024年5月23日木曜日

アンパンマンとバイキンマンの記憶のちがい

 次女が好きなので、ここ数年、テレビの『アンパンマン』を観ている。ちなみに『アンパンマン』の放送時間は地域によるが、局によっては朝5時半とかにやっていたりする。一定時間子ども向け番組を流さなくちゃいけないからアリバイ的にやっているのだろう。


『アンパンマン』のストーリーの流れはだいたい決まっていて、

あるキャラクターが登場

バイキンマンとドキンちゃんがそのキャラクターに変装(目的は料理を食べるためであることが多い)

みんなころっと騙されるが、本物が登場し、「ク、クレープマンがふたり!?」と驚く

変装が解け、バイキンマンとドキンちゃんが正体を現す

アンパンマンがやっつけてめでたしめでたし

このパターンが圧倒的に多い。全体の半分以上はこの流れだ。



 バイキンマンの変装は決して上手ではなく、鼻などはバイキンマンの鼻そのままで、視聴者にはどちらが偽物なのかすぐわかる。声もバイキンマン丸出しだ。にもかかわらず、変装が解けるまでは、登場人物たちには決してばれない。

 ま、それはいい。子ども向けアニメのお約束だ。きっとあの世界の住人はみんな目と耳が悪くて、ぼんやりとしか認知できていないのだろう。


 気になるのは、アンパンマンが毎度毎度、同じ手口で騙されることだ。毎週、「○○ちゃんがふたり!?」「バイキンマンだったのか!?」と驚いている。

「いやいや、ああいうアニメってすべての話が連続しているわけではなく、1話ごとにリセットされているんだよ。だから彼らにとってバイキンマンの変装は毎回はじめてなのさ。わかってないねえ」とおもうかもしれない。

 そういう人に言いたい。バイキンマンはちゃんと過去のことをおぼえているのだ。アンパンマンが出てくるたびに「また出たなおじゃま虫め!」と言うのだ。

 つまり、アンパンマンは毎度毎度記憶が消えているのに、バイキンマンは先週のことをしっかりおぼえているのだ。


 これは、アンパンとバイキンの違いによるものだろう。

 ごぞんじのように、アンパンマンは頭部をとりかえることができる。おそらく交換時に記憶もリセットされてしまうのだろう。

 一方のバイキンマンは細胞分裂で増えるので、記憶を引き継ぐことができる。


 この違いにより、「バイキンマンは『また出たなおじゃまむしめ!』と言うのにアンパンマンは毎度同じ手口でだまされる」非対称性が生まれるのだ。



2024年5月7日火曜日

小ネタ15

スパ

 あまり知られていないことだが、スパは「スーパー銭湯」の略だ。天地天明に誓ってこれは嘘だ。


レンズ

 実家に帰ったとき、母が「こないだ土産物屋で買ったのよ。なんかアフリカの楽器だって」と言って笛のようなものをくれた。

 吹いてみたたがまったく音が鳴らない。シューシューと音が漏れるだけだ。

 説明書きのようなものはないので困ってしまった。なにしろ名前もわからないのだ。

 ふと思いだして、はじめてGoogleレンズとやらを使ってみた。写真を撮ると、それが何かGoogleレンズが教えてくれるのだ。すぐにわかった。カズーという楽器らしい。

カズー

 音の鳴らし方もわかった。太いほうを口にくわえ、吹くのではなくしゃべるのだ。すると変声機を通したように別の音になる。この黒い部分で音の震えを増幅させるらしい。

 名前がわかっているものを調べることはインターネット以前からもできたが、名前のわからないものを調べるのはむずかしかった。「物知りな人に訊く」ぐらいしか手段がなかった。それができるようになったのだから技術の進歩とはたいしたものだ。

 Googleレンズがなかったら『探偵!ナイトスクープ』に依頼するしかなかった(そういやナイトスクープも昔はその手の依頼がけっこうあったが最近は観なくなったな)。


となりのトトロはん

夢やおもたけど夢ちゃうかった! 夢やおもたけど夢ちゃうかった!

このけったいな生きモンは、今でもまだ日本におるらしいわ、知らんけど。


国名

 2015年に日本政府は「グルジア」を「ジョージア」と呼ぶことに決めた。彼の国の人たちが、ロシア語読みの「グルジア」ではなく英語読み「ジョージア」を好むからだそうだ。

 ま、それはいいとして。

 もっと変えなきゃいけないところがあるだろ! オーストラリアかオーストリアのどっちかだよ! 全国民が何十年間も「まぎらわしいな」とおもってるのに!



