クリストファー・ノーラン監督の最新作『TENET テネット』、もう観ました?
観たけど複雑すぎてよくわからなかったのは筆者だけではなかったはず。
そこで、作中に何度も登場した「エントロピー」という言葉について調べてから再度観に行ったんですが、それでもまだまだわからなかったよ…!!
ならばプロに解説していただくしか理解への道は拓けない。というわけで、『TENET テネット』の科学監修を担当された東京工業大学理学院物理学系助教の山崎詩郎先生にお話を伺ってきました。
山崎詩郎(やまざき・しろう)
東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。博士(理学)。量子物性の研究で日本物理学会第10回若手奨励賞を受賞。『インターステラー』(2014)を相対性理論で解説する会を全国で100回近く実施、雑誌への寄稿やweb連載を続けている。東京学芸大学の量子力学と相対性理論の講師にも抜擢される。コマ大戦で優勝したコマ博士の異名を持ち、NHKなどTV出演多数。著書に『独楽の科学』(講談社ブルーバックス)。https://www.kouenirai.com/profile/8007
(たぶん)日本一『TENET』をわかってる山崎先生いわく、「わからないのが自然」
──『TENET テネット』(以下『TENET』)の科学監修とはどのようなお仕事だったのでしょうか?
山崎詩郎先生(以下山崎):映画の中に出てきた科学用語の翻訳が正しいかどうかをチェックするのが役目でした。やはり翻訳者の方も映画を観ていて「わからない」と言っていて、たとえば「entropy(エントロピー)」の理解に苦労してまして。最初は「エントロピーの反転」という表現が使われていたんですが、「エントロピーの減少」という言い方に直したりしました。
もともと『インターステラー(筆者注:ノーラン監督の前作)』をわかりやすく説明するという会を100回ぐらいやったのですが、そこからノーラン作品の公式ファンと思ってもらったみたいで、『TENET』の日本語字幕の科学監修にかかわれたわけです。私としてはノーラン作品が死ぬほど好きで、もう悲願達成といってもいいぐらいです。
仕事が終わったあと個人的に、英語を完全に聞き取れている翻訳者の方と、科学的に一応わかっているつもりの私がお互いの疑問点を解消していくというのを何時間も繰り返しまして、最終的には『TENET』の全てのシーンを図解できるようになりました。パワーポイントで120ページ分のスライドにまとまっています。
──すごい、まるで『TENET』虎の巻…!山崎先生のノーラン作品に対する熱い思いが伝わってくるようです。それにしても、翻訳者の方や先生でさえ『TENET 』を観てわからないことってあったんですね。
山崎:わからないのがむしろ自然ですね。あれでわかったっていう人がいたら、絶対にウソついてると思います(笑)。物理を専門にしている私が5回観てもまだわからないですから。
ビルを“過去と未来から同時に”銃撃するシーンにみる、ノーラン監督の発想のすさまじさ
──先生が5回も『TENET』をご覧になって、科学者として一番心にグッときたシーンをいくつか教えていただけますか?
山崎:まず、主人公が逆行する自分自身と戦うシーンですね。動きがすごく奇妙でおもしろかったので。あと逆行するカーチェイスのシーンも好きです。
あえて科学者としてちょっと違うシーンを挙げますと、最後のスタルスク12での戦いで、時間を順行するチームと逆行するチームとが両方同時に高いビルを銃撃するシーンが好きでして。
山崎:すごく複雑なシーンで、順行するチームと逆行するチームのロケットランチャーが同時にビルを攻撃するんですよ。挟み撃ちにされたビルは未来にも壊れて、過去にも壊れてしまいます。ふたつの現象が同時に起こっているんですが、専門用語では「2次のダイヤグラム」と言って、よく量子物理学の教科書の中盤ぐらいに出てきますね。パンフレットにも図解が載っています。
あれは「時間挟撃作戦」っていう後半の作戦を一番如実に現していて、象徴的なシーンですね。時間の過去と未来から同時に破壊されたものは映画の中では多分あのビルひとつだけです。 映画の中では最初は順行の視点から見ていて、途中で切り替わって逆行の視点から見ていくんですけれども、両方の視点から見てもおかしくないようにできているんですね。
空間でやることを時間でやってのけた
──時間挟撃作戦は本作の一つのカギとなっていますが、具体的にどういうことなんでしょうか?
