選挙と「推し活」民主主義 従来的な市民像と「フォロワー」の違いは

有料記事メディア・公共

政治学者・山本圭=寄稿
[PR]

政治学者・山本圭さん寄稿

 「正直、何が争点になったのかなと。斎藤候補と争ったというより、何と向かい合ってるのかなという違和感があったのは事実です」

 兵庫県知事選に敗れた稲村和美氏は、選挙後の記者会見でこう漏らした。稲村氏がこう語る背景には、選挙期間中にデマや誹謗(ひぼう)中傷が飛び交ったことにくわえ、彼女のSNSのアカウントが多数の虚偽通報により、2度にわたって凍結されたことがあるようだ。その対応に追われたせいで、思ったような選挙運動が展開できなかった、ということだろう。それでは、稲村氏は何と戦い、何に敗れたのか? 彼女の感じた違和感の正体とは何だったのだろう?

 いくつかの報道でも指摘されるように、今般の選挙において、いわゆる“推し活”的に選挙運動にかかわった人たちがいる。マスメディアに袋だたきにされ、四面楚歌(そか)状態にあった斎藤元彦氏をなんとか助けたいという判官びいきやオールドメディアへの不信感などが合わさって、少なくない人々が斎藤氏の演説に駆けつけ、ショート動画を作成し、SNSや動画サイトで拡散した。こうした“自発的な”支援が、実際のところどれくらい選挙結果に影響したのかはさしあたり問わない。むしろ、こうした政治とのかかわり方は、従来の有権者像とどれくらい異なるのだろうか、本稿ではこれを現代群衆論の問題として考えてみたい。

主戦場はSNS ファンダムが果たす役割

 政治を推し活という文化現象から見るのはいかにも牽強(けんきょう)付会に思われるかもしれない。しかし、推し活と民主主義を結び付ける議論は決して新しいものではない。

 たとえば政治学者の宇野重規…

この記事は有料記事です。残り3190文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

  • commentatorHeader
    富永京子
    (立命館大学准教授=社会運動論)
    2024年12月9日13時0分 投稿
    【視点】

     ここ数年「推し」という言葉が定着して、「若者に投票してもらうには?」という、選挙時期によくあるメディアの取材に対し「推しを見つけるような気持ちで」と答える識者が少なからずいるのに疑問を感じていた。若者言葉で語りかければ響くだろうという安易な姿勢や媚びへの反感だろうかと思い込んでいたが、「情念や感情」を安易に強調しかねないことへの危惧だとこの記事を読んで気付いた。  別に候補者本人に反感を持っていても利害が一致すれば投票して良いし、落選させたい候補以外に投票するといったいわゆる戦略的投票もある。「推し活民主主義」が生じてしまうとすれば、それは政治参加の多様性や意見表明のバリエーションを提示せず、「好きだと感じた人(推し)に投票すればいい」という安易な言明に陥ってしまう識者側の問題でもあると思う。

    …続きを読む
Re:Ron

Re:Ron

対話を通じて「論」を深め合う。論考やインタビューなど様々な言葉を通して世界を広げる。そんな場をRe:Ronはめざします。[もっと見る]