藤原得子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 00:08 UTC 版)
藤原 得子(ふじわら の とくし/なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、日本の第74代天皇・鳥羽天皇の皇后。近衛天皇の生母。女院。院号は美福門院(びふくもんいん)。
注釈
- ^ 得子の母・方子は弟の源師時に「鍾愛の女子院の寵あり」と語っている(『長秋記』長承3年8月14日条)。
- ^ 『本朝世紀』同日条によると、待賢門院判官代・源盛行と待賢門院女房の津守嶋子夫妻が、広田社で国母皇后を呪詛し奉ったという密告があり、夫妻は土佐に配流となった。この事件は『台記』『百錬抄』の同日条にも記載があり、頼長は「一凶一吉眼前に在りとは、待賢門院の謂れか」という風評を記している。
- ^ 藤原頼長の日記『台記』康治3年正月1日条には、兄・忠通が得子が「諸大夫の女」であることを理由として拝礼に出仕しなかったとして忠通の振る舞いを非難している(なお、頼長は同日に得子に拝礼している)。更に忠通の子である九条兼実も日記『玉葉』建久6年正月1日条に、摂政である自分が七条院(藤原殖子:修理大夫藤原信隆の娘で後鳥羽天皇生母)に拝礼しなかった理由として、故殿(父・忠通)が美福門院に拝礼を行わなかった以来の習わしであるとしており、頼長の記述を裏付けている。更に兼実の別の記事では、待賢門院・美福門院・建春門院(平滋子)は摂関家と血縁が遠く、かつその出自が卑しいために摂関家にはこれらの女院に供奉する理由がなかった(文治3年7月26日条)と述べて、摂関家は国母・女院であっても「諸大夫の女」に奉仕する必要がないと述べている[1]。
- ^ 頼長は得子に対して一度も書状を送ったことがないと記すなど疎遠な関係だった(『台記』久安6年2月13日条)。忠通も前述の通り、正月の拝礼をしないなど当初は得子を軽んじる態度が見られたが、忠実・頼長との対立が激化するに伴い、義弟の伊通を通じて得子への傾斜を深めていくことになる。
- ^ 『保元物語』では、得子が鳥羽法皇に働きかけて雅仁親王即位に至ったと書かれている。『山槐記』永暦元年12月4日条にも藤原伊通の談話として、雅仁親王と守仁親王は得子の恩により即位したと記されている。一方、『玉葉』寿永2年8月14日条、『愚管抄』、『古事談』1-96は、雅仁即位を鳥羽法皇に進言したのは藤原忠通とする。『今鏡』では雅仁擁立を誰が主導したかについては言及がない。橋本義彦は、雅仁擁立を目指して鳥羽法皇を説得したのは、雅仁の乳母(藤原朝子)の夫で院近臣の中で主導的立場にあった信西ではないかと推測し[2]、佐伯智広は鳥羽法皇自身の皇位継承構想に基づくもので、守仁親王が直に即位させてその成人前に自身が崩御した場合に崇徳上皇が院政を行う事態を防ぐなどの目的を有したとする[3]。
- ^ 口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5、6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)。
出典
固有名詞の分類
- 藤原得子のページへのリンク