山崎:普通の戦争ですと、たとえば「俺はこっちから攻めるから、おまえは東側から」とか言って、敵を二方向から挟み撃ちにしようする。そういう空間でやっていることを時間でやったということです。私たちはここから攻めていくから、おまえらは未来から攻めてきて挟み撃ちして攻撃しよう、というかんじですね。
本作の時間挟撃作戦(temporal pincer movement)に類するシーンは、私が知るかぎりフィクションなどでも今までひとつもありません。あれだけ規模の大きいトップレベルの映画にそんなシーンを取り入れてしまうなんて、ノーラン監督は本当にすごいことをやってしまったなと思います。
『TENET』はタイムトラベルものではない
──山崎先生もああいった描写をほかにご存知ない、と。
山崎:少なくとも記憶にはないというか、初めてになりますね。タイムトラベルものの映画はたくさんありますが、正直ちょっと見過ぎてしまいまして。過去を変えようとか、自分の両親に会うとかはいつも通りのよくあるストーリーなんですけれども、今回の『TENET』はタイムトラベルではないんです。
タイムトラベルは一種のワープでして、ある時代から別の時代に一瞬で行って、もとの時代に一瞬で戻ってくるんです。一瞬というのが旅行とは異なります。たとえば東京から大阪まで一瞬では行けません。昔だったら10日間ぐらいかけて歩いて行きましたよね。で、行ったら10日間かけてまた戻ってくる。
『TENET』の時間逆行はこのように10日で行って10日で戻ってくるほうが近いイメージで、過去に戻るときに一瞬でワープして戻るのではなくて、たとえば10分前まで10分間かけてリアルタイムに戻るというかんじなんです。それがすごくおもしろいなというか、リアルなシーンになっていましたね。 普段我々が日常的に空間でやっていることを、そのまま『TENET』では時間でやっているので、その意味では馴染みがあるはずなんです。
人間が『TENET』的な時間逆行を体験できる日はこないが…
──先生のように物理現象に詳しいと、タイムトラベルより『TENET』のほうがリアルに感じられるんですね。ちなみに、『TENET』のように時間が逆行する世界は今後実現すると思われますか?
山崎:残念ながら、たぶん実現しないですね。宇宙が始まってから138億年かけて今に至っていますが、時間の方向はたった一度も変わっていないので、このまま宇宙が終わるまでずっと進むと思います。
ただ実は、身近にも時間の逆行は起こっていると言われています。原子よりも小さな世界、量子力学の世界では、「ゆらぎ」というものがあるんです。
──物体は波でもあるから、いつもゆらゆらしてどこか一点に存在しているわけではないっていうようなことでしたよね。
山崎:「ゆらぎ」によって場所もゆらぐし、エネルギーもゆらぐし、時間もゆらいでいる。ゆらぎのせいで、ちょっとバックしたり、時間を逆行しちゃうことも自然界では常に起きていると考えられているんです。
山崎:ですが、我々人間ぐらいのサイズになると、逆行は多分できないでしょう。映画の中には「回転ドア」という装置が出てきますけれども、回転ドアもあの中に入れるサイズのものしか逆行させられないんですね。
人間ぐらいのサイズだと時間を逆行するのは難しいのに、量子のようなサイズだと時間を遡ることができるのは、ちょっと説明が難しいんですがいきなり専門用語を言っちゃうと「プランク定数」という数字があって、その数字に近づいていくとゆらぎが起こるということです。その数字ぐらいに世の中はゆらいでいるんです。
(筆者注:松浦壮著『量子とはなんだろう』p.176〜177によると、「プランク定数」の大きさは約6.6×10−34 J sで、これは6.6の1兆分の1の、それまた1兆分の1の、さらに100億分の1というとてつもなく小さな値だそう。量子力学は古典力学を"ゆるくした"とも考えられるそうで、後者がちょっとの遊びも許さないガチガチの体系なのに比べて、量子力学はちょっとズレたような経路や数値もアリ。そして、そのゆるさ加減を決めているのがプランク定数なのだそうです。)
ディープにみるなら「『TENET』は量子を擬人化した作品」
──『TENET』の公式サイトで山崎先生のコメントを読んだんですが、
時間の逆行、反粒子、対消滅…TENETは量子物理学の粒子を擬人化したものだったのだ!…
とおっしゃっていてすごく刺激的でした。このコメントをもうちょっと説明していただけますか?
山崎:ゆらぎからは話がそれちゃうんですけれども、もともと反物質とか反粒子は時間を逆行していると捉えるとわかりやすいかもしれません。映画の中でもニールが物理の修士を取ったと話しているシーンがありまして、陽電子は時間を逆行していると捉えられると言っていましたね。
反粒子というのは普通の粒子とは性質が逆のものです。たとえば電子は電荷がマイナスなんですけど、電子の反粒子はプラスなんですね。で、普通の粒子は時間を順行して進んでいるんですけれども、反粒子は「場の量子論」の数式上は時間を逆行していると書くこともできるんです。
山崎:ミクロの世界では電子が飛んでいって何かにぶつかると、陽電子として逆行していくというダイヤグラムが教科書にも一般的に載っているんですけれども、『TENET』に出てくる回転ドアはそれとすごく似ています。 映画の中では順行する主人公が回転ドアの中に入って、出てくると時間に逆行しています。ある意味、ミクロの世界で起きているようなすごく奇妙な現象を、『TENET』では人が地で演じちゃったんだなという気がしましたね。
ずっと時間逆行し続けるのは辛すぎる
──回転ドアで一度逆行したらずっとその方向に進み続けるんですか?
