第2回暉峻淑子さんの決意 家の中のことばかり学ぶのはごめんだ
《女学校に入った年の12月、真珠湾攻撃が起きる。身近な人も戦争に巻き込まれていった》
小学校の同級生だった男の子数人が、海軍飛行予科練習生に志願しました。お別れ会だといって、みんなでふかしたサツマイモを持ち寄りましたが、万歳なんて気分にはならなかった。小学校時代の先生は、「大人になってからでも国に尽くす道はいくらでもある」と、志願をやめるように説得していました。でも、「僕らが行かなきゃ日本は負ける。大人になってからでは間に合わないでしょ」と言うのです。国は少年たちをここまで追い詰めた。政治の責任は大きいと思います。
経済学者・暉峻淑子(てるおか・いつこ)さんが半生を振り返る連載「学問は生活からしか生まれない」。全4回の2回目です(2024年10月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を再構成して配信しました)。
《灯火管制も始まった》
空襲に備え、夜は家の外に光が漏れないようにしなければいけませんでした。ノートも配給になりました。そんななか、音楽が好きだったので、夏休みの自由研究に「西洋音楽史」という本を作りました。音楽の起こりから現代音楽まで、本を読んだり、楽譜を見ながらレコードを聴いたりして考えたことをまとめたのです。夜もスタンドライトを床に近づけ、腹ばいになって書き続けました。紙が配給だったので、細かい文字で余白がないほどびっしりと。この時、何かを体系的に理解する喜びを知りました。のちに大学院で修士論文を書いた時もこれをひっぱりだし、自分を鼓舞しました。
《1945年、現在の日本女子大学文学部に入学。親元を離れて上京した》
戦争の影響で女学校が1年短縮したんです。女は家政学部に行くものだと2人の姉は家政学を専攻しましたが、私は家の中のことばかり学ぶのはごめんだと、文学部を選びました。母は、「文学部は女の子の行く場所ではない」と猛反対。ただ、日本女子大の校舎と寮が神奈川・西生田にあったので、両親も最終的には「空襲で焼け出されることはないだろう」と許してくれました。
■大学院で経済、戦争を人を知…