2024年4月30日火曜日

小ネタ14

本の価値

 本の価値はいろいろあるけど、最大のものは「ずっと未来に物語や思想を残せる」ってことじゃないかな。テレビや映画や音楽はその点で弱い。千年前のものがいまだに鑑賞されているのって本ぐらいだろう。絵画も賞味期限は長いが、複製や保存がかんたんではない。本はその点でも優れている。

 ってことを考えると、本にまつわる賞は数あるのに、そのほとんどが新刊本を対象にしているのは残念なことだ。「二十年以上前に出版された本の中から選ぶ賞」とかあってもいいのに。


目増え

 目減りはあるのに目増えという言葉はない。なんでだろう。現象としてはぜんぜんありうることなのに。


きょうだい1

 同じ単語なのに、狭義の意味とそれを内包する広義の意味を持っていてややこしいものがある。と書いてもよくわからないとおもうが、たとえば、ごはん(米飯と食事の意味)、名前(姓名の姓じゃないほうと姓名の意味)などだ。「きょうだい」もそのひとつだ。

 「姉妹」に対する「男兄弟」の意味もあるが、姉妹も含んだ「同じ親を持つ子同士」の意味もある。また「兄妹」や「姉弟」も「きょうだい」と読む。とてもややこしい。

 もっといえば「自分にとっての兄や姉や弟や妹」の意味でも「きょうだい」と言う。「あの家のきょうだい」と「わたしのきょうだい」はぜんぜんべつの概念だ。


きょうだい2

 そういえば英語の「brother」「sister」もかなり雑な言葉だ。「兄ないしは弟」ってなんて雑な言葉なんだ。特に兄と強調したいときは「elder brother」と言わないといけないらしい。兄なんて相当身近な存在なのに、それをたった一語で表す言葉がないなんて。

 その点、中国語の親戚を表す言葉は細かい。兄、弟、姉、妹が別の言葉なのはもちろん、父方の祖父と母方の祖父、父方の祖母と母方の祖母はそれぞれ別の言葉だ。また、おじに関しても「父の兄」「父の弟」「母の姉弟」「母の姉妹の夫」「父の姉妹の夫」をそれぞれ別の単語で表す(英語は「unkle」の一種類、日本語は「伯父」「叔父」の二種類)。

 文化の違いが表れていておもしろい。



2024年4月26日金曜日

小ネタ13

馬鹿の故事

 秦の政治家が鹿を馬だと言い張り、部下たちに「これは馬だな」と訊いた。彼を恐れた部下は「鹿です」と答えた。正直に「馬です」と答えた部下もいたが、その部下たちは殺された。

 ……という逸話から「馬鹿」という言葉が生まれたという説がある。

 なかなかよくできたエピソードだ。というのは、「知らないこと」「まちがえること」をバカと呼んでいるのではなく「まちがいに気づいていながら気づかないふりをすること」「まちがいを認めないこと」をバカと呼んでいるからだ。知見に満ちている。

 つまり、思考することが苦手な首相がとんちんかんなことを言ってしまうのが馬鹿なのではなく、それに対して記者会見で見解を求められた官房長官が「その指摘はあたらない」と回答することが馬鹿だということだ。


高度なダジャレ

 青酸カリの生産管理


小さなお葬式

 うちの5歳児がよく「ちいさなお葬式♪」ってCMソングを歌うんだけど、今日会った友人の子(6歳)も「ちいさなお葬式♪」と歌ってた。こないだは近所の8歳の子も歌ってた。

 あのメロディには子どもに刺さる何かがあるんだろうか。

 子どもが葬儀屋のCMソングを歌っていることにぎょっとするから余計に印象に残るのかもしれないが。


好景気

「今の日本は賃金も上がってるし失業率も低いから好況だ!」と主張している人がいて、それに対し「こんなに庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」と反論してる人がたくさんいた。

 今が好景気かどうかは知らないが、少なくとも「庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」という反論は誤っている。

 勘違いされがちだが、好況下においてべつに庶民の暮らしは良くならない。漫画サザエさんを読むと、高度経済成長期にニュースで物価値上がりを伝えていて、サザエさんが「家計が苦しいわ」とぼやいているようなシーンが出てくる(はっきりした記憶ではないが)。

 好況であれば物価が上がり、物価が上がれば貯金は目減りする。ふつう賃金の上昇は物価上昇よりも遅れてやってくるから、安定した職についている人、年金受給者、貯金で食っている人などの生活は苦しくなる。そういう人たちにとってはデフレ不況のほうがむしろありがたい。

 逆に、投資家や求職者、借金を抱えている人などにとっては好況のほうが得をすることが多いだろうが、どちらかといえば好況で生活が苦しくなる人のほうが多いのではないだろうか。

 本来「好況」と「暮らしが楽になるか」はまったくべつのものなのだが、そこを一緒に考える人は多い。

 なぜかというと、漢字のせいだろう。

 好況、好景気という漢字を見ると、さも良いことずくめのようにおもえてしまう。好転、好評、好機、好人物、好青年、好印象と好がつく熟語はプラスの意味を持っている。だから「好況」「好景気」という単語を見ると良いものとおもってしまうのだ。そして「不評」「不人気」などに引っ張られて、不況、不景気は悪いものとおもってしまう。

「好況」は英語だと「boom」である。「boom」には他に「急激な増加」とか「ドーンという大きな音」とかの意味があるので、「好」というよりは「大」とか「拡」とかの意味が近いのではないだろうか。

 好景気とは単純にいえば経済の拡大であり、拡大にはいい影響もあれば悪い影響も伴う。「好景気=いいもの」「不景気=悪いもの」という思い込みから脱するために、「好景気」「好況」ではなく読みはそのままに「広景気」「広況」の字を充てるのはいかがだろう。「高」の字でもいい。対義語は、経済の動きが鈍るという意味で「歩景気」「歩況」で。