山崎:そうなんです。そこが普通のタイムトラベルとはちょっと違うところでして、回転ドアに入ったらずっと永久に戻り続けるんです。
ただ、ずっと逆行しているのは辛いですよ。逆行している人から見たら世界全体が逆行しているわけですが、食堂とか行ったら大変です。みんな口から食べ物を吐いているように見えますよね。そういう世界にずっといなきゃいけないんなんて(笑)。だから順行に戻りたいんですが、『TENET』の世界には4カ所の回転ドアが登場します。 だから、もし4ヶ所とも敵に占居されちゃったらもう人生終了です。 ずっと逆行の人生です。
最先端の科学をベースにしたリアリティとエンタメ性の両立という離れ業
──先生が『TENET』をご覧になって、「あ、ここはちょっと物理学的に違うなー」と思われた所もあったんですか?
山崎:山ほどあります(笑)。 マスクが一番変ですね。時間を逆行している人物が酸素マスクみたいなのをつけてるんですけど、逆行しているからと言って空気が肺に入るときに逆行して入らなくなるとか、そういうことはありませんので。そこら辺はまあ、演出ではあるんですね。
でもむしろ、そこがノーラン監督のすごいところでして。ただのファンタジーじゃなくて、最先端科学をベースにしながらもちゃんと観客のことを考えて部分的にエンタメに寄せてきているんですね。 科学に軸足を置いているので、私みたいに科学が好きな人は「ちゃんとした科学に則っているな」もしくは「則っていないけれどもちゃんとあれをもとにしてわざと逆に表現しているな」とわかるんです。
──山崎先生にとってノーラン作品の魅力は?
山崎:やっぱり一言で言えば「リアリティー」です。今回の映画でもニールが最後にリアリティーっていう言葉を使ってましたね。
空想の話を作る監督や作家さんもいらっしゃってそれはそれで大好きなんですけれど、ノーラン監督の作品、特に『インターステラー』と今回の『TENET』、あと『メメント』や『インセプション』は、ベースにちゃんとした科学があって、時としてお客さんに合わせてエンタメに寄せていった上で、ちゃんと意味のあるものを映像化しているんです。『インターステラー』ではブラックホールとワームホールを映像化したの結果、科学論文になりました。研究レベルで通用するようなことも描かれているノーラン監督の作品には、そういうリアリティーがあるっていうのがひとつ。
しかも、そういう中に『インターステラー』だったら父と娘の愛情ですとか、『TENET』でいえばニールと主人公の友情のピークを描きこんでいるんです。それらを描く映画はたくさんありますが、最先端科学をベースにしながら愛情や友情の物語を描いているのは、ノーラン監督作品以外ない気がします。
──ちなみに、山崎先生の視点でドラマとして『TENET』を観ると、どのキャラクターがお好きですか?
山崎:あ、これは難しいですね! あえて言えばですよ、すごくあえて言えば、セイターがかっこよかったなって。確かにひどいキャラかもしれませんが、逆行の世界で普通に生活しているシーンがかっこいいなと思ってしまったんですよ。
まわりで銃弾が逆向きに動いていて、落ちた物が戻っていくような世界の中で、普通に探し物をしているシーンがあるんです。逆行を日常として生きているのが映画の中で再現されていたので、物理学者的にはかっこいいな、私もそうなりたいなあと思ってしまいました。
『TENET』を観てもわからなかったので『TENET』博士である山崎先生に説明していただいたところ、「この映画がいかに理解不可能であるか」を理解した…というのが筆者の正直なところでした。みなさんはいかがでしたでしょうか。
なにしろ構想に数十年かけたというこの作品。無数の糸が絡まりあっていて、何度観ても新しい発見がありそうなことだけは確かです。理屈抜きで楽しむのが大事!それに、ルドウィグ・ゴランソンの音楽を全身で浴びるだけでもじゅうぶん痺れます。もう、痺れまくりです。
そんな超絶映画『TENET テネット』は絶賛上映中! IMAX®、Dolby Cinema™、4D のフォーマットで同時公開しているそうなので、毎回違う劇場で異なるフォーマットを観るのも乙ですね。
『TENET』についてもっと知りたい方はこちらもどうぞ。
『TENET テネット』大ヒット上映中
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス 製作総指揮:トーマス・ヘイスリップ
出演:ジョン・デイビッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ディンプル・カパディア、アーロン・テイラー=ジョンソン、クレマンス・ポエジー、マイケル・ケイン、ケネス・ブラナー
オフィシャルサイト:https://tenet-movie.jp オフィシャルTwitter:https://twitter.com/TENETJP #TENETテネット
配給:ワーナー・ブラザース映画
Reference: 松浦壮『量子とはなんだろう』講談社ブルーバックス
Source: 映画『TENET テネット』オフィシャルサイト