宇野支隊
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プラチュワップキーリーカン(当時の日本軍呼称:プラチャップキリカン、プラチャップキーリカン)へは、第15軍宇野支隊の一部(1007名、馬100頭、自動車40両)が輸送船浄宝縷(ジョホール)で8日午前6時頃上陸。上陸と同時にタイ国守備隊が射撃を開始した。30分の戦闘の末、警備隊を武装解除し、飛行場を占領した。 チュムポーン(当時の日本軍呼称:チュンポン)へは第15軍宇野支隊主力(2233名、馬330頭、自動車20両)が輸送船伏見丸、良洋丸で8日午前3時泊地に侵入し、上陸を始める。タイ国守備隊300名と戦闘となるも、武装解除し、飛行場を占拠。 宇野支隊の任務は、チュムポーン上陸後、速やかにクラ地峡を横断し、クラブリーへ抜け、英領ビルマのビクトリアポイント(現コートーン)を占領することにあったため、11日早朝タイ王国軍1小隊とともにチュムポーンを出発。タイ軍は途中落伍するも、12日14時頃クラブリーに到着。折畳船でさらに南下し、14日20時20分頃、抵抗なくビクトリアポイントを占拠。さらに歩兵1小隊で北方145kmにあるボウピンの飛行場を占領した。 スラートターニー(当時の日本軍呼称:バンドン(スラートターニーの旧名:バーンドーン))へは、宇野支隊の一部(1048名、自動車20両)が輸送船山浦丸で8日午前10時頃上陸。7日夜半からの激しい風雨のために入泊予定が遅れた。上陸後、タイ国守備隊に攻撃を受けるが、激しい戦闘とならずに武装解除し、空港を占領した。 ナコーンシータンマラート(当時の日本軍呼称:ナコン、ナコンシータンラート)へは、宇野支隊の一部(2607名、自動車50両)が誘導艦占守の先導を受けつつ、輸送船三池丸、善洋丸で8日午前8時頃パークプーン河を遡上開始。午前10時頃ナコーンシータンマラート鉄道駅付近に上陸。タイ国守備隊と交戦、武装解除し、ナコーンシータンマラート飛行場を占領した。
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宇野支隊
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宇野支隊(指揮官は歩兵第143連隊長宇野節大佐)は第15軍第55師団の一部で、歩兵第143連隊を基幹とする各種部隊から成り、その任務は、仏印からタイに陸路進駐する近衛師団と呼応して、南部タイ各地に上陸して付近の飛行場を占領し、第25軍のマレー攻略を容易にするとともに、すみやかにマレー半島を横断してその西岸ビクトリア・ポイントに達し、その飛行場を占領してマレー方面作戦部隊の側背を掩護するのにあり、宇野支隊の上陸地はナコン、バンドン、チュンポン、プラチャップ、別に吉田支隊(近衛歩兵第四連隊第三大隊基幹)が単船でバンコク南方海岸に上陸する。 バンドン上陸部隊の舟艇隊は8日午前8時40分、シーラット河口を発見して遡江を開始、午前10時頃、バンドン市に突入し、同日中に飛行場を占領した。スラトタニに入城したところタイ王立警察や一部の市民が抵抗し、暴風雨の中混戦が繰り広げられたものの午後のうちには武装解除要求を受け入れさせた。この戦いによってタイ側は死者17、18人であった。 宇野支隊長の直率するチュンポン船団は8日午前3時頃に泊地に侵入し、上陸後はタイ軍の抵抗を受けたが、武装を解除させ、飛行場を占領した。タイ軍側にはバン・ナ・ニアンに第38歩兵大隊があった。 ナコン船団の第一回上陸部隊は8日午前4時頃に舟艇隊を出発させたが、豪雨の影響で午前5時20分頃ようやく海岸に達した。しかし、目指すパクパーン河口の発見に手間取り、午前7時30分発見して遡江を開始。午前10時頃、ナコン駅付近に達し、若干のタイ軍の抵抗を排除してナコン市周辺と飛行場を占領した。タイ軍側にはタムボン・パク・フォーンに第39歩兵大隊と第15砲兵大隊があった。 プラチャップに向かった上陸部隊は午前6時30分頃上陸し、タイ軍の抵抗を制圧し、飛行場を占領した。日本軍に対し、空軍パイロットとプラチャップ警察が共闘して翌日の正午までは持ちこたえたもののタイ政府から戦闘を中止するようにとの通達を受けたため、降伏した。死者は日本側の発表によれば115人で、タイ側の発表によると217~300人超。同地のタイ空軍基地では日本軍と戦って犠牲になった兵士や警官の追悼式典が毎年開かれている。 吉田支隊(近衛歩兵第4連隊第3大隊基幹)は単船でバンコク南方海岸に上陸。作戦任務は同海岸に上陸後すみやかにバンコクに急進してラーマー6世橋(鉄道橋)を占領することにあった。12月8日午前3時から4時の間に抵抗を受けることなくバンプー海岸に上陸した。タイの態度が明らかではないため、第15軍参謀八原博通中佐と輔佐官徳永賢二中佐が待機を伝え、タイの態度が明らかになると、午後1時40分頃バンコクに到着し、近衛歩兵第4連隊主力の到着後に同隊に復帰した。
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宇野支隊
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宇野支隊(指揮官は歩兵第143連隊長宇野節大佐)は第十五軍第五十五師団の一部で、歩兵第143連隊を基幹とする各種部隊から成り、その任務は、佛印からタイに陸路進駐する近衛師団と呼応して、南部タイ各地に上陸して付近の飛行場を占領し、第二十五軍のマレー攻略を容易にするとともに、すみやかにマレー半島を横断してその西岸ビクトリア・ポイントに達し、その飛行場を占領して馬来方面作戦部隊の側背を掩護するのにあった。宇野支隊の上陸地は、ナコン、バンドン、チュンポン、プラチャップであった。別に吉田支隊(近衛歩兵第四連隊第三大隊基幹)が海軍艦艇の護衛を受けず、輸送船「白馬山丸」に乗船して、単船でバンコク南方海岸に上陸する。分進地点で分かれた宇野支隊船団は、「占守」がナコン船団を、「香椎」がチュンポン、バンドン船団を護衛し、プラチャップに向かう輸送船には護衛艦艇はつけられなかった。 7日午後9時頃、タウ島の東30海里でバンドン、チュンポン船団は両方面に分離し、「香椎」はバンドンの輸送船「山浦丸」を護衛した。バンドン上陸部隊の舟艇隊は8日午前8時40分、シーラット河口を発見して遡江を開始、午前10時頃、バンドン市に突入し、同日中に飛行場を占領した。宇野支隊長の直率するチュンポン船団は8日午前3時頃に泊地に侵入し、上陸後はタイ軍の抵抗を受けたが、武装を解除させ、飛行場を占領した。 ナコン船団の第一回上陸部隊は8日午前4時頃に舟艇隊を出発させたが、豪雨の影響で午前5時20分頃ようやく海岸に達した。しかし、目指すパクパーン河口の発見に手間取り、午前7時30分発見して遡江を開始。午前10時頃、ナコン駅付近に達し、若干のタイ軍の抵抗を排除してナコン市周辺と飛行場を占領した。 プランチャップに向かった上陸部隊は午前6時30分頃上陸し、タイ軍の抵抗を制圧し、飛行場を占領した。
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